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婚約破棄されたので絶滅危惧種の人外の伴侶になります〜一緒に過ごしていくうちに旦那様とお揃いになりました〜

作者: 西井あきら
掲載日:2026/03/23

 彼と出会ったのは十二歳のとき、父の研究所に初めて足を踏み入れた日のことでした。


 石造りの廊下はひんやりと冷たく、奥へ進むほどに、鼻を刺すような薬品の匂いが濃くなっていきます。それだけで当時の私の好奇心は膨らんでいきました。


 辿り着いた最奥の部屋。

 分厚い鉄格子の向こう側に、彼はいました。


 こちらをじっと見つめる金の瞳。

 それはまるで、夜の森の中で鋭く輝く獣の眼のようでありながらも、不思議と知性の光を宿していました。

 そして腰まで流れ落ちるのは、雪のような白い長髪。


「お父様、これが……」

「ああ。既に絶滅したと思われていたナギアだ」


 彼——ナギアは鉄格子の内側でゆっくりと身じろぎます。

 その動きに合わせて、床を擦るような、ざらりとした音が響きました。


 そのすぐ後に、隣で聞こえてきたのは小さく布を擦る音。

 妹のリリアンです。


 リリアンは父の上着の裾をぎゅっと掴み、彼に隠れるようにして、怯えた瞳で檻の中を覗いていました。


 無理もありません。

 ナギアは上半身こそ人間の成人男性と変わらぬ姿をしていますが、その下に続くのは人の脚ではなく、白い鱗に覆われた長大な蛇の尾だったのですから。


 けれど、どうしてでしょう。

 私は怖いとは思いませんでした。


 むしろ、その金の瞳に射抜かれたときから、光を受けて鈍く輝く尻尾を目にしたときから、身体の中心が奇妙に熱を帯びて、目を逸らすことができなかったのです。


「心配いらない。見た目に反して性格は大人しい」

 父はリリアンの頭を撫でながら、安心させるように言い聞かせました。

 それでも妹の指は父の上着を掴んだまま離れません。


 その様子を横目に見ながら、私は一歩、また一歩と、檻へと近付いていきました。


 進むたびにドクドクと心臓の鼓動が大きくなっていきます。

 けれど足は、不思議と止まりませんでした。


 やがて鉄格子のすぐ前まで来ると、私はおそるおそる手を伸ばしました。


 指先が冷たい鉄に触れる寸前で——。

 彼が、すっと顔を寄せてきました。

 驚いて身を引きそうになるのを、ぐっと堪えます。


 彼は私の匂いを確かめるように、スンスンと鼻を鳴らしました。

 その動きには攻撃性は欠片もなく、ただ純粋な興味だけ。


 そしてしばらく匂いを嗅いでいた後に。

 彼は躊躇いもなく、鉄格子に額を当てました。

 ぎしり、と鈍い音が響きます。


 それでも構わないとばかりに、彼はそのまま私の手に頭を擦り寄せてきました。

 撫でてほしいとねだるように。


 私は彼に応えようと、優しく白い髪に触れました。

 指先に伝わる感触は、想像していたよりもずっと柔らかく、滑らかで。


 心地良さそうに目を細める彼の表情は、先程までの神秘的な雰囲気とは打って変わって、幼子のようで。


 そんな彼の顔を見て、私の心臓は更に高鳴ったのでした。


「エレノア、彼には名前がないんだ。良かったらお前が付けてくれないか?」


 父の方へ振り返った後、私はしばし熟考しました。

 どんな名前がいいだろう。

 どんな名前が相応しいだろう。

 やがて、ひとつの名が浮かび上がりました。


「……ベネディクト」

「ベネディクト——この国の英雄の名か」

「ええ」


 私は頷き、再び彼へと視線を向けました。

 金の瞳がこちらを見つめ返してきます。


「彼にぴったりな名前でしょう? 彼は、この国を瘴気から救ってくれるかもしれない存在なのですから」


 期待に満ちた眼差しでそう告げると、彼は尻尾を揺らしました。


 まるで与えられた名を確かめるように、受け取めるように。


 ◇


 この国は、土地の半分が黒い霧に覆われています。

 それは〝瘴気〟と呼ばれるもの。


 触れた草木は枯れ、生き物はやがて命を落とす——生あるもの全てを蝕む、忌まわしき存在です。

 その侵食は人の住む領域へと迫り続けていました。


 多くの学者が対抗策を模索し、王宮もまた幾度となく調査隊を送り込みましたが、成果は上がらず。


 人々は次第に理解していきます。

 これは、人の手ではどうにもならないものなのだと。


 そんな絶望の中で、ただ一つだけ残されていた可能性がありました。


 ナギア——。


 古い文献に記された、人ならざる種族。

 彼らは瘴気を祓い、浄化する力を持つ唯一の存在。


 けれど、その種族は遥か昔に絶滅したとされ、もはや伝説の域を出ないものとなっていました。


 誰もが望みを捨てていたのです。

 奇跡など起こるはずがないと。


 彼が現れるまでは。


 父の研究所に保護された、一体のナギア。

 そう。

 ベネディクトが、この世界に現れるまでは。


 彼なら——彼ならきっと。

 終わりかけたこの国に、再び光をもたらしてくれることでしょう。


 ◇


 それから五年の年月が流れました。

 今日は私にとって人生最悪の日と言ってもいいでしょう。

 婚約破棄をされてしまいました。

 婚約者だった彼が選んだのは、妹のリリアンだったのです。


 視界が滲みそうになるのを、私は必死に堪えました。

 いつまでも悲嘆に暮れているわけにはいきません。

 感情よりも先に、為すべきことがあります。

 新しい婚約者を探さなければ。


 しかし名のある家の方々は既に皆、誰かと婚約を結んでいる。

 残っているのは家格も財も乏しく、我が家にとって益になるとは言い難い相手ばかりでした。

 政略としての価値がなければ、父も頷かないでしょう。


 かといってこのまま婚約者も持たぬまま年を重ねれば、待っているのは修道院行き。

 静かに祈りを捧げるだけの人生。

 それが悪いとは思いません。


 けれど、まだ何も成していない私にとっては、あまりにも静か過ぎる結末です。


 どうすればいいだろうかと思考を巡らせていると。

 父が以前、何気なく零した言葉が脳裏を過りました。


「瘴気の侵食が想定よりも早い。このままでは……ナギア(ベネディクト)一体では到底追いつかん」


 当時ただ耳にしただけの言葉が、希望の糸のように感じました。

 足りないのなら殖やせばいい。

 実に単純な話。


 不可能ではないはずです。

 何故なら古い文献にはこう記されていたのですから。

 ナギアは人間とも繁殖が可能であると。


 にんまりと、唇に笑みが浮かびました。

 それはきっと、淑女にあるまじき表情だったでしょう。

 けれど抑えられなかったのです。

 自分が救国の英雄になれるかもしれないと。


 ◇


 父は最初反対しましたが、最終的には受け入れてくれました。

 そして数日後、ベネディクトと再会するべく私は数年ぶりに研究所へと訪れました。

 あの頃と変わらない石造りの廊下、あの頃と変わらない薬品の匂い。


 奥へ進むほどに、心臓の鼓動が早くなっていきます。

 無理もありません。これからやろうとすることを思えば——。


 けれど、それだけではない気がしたのです。

 この胸の高鳴りは、単なる緊張や恐怖だけでは説明がつかない。


 上手く言葉に出来ない感情にもどかしさを覚えながら、檻の前へと辿り着きました。


 彼は——ベネディクトはあの頃と変わらぬ姿で佇んでいました。


 雪のように白い長髪、透き通るような肌、黄金の瞳。

 人のかたちをした上半身は静謐な気配を纏い、下半身の白の鱗に覆われた長い尾はとぐろを巻いていました。


 その姿は、やはりどこか現実離れしていて——。

 けれど、記憶の中の彼と寸分違わぬものでした。


「ベネディクト!」

 抑えきれない喜びのままに、檻のそばへ駆け寄り、そのまま手を伸ばします。


 彼が、ゆっくりとこちらへ近付いてきました。


 金の瞳がまっすぐに私を捉え、スンスンと小さく鼻を鳴らします。

 その途端、長い尾が機嫌の良さを隠しきれないとでも言うように、ゆらり、ゆらりと左右へ揺れました。


「良かった……覚えていてくれたのね!」

 こぼれ落ちた言葉は、思っていたよりもずっと柔らかく震えていました。


 私は鉄格子越しにそっと手を差し入れ、彼の頭に触れます。

 さらり、と指を滑る白い髪。

 あの日と同じ感触に、胸がじんわりと熱を帯びました。


 優しく撫でていると、ベネディクトは気持ちよさそうに目を細めます。


 このささやかな時間だけで。

 離れていた数年の歳月が、全て溶けてなくなったように感じられたのです。


 ◇


 それから私は研究所に滞在するようになりました。

 彼との時間を重ねるために。


 伴侶として認めてもらうためには、鉄格子越しでの交流ではいけない。

 そう思った私は、彼と会うときは必ず檻の中へと足を踏み入れました。


 初めて中に入ったときは、心臓が凍りつくほど緊張したのを覚えています。

 けれど、彼は決して私を傷つけることはありませんでした。


 強くは触れず、大きな手も、長い尾も、まるで壊れ物を扱うかのように。


 言葉はありません。

 ですが、そのひとつひとつの仕草が、何よりも雄弁に語っていました。

 大切にされているのだと。


 ここでふと思ってしまったのです。

 あの婚約者と過ごした時間よりも。

 ここで彼と過ごすひとときの方が、ずっと穏やかで、ずっと満たされていると。


 そのとき、ようやく気づいたのです。


 ——ああ、私は。


 このヒトに、恋をしているのだと。


 それは、静かに降り積もる雪のような想いでした。

 気付いたときには、もう引き返せないほどに、深く。


 ◇


 そうして数ヶ月が過ぎた頃。

 ある日、私の身体に異変が起こりました。

 ベッドから起き上がろうとしても、足が思うように動かない。


 視線を落として——息を呑みました。

 両脚が、ぴったりと繋がっていたのです。


 駆けつけた父は驚きながらも、静かに答えました。


「ベネディクトとの交流が原因だろう。ナギアには、番として認めた異種族を、自らと同じ姿へと変える力があるらしい」


 古い文献に記されていたその性質。

 それが今、私の身に起きている。

 つまり、それは——。


「彼が……私を、伴侶として認めてくれた……?」


 掠れた声で呟いた途端に込み上げてきたものを、抑えることはできませんでした。


 ぽろり、ぽろりと。

 頬を伝って、涙が零れ落ちます。


 怖くないわけではない。

 人ではなくなっていくことへの不安が、ないわけではない。


 それでも——。

 それ以上に。

 胸がいっぱいになるほど、嬉しかったのです。


 だってこれは。

 ベネディクト(好きなヒト)が、私を受け入れてくれた、何よりの証なのだから。


 それから数日後。

 私の下半身は完全に人の形を失い。

 白い鱗に覆われた、長い蛇の尾へと変わりました。


 ◇


 今日は私がナギアとして完全な姿となってから、初めてベネディクトに会う日です。


 期待と不安とが入り混じり、心臓がドクドクと高鳴っています。


 (へや)に辿り着くや否や、私は彼の様子がいつもと違うことに気が付きました。


 金の瞳はどこか熱を帯び、じっとこちらを見つめている。

 白い肌には、僅かに紅が差していて。

 呼吸も、普段よりほんの少しだけ荒い。


 その変化を前にして、私は確信しました。

 ついに、このときが来たのだと。


「ベネディクト……」


 どれだけ身を伸ばしても、私の体長では彼の顔に届くことはありません。

 けれど、こちらの意図を察したのか、ベネディクトはゆっくりと身を屈めてくれました。


 そして、そっと口づけを落としてきました。

 いつもならそれで終わるはずでした。

 けれど今日は違います。


 次の瞬間、彼の腕に導かれるようにして、私はその場へと倒れ込みました。


 包み込まれるように、逃げ場のないほど近い、彼の気配。

 心臓が、壊れてしまいそうなほどに鳴り響きます。


 怖くないわけではありません。

 しかし、それ以上に——。


 このヒトに全てを委ねたいと、そう思ってしまう自分がいるのです。


 ゆっくりと目を閉じ、息を整えて。

 私は、そっと言葉を紡ぎました。


「……良いよ。来て……ベネディクト」

 震える声で、それでも確かに。


 途端、彼の腕に込められる力が、ほんの少しだけ強くなりました。


 重なり合う体温。

 触れ合うことでしか伝えられない想いが、静かに満ちていく。


 それは決して激しいものではなく。

 ただ互いを確かめ、受け入れ合う——。

 深く、愛おしい結びつきの時間でした。


 ◇


 一年後。

 元婚約者から手紙が届きました。


 綴られていたのは、妹との関係がうまくいっていないこと。

 そして、久しぶりに顔を見たいという、どこか縋るような言葉。

 思わずフフッと声が溢れました。


 ——……そういえば。


 婚約破棄をされてからすぐに研究所(ここ)へ来てしまったので、あの人とは長らくお会いしておりません。


 当時は少し憎んでいたけれど。

 今はあの頃のように心を乱されることはありませんでした。


 ただ少しだけ、遠い過去を懐かしむような、そんな感覚。

 久方ぶりに旧い知人と言葉を交わすのも、悪くないかもしれない。


 そう思った私は、快諾の意を返そうと、所員の方に便箋とペンの用意を頼みました。


 道具を待っている間、手紙をぼんやりと眺めていると、突然小さな手にぱしっと奪われてしまいました。


「あら?」


 驚いて視線を上げると、そこにいたのは、私の腰ほどまでしかない小さな命。


 白い髪。

 金の瞳。

 そして、人の上半身に続くのは、しなやかな蛇の尾。


 ナギアの幼体。

 愛おしくてたまらない、私と彼の子供です。


「こーら、待ちなさい」


 腕を伸ばしたものの、その小さな背中を捕まえることは出来ず。


 この子は子供達の中でも、とりわけやんちゃな性格で。

 するりと身を翻し、あっという間に逃げ出してしまいました。


 そのまま、きょうだいたちのいる方へと駆けていき——手にした手紙を、まるで宝物のように掲げて見せびらかしています。


 突然の出来事に、集まってきた子どもたちは目をぱちぱちと瞬かせ。

 それが何なのか、きっとよく分かってはいないのでしょう。


 けれど、見慣れない紙切れに興味を惹かれたのか、皆揃ってじっと手紙を覗き込んでいます。


 その姿が、なんとも微笑ましくて。

 思わず頬が緩んでしまいました。


 ——さて、そろそろ返してもらわなければ。

 そう思き身体を動かしかけた、そのとき。


 子供達の頭上から、すっと大きな手が伸びました。

 その手のひらが、まるで皿のように水平に差し出されると、手紙を持っていた子は素直に上に載せました。


 大きな手の持ち主——私の旦那様(ベネディクト)が手紙を持ってこちらにやってきます。


「ありがとう、ベネディクト」


 手紙を受け取ると、彼は身を屈め、私へと顔を近付けてきました。

 思わず苦笑が漏れます。

 どうやら、ご褒美が欲しいようです。


「はいはい……」


 まったく、お父さんになっても相変わらず甘えたなのですから。

 私はそっと彼の唇に口付けました。

 ほんの一瞬、触れるだけのもの。

 それでも彼は満足したように、静かに目を細めます。


 そんな様子を見ていた子供達たちが、きゃあきゃあと楽しげな声を上げました。


 とても賑やかで、楽しい時間。

 かつて失ったと思っていた未来。

 手の中から零れ落ちたはずの幸せ。


 あの日、全てを失ったと思った私が辿り着いたのは、こんなにも温かな、かけがえのない居場所でした。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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