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終章
24/28

23 いない人間

 襟代わりのファーが毛羽立っているベージュのコートは、他の四人のどの防寒着よりもデザインが子供っぽく、年季が入っていて、貧相に見えた。もちろんそんなことは口に出さず、ポケットに手を突っ込んで、ベンチの周りを歩く。今日は寒波の谷間で、温かな日差しが駅前ロータリーにも降り注いでいるけれど、とても、ベンチにのんびりと座っていられはしなかった。

 蔵本たちと話し合いをするから、土曜日を、貸してほしい。そう伝えてきたのは、聡美と柚樹だった。直は二人の前では強く反発し、綾と二人きりになったときには、泣きそうな顔をして、絶対に無理、綾も反対しようよ、と零していた。けれど、結局は直も、聡美の度重なる説得に負けた。蔵本はまだ自分たちを狙っている、それは綾と柚樹が襲われてはっきりした。このままでいたらまた、やられる。

 N駅――柚樹が普段、乗り降りしている駅だ――の南口のロータリーに、正午。

 それは、柚樹が蔵本に渡していたメモ書きの中身でもある。前から、聡美と柚樹、それに矢崎の三人で、蔵本を止めるための計画を練っていて、蔵本たちをどうやって話し合いの席へ引きずり出すか、というところが問題になっていたらしい。柚樹はその懸念を払拭するために、あのタイミングで、蔵本に紙を持たせた。

 いつもの四人に、今日は矢崎が加わっている。

 私の責任ですから。小さな声で、矢崎は言った。約束通り蔵本に返すため、綾は、預かっていたカッターや金槌を、ここに持って来ていたが、それらを見てから矢崎はしばらく、二の句を継げない様子だった。金槌のほうには、かすれながらも小学校の名前が書いてあって、間違いなく、矢崎と蔵本の母校のものだったようだ。

 南口駅前ロータリーのすぐ近くには、交番がある。聡美の話では、頼りになるお巡りさんがいるとのことで、何かあったらそこへ行こう、と決めてあった。その交番に近づいたり、遠ざかったりしていた綾に対し、

「綾、落ち着きなよ」

 直はそう言った。けれど直も、先程までは、街路樹の根本に生えた雑草を、眺めたり引き抜いたりしていた。

 ベンチに座っている三人も、どこかおかしい。聡美は、なんでもない表情をしながら、持参した飴をばりばり噛み砕いては次々に新しい飴を口に含み、柚樹は、音楽プレイヤーを直から借り、音漏れで歌詞がはっきり聞き取れるくらい大きな音で、聴いている。矢崎はベンチに座って背中を丸め、しきりに貧乏ゆすり。

 直に言われたのもあるが、さすがに緊張するのにも疲れてきて、柚樹たちの座るベンチのすぐ隣、ちょうどそのベンチと同じくらいの高さの植え込みに座る。

 向かい側には、人が三人、並んで通れるくらいの間隔を空けて、もう一つのベンチがある。蔵本たちと話をするなら、適切な距離だろう。この駅には改札しかなく、近くに大した店もないので、今は人通りも車通りもほとんどない。

「早いね、あんたら」

 その声に振り返ると、安井がいた。やや遅れて、倉田と蔵本。

 最初、蔵本は、倉田と談笑しながら歩いていたが、途中でふと、視線をこちらにやった。一点で視線を止め、それからは早歩きで近づいてくる。綾は思わず、身構える。けれど蔵本は綾を通り過ぎ、ベンチの真ん中にいる矢崎の前で、立ち止まった。蔵本は無表情で矢崎の首を掴んだ。綾は咄嗟に、蔵本の右腕に飛びついた。拳は、矢崎の鼻先をかすめて、止まった。

「なっん……でここにいんだよ、テメェがよぉ!」

 綾と柚樹を襲った時にすら薄笑いを浮かべていた蔵本が、そんな余裕も見せず憎しみに顔を歪め、がさつな言葉遣いで矢崎を責める。

 四人全員で蔵本を引き離すまでに、蔵本はしぶとく手を伸ばし、顔面を捉えようとした。

「見逃してやったんだろ。殺してやりてぇの我慢して、たったあれだけで見逃してやったんだろうが!」

「蔵本! 何かしたら、交番に駆け込むよ」

「それがどうした。行けよ。こいつ殺してからいくらでも相手してやる!」

「瑞葉!」

 四人で必死に押し留めていたが、蔵本の下の名前が呼ばれたと同時に、背後から手が伸び、一気に蔵本の力が緩んだ。

 蔵本を羽交い絞めにしたのは、安井だった。

「捕まらないのが絶対の約束だろ。頭冷やせ!」

「黙れ! どけ! 久美まで味方すんのかよ! そこの下衆豚の!」

「矢崎、腕を出せ!」

「離せっつってんだよ!」

「早く!」

 いまだに暴れ続ける蔵本を押さえつける中で、綾は横目で、矢崎の様子を窺った。矢崎が言われた通り、腕まくりをした。矢崎の肌を、信じられないほど多くの傷跡が這いまわっていた。縦、横、一直線のラインが何本も走り、傷跡が重なっているところもある。

 横から倉田がやってきて、矢崎の腕を取った。

「瑞葉、見て」

 倉田の言う通りに、蔵本は、矢崎に視線を遣った。

「こいつの体にはまだ、ちゃんと、残ってるよ」

 倉田はすぐに、矢崎から手を放す。続いて羽交い絞めにされた蔵本へと近づき、手を差し出す。人差し指で優しく、蔵本の目もとを拭った。

「だから泣かないで」

 蔵本を抑えるのに必死で気付かなかった。

 彼女のもともと白い顔が、さらに色味を無くした真っ青な顔になっていた。その頬を、幾重にもできた涙の筋で汚していた。倉田が優しく髪を撫でると、蔵本はそのまま、顔を俯かせた。

「離れて。鬱陶しい」

 蔵本は小さく、濡れた声で、そう呟いた。


 向かいのベンチで、安井が蔵本の肩を抱き、泣き止むのを待っている。

「聞いてないなぁ。なんで矢崎がいるの?」

 ひとりだけでこちらに近づいてきた倉田が、のんびりとした口調で、綾に問う。けれど目は真剣そのもので、綾はたじろいだ。

「何で、って……」

「私のせいだから」

 蚊の鳴くような矢崎の声が、聞こえた。

「私の責任だから」

「ああ、そうだよね。瑞葉がああなったのは、貴方の責任もあるよね。よかった、自覚してるみたいで」

 倉田がせせら笑った。

「倉田、その……責任って何」

 直が、何かを噛み殺したような表情で、倉田に訊く。

「打たれ強いなあ、阪井さんは。私たちが何をしたのか、忘れたわけじゃないでしょう」

 途端に直が、眉尻を下げ、視線を足元のコンクリートへ向けた。その代わりに、綾は、倉田の目を真正面から睨んだ。

「倉田。直がどんな気持ちでここまで来たか、分かってないみたいだけど。直をまだ追いつめるつもりなら、許さない」

「はいはい。そうですか。信頼関係を取り戻したわけですね。妬けるなぁ、そういうの」

「こんな時に、ふざけないでよ」

「でも、私と瑞葉と久美だって、負けてないと思うよ。私たちは絶対、何があっても、瑞葉を疑ったりなんかしない。飯原さんと違ってね」

 倉田は綾から目を逸らし、矢崎を見据えた。

「小学五年生のころ、だったかな。瑞葉は、いじめられてた。勉強が全くできなくて、低学年のころから、クラスメイトにも担任にも、いない人間として扱われてきたみたい。瑞葉と一度も同じクラスになったことがなかった私も、知ってるくらいには、有名だったよ。ずっとひとりで、瑞葉は過ごしてたんだと思う。けど、あの顔のつくりでしょ? 五年生のころから、男子と男の教師にだけは、優しく扱われるようになって……それに嫉妬する奴らが、いた。矢崎もそのひとり」

「彩華。それ以上言わないで」

 まだ嗚咽を零している蔵本が、乞うように言った。倉田は頷き、

「私は男に媚びてるせいでいじめられてたし、久美はあの大きい図体のせいでいじめられてた。その三人が、六年生のとき、一緒のクラスになった。後はそこから想像してよ? 私たちが誰に加害して、誰を退学に追い込んできたか」

「ぼっ、僕と直は、蔵本のことなんて、知らない。高校から、この県、だよ」

「だから、想像して? いじめをやる連中と同列にされたことを、瑞葉がどう思ったのか」

「でも、それは、周りが勝手に……」

「そうだよ。瑞葉のは、ただの、八つ当たり。だけど私たちには、その気持ちがわかる。……矢崎が最後だった。矢崎で終わった。これで瑞葉は大丈夫。私はそう思った。けど、貴方と阪井さんがその邪魔をした。だから、飯原さんへの八つ当たりを、手伝った。そのためには、阪井さんは、排除しなきゃいけない。瑞葉も私も久美も、誰にも、助けてなんてもらえなかった。阪井さんみたいに、自分を犠牲にして、助けてくれる人はいなかった。阪井さんは異質。阪井さんは怖い」

 倉田は笑って、直のほうに目をやった。

「あの時、久美が、阪井さんに言ったよね。いじめられたことのある奴は、目を見ればわかる、烙印が押しつけられてる、無策でいるからこうなる、って。あれは全部、自虐。久美の顔、見てなかっただろうけど……。必死だったよ、久美も」

「あの時……?」

「なんでもないよ」

 直が誰に向けるでもなく、呟いた。続けて倉田に向き直り、

「理由は分かった。けど、私たちには何の関係もないよね。そんな同情を買おうとするような話して、どうするつもり? まさか今さら、仲直りしたいとでも言うわけ?」

「違う。非を認める。だから……瑞葉から取り上げた二つを、返してほしい。それと、学校や警察には、言わないで」

「非を認める……。認める。認めるから何? あれだけ好き放題やってきて、どう(あがな)うの? 一歩間違えば、取り返しのつかないことになってたんだよ」

 直と倉田が、しばらく視線を交錯させた。

 すると、倉田は黙って、直に手を差し出した。そして人差し指を残して、拳を丸める。

 直も無言のまま、倉田の人差し指を掴んだ。そして、徐々に反対方向へ、曲げ始めた。

「いい? 私、本当にやるよ」

 何も応えない倉田は、目を閉じた。その眉が痛みに顰められていく。人差し指に何かあるのだろうか、と考え、すぐに思い出した。直の人差し指に包帯が巻かれていたこと。あれには、蔵本たちが絡んでいたということだろうか。

 蔵本や安井はどう動くのか。ベンチのほうをちらりと見遣る。蔵本が既に立ち上がっていた。歩み寄り、倉田の肩に手をかける。

「彩華。私が代わる」

「え、ちょっと、瑞葉……」

 蔵本はやや手荒に、倉田を押しのけ、右手の人差し指を、直へと差し出した。

 直は一気に、蔵本の指を反対方向へ折り曲げた。そこに、倉田に対するような遠慮はなかった。蔵本が悲鳴を噛み殺した小さな声を発し、その場にうずくまった。

 続けて蔵本は、そのままの態勢から、足元を覆うコンクリートに、額を二度、叩きつけた。次に懐から何かを取り出し、右手を左肩に叩きつけた。

 蔵本は立ち上がり、こちらを振り向く。右手人差し指は変な方向へ曲がっている。額から血を流し、左肩にはカッターが突き刺さっている。そして蔵本は刺さったカッターを、横に滑らせた。肩口の皮膚が裂け、血が飛び散った。後から後から、血が流れ出ている。

「これで怪我の程度は、阪井と青野と、同じくらいになったかな?」

 カッターをコンクリートの上に放った蔵本は、目に涙を滲ませながらも、唇の端を柔らかく上げた。

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