15 僕
柚樹は、綾の事を嫌っていたわけではない。蔵本たちが怖かっただけだった。
聡美の話は、まとめるとそういうことらしかった。柚樹には、辛い時に散々無視されて、皮肉まで吐かれた。普通だったら、信じることはできなかっただろう。お前は柚樹の味方なのか、となじっていたかもしれなかった。けれど、聡美が相手だった。こちらが、殴りつけたいのを堪えながら乃亜の相手をしても『遊んであげてくれて、ありがとう』と微笑む女が。
直以外の事は大して信用していないつもりでいた自分が、直を疑っておいて、聡美を疑わないなんて、気の利いた皮肉だけど。
聡美が直の復帰のために動くことを聞かされ、久しぶりに現実に引き戻されたような、そんな気がした。今日、退部届を職員室に受け取りに行こうとしていたが、やめて、ひとまず帰路についた。
自分の立場をはっきりさせることよりもまず、直にしたことを自覚して、もう一度、考え直さなければならない。銀杏の並木坂を自転車で駆け下りながら、妙に頭が冴え冴えとしていくのを感じていた。
***
小学五年の夏休み明け、綾の通う小学校に転校してきた直の第一印象は、姿勢がいい子だなあ、だった。身長はそこらへんの男子よりも高く、あいさつした後で席に着くまでの動作が綺麗で、やけに鮮明に記憶に残っている。
ただ、それだけだった。遊び友達には困っていなかったし、転校生を仲間に入れてあげよう、そんな殊勝なことを考えられるほど大人じゃなかった。小学生なりにほとんど遊び相手が固定化されていて、そこに割り込むには、それなりの積極性が必要だった。だから直は、いつも一人でいた。あの子、誰とも話そうとしないで暗いよね、なんて友達と言い合ったりもした。
当時の自分には、何があっても友達に知られたくない事実があった。それは父親の存在だった。父は違法マッサージ店の経営で所帯を持つ程度の財をなした人間だった。警察に目を付けられないよう、素行には常に気を配り、いつもスーツにネクタイを締めて歩いていた。歓楽街のすぐそばに借家を借り、そこを通らないと仕事に行けないんで困りますよ、なんてご近所さんには愚痴っていた。今思えばそれは、案外小心者だった父の、気休めに過ぎない行為だったが、本人はそれで安心していた。母と所帯を持ったのは、そんな気休めの一環だった。
酒が入ると必ず母と綾に手を上げ、時間が空けば家に香水くさい女を連れ込み、近所の目を気にして、猿轡を噛ませてセックスするような男だった。母と綾が家にいるにもかかわらず、だ。自分は父の、獣のような激しい息遣いと、ベッドの軋む音を毎日聞いて育った。父と獣の交わりをする女たちが、決まって勝ち誇ったような目で母を見て行くのが、不快でしょうがなかった。
父親は、五年生になった時初めて、自分が経営する店に、綾を連れていった。なんでも従業員の人件費を削減するためだとかで、学校が終わったら毎日、店番をやれということだった。システムが割と複雑だったので、間違えたら顔以外を殴られ、間違えたら顔以外を殴られしているうちに、やり方を覚えていった。最初は下校後直接店に行き、ランドセルをカウンターの内側に突っ込んで、女の格好のまま店番をしていたが、一人の客を案内している際、無理矢理抱き締められて、首筋に舌を這わせられたことがあった。幸い、表向きはマッサージ師の女が、案内が遅いのを不審に思って出迎えに来たので、そこで終わった。父は外に漏れないよう、会員制で客を取っていたが、そいつは初見だった。次の日から綾は、男物の服装に着替えて店番をした。
綾は、店にいる間、息子として振舞うようになった。キャップを目深にかぶり、胸が目立たないような服を着た。客と会話に迫られた時は、いかにも声変り前の男子といったふりをして、応対をしていた。長かった髪も、ばっさりと切り落とした。気付いたら、母の前でも、友達の前でも、無意識に「僕」という一人称を使うようになっていた。そのことを友達は不思議がったが、すぐに慣れたようで、あまり言及はされなかった。十一歳の「僕」にとって、性行為は父への嫌悪と直結していた。絶対に避けなければならないものだった。客に襲われかけたことが、本当に怖かった。母を苦しめる父と、父と交わる女たちと同じになってしまうような気がして、怖かった。けれど、「僕」でいるなら、客に襲われるような心配はなかった。
転機は、直に、店から出てくる所を見られたことだった。
その日は夜九時まで店番をして、男の恰好のまま、風俗店が軒を連ねる裏通りを歩いていた。すると、向こうから、誰かが歩いてきた。路地は暗く、叫んでも誰も助けが来ないような立地だった。だが、その時の自分にとって、「僕」でいるということは、苦しいこと、嫌悪していることに触れる可能性を排除してくれる魔法の暗示だったので、さほど警戒はしなかった。
自分より頭一つ分くらい、背の高い女の人だった。足早に歩いてきた彼女に、
「飯原さん! この辺で、うろうろしてるおばあさん見かけなかった?」
と聞かれた。女の人は、汗を顔いっぱいにかいて、肩で息をしていた。よく見ると直だった。直の身長の伸びは小学生の時に止まったから、今では同じくらいの身長になったけれど、あの頃は直の方が頭ひとつ分、高かった。
その時の衝撃は、今でも忘れない。
男の恰好をして、ポケットに手を突っ込んで、目深にキャップを被って、俯いて歩いていたのに、直は、一発で綾を、見抜いたのだ。
「僕」が「女」であると、一目で。
しばらく返事が出来なかった。綾が何も言わないでいると、
「ごめん、見てないよね。ありがとう」
と言って、走り出した。直が路地を曲がるのを見送ったところで、体中から嫌な汗が噴き出しているのに気付いた。
家に帰り、明るい所でちゃんと自分の服を見ると、襟の辺りに大きな汗染みが出来ていた。夏の残り香は、昼にはあったが、夜にはなかった。過ごしやすい陽気が続いていた。
次の日から綾は、直に話しかけるようになった。自分が、夜の歓楽街を、男の恰好で出歩いていたことを、直が面白がってみんなに言いふらす。そのことを想像しただけで、生きた心地がしなかった。どうせ、あんな父親から生まれた自分は、ろくな人生を歩めない。だからせめて学校にいる間だけは、みんなと仲良く、束の間の夢を見ていたかった。そのためには、絶対に誰にも、父のことを知られてはならなかった。父の職業が分かる糸口すら、知られてはならなかった。
しかし直は、綾にとっては絶対的な自己暗示だった「僕」のことを見破った。たったそれだけの根拠だけだったが、綾の父があの辺りで働いていることを、直は既に見破っているかもしれない、という恐怖心が、とめどなく溢れた。
だから、直に友達が出来て、言いふらされる前に取り入ろうとした。急に直へ話しかけるようになった綾を、友達は、不思議がった。けれど、「僕」と言い始めた時のように、時間が経てばすぐに慣れていった。
そんな始まりだったにもかかわらず、綾は、周囲にはない知識や落ち着きをもつ直と居ると楽しく、直と話しているだけで、父の手伝いの疲れが体から抜けていくようになっていった。それでも毎日が不安で仕方ないことには、変わりなかった。口約束が守られる、なんて無邪気に信じてはいなかったけれど、どうしても目に見える約束が欲しかった。
ついに我慢しきれず、ある時、自分から、直に口止めした。
「あの、さ……お願いがあるんだけど」
給食の片づけが終わった昼休み、みんなが外に遊びに行った教室で、直へ話しかけた。
そう切り出すと、一人で学級文庫を読んでいた直は、目だけでこちらを見た。
「前に、夜、会ったこと、覚えてる?」
「覚えてるけど」
「お願い。僕をあそこで見たこと、誰にも言わないで」
頭を、下げた。直の小さな笑い声が、耳朶をくすぐった。
「顔、上げてよ」
言われたとおりにすると、直は、寂しそうに笑っていた。
「言わない。どんな事情があるのか知らないけど、そんなこと、しない」
直は本を閉じた。
「変だと思った。飯原さんみたいなのが、仲良くしてくれるなんて。そういえば、あそこで会った次の日からだね。話しかけてくれたの」
綾は、少し迷ってから、頷いた。
「そっかぁ……。そんなことを頼むために、我慢して……。私なんかといても楽しくなかったよね」
「あ、えと……」
「ごめん。飯原さんと居るのが楽しくなってたから、なんだかいま、すっごく嫌な気分なんだ。早くみんなと一緒に遊んできたら?」
直は頬杖をついて、教室の外に、睨むような視線をやった。グラウンドでは、ひとつひとつのはしゃぎ声が大きな塊になって騒音と化していた。ドッヂボールや大縄大会の練習などが行われていた。
言わなければよかった。言わなければ直は、ずっと黙っていてくれたんだ。でも今は、疑われた腹いせに、みんなに言うかもしれない。直は最近になって、綾以外の喋り相手もできていた。心臓の鼓動が、「僕」を見破られた時のように、激しくなっていた。学校では、みんなと仲良くしていなければならなかった。友達とうまくいかないことに慣れていなかった。
中学に上がったら客を取れ、と父に言われたことを思い出した。新しい奴雇うのにもリスクあるし、と、煙草をふかしながら父は言った。やっぱり自分はまともな人間にはなれそうにもない。だから、せめて学校では……学校にいる間だけは、みんなと、仲良く。
ぐるぐる天地が回り出した。気持ち悪かった。