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第百二十話

第百二十話、投稿しました。内容としては幕間といったところでしょうか。ひとまずの箸休めとして読んでやってください。

【追記】第百二十話と第百二十一話の内容を新たに第百二十話として一話に纏めました。内容自体に差異は無いので、そのようにお願いします。

 ────轟々と、空気を色濃く燻す黒煙。


 至るところに転がる車から立ち昇る火焔は、火の粉を撒き散らし、火の海と化したスクランブルを曲芸師が操る蛇のように踊る。

 信号機は根元からひしゃげて曲がり、アスファルトの道路は波を描くように撓んでいる。拳ほどの大きさの残骸が、通行の邪魔が何だとばかりに散らばっている。


 ここが元は日本の国道のスクランブル交差点だと言われても、にわかに信じ難い程には、まずあり得ない光景が広がっている。


 ここは、地獄だ。

 悲鳴と泣き声が行き交い、人々は惑い、錯綜し、彷徨い、危険の中心地から離れるために駆ける。

 倒れ伏す者達を一瞥もせずに、我先にと彼らが信じる安全へと逃げていく。


 血みどろに溺れる者。

 挫いた足を引きずる者。

 迷い、泣き叫ぶ者。

 必死の形相で群衆を掻き分け、逃げようとする者。


 それらに違いは一切無い。この場において、生者も傷者も死者も皆一様に平等なのだった。

 怯えて逃げるか、そうでないか。たったそれだけのこと。

 


「……ねえ、相川くん。お願い────」



 ────その様々の中心に、『彼ら』はいた。

 当たり前のように、炎網囲うこの地獄の中に。

 両者はお互いを真っ向から見据え、佇んでいる。


 その男の方は、右の片腕を失くし、身体の半分が赤く染まっている。痛々しく、何故立っていられるのかと訝しんで然るべき様相である。


 そして片方の女は、赤い赤い、血よりも赤い長髪を靡かせ、静かに、目の前の彼に言う。



「────私を、殺して」



 語らねばなるまい。

 この三月三十一日に起きた大惨事(けっか)の前口上を。


 この交差(とき)に行き着くまでの、運命の過程を────



◆◆◆



「ええと……確かにニュースは見てたけれど……」


 流れていく車外の風景を横目に、紫子は尋ねる。その膝には一匹子犬を抱えており、大人しくするようにと耳を撫でている。

 つい先程まで、家でテレビを見ていた彼女であったが……。


「じゃあつまり……貴方達は清道のお友達で、家にいる私を危ないから避難させるように頼まれた、ってことなのね?」


 それは、十人に問うたら十人が異様に思う光景であった。


 品の良い老婆と子犬を後部席に対し、運転席と助手席には、そんな彼女達とは縁遠そうな中年の男二人。彼らはどちらも高価なスーツをだらりと着崩し、皺と彫りの深い顔つきをしている。

 一人は、頭に大きく膨らんだ縫い傷があり、その痕に沿って髪は短く刈り込まれている仏頂面の男。片割れはそれとは対照的に、何がおかしいのか常にニヤニヤと出っ歯を剥いて笑っている。


 よく見ると彼ら二人の襟元には、何やら目立つ金のバッジがあるのが分かるだろう。

 

「お友達、お友達かぁ……くっく」

「おい。……ええ、概ねその通りです、大宮夫人」

「大宮でいいわ、そんなかしこまらなくても」


 しかし、そんなもの見ずとも明らかにカタギではない────そんな目に見えずとも感じ取ってしまう雰囲気を、彼らは漂わせていた。


 今から数十分前、紫子の家に訪れたのはこの二人であった。

 もちろん紫子もこの男達と面識は無く、玄関先に現れた時はニュースを見ていたこともあって強く警戒していたが、息子である清道の名を彼らは上げ、迷った末に話を受け入れた。


「それで、あの子は……清道は無事なの?」

「ええ、『あっち』はもう既に手筈を……」

「いやあ。殺してもくたばりそうにないってのは、ああいう人のこと────ゴフッ!?」

「滅多なことを言うもんじゃねえ、津島」


 助手席に腰掛けた五分刈りの男が、運転しているにやけ面、津島と呼ばれた男を肘で突き、過ぎた口を諌める。

 その時だけは笑みを途絶えさせてゴホゴホとむせていたが、しかし運転に支障は及ぼさなかった。


「すいやせん、ウチのモンが礼儀を知らず」

「いいえ、気にしてないけど……」


 少し目を丸くした紫子に、肘打ちを食らわせた強面の男はややズレた謝罪を述べる。


 このように、彼らからは紫子に対して粗雑に振る舞うでもなく、むしろ丁重に扱おうとする素振りが見られた。

 つまりは大宮清道の母ということの意味を知る者の振る舞い方。清道の遣いという話も、避難という話も嘘ではないようであった。


「あっ……いけない、私ったら……!」

「はい? どうかしましたか、大宮さん」


 そんなことを考えているとふと、紫子はあることを失念していたことを思い出し、ハッと息を呑んだ。

 助手席の男が紫子の様子に応対し、尋ねると彼女はこれ以上ない真剣な表情で、こう言った。


「家に、ワンちゃん達がいるのよ……あの子達にお昼ご飯を用意しないといけないんだけど」

「…………」


 その言葉を聞いた彼は押し黙った。目を細め、深く鼻息を吸い込み、眉間に皺が寄る。

 車中は凍るようにしんと静まり返った。流石の津島も、隣に腰掛ける相棒の無言の重圧に口を開けられない。


「……おい」


 温度差がある紫子の発言に、とうとう彼の堪忍袋の尾が切れたのかと思われた────が、


「……おい津島、後で一人いらねえ奴をあの家に回してやんな。誰でもいい、ペット飼ってんのをな」

「ええ? いや、真崎さんそれは……」

「いいからやれ」


 真崎と呼ばれた男は、津島に押しつけるようにしてそう言い捨て、紫子に向き直った。


「犬はこちらでなんとかしますよ、大宮さん。ただ、ウチのモンをお宅に勝手に上がらせてもらうことになっちまうのは堪忍してつかあさい」

「いいえ、盗まれて困る物なんてウチの子達以外はいないし構わないわ。ありがとう、優しいのね」


 紫子は、安堵した顔で真崎に対し礼を述べる。相変わらず仏頂面の真崎は、軽い会釈を交わした。


「……伝統と実績あるウチらがワンころのお守りたぁ、やれやれまったく、お笑いだねぇ」


 そのやり取りを一瞥した津島は、運転をしながら、笑みの出っ歯を浮かべて誰ともなしにぼやいた。


 ────この時の紫子は、知る由もない。

 自分達から数百メートル前方を走行する、これまた異質な車中の光景があることを。



◆◆◆



「おースゲエ。これ本当に口縫ってんのか、気合入ってやがんな〜オイ」


 グーバの言葉通り、祈達は現在囚われていた。

 といっても拘束などは一切されておらず、代わりに車中にひしめくように座席に腰掛ける数人の男達。彼らは一様にしてその口に糸が結ばれていて、喋られないようにされている。

 この極めて異様な出で立ちに挟まれれば、何かしようという気込みを削がれるというものだ。


 そんな車中で、騒いでいる男が一人。

 いやさ、はしゃいでいると言うべきか。


「大宮社長、その、あまり刺激しない方が……」


 おっかなびっくり、清道が自分の傍に控える男の口の縫い目をツンツンと突いている。

 男は微動だにしない。人形のようにされるがまま、じっと虚ろな目を前に向けている。


『リュウゲツ・イノリ。彼を黙らせなさい』


 しかし、この男のような不気味な風体ばかりがひしめき合っているこの車中でも、そうでない者が一人いる。

 車の前部座席と後部座席は、タクシーの仕切り板のようなもので遮られていて、しかしタクシーのそれと違うのは、前部座席からでないと開かないらしい、顔ほどの大きさの小窓が付いていることである。

 仕切りは不透明で、その上おそらくは防弾・防音の役割も完備しているはずだ。なるほどこれでは、こちらから前の様子を窺ったり、前部座席の者に対し何かすることも出来ない。

 しかし車に乗る前の身体検査によって携帯なども没収されているため、現状祈達は拉致されたといって差し支えない状態にあった。


 その小窓から、頬にそばかすの浮き出ている女、モニカがこちらを覗き込み、祈に口を開いた。

 彼女は祈が英語を話せると知って、通訳をしろと言っているのだろう。祈はその意を汲んだ。


「大宮社長、あの、静かにしろと」

「あーはいはい、わあってるよ」


 気のない返事で、手を離す清道。

 その態度はとても拉致された人間のそれには見えない。挙句、自分を睨みつけているモニカを威嚇している有様だ。


『…………』


 結局モニカは何も言わず目を背け、小窓を下した。


「ケッ、文句があるなら日本語で言ってみろやボケ」


 興が削がれたとばかりに、清道はそう吐き捨てる。その言葉に誰も反応しない。


「んで、嬢ちゃんよ」


 しかし清道はまるで懲りた様子もなく、口を閉ざすこともなく祈に向き直った。


「え、あ、はい……?」

「お前、これから目当てはあんのか?」


 目当て。

 一瞬何のことを問われたか分からなかったが、それが清道の鬱憤を買ったのか、若干苛立たしげに問い直した。


「お前はこれから、どうしたいんだ? 何がしたい? 死にたくないだけなのか? 単に今日を生き残るのが目的か?」

「え、あ……」

「それか相川に、もう一度会いに行くんか?」

「…………」


 拓二は、今頃どうしているだろうか。

 警察に連れて行かれ、拘留され司法組織に引致されてから────


 ────いや……違う。


 拓二は間違いなく、そうなってはいない。

 必ず、目の前にまた現れる。どんなことをしてでも。

 本当は分かっている。あの拓二が、『必ず殺す』と言ったことの意味を。


 躊躇がある。

 もう一度、拓二と会うことに。本当なら、出来ることならもう会いたくない。

 何故なら、『もう一度会う』ということは、つまり。


「会って、それからどうする? 殺すのか? ……『殺せる』のか?」


 清道の双眸は、的確に祈の心中を射抜いていた。

 そうした今更の、生温い躊躇を責め咎めていた。


「……私は……」


 ────自分は一体、どうしたい?

 ────拓二を殺したいと、『自分は』本気で思っているのか? でも、そうしないと、この因縁は終わらない。

 ────自分が生き残るには、それしかない。


 ────だが、それでも、

 ────あの拓二を殺す覚悟が、果たして自分の中にあるのか……?


「……まあ、俺にゃどうだっていいことかもしれんがよ。俺はもう、覚悟決めたぜ。この悪夢みてえなクソパーティに乗ってやる」

「え……?」


 祈の曖昧な反応に、ついに舌打ちを放ちそうな不機嫌さのまま、こう話を続ける。


「〝ムゲンループって存在、初めてここで信じてやるつってんだ〟。つーかそうじゃねえと、明日の朝刊に載る自分を見る羽目になっちまう……そんなん御免だぞ俺」

「大宮、社長……?」


 祈がどういうことかと尋ねようとしたその時、またもや小窓が開き、モニカが声を荒げた。


『口を閉じろと言ったはずだ! いい加減、さっきから一体何の話を────』


 しかし────その彼女の顔が、突然驚愕に歪み、



 すぐそばで雷でも降ったかのような、凄まじい轟音が響き渡った。



『────っ!? な、なに、これ……!?〝か、囲まれて〟……!』

 

 いくら防音を備えているといっても、窓ガラスさえ震える音の爆発に、祈も清道も耳を塞ぐ。

 傍らの男達は、やはり微動だにしなかったが。


 スモークの張ったガラスから外を見ることが出来ない祈達では、分からないだろう。


〝騒音レベルの大音量をまき散らし、この車と並走し、囲っている数台のトラック〟を。

 それらは日章旗を掲げ、スピーカーを積載した黒塗りのトラック程に大きな街宣車であった。黒い側面には漢字の羅列(モニカ達には何が書かれている分からなかったろうが)が記されている。


 音の合間に、その危険な並走運転に対するクラクションが鳴り響く。まさに車外はカオスな状況であった。

 そしてそんな中、祈はその音────というよりその『曲』を耳にし、鼓膜の振動に眉を顰めつつも心当たりを呟いた。


「〝これは……軍歌〟……?」


 街宣車の正体────それは珍走団などではなく、街宣右翼、あるいは行動右翼と呼ばれる、言うなら珍走団とは別種の政治めいわく団体であった。


『……最近の日本の銀行ってのは凄くてよォ、頼めば金の入ったアタッシュケースにGPSだって付けてくれんだわ』


 唐突な事態を呑み込み始めたモニカがどうやら『何か仕組んだ』らしい清道に、奥歯を噛み締め、唸るように問おうとする。


『き、貴様、それを……何を……!!』

『〝その発信先、ちっとオツムがありゃ教えるまでもねーだろ、イギリスマフィア共。────とっても怖ーい、ジャパニーズマフィアのお兄さん達だよ~ん〟』


 清道は、既に手を打っていた。

 いざという時のため、GPSを仕込み、自分の居場所を発信していたのだ。

 そしてそれは大宮コンツェルン社長、大宮清道が今後の人生を全て投げうって初めて出来る、最大限の保身(しゅだん)でもあった。

 謂わば、諸刃の剣。虎の威。何だっていい。

 散るなら派手に。それだけのこと。


 清道は、自身の権力が持つ中で一等キナ臭い、叩けば出てくる『ホコリ』である裏の繋がり────この近辺で『屋久舎組』として知られる暴力団(ヤクザ)組織を、大々的に利用するに至った。


『明日になるまで、何したっていいんだよなぁ? ────〝だからよお、俺も俺の好きにさせてもらう〟。覚悟しろよオイ、一度噛み付いた虎は、肉噛み千切るまで離さねーぞ」



◆◆◆



「はっ……はっ……はっ」


 拓二は、息を荒げていた。


 それは運動によって息を整える生理現象などではなく、恐れの気持ちを食い縛り、堪えようとする心理的なものだった。


 彼が見やる先、右の肩口から先にかけて、『あるべき物』がない。

 そう、腕だ。

 ビリーの狙撃によって、右肩から先は消し飛んた。ああも簡単に、一瞬で人の腕なんて無くなるものだと逆に拓二は感心する。


 吹き飛んだ右腕は、あの倉庫に捨て置いてしまったが仕方がない。いくら拓二でも、腕をくっつける術はない。

 グーバならあるいは、あの腕をくっつける手段もあったかもしれないが……今更言っても仕方ないことだろう。


 いくら時間が経とうと血がとめどなく流れ、このままでは失血死も避けられないだろう。

 既に頭が重い、これではあの化け物と戦うどころでは無い。


 まずはこの傷を止めなければ。しかし、指名手配を受けている今、病院など行けるはずもない。手当て出来る応急道具を買いに行こうものなら、それ以前に大騒ぎだ。


 だから拓二には────これしか方法が無かった。


「ぐ、うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅうううううう!!」


〝意を決し、拓二は手に持っていた小型のバーナーで血肉の抉れた傷を火で炙った〟。


「ああ、ぎィああああああああああ……っっ!!」


 視界に真っ白い火花が飛び散った。


 熱いではなく、痛い。身をよじり、転げ回りたくなるほどに。

 脳が揺れる。眼球が浮き出る。吐き気がこみ上げる。

 肉と血が焦げる臭いが鼻を突く。


 奥歯をがちんと鳴らし、着ていた服を噛み締めて痛みをこらえた。あまりの激痛に反応した涙腺から涙が流れる。


 しかし抑えきれない苦痛に、ものの数十秒でバーナーを放り投げてしまった。


「あうっ、おう……っっ!! ぐうう、ああ、あああああ……っ!」


 果たしてこの止血法────焼灼止血法と呼ばれるものだが────これは決して、最適な治療行為ではない。

 熱傷と引き換えに血を止める、それこそ戦争と言えば銃よ剣よと言われていた時代の、前時代的な応急処置だ。


 一応、素人芸ながら血は止まったか。『血の出が悪くなった』と言うべきかもしれないが。

 

「はーっ! はーっ! ……ううううっ!」


 このバーナーも廃棄場であるゴミ山から拾った、使いかけの不衛生極まりないもので、こんな治癒とも呼べない処置を行うには到底相応しくない。

 おまけにその焼けた傷口を冷やすものも、近くに無い。探しに行こうにも、それは叶わないだろう。


『どこ、どこどこー? 隠れんぼは終わりだよ〜』

「……!!」


 声が届いた。

 遊ぶような、歌うような声が。

 拓二は呻くのをやめ、この気絶してしまいそうな苦痛が襲い来る中、懸命に息を殺した。


 そう、拓二の戦意は、まるで欠けていない。

 今の彼の頭には、『あの化け物には勝てない』などという怖じ気はなく、あるのは『どうやってあの障害を排除するか』、それだけしかない。


 己の勝算だけを模索し、ずっと見据えている。

 自分が負けることなど、ましてや死ぬことなど考えていないのだ。


 咄嗟に破いた服で包帯の代わりを作り、傷口を覆って圧迫することで血を止める。当然、このまま放っておけばいずれ酷く化膿してしまうだろうが、別に構わなかった。

 一日……この一日だけ耐え切ってしまえば、この腕も翌日には元通りなのだから。


『hurry,hurryhurry!! 我慢の時間はもうおしまいよ白ウサギさん! 早く早く出ておいで!』

「……チッ、ったくうるさいな……」


 港倉庫からこのゴミ処理場の清掃工場の施設まで、土地勘を頼りに引き離したと思ったが────もう近くまで追い付いている。幸い、先程の悶絶は聞かれなかったらしいが。


 しかし本当に、撒いても撒いても、必ず見つけてくる。逃げても逃げても、あの声と巻き込まれたらしい者の絶叫が追いかけてくる。

 世界中のどこに逃げても追いかけてくるかもしれない。

 なんにせよこのままではジリ貧だ。


「はぁ、ふう……さて……と」


 拓二は気怠げに、今の自分の姿を見る。


 あるのは既に感覚の無い左腕と、両足。

 女装を解き、近くに掛けてあった清掃員用の制服を借りて着用。鉄板入りの安全靴と、一挺だけ予備の拳銃を服の内側に潜ませている。


 つまりはこれが、ビリーに立ち向かう自分の装備だ。

 なるほど、思わず笑ってしまいそうだ。これでは丸腰となんら変わらない。


 拓二には、先程のグーバの言葉が頭にあった。

 柳月祈を捕らえた、と。勘だが、ハッタリではないように思えた。

 であれば、ビリーにばかり構ってもいられない。


 闖入者を通報する警報機が鳴り響いている最中、拓二は身を潜める死角から顔を出し、辺りを見回した。


 そしてその時、『あるもの』に目を留める。


「……ここは強行突破、と行こうかね……」


 上手くいけば────あのビリーを蹴散らし、祈の元へと向かえるかもしれない。

 拓二のある『思いつき』は、思考を経て一つの作戦へと昇華し固まった。



◆◆◆



『ヨハン。ヨハンや』


 それは、ある男の本名であった。


『……珍しいですね、貴方が僕をそう呼ぶなんて』

『名無しだったお前を拾い、そう名付けたのは私だぞ』

『てっきり名付けておいて、そのまま忘れてしまったのかと』

『飼い犬の名前を忘れる主人がどこにいる』


 その一言で、ヨハンと呼ばれた男は何とも言い難い、少なくとも愉快とは言えない苦々しい顔をする。

 その顔を見た老人が、くすりと笑い、こう続けた。


『私の命も、恐らく残り少ない。お前は知ってるね』

『…………』

『こんな老いぼれの身、いつエイシアの元へ向かおうが怖くはない。だが、「D・22」……あの禍根を今に残してしまったこと……そしてそれがいずれ必ず、ネブリナを再び牙を剥くことが分かっていることが一番の心残りだ。私がもう十年若ければね……』


 老人は、しみじみと遠くを見るような目で、


『もう、お前だけが頼りだよ』

『どうだか。もしかしたら僕は、ネブリナを滅ぼすつもりかもしれませんよ』

『……血の掟のことかい? 他の誰がどう言おうと、お前の算段は私にはお見通しさ』


 指に挟んでいたパイプを口に含み、煙を吐いた。

 これは彼の孫娘達にも見せたことがない。喫煙者であると知っているのは、ヨハンと呼ばれた彼と……その妻である老人の娘、エイシアのみであった。


『最初のレスターを除いてグレイシー、グーバ、そして……アイカワ。それぞれが有能で、そしてネブリナにとっての不確定要素……反乱因子になり得る者達。〝監視として彼らを手元に置くことが、お前が結んだ血の掟の本当の狙いなんだろう〟?』

『…………』


 煙の息を吐かし、彼は目の前の会話相手を見据える。

 誰も知らない煙と、誰も知らない彼の本当の名。

 それは彼ら二人だけの、胸中を晒し、腹を割った会話であることの何よりの証左であった。


『……お前は私よりも賢く、そして情深い。時には理解されず、反感を買われるやもしれん。だが、私は知っている。私とやり方こそ違えど、お前の家族を想う気持ちは尊いものだ』

『…………』

『だからこそ。ジェウロでなくお前を「マクシミリアン」に選んだ』


 

 ────これは、とある事件、世界恐慌未遂事件が起こってから数ヶ月後……英国にも冬が近付いてきた時期でのこと。



『お前はお前の義を徹しなさい、ヨハン=ドゥ。例え、たった一人になったとしても』

『……仰せのままに』



 これなら起こる事態を予言したかのような、今や過去のものとなったやり取りを、例え世界が変わっても『彼』は忘れない。



◆◆◆



 状況を整理しよう。


 マクシミリアンは、気持ちを切り替えるようにそう自問した。

 転変した現状を振り返るのはもちろんのことながら……それ以上に先程の大きな犠牲、その自責の念に浸る頭を落ち着かせる意味合いが大きかった。


 現在、この街を三つの裏の勢力が取り巻いている。

 一つは、我らがネブリナ家。

 この中にはマクシミリアンと同じムゲンループの住人である柳月祈・そして大宮清道を含めた日本勢力が含まれている。

 おそらく手勢・人員では共に他に引けを取らないだろう。上手く日本警察を味方に引き込めるのも、この三つ巴の中でも唯一無二であろう。

 だが、今のところ被害を一番に被っているのは自分達だ。上手く立ち回らなければ、今後もさらに甚大なダメージを負う羽目になるだろう。


 次に、グーバを筆頭にした反乱因子。

 ベッキーもとい、ベローナ共々ムゲンループの住人であり、ネブリナ家からも何人か引き抜かれている。

 そして、現代医学界の鬼才グーバが作り出した生物兵器ビリー。

 カメラの映像を見る限り、あれはとんでもないものだ。迫り来るどの脅威よりも、

 ネブリナ家からすれば、本命中の本命の対抗勢力であった。

『D・22』────あの日から脈々と受け継がれた因縁、ここで見過ごすわけにはいかない。


 そして最後は、相川拓二を筆頭にした独立一派。

 手勢においては圧倒的に少数であり、不利。しかしその戦力もまた未知数である。

 たった今日一日が終われば全てがリセットされるとは言え、後ろ盾にしてきたグーバさえも敵に回すその行動力には得体の知れなさがあった。

 果たして、拓二に付いて行く人間がどれだけいるか。少なくともあのニーナと呼ばれた少女は、紛れもなくジェウロと同格の猛者だ。あんな輩を他にも抱えているとすれば、まったく侮れない。


 そして今の自分の状態は……最悪と言えた。

 拓二、そしてビリーという立て続けのイレギュラーによって、こちらの陣形は崩され、マクシミリアンは暫しの間一人で潜伏しなければならない隙が生まれた。


 その隙を縫うように────一枚の画像メールが、マクシミリアンの元に送られてきていたのだ。

 送信元は不明。

 しかしその内容は、彼にとって見過ごせないものであった。



〝日本の空港からメモを片手に、バスに乗ろうとしている娘、メリーの姿がそこには写っていた〟。



 さらにご丁寧に、その画像の下にはこのような一文が添えられていた。


 ────国道◯◯号線、モーテル前のスクランブル交差点へ。


『……舐められたもんだね、僕も』


 こうしたメリーの動向を伝える画像は、十分毎に送られてくる。これはすでに三枚目だ。キョロキョロと、不慣れな様子で市内バスを乗り継ぐ様子が窺える。 添えられている一文に変わり映えはない。淡白に交差点へ行けと告げるのみだ。


 メリーがここに来るのは、まだいい。

 しかし、今のメリーは何者かに尾けられている。


〝まるで、メリーの存在を盾にマクシミリアンを脅しつけているかのように〟。


 これは────紛れもなく罠だ。

 見え透いた地雷に誘導されている。しかし、従わないわけにはいかない。

 メリー以外に、ネブリナの者の姿は無い。だがいくら一度来たことがあるからといって、こんな異国にメリーたった一人で来られるはずがない。

 つまり、ここまでメリーを手引きした何者か。そいつが、そのままメリーを人質にし、自分を操る魂胆でいるのだろう。


 この指示に従わなければどうなるか……そう暗に告げているのだ。


『誰だか知らないけど、やってくれる』


 さてこれは、グーバ側と拓二側、どちらの陣営の輩か。


 今の彼の身を守るものは、かなり限られてきている。

 そして次々に襲い来る脅威は、彼とその身内に及びつつある。守るために、彼はその身を削らなければならない。


 ネブリナ家の現マクシミリアンとして。

 メリーを産んだ(エイシア)の夫として。


 そして、父として。



『だけど────売られた喧嘩は、僕なりの義で以って買わせてもらうよ』



 安全に上から眺めることは、もうしない。

 彼はそう覚悟する。


 ここから先はネブリナ家のボス、マクシミリアンとしての戦いではない。

 一人の男(ヨハン)としての、自分のための戦いだ。



◆◆◆



『ぐ、あ……強すぎ、る』

『ぁ……が……』


 そしてここに、もう一つ。

 拓二からもマクシミリアンからも隔離され、ネブリナの物の手によって狂宴の舞台からひとまず追放されたはずの『彼』が。

 上記の三つ巴から除外され、消し損ねた火種きょういが、次なる機会をうかがっていた。

 


『逃げるな……逃げるなよマクシミリアン……』



 彼の内包する執念は、潰えてはいない。

 時には被使用者の死亡のケースすら報告される、暴徒鎮圧用の電圧(テーザー)銃の五万ボルトを以ってしても、彼は止まらない。


 彼の義が、それを許さない。


  

『俺は……貴様に、まだ何も……』



 ────ジェウロ=ルッチア。

 ネブリナ家の懐刀が、怒りに歪んだ表情で、ここにはいない目標に向けて獣のように唸った。






初作品です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。最低週一投稿を目指していますが、都合で出来ない際は逐一報告いたします。

【追記:四月八日】加筆修正しました。

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