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終章
25/28

24 自分は異常

 直は、蔵本の問いに、小さく頷いた。

 それを確認した蔵本は、腕から血を流し、突っ立ったまま、じっと綾のほうを眺め始めた。今、綾の着ているコートのポケットに、カッターと金槌があることを、知っているような素振りだ。そんなはずはないが、視線に耐えきれなくなった綾は、自分から蔵本に話しかけた。

「矢崎さんがいるうちは、渡せない。来週、学校で渡す」

「心配しなくても、他にも持ってるけどね。武器になるもの」

 蔵本は余裕を見せるためか、微笑を浮かべた。けれど、矢崎が近くにいるうえに、血まで流れ出したせいか、顔には色味がなく、やせ我慢にしか見えない。

「帰る前に、聞きたいことがある。この間、何で染谷が残ってた? あいつがいなければ、こんなことにはなってないのに」

 気を取り直したような雰囲気で、蔵本が言う。視線は直に向いている。

「教える必要ある?」

「別に。興味本位」

「……私が頼んだ。心配だから、綾を見ててくれって」

 その話は聞いていた。蔵本がカッターを振り回した日、直は染谷に、部活の間は綾のことを見ていてほしい、と、メールで頼んだらしい。

 この間、引きこもっていたときに染谷から初めてメールが来た、アドレスを教えた憶えはないけど優しい文だった、と直は喜んでいた。それからメールのやり取りを始めたのだろう。

 直には言わなかったが、教えたのは綾だった。ひと月以上前、怖くて直接聞けない助けて、と泣きついてきた時に。染谷なら悪いようにはしないはず、と考えて勝手に教えたが、結果的には、教えたからこそ直と染谷の連絡が密になり、蔵本から助かったことになるのかもしれなかった。何がどう作用するかわからない。

「もしかして、私がやろうとしたこと、予想してた?」

「まさか。偶然だよ」

「偶然ねえ」

「答えたから、こっちからも訊く。蔵本のほうは、今日はどうしてそんなに大人しいの? 警官がいるのもお構いなしで、無理矢理、隠し場所を吐かせたりしそうだけど」

「私はいつでも大人しいよ。そんなことしない」

 また、弱々しい微笑み。

 腕からの出血はまだ止まらない様子で、腕から指先を伝って滴り落ちる液体が、蔵本の足元に血だまりを作り始めている。けれど安井も倉田も、本人でさえも、治療しようとしない。こちら側はもちろん、蔵本に散々振り回されたのだから、誰も動かない。

 血だまりが、徐々にではあるが確実に、広がっていく。

 血液がこれだけ集中的に溜まる場面を見たのは、久しぶりだった。父の店の人間に暴行されて店から叩き出された男の人も、こんな風に、血だまりを作っていた。薄暗い裏路地に。ひとりで。自分はそれを、助けるでもなく、眺めていた。見下していた。なぜならそいつは……子供のころの綾に手を出そうとして、殴り倒された男だったから。

 血を見ると、自分の流したもの、他人の流したもの、いろいろとそれに付随する出来事を思い起こしてしまう。

 いまここにできている血だまりが、たとえ蔵本の身から出た錆なのだとしても、気持ちのいいものではなかった。

「寝言は寝て言えって言葉、知ってる?」

「酷い言い草」

「理由は?」

「今は言う気分じゃない」

「カッターと金槌はこっちにあるんだけど」

「そんなこと言われると、実力行使したくなるなぁ」

「そんな状態で?」

 いいから早く、血を……。

 気にせず喋り続ける蔵本に、綾は耐え切れなくなり、その場にコートを脱ぎ捨てた。中に着ていたパーカーも脱ぎ、そのまた中に着ていた長袖の白いTシャツも脱いだ。それを持って、蔵本と直の間に割って入り、蔵本の服の左袖を、無理矢理、肩口までまくり上げる。目を丸くした蔵本に構わず、そのまま、手もとのTシャツの胴体部分を巻きつけ傷口を覆い、その傷口の上の辺りで、二つの袖を交差させ、きつく縛った。

 そして蔵本の腕を引っ張り、ベンチに座らせる。

「これは、何の遊び?」

 蔵本が、曖昧な笑みを零す。

「見て分からない? 止血したの」

「飯原。私が言うのも変だけど、ここ一か月あたりの記憶が抜け落ちてるような気がする。大丈夫?」

「ちゃんと覚えてるよ」

「飯原の病気を調べて、飯原の評判を貶めるような噂を流したのは誰? 青野が飯原を無視するように強制したのは、阪井をつついて二週間も不登校にさせたのは、体育館通路でバスケ部を襲ったのは?」

「蔵本」

「そこまで分かってて、どーしてこんな真似しちゃってるんだろうねぇ、君は。頭おかしいんじゃない?」

「血を見るのが苦手なだけ。それに、目障りだから。そんな、弱々しい雰囲気を醸し出されてると」

 綾は、同意を求めて、振り返った。

 聡美はそこまでしなくていいよというほど首を上下に振っているし、柚樹も直も、矢崎すらも、頷いてくれた。

「人の欠点を見つけ出すのがうまくて、貶める対象のことをストーカーみたいに調べて、容赦がなくて、くだらなくて、陰湿で、人間の出来損ない……。それがあんた、でしょ。今さら、そんな顔見せないでくれる?」

 直が、綾の隣に来て、言う。何か付け足されるたびに、蔵本の苦笑いが、段々と、本当の笑いに変わっていった。

 綾たちは、何がそんなに可笑しいのか分からず、立ったまま、蔵本が笑い止むのを待った。

「はは。本当に……本当に、口だけの話し合いで済ませるつもりなんだ?」

「そうメモに書いたはずだけど」

 蔵本に、柚樹が答える。

「あれ読んだとき、私、よっぽどの平和主義者か、そうじゃなければ、私にやられて思考回路がイカれちゃったのかと思ったよ。で、実際、来てみたら、本当の、話し合い。交番の近くを選んだのと、矢崎を連れてきたのは正解だけど、それ以外は酷い。私が絶対に取り返したいものを手元に持ってるのに、それを盾にされたら私は何もできないのに。これだけ復讐に有利な状況で、会って話し合おう? 全然、駄目。百点満点中、二十点」

「あの、横から遮って、ごめん。さっきから聞いてて、すごく違和感がある」

 ずっと黙っていた聡美が、初めて口を開いた。

「それは、あなたが勝手に見てる世界の常識だよね? 私は、体を張った殴り合いなんて一度もしたことがない。下手に何か仕掛けたら、そっちに足元をすくわれるのがわかってる。だから、選択肢は初めから、話し合いしかないんだよ。選択肢がひとつじゃ、点数つけるつけない以前の話でしょ」

 蔵本は、聡美の顔をじいっと見た後、目を細めた。

「へぇ。授業妨害の常習犯のくせに、意外と、考えてるんだ。で、その話し合いで、私は何をすればいいのかなぁ? 申し訳ありませんでした、もう二度と君たちに手は出しません。そう、誓約書でも書けばいい? 紙切れ一枚、言葉ひとつで、行動を変えるつもりはないけどね」

「変えられないかな? 私はあなたのこと、何を言っても話が通じないほど倫理観を失った人だとは、思わない。自分が勝手にやることに、安井さんや倉田さんを巻き込まなかったり、綾とゆず以外の人間には、凶器を向けなかったり。話を聞く限りでは、歪んでるのは確かだけど、どこかにまともな判断を行える部分が残っている気がする」

 聡美は、蔵本の目を下から見上げながら、訥々と語って聞かせる。普段の柔らかでどこか間の抜けた雰囲気など微塵もなく、聡美の目元にも口元にも表情らしきものは一切浮かんでいない。こんな顔もできるのか、と綾は聡美の横顔を見つめた。

「人のパーソナリティをいい方向にいい方向にとらえるのは立派。ただ、根拠に乏しいね」

「根拠はない。でも、自信はあるよ。あなたは本当は、自分でも、やめたいと思ってる。自分を傷つけた人間に、いちいち復讐して回るようなことは。今だってそう。出会い頭の矢崎さんにはあれだけ激昂していたのに、傷が残っているのを確認してからは、無視してる。私にはまともな倫理観が残っていない、そう言うなら、矢崎さんに、今すぐ殴りかかってみてよ。体中、あなたにつけられた傷跡が残ってる、矢崎さんに、さ」

 そこで初めて、聡美が相好を崩した。今このタイミングで崩しては、蔵本を刺激するだけだ。

 蔵本は予想通り激して、何も言わないまま、聡美の腹に、人差し指が折れているはずの右拳を、叩き込んだ。

 厚着に防がれる程度の威力だったらしく、聡美は軽く顔を歪めただけで、話を続けた。

「ほら。なんで、露出してる顔を狙わない? 私を殴る、その正当性が見当たらないからでしょ? いじめの疑いをかけられる原因になった綾に対しても、それを庇う直に対しても、約束を破ったゆずに対しても、あなたなりの正当性は見つけてきた。だけど、私はただ、本当のことを言っただけ。だから、強く殴れない。分かるよね? 本当に暴力に狂った人間なら、周りの人間すべてに対して、いくらでもこじつけで正当性を主張できるんだよ。あなたが本気になったら、私なんか、すぐにあなたに屈して、泣き叫ぶはずなのに。あなたはそれをしない」

「ちょっと黙ってもらっていい? 耳障り! 私が君を殴れない理由なんて聞いてない。矢崎をやれば、黙ってくれる?」

 蔵本は言うが早いか、聡美の横をすり抜けて、ベンチでじっと蔵本を見ていた矢崎のほうへ、歩き出した。綾が駆け寄る間に、蔵本は、矢崎の胸倉を掴み、矢崎の頬を、左手の甲で張った。よろけた矢崎をそのままベンチに押し付け、抵抗できないようにして、左手だけで頬を一度、二度、三度と張る。

 綾は、自分の長袖Tシャツが縛り付けられている蔵本の左腕を、掴んだ。

 口から白い息を吐き出しながらこちらを振り向き、綾を睨みつけた蔵本の必死な形相とは裏腹に、矢崎は平然としている。少し頬が赤くなった程度で、矢崎に目立った外傷はない。蔵本が明らかに、動揺している証拠だ。体に力が入っていない。

 自分でもそれがわかったらしく、蔵本は懐に右手を入れ何かを取り出した。蔵本はその赤い箱のようなものを右手だけでいじった。出てきたのは小さく、けれど鋭利な刃先。アーミーナイフだ。

「駄目!」

 今にも使いそうな雰囲気を察したのか、ベンチに座ってただ成り行きを見守るだけだった安井と倉田が、立ち上がり、ほぼ同時に叫んだ。無二の信頼を寄せているはずの二人の制止に、蔵本の動きが止まった。

「使ったら、駄目」

 綾も、左腕をつかんだまま、できるだけゆっくりと、蔵本に囁きかけた。

「それを使ったら、もう二度と、救われないよ」

 蔵本はアーミーナイフを右手に掴んだまま、小さく、くぐもった笑い声を上げた。

「飯原、君さ、怖くないの? 私が右手に持ってるもの。今、気分が変わって、この間の続きを始めるかもしれないのに」

「怖くない。さっき、聡美に手加減した時点でもう、自分の間違いに気づいたはずだから」

「は? 間違い? 気付く? 知った口、利くなよ! 体張って助けてもらえる奴が!」

 怒鳴ると同時に、蔵本の、矢崎への拘束が解けた。すぐに逃げ出せたはずの矢崎はしかし、体を起こすと、ベンチに座り直した。

 矢崎はそのまま、足元のコンクリートを見つめて、蔵本に話しかける。

「そうだよ、ね。蔵本の時は、体を張って助ける人は、いなかったから」

「いなかった! あはっ! いなかったから!」

「お願い。もう、許して……。私がしたことは許されることじゃないけど、殺されたく、ない……。死にたくない」

「ああ、駄目だ、やっぱり私、おかしいよ。こいつを殺したくて殺したくてしょうがない。久美と彩華に迷惑をかけないように、私が全く責任を負わない形で、何年もかけて自殺まで追い込んでやりたい。小早川、この感情、さっきみたいに、説明できる?」

 蔵本はアーミーナイフをしまい、矢崎から離れ、また聡美の近くまで戻っていった。

「できない」

 聡美はそうとだけ、呟いた。

「でもそれが、異常なことだけは、分かる」

「正直だねぇ」

 蔵本も小さく呟き、足元に転がる、自身の腕を貫いたカッターナイフを、拾った。

「もういい。疲れた。久美、彩華、行こう?」

「待って」

 聡美が腕を掴むと、蔵本はへらっと笑った。

「分かってる。自分は異常だって。自分はおかしいって。でも、じゃあ、どうすればよかったんだろう。小学校に入学してから五年間、私を死ぬ寸前まで追いつめた連中が、何も背負わず大人になっていくのを、指をくわえて見ていればよかった? 私の人生はこんなにおかしくなったのに。人を傷つけることでしか、喜びを感じない人間になったのに。『あの連中』は何にも関係なしで、中学に行って、高校に行って、それなりに楽しい人生を送って……。『私たち』が『あの連中』を傷つけることは犯罪として裁かれる、でも『私たち』の人生をずたずたに切り刻んだ『あの連中』は裁かれない。それなのに、残りの人生を怯えて過ごさせることすら、許されないのかな?」

 蔵本は、聡美の手を振りほどいた。安井と倉田はもう、駅に向かって歩き出している。

「人を傷つけることでしか喜びを感じられない人間は、そんなことで迷わない」

 聡美が答えに窮していたので、綾は横から、口を挟んだ。

「僕は、掃き溜めみたいな歓楽街で育った。だから、保証する。蔵本よりもっと横暴な人間はいくらでもいるよ。蔵本はまだ、大丈夫」

「……もう、やめなよ。ここ一ヶ月の記憶、大切にしたほうがいいって。私は、飯原たちに、ただの八つ当たりで危害を加えた人間なんだから」

 蔵本は、肩口に結ばれた綾のTシャツに手を置く。血に染まったそれを掴み、少しの間、目を瞑ってから、また、歩き出した。

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