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届いてください  作者: SET
2章
10/28

09 強情

 直が学校に来なくなって、今日で七日目。綾は部活にも行かず、学校が終わるとすぐ、帰宅するようになった。柚樹は……時々、綾の事を、心配そうに見ている。今さら、謝れないし、優しい言葉も掛けられない、という感じだ。

 聡美は、視線を英語教師の背中に向けていた。席替えして列の後方に移ってから、どうしても視界に、蔵本の背中が映る。無防備な背中を見るたびに、手に持ったシャープペンシルを握り締め、そのまま突き刺してやりたいと、沸き立つものがあった。でも今は、こいつを相手にしている場合じゃない。直に、綾に、何を、してあげられるか。それだけを考えていればいい。

 でもそんなことを考えた所で、と思う自分もいる。

 自分の場合は、家に帰れば、歳の離れた可愛い盛りの妹と、歳が近く馬も合う兄と弟、程良く愛情を注いでくれる両親が、居る。他の三人には、それがない。

 今までの受け答えを思い出せば、ある程度は家庭の事情も分かる。綾にはたぶん、母親以外の身寄りがいない。直は両親がいるが、祖父母の介護を巡って家庭内の対立が激しい。柚樹は、優秀な弟にかかる期待から、家庭では顧みられることがない。自分が普通なんだ、綾たちが苦しい状況にあるだけなんだ、と思っても、変な罪悪感や劣等感が、ついて回ってくる。

 そんな中途半端な気持ちを抱えて、人並外れて動きが鈍い自分なんかに、一体何が出来るのか。環境においては、どう足掻いても、綾や直、柚樹と相容れない部分があるから、とんでもなく見当違いのことをしてしまう可能性だってある。

 それに、悩むより行動、を今やったら、取り返しのつかないことになるかもしれない、そんな肌を裂く空気が、綾の周りには漂っていた。そして、学校に来なくなってから一度だけ、玄関先で蒼白な顔を見せてくれた直の周りにも。

 ぼうっとしていると、英語教師に、指された。留年しないように、嫌な顔を見せずに補習をしてくれる、中年の先生だ。やってきた訳を黒板に書けとの指示だった。

 先週言われていたことなど、すっかり、忘れていた。ノートを凝視してみたが、当然、書いてあるはずもない。というか、今日の授業の内容すら一文字も書いていない。

 白紙のノートを手に黒板の前に立つ聡美を見かねたのか、先生が単語の下にSVOと書いてそれぞれに線を引いてくれたが、今度は、V……Vって何の略だっけ? とそちらのほうに意識がずれた。それでも、適当な訳をでっちあげる。何もしないでいるほうが授業の進行の妨げになるからだ。間違えたところで、それが自分の実力なので、何の恥ずかしさもない。

 結局、訳は、書き出しの「私たちは」しか当たっていなかった。

 蔵本が、聡美に対して何もしてこない理由は、こういうところにあるのだろうと思う。テストで毎回学年トップだった矢崎、それにひけを取らない学力の綾や直で遊んできた蔵本の目にはきっと、劣等生は映っていない。


 放課後、英語教師に呼び出され、進級のための条件を、再度、念押しされた。どうにかクリアできる……はずだ。手間をかけさせて申し訳ないとは思うものの、なかなか絵のこと以外に興味は出ない。

 同じ階にある職員室から二年の教室へ戻る途中で、階段から上がってきたらしい柚樹が、聡美の前を横切った。そのままこちらに気付かず歩き続ける。手には……靴? スニーカーと似ているけれど、少し違う。部活で使うものだろうか。

「柚樹」

 呼ぶと、肩をびくりと震わせた柚樹が振り返った。

 話しかけることに躊躇いはなかった。綾が一緒にいる時には無視されたが、二人きりの時には、特に無視などはされていなかったからだ。そのせいで、綾の前で自然と柚樹の名前を出してしまい、直に咎められたこともあった。

 袖を顔に擦り付けてから振り返った柚樹は、目を赤くしていた。

「蔵本に何か……」

 瞬時に思いついたことが口をつく。

「違う」

 柚樹はそうとだけ言うと、靴を抱えたまま、教室へ入っていった。聡美も、英語の教科書を取って帰ろうと思っていたので、後に続く。

 靴を、自分のロッカーに押し込んでいる柚樹が目に入った。

「いまさら、部活で綾に味方したとか?」

 さっきみたいには、言い返してこなかった。柚樹は口下手だけれど、無表情には徹せない。挙動に出る。

「ホント、いまさらだね。あれだけ無視しておいて」

「分かってるよ! そんなこと!」

 柚樹は、涙声のまま急に怒鳴ったせいか、咳き込んだ。ロッカーに手をついて咳き込み続ける柚樹の背中を、擦る。

 予想通り、柚樹は聡美の手を振り払った。

 ……強情。


 家に帰ると、

「ただいま」

 と言うだけで、五つの

「おかえり」

 が返ってくる。そのうちひとつは舌足らずで愛らしい。

 居間には家族全員が揃い、それぞれ無秩序に食事を摂っていた。社会人である兄の孝史(たかし)はフローリングに直に座って、ノートパソコンを膝に載せていじりながら、カロリーメイトをもそもそと食べている。聡美の一学年下、高校一年で弟の聡史(さとし)はテーブルの一角を占め、部活で使うアンダーシャツ姿のまま、見ているだけで胸やけするほどの肉の山にがっついている。父の敬三(けいぞう)はソファに座ってイカの塩辛をつまみつつ、テレビを見ていて、母の優子(ゆうこ)は弟の席の正面で、最近凝っている精進料理を、静かに口へと運んでいた。背筋が綺麗に伸びた母の右隣の席には、小さな皿と食べかけのスパゲッティ。

 こういうのを見ているだけで幸せになってしまう自分は、変だろうか。

「お腹減った」

 足にまとわりついてくる乃亜を抱きあげながら、母に向けて呟いてみる。乃亜のほっぺたに自分のほっぺたを合わせると、恐ろしいほどの柔らかさを感じることが出来た。

「台所に置いてあるよ。冷めてると不味そうなのは自分で温めて」

「はーい」

 乃亜を母の右隣の小さな椅子に乗せ、そのまま台所に向かった。

 台所には、ご飯に、鰆の酒粕漬け、肉じゃが、インゲンやキャベツやトマトで彩られたサラダ、それにワカメと豆腐のみそ汁が置いてあった。母の凄いところは、人数分、それぞれの好き嫌いを把握した食事を、こともなげに作ってみせる所だ。そのうえ、さほどお金がかかっていないはずなのに、おいしい。

 みそ汁とご飯にラップをかけ、電子レンジで温めながら、居間の様子を眺めた。快適に過ごせる自分の部屋があっても、家族みんなが面白く感じるテレビ番組なんてものが存在しなくても、家族がなんとなく集まってきてしまう、部屋。

 食事を終えた聡史が、食器を台所に持ってきた。聡史は食器をシンクに並べて水を注いだ。

「聡美、来週の土曜日、空いてる?」

「空いてるよ。なんで?」

「映画、見に行かない? 聡美も見たいって言ってたやつ。俺もその日、珍しく練習が休みでさ」

 見たいって言ってたやつ、とは、先週あたりに封切りとなったオリジナルアニメーション映画だ。新作を公開すれば大抵ヒットを飛ばす、国内の有名会社が制作したもの。

 本当は、綾と直、それに柚樹と行くつもりでいたけど……。

「いいね。行こうよ」

「カップル割引っていうのがあって、それだと千円で見れるらしいから」

「聡史、子供っぽいからなぁ。そんな関係に見えるかな」

「それを言うなら、聡美のほうが……」

「その突っ込みは無しで」

 俯きながら小さな声で呟くと、聡史が笑いながら居間に戻っていく。兄や父と違い、テレビ嫌いのはずの聡史は、そのまま部屋に戻るでもなく、鞄からミュージックプレイヤーを取り出し、居間の隅に寝転んだ。

 使い古された電子レンジが、間の抜けた音で加熱の終了を告げた。

 聡美は誰にも気づかれないように、小さく笑みを零した。

 帰宅前までの陰鬱とした気分が少し、薄らいでいるような気がした。

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