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終章
20/28

19 蔵本の弱点

 午前三時過ぎに目を覚ましてしまい、もう眠れなくなってしまったので、久しぶりのお風呂を、勝手に沸かして入った。しっかりと体中を洗ってから浸かったつもりだったが、それでも湯船には垢が浮いた。のんびりしていると、起き始めた体が、昨日の記憶を勝手に再生し始め、直はときどき、たまらなく恥ずかしくなって、湯船に顔を埋めたりした。

「何してんの、私……」

 シャンプーを三度繰り返して、ようやく指が滑らかに通るようになり、部屋に閉じこもって自分が過ごしてきた間にも、当たり前に時間が流れていたことを思い知った。脱衣室で体重計に乗ってみたところ、体重が、五キロ近く落ちていた。

 風呂から出ると、午前四時半だった。タオルで髪の毛を拭きながら、洗濯機に向かおうとする途中で、居間で物音がすることに気付いた。覗いてみると、父がひとりで、トーストを齧っていた。

「おはよう」

「ん……。お、おはよう」

 昨日の今日だ。床に目を落としながら、口ごもり気味に言う。

「本当に、転校手続きは、しなくていいのか? 一度は頷いたのがやっぱり、気になるな。遠慮してるなら……」

「ううん。遠慮なんて、してないよ。父さんに、居場所を認めてもらえたから、もう少し、頑張れるような気がしてきただけ。ありがとう」

 この歳になって散々甘えたことが、風呂の中で昨日の出来事を思い出しただけでも恥ずかしいのに、目の前でこんなことを言って、恥の上塗りすることになるけれど……。それでも、感謝は、伝えておきたかった。

 あの後、落ち着いてから、父と、改めて話をした。

 転校はしない、という話を。

 父に、学校へ行かなくていい、と言われたことで、自分のせいだと、責められなかったことで、靄に包まれていた心に晴れ間が覗いた。けれど靄が晴れてみると、今の高校に、通いたい気持ちも残っていたことに気付いた。

 もともと、綾しか信用できなかった中学の日々の中で、高校生活にも、大した希望は持っていなかった。そんな自分が、綾以外の友人ができ、部活でも、後輩にアドバイスを求められたりするようになった。綾が自殺未遂するまでは、楽しかったんだ、確かに。綾が、自殺未遂するほど苦しんでいる間も、自分は、高校に通うのが、楽しかった。

「そうか」

「それと。昨日のことは感謝してるけど、それまでのこと全部、許したわけじゃないから」

「ああ。分かってる」

 父は、苦笑い。それから立ち上がり、洗面所で朝の支度を整え始めた。父が点けっぱなしだった朝のニュース番組を見ながら、父の挙動になんて興味のないふりをしていた。

 スーツを着込んだ父が、玄関に向かったところで、テレビを消し、居間を出た。

「行ってらっしゃい」

 靴を履いている父の背中に、そう呼びかける。

 父は急に振り向いたせいでよろめき、片足で玄関を何歩か跳んだ。

 どうにか足を止めた父は、改めて直に向き直った。そして何がそんなにうれしいのか、口角を目一杯に上げて、

「行ってきます」

 蔵本は、怖い。怖くて、怖くて、やっぱり、学校になんか、行きたくない。

 でも、今の自分には、いつだって、逃げ帰っていい場所がある。どうしても駄目だったら、泣きつける家族がいる。


 父が出て行ってすぐ、自室に戻った。学校へ行く準備を、するためだ。

 まず目についたのは、携帯電話だった。床の上に電池パックを吐き出した状態で、放置されている。綾に疑われた日、原因となった携帯電話を、フローリングの床に思い切り叩きつけた。それから、一度も、触れてすらいない。

 とりあえず、電池パックと、電池パックを収めるソフトカバーを拾って、元に戻した。意外と頑丈なようで、見た目には、黒の外装が少し剥げただけ。充電機を差し込んだ。電源を入れようとして、真っ黒なディスプレイと見つめ合う。

 ボタンを長押しするだけなのに、なかなか決心がつかない。

 あまりにも手が動かないので、もし聡美からメールがきているなら、聡美からのメールだけ見よう、と考えた。そうしたら、手が動いた。

 電源を入れ、起動をしばらく待つ。新着メールが、二十七通。何人かの部活の後輩からが十二通、部活の顧問から七通に、聡美からが五通、知らないアドレスから一通……綾から、二通。

 聡美からの五通を、古い順に開けた。最初の四通は当たり障りのない、近況報告のメールだった。他愛ない内容だけれど、絵文字や顔文字を使って、一生懸命書かれている。そして最後の一通は

『今週の土曜、午前十時。駅ビル三階、フードコート入り口』

 件名の部分に、短文が、書いてあった。

 今日が何日の、何曜日だか分からなかったので、携帯電話のディスプレイの右上で確認した。今日は、聡美からもらったメールから、五日が経っていた。曜日は土曜日で、時間は、午前十時五分。

 遅れる、とだけ打って、返信した。


 駅ビルは、さすがに休日の込み具合だった。様々な店舗名が入った袋を持つ人、人、人。ずっと閉じこもっていて、急に飛び出したので、目まぐるしく歩き回る人の群れに酔った。しかし蔵本と比べたら、雑踏には、逃げ出したくなるほどの恐怖は感じなかった。

 エスカレーターを使って三階まで昇る。国内外のチェーン店が軒を連ねるフードコートへ近づくにつれ、胸苦しさが増した。どんな顔して会えばいいのか、今さら、不安になった。

 手前の洋服店で、買う気もない服を見て時間を潰していると、ポケットの携帯電話が鳴った。見ると、聡美からの着信だった。

 諦めて、フードコート側の通路に足を踏み入れた。

 フードコート中央に設置されたカフェエリアを見渡す。

 一番手前の四人掛けの場所で、小学生くらいの女の子が、クレープを片手に、携帯電話をいじっている。よく見るとそれは聡美で、その目の前に、見覚えのある女が座っていた。

 あれは確か……。

「あ、直!」

 目が合うと同時に、聡美がクレープと携帯電話をテーブルに置き、勢いよく駆けてきた。

「いきなり走ると、転ぶよ」

 小さな声で呼びかけると、転ばなかった聡美がすぐに近づいて来て、直の左手を取った。そして何も言わずにこちらを見上げ、笑んだ。

 手を掴まれたまま、テーブルへ引っ張られていくと、聡美の目の前に座っていた女が、こちらを見上げていた。

「お久しぶりです、阪井さん。私のこと、覚えてますか?」

 やけに丁寧な物腰。タートルネックのセーター、長い丈のジーンズ、とにかく徹底して、肌の露出を抑えた服装。やや赤っぽい茶色に染めた長髪。

「うん。矢崎……でしょ」

 在学中は黒髪で眼鏡をかけていたはずだが、ちゃんと覚えている。一年以上前に、学校をやめた、矢崎だった。テストでほぼ満点に近い点数ばかりを取る秀才で、蔵本たちの標的にされていた、矢崎。自傷行為によって体調が悪化し、退学した……ということになっている、矢崎。

「座りなよ、直」

 聡美に促されて、矢崎の正面に、座った。聡美は席をずらしてクレープを手に取り、口をつける。

「どうして、ここに?」

「小早川さんに呼ばれて、ですね。最初に声をかけてきたのは、青野さんですけど」

「聡美と……柚樹が?」

 矢崎とは一年の時に同じ陸上部だったが、それほど仲が良かった記憶がない。聡美や柚樹では尚更、縁遠いはずだ。それに、なぜ、蔵本側についたはずの柚樹が関係しているのだろう。蔵本と仲良しの人間になんて、矢崎は、いい顔をしないと思うが。

 整理をつけられないでいると、矢崎が笑った。

「困った顔、してますね。当然です。一年半も前ですからね。私があの学校をやめたのは。聡美さんに聞いたんですけど、私がやめた後でようやく、蔵本がやったんじゃないかという噂が出たみたいですね」

「えと……」

「大丈夫です。私はもう、県外の高校で、やり直していますから。それに、私は、蔵本にやられて当然の人間なんです」

 後半だけ、やけに、低い声になった。

「今日は、阪井さんが、蔵本の対象にされていると、聞いたので。手助けになればと思い、蔵本への対処法を教えに来ました」

 思わず、聡美のほうに目を遣る。聡美は口の端にクリームをつけながら、クレープに夢中になっていた。

「私は、蔵本と同じ小学校に通っていました。中学では別れ、高校からまた、一緒です。世間は狭いとはいえ、まさか、高校が一緒になるとは思っていなかった……。一人だけ、逃げ切れたと思ってた。私は、あの高校を選択した自分を、今でも呪います」

 矢崎が軽く唇を噛んでから、話を続けた。

「蔵本と安井と倉田。嗜虐的な快楽を求めての軽薄な繋がりに見えるかもしれませんが、表面以上に、強固な絆で結ばれています。繋がりを突き崩すことは不可能です。三人の中の誰かひとりとやり合うことは、他の二人ともやり合うことになります。安井は当人が喧嘩慣れしていますし、倉田は男を手玉にとり、汚れ仕事を押しつけるのが異様に上手い。どこの集団にも属していないので、その辺りは安心していいですが、一人では、絶対に勝てない相手です」

 ……そんなこと、言われなくても分かってる。

 叫び出しそうになるのをどうにか堪えて、矢崎の目を見た。

「私には、一緒に戦ってくれる人がいませんでした。蔵本の中学時代の噂を聞いていれば、誰も、蔵本には関わりたくありませんからね。……でも、阪井さんは、違う。飯原さんのために、戦った」

 どうしても、皮肉を抜かしきれない、相手を馬鹿にした笑いが出てしまった。

「戦った? 馬鹿言わないで。自分が弱い人間だって、再確認しただけだよ」

「聞いてください。蔵本は、標的とした相手には、相手が誰であろうと平等に残酷になれます。ですが、その蔵本が唯一強く出られない……唯一コンプレックスを持つ人間が、いじめられている人を、助ける人なんですよ。理由は……私からは、言えません。どうあっても、自己弁護になりますから」

 矢崎がコップを手に取り、水を飲んだ。タートルネックの隙間から、横に走る傷跡が目に入った。

「阪井さんは、蔵本瑞葉(みずは)の敵でもあり、蔵本瑞葉の最大の弱点でもある。蔵本は、阪井さんに邪魔をされてから、眠れなかったと思いますよ。今まで、あの蔵本に友達が狙われて、庇った人間はいなかったでしょうから、余計に。今は、阪井さんが来なくなって、ほっとしていると思います。表情は滅多に変わりませんけれど、蔵本にも感情はあります」

「蔵本が、私を、苦手にしてる? どこが?」

 矢崎は直の人差し指に視線を落とした。

「その人差し指、蔵本たちにやられたんですよね。でも、普段の蔵本なら、人差し指一本では済みません。飯原さんだって、本当なら、立ち直れないほど、ぼろぼろにされてます……」

 あの仕打ちが、手加減? 二週間も、閉じこもるきっかけになった、あの出来事が?

 しかし、反論はできなかった。矢崎は実際に、全身に傷を付けられ、人に肌を見せられない、という社会的な制約を受けて生活している。

「阪井さん、蔵本はあなたを怖がっています。蔵本に負けないでください。そして出来れば、みなさんと協力して、蔵本を止めてください。蔵本をこれ以上野放しにしたら、きっといつか、誰かが、自殺に追い込まれます。それは見ず知らずの誰かかもしれないし……里中や橋本や、私、かもしれない」

 矢崎は突然、手をついて、頭を下げた。

「無茶苦茶なお願いというのは分かっています! 蔵本がああなったのは、小学校の頃の私にも責任があるんです。出来る限りのお手伝いはします。だから、お願いです! 取り返しがつかなくなる前に、蔵本を、止めてあげてほしいんです」

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