番外第十一話:新旧、都市伝説ジャンクション!・中編
番外第十一話、中編を投稿しました。今回の話は、時系列としては第二章と第三章の間のことを補完する内容となっております。
投げ出された身体が、バーカウンターの上に騒々しく倒れ込んだ。並べられていた酒瓶やグラスが衝撃で滑り、けたたましい音を立てて破砕される。
『……ッ、アア!!』
完全に弁償ものの損害であるが、しかしその弁償相手である受け付けのオーナーの姿も、いつの間にかなくなっている。点けっぱなしで放っとかれた明かりは、自分達以外の何者の姿も捉えない。
しかし、今はそんなことを気にする暇も無かった。
『────グゥゥッ……!』
身を捩り、転がるようにカウンターの裏に退避する。先に割れて床に散らばっていた瓶の破片が、鋭く身を裂いた。
そのコンマ数秒後、間一髪のところで避けたところに、ダガーナイフの刃先が深々と突き刺さる。仕留め損ないを舌打つ音が、離れて耳に届いた。
『……どうした、殺しにこないのか? 俺は一切隠れもしてないぞ』
少し離れたカウンターの向こうから、挑発的な声が飛んでくる。
しかし今の『彼』に、それに対して答えるほどの余裕など無い。
なんだ、これは。
なんだ、こいつは。
『彼』の頭の中は、その疑問だけで埋め尽くされていた。
『それとも、金で買った女しか殺せない、ただのチキン野郎だったのか?』
『クッ……!』
唐突に自分を嵌めた少年は、今までの殺してきた女とはまるで違った。
殺される側の弱者ではなく、殺しに向かってくる者との対峙。何人もの人間を惨殺した経験のある『彼』でも、こんなことは初めてだった。
何故、殺す側だった自分が、殺されなくてはならない。
何故、苦痛を与える側の自分が、追い詰められ、苦しまなくてはならない。
自分を買った者の正体を知り、怯える目。切り裂かれら震える肢体。
それが、『彼』の見慣れた作業風景であり、ルーチンワークであった。
ところが、今はどうだ。
殺人鬼と知ってなお、迎え撃ってくる者などいなかった。獲物の抵抗ではなく、逆に容赦なく自分を仕留めにかかる狩人の動きを、『彼』は知らなかった。
はっきり言って、闘いとなれば素人でもない限り勝ち目がない。『彼』が殺しに特化したプロだとすれば、少年は紛れも無い闘いのプロ。完全な畑違いなのである。
そして何より────
『……張りがないな。俺の出る幕でも無かったんじゃないのか、これ』
────手玉にとられている。
イギリスを恐怖と畏怖で賑わす連続殺人犯に、こうまで思わしめる程、少年は強かった。
『────シィアアア!! アアッ! アアアアッ!!』
苛烈な叫び声が響いたと同時、棚にしまわれていた皿やら何やらの食器類が投げつけられる。
『チッ……!』
首をひょいと横に振ると、回転を伴って舞うフォークがすれすれの所を掠めた。
面倒だとばかりに舌打ちを鳴らしつつも、爆竹のように鳴り響く音とその破片をくぐり抜けるようにして、冷静に次々と飛んでくる投擲物を少年は見切り、踊るように躱していく。
まだ学校に通う歳であろう少年、というにはそれはたいがい異常な反応の速さであったが────しかし『彼』は、〝こうなることを読んでいた〟。
『彼』は、殺しに秀でると同時に、別の才覚に長けていた。
人間を解体し、人間で『遊んだ』おかげか、刺傷した際の人間の反応やどこを切れば動かなくなるかを理解していた。
そして────だからこそ、分かることがある。
『ッ、オオォッ────!』
あちこち定まらない狙いで飛来する食器に気を取られている少年に、一瞬の機会を狙って肉薄した。
狙いは────〝先ほどからずっと庇い続けている、その左腕〟。
包帯で巻かれていて肉眼では確認出来ないが、分かる。
あれは、深い刺し傷によるものだ。それも、ぐちゃぐちゃと掻き回したために残ったであろう重度の麻痺を、『彼』は見逃さない。
何があったかは知らないが、相手は片腕しか動かせない。その隙を、一瞬で突く。
その懐に潜ると、弾かれないよう相手の左腕から狙い、円を描くように外から内へ右手のナイフを突き出す。
「ぐっ────!?」
確かな手ごたえを、刃先から掴み取った。
────はずだった。
『……なーんて、な。ったく、あぶねえ』
『……!?』
繰り出したナイフは、土手っ腹に突き刺さる前に、止められていた。
よく見ると、〝左腕の包帯からピンと横に伸びた白布が、ナイフの切っ先を防いでいるのだ〟。
その刃は白帯に絡め取られており、あらかじめ水で湿らせていたらしい布の端を、右手が強く引っ張っているため、動かそうにも力負けしてしまっている。
『けど残念────狙い通りだよマヌケ』
『……ッ!』
『こっからは、俺の番だ。いい加減、チョロチョロ逃げんな』
少年がその手を空に翳すと、ギリギリと締められたままのナイフも一緒に持ち上がっていく。
『彼』は、ただ人よりも殺人がよく出来るだけで、少年のように、闘いが出来るわけではない。
〝だからこそ〟、その武器を放り出せなかった。
この競った時間で、抵抗の手段を敢えて手離すという発想に至れなかった。
ぼんっ、と次の一瞬、空気が爆ぜたかのような音が耳に入った。
手の先が痺れるような感覚が脳に届く。そして迸る、激烈な痛み。
『ギ、アアアアアッ!?』
『殺さず捕まえるってことだったが……一応、その手は折っとくな』
無機質な金属音が、カラカラと虚しく床を叩いた。
高く柔軟に持ち上がった足のつま先が、刹那の内に武器を弾いたのだ。
アドレナリンで鈍いの痛みに悶える『彼』。
現状に対し、理解が追いつかない。自身の両手首が折られたことに、少年の言葉が無ければ分からなかっただろう。
まるで、対面する両者の間の時間の流れが一拍違うかのように、反応が遅れている。
そして、衝撃。
まさに返す刃。カウンターのように重い蹴打が『彼』の身体をくの字に折り曲げ、後ろ跳びに吹き飛ばしす。立ち飲み用の木製テーブルを幾つか巻き込んで。
抵抗する間もなく、激しくその身を床に沈ませる。 その拍子に、それまで頑なに被っていたフードがはだけた。
『ウッ、グゥゥ────……?』
力の差は、歴然。
しかしそれでも、逃げるにせよ戦うにせよ、このままではと息を張って精一杯立ち上がると────その眼前から、少年の姿が立ち消えている。
敵の姿を捉えようと視線を左右に振っていた────〝その時〟。
〝マフラーのようにぐるりと、『彼』の首に突然二本の足が巻き付いたではないか〟。
『イ、ヤァアッ!?』
刹那ごとの隙間を狙い撃つような搦め手からの絞め落とし。流れるような一連のその動きは、『彼』を意のままに翻弄する。
既に自分の背後を取っていたということを理解する前に、再びその身体は重みに負け、あえなく引き倒された。
背中を強かに床に打ち、ぐっと呼吸が止まる。それとタイミングを合わせたかのように、頭部を挟み込んだ足がさらにギチギチと締め上げていく。
慌ててもがこうとするのも虚しく、その拘束は素人の抵抗ではビクともしない。それどころか気道の圧迫は、抵抗の力を徐々に消耗させていく。
『……あ……お……』
利き手も隙なく押さえ込まれ、全ては相手を仕留めるための『型』が、そこには完成されていた。
『ん? なんか言ったか?』
『……〝お前、何〟……?』
息も絶え絶えに。
もう、これまで。もはや勝ち目はない。
別にそれほど興味があるわけではなかったが、やれることがそれしかなかったまでだ。
だがこれが最後と考えれば、せめてそれだけでも聞いておきたい。それが意味の無いことだと分かっていても。
『……暇を持て余した、ただのバイトだ。臨時だけどな』
その言葉は、もう届いていない。
『彼』────切り裂きジャックの再来は、完膚なきまでに無力化され、既にその意識を手放していた。
相手が『オチた』のを確認すると、それまでの固い拘束が嘘のように、するりとその足を引き抜いた。
手で膝を払い、ゆっくりと立ち上がる。
「……さて、と。連れてくか」
それまでの騒乱とは打って変わって、静寂を得た店に一人佇む少年は呟いた。
「ったく、まだ時差ボケも残ってるってのに……こんなんと付き合わせるたぁ人使いの荒い……」
少年の母国語である日本語をぼやきながら、倒れ伏した都市伝説の身柄に目を向けた。
そして、彼は気付く。
「……おいおい。こいつ、まさかとは思ってたが────」
◆◆◆
……しつこく鼻に付く、咽せるような鉄臭さ。
それに加えて粘っこい、どろりとした熱気が肌を撫でる。
最初は、暗いところだと思った。
感覚の鈍った意識に訴えかける、重苦しい雰囲気。
これが死後の世界かと、本気で思っていた。
何故なら、こんな光景、現実ではありえないからだ。
現実ではありえない、────〝赤い、赤いだけの部屋〟。
〝どこもかしこも、辺り一面血みどろなこんな絵図、現実なわけがない〟。
こんなもの、ただの地獄だ。
『お目覚めかしら?』
その時、少女のものらしい甘えたであどけない声が、こんな地獄に舞い降りた。
『お会い出来て、嬉しいわ。だって、言ったら貴方は私の先輩のようなものだもの』
いつから居たのだろう。車椅子を自分で押して現れた少女は、比喩など無しに天使のようであった。
こんなところよりも、風光明媚な好景色や世界の名画を背景にするに相応しいくらいのこの少女は、血塗れの世界でにこやかに笑いかける。
無邪気に、無垢に。
この一際狂気的な状況下で、一際純粋な笑みを。
それこそが、この地獄のような部屋よりも何よりも、一番の異質であった。
『ちなみに私の名前は、エレンだよ。仲良くお話ししようね、Mr.ジャック……〝いいえ、「Mrs.ジャック」って呼んだ方がいいのかな〟?』
聞いたことがある。
最近、イギリスでまことしやかに囁かれている、〝現代に生まれた、お伽話のような都市伝説の存在のことを〟。
こうして人を黒ずんだ赤い部屋に攫い、こうして手枷足枷で動けなくさせたかとも思えば、鈴を転がすような美しく澄んだ少女の声がこう尋ねるというのだ。
『ねえ、面白い話をして頂戴?』と────。
『〝エレン、知らなかったわ。今の切り裂きジャックって────女の人なのね〟』
そして、ここに今。
『噺好きの嬢王様』という歳若き都市伝説が、十九世紀イギリスを震撼させた都市伝説────その残滓と対面した。
初作品です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。最低週一投稿を目指していますが、都合で出来ない際は逐一報告いたします。
告知:八月中は一身上の都合で最低週一投稿のノルマを一時的に撤回させていただきます。ご了承ください。