07 暇つぶし
今日は少し寝坊してしまい、祖父母を看ている間に登校時間が迫っていた。朝食は携行栄養食だけで済ませ、鞄を手に取り、少し足を早めて玄関を出て、自転車に飛び乗った。
直は、朝で混雑した道路を、歩道と車道を行き来しながら急いだ。銀杏の葉が咲き誇る坂も立ち漕ぎで突破すると、どうにか始業の五分前に駐輪場に滑り込むことができた。
ここから教室までが遠い。自転車に鍵をかけてから、走った。体育館を通り過ぎたあたりだった。
「おい」
誰かの声がして、直は足を止めた。後ろを振り向くが、誰もいない。訝りながら前を向こうとしたとき、後頭部に何か硬いものが当たった。視界が激震し、間を置かずに痛みが走り、直はその場に倒れ込む羽目になった。
突然の痛みに混乱して、咄嗟に取れた行動は、後頭部に手をやることだった。ぬめついた感触。手を見ると、赤黒い粘液が手を濡らしていた。
血? そこでまた動きを止めてしまった直は、蹴りつけられ、アスファルトにうつ伏せにさせられた。そして何か紐のようなもので後ろ手に縛られた。
「立て」
口にマスクをしているらしく、籠もってしまって声が聞き取りにくい。男がいつも通りにしゃべっているのか、女が低い声音を遣っているのか、わからない。直が抵抗する素振りを見せると、もう一度、後頭部をやられた。傷口をえぐるような殴り方に、涙が滲んだ。
「次は加減しねぇぞ」
平然と加害側に立てる連中の、言い方だ。中学時代に暴力と罵倒の入り乱れるいじめを受けた経験から、そう嗅ぎ分けた直は、黙って従うことにした。
部室棟の一角、今年廃部になった剣道部の部室前に着くと、直は手首の紐をほどかれ、そこに蹴り入れられた。
せめて男か女だけでも確認しようとしたが、扉はすぐに閉じられていた。何か大きな音がして、それから足音が遠ざかっていった。
ひとまず、性的な目的はないようだということには、安堵した。しかしそうなってくると、直をここに押し込んだ奴のメリットがわからない。
何か仕掛けていったような音がしたが、念のため、扉に取りついてみる。やはり、いくら力を入れてもドアノブが回らなかった。何度扉に体当たりしてみても、無駄だった。
部室の中を見回す。見事なまでに、何もない。窓が一つあるだけで、綺麗に片づけられていた。
曇りガラスのはめられた窓は、斜め奥に開くタイプで、全開にしてみたが、とても通れそうになかった。
ただ、窓そのものは大きいから、ガラスを壊せば、通れそうだ。閉じてから、手加減なしで蹴りを入れた。だが、これも駄目。丈夫な素材でできているらしく、びくともしなかった。
後頭部は幸いにも、傷が浅そうで、そうこうしている間に、血は徐々に凝固を始めてくれた。
……することがない。
しばらくは、後頭部の痛みと、妙な状況に対する不安とで、目が冴えていた。
けれど昨晩は、祖母の発する奇矯な叫び声と屋内徘徊に付き合わされ、全く眠れていなかった。何もない部屋の隅へ座り、壁に寄り掛かっていると、自然に瞼は落ちていった。
叩き起こされたのは、窓ガラスが割れる音でだった。目を開けると、右隣に、粉砕した窓ガラスが、散らばっていた。そこに、一枚の紙片が落ちていた。拾うと、「荷物は教室」とだけ記されていた。
すぐに立ち上がり、破片で傷をつけないよう、慎重に、窓を跨いだ。
そして窓の外に出ると、そこは野球部の練習グラウンドの裏手だった。走り回って辺りを探ったが、どこにも人影はなかった。ふと、校舎の時計を見遣る。四時五分。帰りのホームルームが近い。授業を一日休んで、眠っていたということになる。
ますます、閉じこめた人間の行動の意図が不明瞭に感じられた。だが、紙片には、荷物は教室にある、と書いてあるのだから、一応は、取りに行かなくてはならない。あれには部活で必要なものも入ったままだ。もし教室にないとしても、他に心当たりの場所がないから、ひとまず、戻るしかなかった。
教室ではまだ、授業をやっていた。廊下側のすりガラスは全て閉まっていたので、廊下の壁に寄りかかってしまえば他の生徒からは見えない。
しばらく待っていると、教師が教室の前の扉から出ていった。途端に、教室がうるさくなる。
直はそのうるささに乗じて、教室の後ろの扉から入った。何人かが視線をよこしたが、他は自分たちの話に集中している。
入ってすぐの直の机には、鞄は置いてなかった。後ろの掃除用具入れの前に置かれていた。すぐに取って出ようとしたが、間の悪いことに、
「席につけー」
と言いながら、担任が入ってきた。いま出ていけば見咎められ、教室に連れ戻されるだろう。それなら最初から座っていた方がいい。椅子を引くと、前の席の男子が、振り返って、
「体調、戻った?」
と聞いてきた。どうやら、保健室で眠っていることになっていたらしい。
「うん。心配してくれて、ありがとう」
ひとまず、合わせておく。
特に変わり映えのしない連絡事項を、担任が儀礼的に伝えていく。
そして、担任がホームルームを切り上げるときの決まり文句、
「何か質問はあるか」
を言ったとき、
「はい」
と鈴の鳴る音がした。蔵本だ。
「おお。珍しいな。何だ、突然」
「文化祭の時、連絡用に作った、クラスの掲示板に、飯原さんを誹謗するような内容の書き込みが、執拗に為されています」
途端、担任の顔が険しくなった。クラスの連中が、水を打ったような静けさに包まれた。
綾は、その発言と同時に、真ん中の列でびくりと肩を震わせた。
来たか、と思った。けれど、蔵本の狙いが曖昧だった。綾がいじめられていることを明らかにすることで、辱めを与えるつもりだろうか。
「ホームルームが終わったあとに、話を聞こう」
「いえ、今じゃないと駄目です」
「どうしてだ」
「ひとまず、掲示板を見てください」
掲示板の存在は、担任も、知っている。担任は、若くもないが、携帯電話の扱いに困る、という世代でもない。
蔵本がそう言うと、担任は、携帯電話をいじった。
そしてしばらく画面を見つめ、段々と眉間にしわを寄せていった。そして怒鳴った。
「なんだ、この内容は!」
「一番最近の投稿時間を見てください」
教室にいる人間たちも、携帯電話を手に取り、見始めた。直はただ、綾の背中を見つめる。昨日の帰り、家に忘れたと思っていた携帯電話は、まだ、見つからなかった。
「この掲示板の存在を知っているのはこのクラスの人間だけです。そして投稿は授業中」
蔵本がそう言うと、前の席の男子以外のほとんど全員が、こちらを見ながら、囁き合い出した。
「この掲示板には、アクセス解析機能もついています。文化祭の運営係だった飯原さんにパスワードを聞いて、確かめたところ、アクセス解析では、HA208という機種が、いずれの投稿にも使われています。つまり、このクラスの中で、HA208を持っている人間が、誹謗中傷を行いました」
囁き声が大きくなり、クラス全体ではもう、普段のしゃべり声と大差なくなっていた。
綾が自殺未遂した直後、いじめ調査に燃えていた担任は、
「全員、携帯電話を机の上に出せ!」
と言った。
そこで初めて、直は、蔵本の意図に気付いた。
平常心を装って、携帯電話を探す。
鞄の中の、一番上に、これみよがしに入れてあった。
吐き気がこみ上げてきた。そういう、ことか。
「どうした、阪井」
ふと顔を上げると、全員がこちらを向いていた。それぞれの机の上には、携帯電話だけが置いてあった。
「いえ、なんでもないです」
机の上に、携帯電話を、載せた。
担任が、一人一人の携帯電話の機種を確認していく。
YE890、IR002、ML103。
声が、どんどん近づいてくる。心臓の音がうるさい。
前の席の男子がパスした。必然的に、教室の隅、一番最後の人間の機種は……。
「HA、208」
「ち、違います!」
直は、すぐに反論した。
「だ、だって、ち、ち、違います。おっ、おかしいじゃないですか。あ、綾と私は、友達で……せ、先生だって、クラスの人だって、わかってるはずです!」
激しい憤懣が沸騰し、言葉がつっかえつっかえでしか出てこない。
「理由ならあります。飯原さんと、阪井さんは、中学時代からの友達でした。けど、阪井さんは、男女分け隔てなく人気のあった飯原さんとだけ仲がいいことが原因で……」
「蔵本っ! てめぇ……!」
立ち上がって、椅子を掴んだ。その椅子を蔵本に向けて投げつけようとすると、後ろから羽交い締めにされた。倉田と、安井と……担任、だった。
「いじめられていました。それを阪井さんはずっと、逆恨みしていたみたいです。二人と同じ中学だった人に、聞きました」
「古山先生! これはいじめじゃないんですか、推測で全部私のせいにして!」
「推測じゃありません。今日、授業中にあのサイトへ投稿できたのは、保健室でずっと休んでいた、阪井さんだけです。そして昨日も、飯原さんに、とんでもないメールを送っていたみたいです」
「適当なこと言うな! 私の携帯は昨日から、どこにも無くなってた! お前が盗んで送ったんだろうが!」
三人がかり押さえつけを引きずりながら、蔵本に近づく。蔵本は薄笑いを浮かべた。
「いい加減にしろ、阪井!」
そこで、担任の力が一層強くなり、前に進めなくなった。そして近くの机の上に、組み伏せられた。
「違う、私じゃない!」
言い訳にしか聞こえない言葉だろうと、絶対に、認めるわけには行かなかった。
「綾、違う、ねえ、綾、何か言ってよ、私がそんなことするはずないって。だって、だって、昨日、一緒に頑張ろうって……!」
綾の方に首をねじ曲げ、叫んだ。
視界に映った綾は、涙の跡が頬に出来ていた。直の視線を受け、見るからに困惑していた。何かを言おうとするが、言葉にできないようだった。そして最後には、俯いてしまった。
直は肘打ちを担任にかまし、手首を掴む力がゆるんだところで押さえ込みをふりほどいた。自分の机の前で携帯電話と鞄を掴み、教室を飛び出した。
駐輪場で自転車の鍵を外していると、突然背中を蹴りつけられた。アスファルトに転がり、受け身を取った手が、思い切り擦りむけた。目を軽くつぶったら、今度は背中に靴の感触が落ちてきて、開いた口から涎が垂れた。
「立たせてあげて」
安井と倉田に無理矢理立たせられ、体育館の裏手に押しやられた。
蔵本は、体育館を取り囲む通路に座った。その前に跪かされる。蔵本はさして楽しくもなさそうに、無表情でこちらを見下ろしている。手に持ったカッターの刃を出し入れしながら。
「もう少し付き合ってね」
蔵本が直の目を真っ直ぐに見て、言う。
「何だよ、まだやり足りないのかよ……!」
「いい、口答えしないで、したら次は、飯原をやるから。あ、それと、これから私が言う言葉には、必ずはいで答えてね」
直は、舌打ちした。
「何でお前なんかの言葉に……」
「だからさー阪井、日本語通じてる? あいつを閉鎖病棟送りにしてやってもいいのかって聞いてんの」
直は黙った。黙るほか無かった。
「三ツ葉中学のAさんの証言。阪井直の裸の写メを、飯原綾以外のクラスの人間、三十五名に、一斉送信してあげました。その画像は、男子を中心に、中学全体、そして校外にまで広まりました。それは児童ポルノ扱いされて、摘発者も出ました」
黙っていると、脇腹を蹴飛ばされた。それでも黙っていると、これみよがしにカッターの刃を出す音が聞こえた。
「はい、は?」
「はい」
「Bさんの証言。ある日、画像で我慢できなくなった三年生の先輩たちに、阪井直をプレゼントしてあげようとしました。だけど、巡回に来た教師に見つかりそうになったため、挿入の寸前で中断せざるを得ませんでした。けれど、口に突っ込んだ先輩だけは、射精することができました。無理矢理、精液を飲ませることもできました」
蔵本を睨むのをやめて、目を閉じる。
「……はい」
「Cさんの証言。阪井直は、脇腹に大きなやけどの後があります。それは、燃えた布を体に押しつけたときに出来た傷で、阪井直が涙を流して許しを乞う姿は傑作だったということでした」
蔵本の平坦な声に、過去が次々に暴かれていく。好きなだけやらせておけばいい。すぐに飽きる。
「他にもいっぱいあるけど、めんどくさいから後は勝手に思い出して。本当、聞いてて楽しかったよ。私も結構残酷なことやってきたかなーとか思ってたけど、とんでもないね。上には上がいる。阪井の自信は、いじめへの慣れが背景にあったわけだ」
カッターの刃が出し入れされる音。
「こんな奴のために働くなんて、下僕も大変だね」
横に立つ安井に向かって呟く。
人差し指を掴まれ、何の躊躇もなく反対に曲げられた。同時に口を塞がれ、情けない悲鳴が、口から漏れ出るのを防がれた。そして折った指を掴んだまま、また違う方向に捻じられる。あまりの痛みに体をよじりながら、痛みを耐える拠り所が欲しくて、歯を食いしばろうとしたが、それさえも許されなかった。喉奥に指を突っ込まれ、口を閉じられなくなった。何度もえずいた。苦しくて、しょうがなかった。指と喉を責められ、それ以上我慢はできなかった。
「自分から私らに向かってきた癖に、この程度で泣くなよ。気持ち悪。そう、お前ってさあ。ほんっと、気持ち悪いよね。なんか自信ありげに突っかかってくるからバックでもいるのかと思ったら、それもない。単に、綾ちゃんの悪口は許さない、レベルの話でした、と。いじめられたことのある奴って、だいたい、目ぇ見ればわかるんだよね。烙印が押しつけられてんだよ。弱いくせに虚勢張ってるお前みたいなの、一番イラつくんだわ。自分を守りたかったら頭使えよ。無策で粋がってるからこうなる。でもまあ、頭使って守られても苛つくんだけど。よく、いじめられたらやり返せとか言うじゃん? でも、矢崎とか阪井みたいなのにやり返されたらたぶん、殺しちゃうなぁ、私だったら。そしたら、無責任にやり返せって言った奴は、殺されたガキの両親に、どう言い訳すんだろうな? そういう精神論者が大勢を占めてるうちは、ホント、楽。表面は『いじめる人間は最低だ』とかのたまって、腹の底じゃあ『いじめられるほうに原因がある』って思ってる。そんな連中のおかげで、今までチクられたことねぇわ」
「飯原さんもひどいよね。携帯が盗まれたって話、みんなにとっては確かに言い逃れに聞こえて、リアリティがなかったけど、飯原さんだけは違うはずでしょ? ああ、昨日の夜のは直のメールじゃなかったんだ、よかった……。そんな風に思えないなんて、飯原さん、ちょっとおかしいよね。あ、でも、飯原さん、あのあと、普通に部活行ってたなあ。阪井さんのこと、追いかけもしないで。阪井さんは飯原さんのことを想ってるけど、飯原さんは阪井さんのことなんて、どうでもいいみたい。だとしたら、すぐに、助けてあげなかったのも頷けるね。同性愛者なんて疑っちゃって、飯原さんに悪いことしたな。それは阪井さんだけだったんだ」
「矢崎が退学してから退屈だったんだけど、いい暇つぶしになったよ。私、阪井をいじめてた奴にいろいろ話聞いたからさ、今度登校してきたら、トラウマを抉り出して切り刻んじゃうかもしれないんだ。阪井だってさ、またあんな最悪なもの飲み込まされて、淫乱呼ばわりされて、周りの人間の歓声聞いたりなんかしたくないでしょ? 廃人になりたくなかったら、おとなしく退学したほうがいいよ」
解放されたあと、蔵本たちの顔は見ず、駐輪場に戻った。
帰宅したあと、玄関で靴を脱いでいると、介護部屋から、点々と、下痢混じりの便が落ちているのが目に入った。その便を追っていくと、トイレに着いた。ドアを開けた。
そこでは、いつもは穏やかに微笑を浮かべている祖母が、便器に手を突っ込み、その、下痢混じりの便を、おいしそうに咀嚼していた。
直はドアを閉め、二階に向かった。それから、部屋に、閉じこもった。