16 衝動
気付いたら、硬いベッドに背中を預けていた。
右向きに寝ていて、目を開けるとすぐ近くに、薬品の棚があった。
「初めての子だねえ、今日はどうして倒れちゃったの?」
体を起して左を向くと、だいぶ年のいった女の養護教諭が、事務机に向かって何か仕事をしながら、のんびりとした口調で尋ねてきた。
「僕、自分でここに来たんですか?」
自分でもなぜ倒れたのか分からなかったので、養護教諭の問いには答えなかった。その時は、過労やストレスで倒れることもある、ということを知らなかった。倒れるのは体の弱い人だけだと思っていた。
「まさか。日焼けしてて背の高い、ピシッとした子がね、汗ダッラダラ流しながら抱えてきてくれたんだよ。しばらくは心配そうに声をかけたり、諦めてからは、眺めてたりしてたけどね。五時間目のチャイムが鳴ったから、教室に帰らせたよ」
綾は、その場面を想像した。
話している最中に突然、倒れられて、直はどうしようかと途方に暮れた。それから、読みさしの本を机の中へ片付け、自分とそう体重の変わらない綾のことを運ぼうと考えた。実際に抱きあげてみると予想以上に重くて、直は、昼休みの人気のない校舎をひとり、息を切らして歩く。涼しく過ごしやすい気温のなかで、汗を流しながら、それでもどうにか綾を、保健室に送り届けた。そしてしばらくの間「飯原さん、大丈夫?」などと声をかけて、返事がないと分かってからも、傍にいてくれた。
全部、想像だ。想像だけれど……。
なんだか、居ても立っても居られない気持ちになった。
「で、原因に心当たりは?」
「わかりません」
応えて、ベッドを、保健室を、素早く抜け出した。
……早く阪井さんにお礼を言わないと。阪井さんが、僕の知られたくないことを言いふらすなんて疑ったことを、謝らないと。
教室に戻ると、みんなは帰り支度をしていた。教室に備え付けられた時計を見ると、四時を過ぎていた。
「綾、大丈夫だったの?」
「阪井さんに何かされたの?」
普段いつも一緒に下校している友達四人が、待ってくれていた。
「ううん。阪井さんは、保健室に連れてってくれただけ。ちょっと貧血。大したことないよ」
「じゃあ、一緒に帰ろー」
「あ、ごめん、今日は、用事があって」
綾は慌てて断った。
「そうなんだ、じゃあ、また明日ね」
寂しそうに言った子に平謝りしながら、赤いランドセルだけを机から取り、昇降口まで全速力で走った。
下駄箱周辺には既に直の姿はなかった。六時間目の授業があった五、六年生の群れを掻き分け、上履きのまま外に駆け出た。すると校門の辺りに、直の後ろ姿を見つけた。背の高さのおかげで目立つ。
「阪井さん!」
自分の中にこんなに大きな声を出せる力があったのかと思うほど、大きな声が出た。おかげで、言い終えた後すぐ、ひどく喉が痛み、何度か咳き込む羽目になった。直だけでなく、下校途中の人たちが一斉にこちらを振り仰いだので、さすがに恥ずかしくなり、近くにあった掲示板に体を向け、その視線を避けた。
とん、と一度だけ肩を叩かれた。
「何?」
振り向くと、直は不機嫌そうに言った。
「あ、あの。さっきは疑ったりしてごめん。保健室に連れてってくれて、ありがとう」
綾はそう言って、頭を下げ、上げた。それから何を言うでもなく、直の反応を待ち、目を合わせていた。
「……それだけ?」
頷いた。直は溜息を吐いた。
……何か悪いことを言っただろうか。
そう思っていると、直が、右手を綾の顔の近くに持ってきた。中指が親指に引っ掛けられている。これは、と思ったらもう、額は中指によって弾かれていた。
「い、痛いんだけど、阪井さん」
綾は額を両手で抑えながら、不満を零した。
「そのくらいのことで、あんな悲鳴みたいな大声出さないで。明日言えばいいでしょ。何かもっと大変なことが起こったのかと思った……」
「で、でも、僕にとっては大変なことで……。疑ったことを、すぐに謝りたくて」
直はそこでまた、寂しそうに笑った。
「そんなに心配しなくても、大丈夫。疑われた腹いせに言いふらしたりとかもするつもりないし」
「うん。確かに僕、最初は、阪井さんが言いふらさないか、確認するつもりで話しかけた。でも、でもね、だんだん、阪井さんといると安心できるようになってきてたのも本当で……。さっき、保健室に送り届けてくれたんでしょ。息を切らしながら、汗だっていっぱい、かきながら。保健室の先生にそれ聞いて、すぐ、謝らないとって」
「そんなに必死に運んでない。保健室の先生が大げさなんだよ」
「運んでくれたのは本当でしょ。僕だったら、あんな、疑うようなこと言われたすぐ後に、大変な思いして、運んだり、できないから。阪井さん、本当にすごいなあって……。この人ともっと一緒にいろんなことしてみたいなあって、思った」
それができるのは、きっと、あと一年半くらいだけれど。
直の、日に焼けた顔が少しだけ、色を濃くしたような気がした。
「恥ずかしいこと、平然と言うね。いつもそうなの?」
「僕も、こんなこと言えたのは、直が初めて」
さりげなく、呼び捨てにしてみると、
「なんかそれ、口説き文句みたいだよ、綾」
直も同じように、呼び捨てで返してきた。
お互いになんとなく顔を見合わせて、笑った。
一番の友達は直になった。まともな生活を送れるはずの最後の年も、同じクラスになれて、楽しいことをたくさん、分かち合った。
これでもう満足だ、後は父の言い成りになって働こう。小学校の卒業式を終え、そう覚悟して家へと帰ると、両親がいなかった。それまでも不在の頻度が増えていたから、綾は、黙って母の帰りを待った。
後から母に聞いた話だと、母は、家庭裁判所にいたらしい。綾の知らないうちに、父は、家庭内暴力の証拠を溜めこんでいた母によって、離婚調停へ持ち込まれていた。母は慰謝料の請求をせず、綾の親権だけを主張した。条件的には悪くなかったからか、既に次の女への目星をつけていたからか、あるいはその両方か。初めは渋っていた父も、最終的には離婚に同意したそうだ。
そして小学校の卒業式の日は、ちょうど調停調書が作成され、離婚が成立した日だった。結果を父より早く知った母は、事情の呑み込めないでいる綾を連れてすぐ家を出て、最寄駅に向かった。
綾と母は新しい街に引っ越した。直の一家がまた、三月に入ってから引っ越していたので、そのことは母に伏せつつ、直から教えてもらった住所の近くへの転居を希望した。通えるのなら、同じ中学に通いたかった。
その後、離婚調停の聞き取り調査の過程で出た話を、事件性ありと判断した調査官が、警察へ届け出た。そこから違法マッサージ店の複数経営が明らかになって、父は逮捕されたと聞いた。父は家庭裁判所だけでなく、地方裁判所へも足を運ぶこととなり、そこで父には執行猶予なしの実刑、懲役二年の判決が出た。父は控訴したが、高等裁判所でも結果は変わらなかった。父はもう、控訴しなかった。
***
以降の父の消息は、知らない。
けれど、今年になって襲われるようになった自殺衝動には、父が絡んでいた。
中学三年の、冬ごろ。逆恨みから娘と妻を殺した男が世間で騒がれたのをきっかけに、それまでほとんど忘れかけていた父の事を、突然、思い出した。
それからだった。計算上は二年の刑期を終えたはずの父に、母と綾が警察に情報提供したと思いこんでいるはずの父に、今の借家が見つかった夢を、頻繁に見るようになったのは。その夢ではいつも母が真っ先に殺され、自分は最終的に、薬物漬けの廃人にされる。毎日毎日、体中あざだらけにされていたころの記憶が、フラッシュバックするようにもなった。
直と、母と、精神科医のおかげで、どうにか持ちこたえていたけれど、そんな日々が二年近く続いて……自分は、自殺を図った。