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終章
28/28

27 エピローグ(最終話)

 ずっとずっと、一人でした。


 算数で躓き、国語ではなぜみんなが正しい答えを選べるのか分かりませんでした。計算ドリルも漢字ドリルも、いつもわけがわからないまま空白を埋めていくしかなかったんです。

 家で何度も何度も教科書を読み返しました。ページをめくる部分が自然に破れてしまうくらい、読み返しました。それでも次の日にはみんな、違うことを覚えています。

 当時は存命だった母が、困ったような顔をすることが、日増しに多くなっていきました。

 先生にも邪険に扱われるようになり、その空気が周りにも伝染して、一年生のときからずっと、一人で過ごしてきました。

 けれど五年生になってからは、周りの見る目が明らかに変わった気配がしました。どの教科書も漢字にフリガナだらけなのは相変わらずで、掛け算九九でさえ間違えることは変わっていなかったのに、です。それなのに男性教諭や男子からは妙に優しくされるようになり、女子からは激しい暴行を受けるようになっていきました。


 ある時、図工の授業が六時間目にありました。木元さんに呼び止められて残ると、彼は妙に気恥ずかしげに、わたしへの好意を告げました。木元さんは三年生の時にも一緒のクラスになり、わたしの所持品を壊したりしていたことを、わたしは覚えていたので、最後まで言わせずに断りました。

 木元さんが肩を落として帰った直後です。四人の女子に取り囲まれ、口々に罵られました。わたしが、学校に行きたくないと強く思っていた原因。いつもいつも、突っかかって来る人たちです。

 突き飛ばされて、画用紙を乾かすための台に背中をぶつけても、抵抗はできません。抵抗したら、もっと酷い目にあわされるからです。嵐が過ぎ去るのを身を潜めて待つしかないのです。しかしながらその嵐は、いつもよりもさらに、激しいものでした。わたしが、女子に人気のあるという木元さんに告白されたことが、よほど頭にきているようでした。

 誰か一人が絵の具のチューブを持ってきて、体を押さえつけられたわたしの口に突っ込みました。口の中を絵の具の不快な粘つきと、薬品臭い苦みとが満たします。飲みこまないように必死に息を止めているなか、立ち上がらされたわたしは、水道の前まで引っ張られました。そこでなぜか、両腕が自由になります。口の中に手を突っ込んで必死に絵の具を掻きだしていると、掃除用の真っ黒な雑巾が積み上げられた桶が、目の前に置かれました。大半の絵具をどうにか掻き出したら、今度は、汚れでどす黒くなったその桶に、顔を押し付けられました。桶には気味の悪い色をした液体が溜まっていました。

 これで、この人たちも飽きるだろう。そう思って、手が離れるまでと思って息を止めていましたが、いくら経っても、そのままでした。押さえつけられ、手も頭も足も動かせません。他人の憂さ晴らしの道具でしかないとしても、人間ですから、わたしは人間ですから、だんだん、息が苦しくなってきます。本当に息が続かなくて、苦しくて、息を大きく吐き出しました。自分の命を繋ぎとめるはずの気体が、ボコボコと水泡となって、顔の横を通過していくのが分かります。やめて、やめて、と心の中で叫びながら、体に力を入れます。それでも動きません。四人がかりで押さえつけられていたのでしょう。どうしようもなくなって、腐臭のする水を必死に飲みました。それでも、水の量はいくらも減りません。

 ……死ぬ。

 そう感じた時、わたしの中の何かがばらばらに砕け散ったのを、今でも覚えています。


 意識が飛ぶ寸前でようやく押さえつけが外れたとき、わたしは吐瀉物を撒き散らせながら、気道が破裂しそうな、明らかに人間のものではない音を立てながら呼吸をしていました。薬品とドブの腐臭が混じり合った臭いが自分の口の中からしました。水道の上にある窓ガラスに映ったわたしは、顔中から、得体の知れない黒い液体を垂れ流していました。口の端から、黄色と赤の絵の具が零れ落ち、お父さんが誕生日に買ってくれたお気に入りのワンピースは、片方の肩紐がちぎり取られていました。徐々に、死に直面した恐怖が体中に伝染し、立っていられなくなり、その場で尿を漏らしました。そんなわたしを置いて、奴らは高笑いしながら、図工室から出ていったんです。

 呼吸と震えが落ち着いてから、ほとんど無意識に、図画工作の備品が置いてある場所へ向かいました。そこで、目についた金槌とカッターを掴み取りました。

 死にかけた一瞬で、憑き物が落ちたかのようでした。頭がこれまでにないくらい冴えていました。

 わたしを襲った美里、矢崎、橋本、野口の四人の姿を、昇降口に見つけ、つかず離れず、後を追いました。途中でリーダー格の美里だけが、違う道へ逸れます。わたしは慎重に尾け、美里が人気のない路地に曲がったところで、声をかけました。意識して、優しい声で。

「美里」

 美里が振り向いた所で、わたしは金槌を思い切り、口元に叩きつけてやりました。頭の中がさめざめとしていて、躊躇いも何もありません。確実に上下の前歯を全部折った、そんな感触がしました。

 美里はよろめいた後、その場に尻もちをつきました。口を押さえながら甲高い悲鳴をあげ、泣き喚き、後ずさりしていく美里を、ゆっくりと追い詰めていきました。美里が逃げ出そうとした時、金槌をまた、美里の左肩に振り下ろしました。

 美里はもう、喚きません。逃げるそぶりも見せません。ただただ震えて、泣いていました。

「やめてっ! もうしない。もうしないよ。だから、助けて!」

「駄目だよぉ、美里さん。校舎の中を走り回ったりしちゃあ。受け身も取らないで階段から落ちたら、そうなるよ」

 美里は茫然とした表情で、わたしを見上げていました。わたしは金槌を左手に持ち替え、カッターを右手に持ち替えます。そして美里のすぐ近くに腰を落とし、その刃先を喉元に押し当てました。美里は金縛りにあったように動かず、零れ落ちそうなくらいに目を見開き、歯をがちがちと噛みあわせ始めました。

「そうだよね?」

 美里の下半身のあたりに、水たまりが出来ています。美里は何度も何度も、頷くだけです。

「もし誰かに何かを言ったら。もし次、学校であなたのことを見かけたら……どこまでも追いかけまわして、体中、ぐちゃぐちゃにしてあげる」

 わたしは笑みを浮かべるのを堪え切れず、それを美里に向けました。

 美里はただ、頷きを繰り返すだけの機械になっていました。



 あの美里が……。怖くて怖くて仕方なかったあの美里が、金槌で殴って、カッターを突きつけただけで、あんなことになるなんて。

 こんなにも簡単に、あの地獄のような日々と決別できるなんて。

 やっと、やっと、解放されるんだ!

 涙が、次々と溢れました。

 そして思いました。


 みんな。

 気付かせてくれて、ありがとう。

 わたしが必死に助けを求めても、誰も助けてくれなかったのは、いじめられたら自分でやり返す、そんな当たり前のことに気付けてなかったからだったんだね。

 みんなはわたしの恩人だよ。

 明日からいっぱい、恩返ししてあげるね。

 みんなから受けた恩は、一生、忘れない。







最終話 恩返し






 でも、本当は、普通の生活を、送りたかったんです。友達と、くだらないことで笑い合うような、何の変哲もない日常を、送ってみたかったんです。

 できませんでした。わたしは、人格形成に大きな影響を与えるという、小学生の時期に、いないものとされ続け、挙句の果てに嬲られ続けたからです。鬱屈を、どこかにぶつけなければ、自分が終わってしまっていました。これは言い訳なんでしょうか。言い訳でしかないんでしょうか。


 本当は、こんなやり方じゃなく、飯原さんと、関わってみたかったんです。高校に入って初めて、久美と彩華以外で話しかけてくれたのが、飯原さんでしたから。そっけない対応しかできませんでしたが、本当に、うれしかったです。

 飯原さんが自殺未遂したとき、飯原さんについて好意的に思っていたことを知っているのはわたし自身だけで、周りは、そうは思ってはくれませんでした。今までのわたしの行動が原因です。けれど、自殺未遂の原因が、わたしのいじめによるものだなんて、決めつけられたら……いくらわたしの行動が原因とはいえ、我慢できませんでした。わたしがこの世で一番嫌悪している人間たちと同列にされたら、今までわたしのやってきたことに、激しい矛盾が生じてしまいます。


 あなたの疑問には答えましたよ。

 まだ駄目ですか? このあと、友人と約束があるんですが……。ああ、その友人について。

 わたしの幼稚な復讐に付き合ってくれた、とても善良な人たちですよ。

 彩華は五年生の時、クラスメイトの彼氏を横取りしてしまいました。これについては、擁護できませんね。彩華が悪いです。けれど、その結果生じた低俗で下劣な報復は、復讐を開始した時点のわたしでも、実行を躊躇うほどのものだった。そのことだけは、言っておきます。小学生がどうしてあそこまで……いや、小学生だからこそ、かもしれない。

 んー、そうでしょうか? あなたも、いざ彩華を目の前にしたら、一週間と持たずに、彩華の言い成りになっているかもしれないですよ。

 ……ふふっ。あなたの好みは聞いていませんよ。お世辞として受け取っておきます。

 久美は、担任教師よりも背が高く、目つきが気持ち悪いという理由だけで、でしたね。頑丈そうに見える分、何をやっても許されるという空気が、彼女を気が狂うぎりぎりのところまで追い立てていました。


 わたしと久美と彩華は、六年生の教室で一緒になりました。先生たちが気を遣ってくれたんでしょう。一緒のクラスには、三人それぞれのいじめを主導する立場の人が、ひとりもいませんでした。いわゆる取り巻きだけでした。

 わたしたちは、ちょっと脅せばすぐにこちら側へ寝返る人間を優先的にあたり、他のクラスに押し込められたリーダー格たちを、孤立させていきました。クラスが分かれただけで、薄情なものですね。久美は最初から、手伝ってくれました。途中まで様子を見ていた彩華は、復讐が軌道に乗り始めると、調子よく、押しかけてきました。

 彩華も好きですよ? 確かに、行動の一つ一つが無邪気な打算にまみれていますが、その奔放さに、わたしも久美も、救われてきました。彼女も、わたしと久美と一緒に過ごす時間を、帰る場所だと思ってくれているみたいですからね。それに最近は、彩華の行動も落ち着いてきました。わたしだけが、子供のままです。

 続けます。わたしたちは、復讐を決行しました。先生にも親にも感付かれないよう、細心の注意を払って。

 武器は、一部にしか使っていません。加害者としては、わたしたちをごみくずのように扱い甚振ったくせに、被害者となると、小学生の脆い部分がむき出しでした。取り巻きに裏切られたことだけでも衝撃的な出来事だったでしょうし、ましてやその取り巻きに様々な攻撃を受けてしまえば、ひとたまりもなかったんでしょう。たいていはすぐに不登校になり、うまく耐えた奴も、中学で不登校になりました。


 今のところ、報復を受けたことはありません。あまり表立っては危害を加えませんから。

 はい。わたしたちは、人間関係をちょっといじくるだけです。

 ああ、矢崎あたりは、特別なんですよ。わたしも暴行を受けていたし、久美や彩華への暴行にも噛んでる。まあ、矢崎はあんな優等生面してるから、一方的にわたしたちが嬲っているように見えますけど。一番、神経を擦り減らされたのは、抵抗の激しい矢崎への報復でした。小学生のときも、矢崎だけにはうまく逃げ切られましたから。あのあばずれ女は……。あ、矢崎の話はこのくらいにしておきましょう。考えただけであなたに八つ当たりをしたくなります。

 飯原さんたち? 四人のうち、誰かが欠けていれば、うまくいっていたかもしれませんね。

 もちろん、今は感謝してます。皮肉じゃなく、ね。


 このくらいでいいでしょう。

 久美と彩華との待ち合わせ時間が近づいてます。


 はあ。最後の質問がそれですか?

 小早川聡美。だって、反則的に可愛いじゃないですか。留年は避けられたようで、安心していたところです。

 どうしてそんなに落胆したような顔を?

 恋愛対象がイレギュラーなのは自覚してますよ。

 もしあなたの口が裂けたら、わたしが麻酔なしで縫いに行きますので。

 では、失礼します。


 ええ、もう、二度としません。

 ――恩返しは、終わりましたから。





ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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