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終章
27/28

26 何よりも強く

 前は無断で家に入ったから、こうして家に招き入れられるのは、本当に久しぶりだ。ある程度の腐臭やごみの散乱を覚悟していたが、そんなものは必要なかった。掃除は行き届いている。

 二階にある綾の自室へと案内された。綾が指し示したベッドの上に、座る。綾はカーペットの上に直接座った。

「綺麗になったね、家の中」

「ああ。あの時は、見苦しくて、ごめん」

「うん、あの時はびっくりしたよー……」

 と言って、話を続けようとしたが、あの時、という言葉が指している日の出来事を思い出してしまった。綾もそれに気付いたのか、押し黙ってしまう。

 直がやや俯き加減に、手元の羽毛布団を撫で回していると、そうだ、と、気を取り直したように、綾が手を叩いた。

「蔵本とは、もう、終わったから」

「何が」

「もう僕たちに手出ししないって、自分から約束してくれた」

「本当に?」

 ベッドの上から前屈みになり、半信半疑で綾の目を覗き込む。

「本当に」

 目を逸らさずに綾が言う。

 部活終わりのとき、綾の目に涙が溜まっていた原因はやはり蔵本ではないかと考えていた直は、肩を落とした。

「どうしてそれを早く言ってくれないかな……」

「えっと、自分でもうまく整理できてなくて」

「早く柚樹にも教えてあげないと」

 おそらく、自分の次に蔵本を怖がっているのは彼女だろう。

 足元に置いた鞄から、携帯電話を取り出して、聡美の番号に掛ける。柚樹は携帯電話を持っていない。

「はい」

 なぜか、暗く湿った声が耳元で響く。

「柚樹いるよね? 代わってほしいんだけど」

「ああ、うん、ゆずにね……。はい……」

「もしもし」

「あ、柚樹、忙しいところごめん」

「忙しくないよ。留年するかもしれないのに! この間授業でやったばかりの単語すらまともに覚えてない! 能天気な人に! 勉強を教えてるだけ」

「あ、ああ……ご苦労さま……。あの、さ。さっき、綾のところに蔵本が来たみたいで」

「え……」

「結果だけ言うと、もう、心配しなくて、大丈夫になったみたい。まだ、私もちゃんとした話は聞いてないから、詳しくは明日話す」

「あ、そう、なんだ……。うん。後で、聞かせてね」

 通話を終え、綾のほうに向き直る。綾は苦笑い。

「柚樹、怒鳴ってたね。でも、あれだけ柚樹が本気なら、聡美も危機感持つだろうし、大丈夫かも」

「だから言ったでしょ? 聡美のことは、柚樹に任せておけば、大丈夫」

 みんなで勉強を見てあげるべきなんじゃないかと綾が提案したことがあったけれど、柚樹の邪魔になるだけのような気がして、直は賛成しなかった。

 表向きは何を言っていたって、柚樹は聡美のことを一番大切な友人だと思っている。聡美にできるだけ理解してもらうために、わざわざ聡美専用の試験対策ノートを用意するほどだ。本人は自分用も兼ねていると言い張っているが、英語の能力を測る試験で高い得点能力を誇る柚樹が躓くような問題は、ひとつも載っていなかった。

 電話越しのやり取りのおかげで、緊張と同時に、口もとも解れた。

「話を元に戻すけど、蔵本に、どうやって約束させたの?」

「そのことで、少し、話しておきたいことが」

 言いにくそうに、口をもごもごとさせている。

 綾が、蔵本と話した内容で言いよどむのなら、あのことしかない、はずだ。直は先んじて、綾の言いたいであろうことを呟いた。

「中学時代の、いじめのこと?」

 綾は小さく首を動かして、頷いた。

 蔵本と対立を始め、自分の過去に踏み込まれた時から、覚悟をしていた。綾に、すべての事実が曝け出されることを。

 中学生の時は、絶対に綾に知られたくない、知られるくらいなら綾の目の前から消えたい、くらいには思っていたが、いまは違う。お互いに隠し事があったことを知った綾が、直の気付かないところで自殺未遂にまで至った心中を、少しだけでも吐き出してくれるのではないか、そんな期待が、先に来ている。

 だから、自分でも意外なほど冷静に、受け止められた。

「話を聞いたとき、やった連中を……本当に、殺したくなった。それを、蔵本にたしなめられた。阪井は過去と決別しようとしてるのに、君がそれを邪魔するの、って」

「蔵本からそんな言葉が出るなんてね」

「うん。でも、正論。そのあと、いろいろ話したんだけど、最後には、もう何もしないことを、約束してくれた。蔵本も、変わり始めてるんだよ、きっと。……それで。蔵本ですら、スタートラインに立てたのに、僕は、まだ、何も、変われてないんだよ。直がこだわりを捨てようとしてることに、こだわってる。自分の過去とも向き合えない」

 綾は小さくため息をつき、俯く。

「どうして、気付いてあげられなかったのかな。あれだけ一緒にいたのに。何も気付かないで、一人だけ馬鹿みたいに舞い上がって、話しかけてたよ。一緒の中学に入れたから、嬉しくて、毎日、楽しくて。ひどい目に遭ってる直に何もしなかった」

「それは違う」

 直は、涙声になっている綾へ、静かに告げた。

「綾の笑顔だけが、私の、心の支えだったから。綾にばれて、綾まで巻き込んでいたら、綾に心配されていたら、たぶん、学校から逃げ出してた」

 中学の時は、綾に助けてもらえなかったことで、結果的に助けられた。ずいぶんと皮肉な巡り合わせだけれど、仕方がない。事実なのだから。

「でも」

「綾は、手に入れられたかもしれない未来を想像しているんだろうけど、そんなの、最悪の未来。今、この部屋には誰もいなかったんだよ、綾。私が学校から逃げ出していたら、当然、綾と一緒の高校にはいない。私がいないなら、綾が自殺を図った時、手遅れになったかもしれない」

 空想の過去は、最悪の未来へ。最悪の過去は、今ここへ、繋がっている。何も、悲しむことなんてない。

 そう、思い込もうとしているのに。

「だったらなんで、そんなに苦しそうな顔で言うの……?」

 突きつけられてしまうと、うまくいかなかった。やはりそう簡単には、忘れられない。

「ねえ、あの時、綾に伝えていたら、周りの奴らは私をいじめられて当然の奴に仕立て上げるために、なんでもしたと思う。それでも綾は、私を、信じてくれたかな」

「しっ……信じたよ!」

「今回は?」

「そ、れは……」

「綾が私を信じなかったことが、私の過去の解釈に説得力を持たせてくれてる。そのおかげで、私の思い込みは、かろうじて成立してる。だから……正直、苦しいよ。けど、綾を恨んでなんかいない。蔵本の言う通り。私は、今が欲しい。これからが、欲しい。綾と一緒に、一歩でも先へ進みたい」

 自分だけ、歩き出しても意味がない。綾を置き去りにしたまま進むのなら、そんな歩みに価値はない。

「綾も、吐き出してよ。一緒に悩もうよ。いい加減、私のこと、信用してよ……」

「幻滅、する、から」

 綾はぽつりと言った。

「くだらない理由で死のうとして、母親を心配させて、周りの人を心配させて、病院や警察の人に迷惑かけて、蔵本に付け入る理由を与えて、みんなを傷つけた」

「幻滅なんてしない!」

 綾の過剰な自罰的態度は今に始まったことではないが、あまりにも度を越していて、苛立った。綾が置かれてきた状況は、彼女の母親の次に、理解しているつもりだ。父親から受けた仕打ちが原因で未だ精神的な病を患っていることも、父親の懲役刑が終わってから、その影におびえていたことも。

「殺され、たの」

 直の剣幕に驚いたのか、綾は顔を引き気味にして、視線を誰もいない方向へ流しながら、答えた。

「中学三年の冬頃に、僕と同い年の子が、母親と一緒に、殺された事件を知ったの。犯人は父親だった。そのときにはもう、父さんは刑期を終えていたはずだから、父さんのことが頭から離れなくなって」

 綾は唇を軽く触りながら、直とは決して目を合わせず、続ける。

「毎日、母さんが殺される、僕は生かされたまま徹底的に壊される、そんな妄想ばかりしてた。だって、父さんの店に勤めてた女の人はみんな……。そのうち夢にまで出るようになってきて、眠るのが怖くなって。笑っちゃうくらい、眠れないの。睡眠薬を規定の錠より多く飲んでもね。毎日毎日睡眠不足で、苛々してて、怯えてて、でも学校は、せっかく父親から逃げて手に入れた場所だから、絶対に本性を見せないようにして」

「うん」

「そんなことして、溜め込んでたら、だんだん、虐待されていたころのことまで思い出し始めて。そこで、限界が来た。……それだけの、話、なんだ。直は、気付いてあげられなかったと思ってくれてるかもしれないけど、あの日まで持ったのは、母さんや薬の助けだけじゃない。直のおかげもあるんだよ。直がいなければもっと早く、やってたと思うから」

 言い終えた綾は、こちらを窺うように、上目遣いになっている。

 ベッドの上から身を乗り出し、何も言わずに手を伸ばした。ふわりとした髪に包まれた綾の頭には、簡単に手が届いた。後頭部に手を回し、綾の体を自分の体のほうへ引き寄せる。

 綾との距離が開いていれば、こんなことはしなかっただろう。

 けれど、近かった。

 肩のあたりに綾の顔が、当たる。直が過去のことで苦しんだとき、父がそうしてくれたように、綾の体を強く、強く抱きしめる。

 始めは身を固くしていた綾が、少しずつ声を洩らし始めた。だんだんと、声が押し殺せなくなったのか、直の肩口で子供みたいに、泣きじゃくり始めた。

 綾も抱きつき返してきて、体重が乗った。直はふらつき、そのまま、ベッドに倒れこんだ。覆い被さられたまま、白い天井を見つめ、綾の腰に回した手を、なだめるようにして叩く。

 直は祈った。

 私には、この子が必要です。必要なんです。

 だからどうか、どうか、届いてください。

 この気持ちが、何よりも強く、この子のところへ。


 

 


「二人ともー。もう十時半だよー」

 すぐ近くで声が聞こえ、目を開ける。目を閉じた綾の顔がすぐそばにあった。綾の首の下に埋まっていた右腕を、ゆっくりと引き抜いたところで、気付く。それなら今の声は。

 慌てて跳ね起きた。

 声の主……綾の母親が、立ったままで、にこりと笑う。中学の時や病院で会っていたので、面識はある。

 隣で、綾の呻き声。いつの間にか、二人して眠ってしまっていたらしい。

「阪井さん、髪、がっつり食べてるよ」

 綾の母にそう指摘されて気付き、口の中から髪の束を引っ張り出す。

「綾、よだれのあと」

 続けて綾の母は、口の右端のあたりを叩いた。綾は寝転がって寝ぼけ眼のまま、制服の袖で拭く。

「返事がないと思ったら、仲良く添い寝ですか」

「ご、ごめんなさい、勝手に上り込んで……」

 直はすぐに、頭を下げた。

「ううん。ありがたいよ。綾、最近また、眠れていなかったみたいだから。ごはん、出来てるんだけど、阪井さんも一緒にどう?」

「用意して頂いたなら、ぜひ」

「じゃあ、先に下りてるから」

「あ! あのっ!」

「ん?」

「機会があれば、介護について相談してみたいと思っていたんですが……。せっかくなのでご飯の時、お聞きしても構いませんか?」

「もちろん。私が答えられることなら。阪井さんは綾の恩人だからね」

 介護士である綾の母は微笑みを残し、部屋を出て行った。

 綾は体を起こさず、目も閉じたままだ。

 直は苦笑いを浮かべ、綾の左手を掴んで軽く揺らした。

「起きなよ」

「直の切り替えが早すぎるんだよ……」

「……最近もそんなに、眠れてなかったの?」

「うん。実を言うとね。でも」

 と区切った綾はようやく目を開け、右手をついて、体を起こした。

「今は、よく眠れた。久しぶりに、すごく、気分がいい」

 体育の授業で見て以来の綾の笑みは、洋々としたものだった。

「ねえ、直。わたしも、始めてみる。折り合いをつけて、不格好でも妥協して、どうにか、生きていってみる」

「〈わたし〉?」

 綾の笑みが深まった。

「大好きだよ、直」

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