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届いてください  作者: SET
終章
15/28

14 厚焼き玉子

 目が覚めると夜だった。デジタル時計が薄い光を放ち、そこにはAM1:19と表示されていた。

 寝たのは正午過ぎだったから、十三時間くらい眠ったことになるのだろうか。全身が気だるく、口の中に不快な粘つきがある。枕から顔を上げ、ベッドに手を突き、ゆっくりと毛布から這い出した。

 部屋を出て、洗面台に向かう。寝静まった家で、フローリングを踏みしめる微かな音だけが鳴る。

 電気をつけて、鏡に映ったのは生気のない目。風呂にしばらく入っていないので、べたついて荒れ放題の髪の毛はいつもの通り。髪を切りに行く基準にしている長さより、ずいぶんと伸びた。前髪も目の半分辺りまで垂れてきた。

 口を濯ぎ、顔を軽く洗った。

 立っているのも疲れるくらいの全身の気だるさの原因を考えながら、タオルで顔全体を拭く。

 拭き終えた所で、そういえば四日くらい水しか飲んでいないなと思い至り、台所に向かった。

 廊下を歩くと、何やらぶつぶつと呟きながら、玄関のドアを押し開けようともがいている祖母がいた。徘徊対策で、玄関の扉は内側からもキーを使わないと開けられないようになっている。

 冷蔵室にはジャムしか入っていなかった。冷凍室には氷も入っていない。野菜室にはしなびたキャベツが一玉あるだけ。お菓子が入っている所にも何もない。レトルト食品も一切ない。カップ麺もない。

 それらを探しただけで、ひどく疲れた。体が上手く言うことをきかなかった。

 仕方がないので、水道から落ちてくる水を直接飲んで胃に落とし込み、また部屋に戻って寝た。




***




 なくなっていたバッシュが戻ってきたのは、先週の木曜日の放課後だった。芝原が言うには、柚樹が、隠していたそうだ。

 放課後、すぐに帰ろうとしていると、違うクラスの芝原に大きな声で名前を呼ばれ、無視するわけにもいかず、対応した。乱暴にバッシュを押し付けてきたあの時の芝原は、見損なった、あいつだけはしないと思ってたのに、などと、怒りの収まらない様子で、柚樹に対する悪態を吐いていた。

 一方の自分はといえば、思い入れのあるバッシュが戻ってきたのに、嬉しくもなんともなかった。柚樹と一緒にバッシュを買いに行き、柚樹と一緒に練習を頑張ってきた大事な道具。それを隠していたのが、よりにもよって、柚樹だったと知ったからだ。

 その柚樹は、今日もまた、学校に来ていなかった。柚樹は、綾が芝原にバッシュを返してもらった次の日から、ずっと、学校を休んでいる。今の柚樹の席は教卓の目の前なので、意識しなくても、出欠がわかる。今日はもう木曜日なので、五日も学校を休んでいることになる。聡美に聞けば何かわかるのだろうが、綾の存在を無視してくる柚樹を、道具を憂さ晴らしのように扱った柚樹を、心配しているそぶりを見せるのが嫌で、あえて聞いていない。

 ほどなく教室に入ってきた教師によって行われた出欠確認では、柚樹と直だけが欠席となっていた。

 何気なく、ホームルームを終えた教師が出ていく後姿を目で追う。けれど視界に蔵本が入り、そちらに気を取られた。蔵本が気付いて、小さく口元を緩めた。白い陶磁器のようなその儚い横顔は、病的なまでに美しく、何を考えているのか全く読み取らせてはくれなかった。


 ここ最近では、昼休みを一人で過ごすのが慣例となっていた。しかしそれを破って、聡美が、目の前の席に座ってきた。綾の机に向き直った聡美は、機嫌の良さそうな手つきで弁当箱を広げ、食べ始めた。

 直が学校に来なくなってからも、聡美だけは話しかけくれていたが、あまりうまく対応できないでいると、徐々に話しかけなくなってきていた。直より蔵本のほうを信用した、あの馬鹿な行動を、聡美だって、内心では責めているんだろう。軽蔑しているんだろう。そんな当てつけがましい偏見でもって聡美を見てきた。

 あの日、直が語ったことは、気持ちの整理がつきつつある今では、本当だと思う。蔵本たちなら、直になりすますくらいのことを暇潰しにやりかねない。だがあの時は違った。直のことを、心の底から疑った。余裕がなかった。教室を飛び出した直を追いかけることもせず、ホームルームが終わったすぐ後、家に帰った。家中ひっかきまわして母の隠した安定剤と睡眠薬を探しあて、指定された量よりも多めに飲んで、眠りの世界に逃げ込んだ。起きると、夜勤が早めに終わったらしい母が、リビングで啜り泣いていた。学校では、直が来なかった。

「綾」

 いつもの後悔が渦巻き始めたところで、聡美が呟くようにして言った。

 芝原に対してと同じように、目だけで応える。

「厚焼き玉子、食べる? 私の手作り」

 箸で厚焼き玉子を指した聡美が、軽く首を傾けている。今朝は弁当を用意する気力がなく、ちょうどお腹がきゅるきゅると小さく鳴っていた所だったので、すぐに断れなかった。聡美が箸の持ち手側を押し付けてきた。

 受け取り、うまく形の整えられた厚焼き玉子に、箸をつけた。

 咀嚼すると、穏やかな甘みが口の中に広がっていた。どこか抜けている聡美だから、何かオチがあるのかと思ったが、見た目のままの味だった。

「どう?」

 頬杖をついた聡美が、やや上目遣いに訊いてきた。その目には、微塵も、軽蔑の色は感じられない。

「おいしい」

 少しだけ、声が震えた。

 随分と久しぶりに、聡美と会話が出来た。

「おいしいよ、聡美」

 なぜだか喉奥から沸き上がってくるものがあった。どうにか堪え、聡美に箸を返した。

「それはよかった。……これで綾は私に対して一飯の恩ができた、と」

 聡美は箸を持ち直した。

 ……一飯の恩にしては量が少ないんだけど。

 久しぶりに、掛け合いじみた言葉が思い浮かんだが、声が上手く出なかった。

「恩返しの方法はひとつだけ。これから言うこと、黙って聞いて」

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