2.危機と紫
巨大なミノタウロスが僕めがけて突進してくる。
砂利が吹き飛ばされ、川がしぶきを上げる。
一歩歩くだけであの地響きがするほどの重量だ、まともに当たればまず助からない。
ある程度引き付けたところで、思い切り右に飛び込んでかわす。
勢いよく飛び出したため、小石が顔に当たり小さな擦り傷ができたようだが、今はどうでもいい。
ミノタウロスは獰猛である分繊細ではない、単純な動きが多いため軌道を読むこと自体はさほど難しくない。
この個体も、その性質に関しては他と変わらないようだ。
だが、今回はなにしろ巨体である分余裕をもって動かないと回避は厳しい。
先程の突進は距離があったためかわせたが、次はこうもいかないだろう。
ミノタウロスは急停止し、こちらを向きなおす。
ワイバーンのことは気にも留めないといった様子だ。
ターゲットへの執着の激しさはミノタウロスの性質のひとつ、今は僕を殺すことしか頭にないらしい。
至近距離で見ると、より一層その巨大さを感じる。
角も今まで見たどの個体よりも禍々しく、人間なら余裕で貫くことができそうだった。
もしかしたら、既に誰かがこの角をその身に生やすことになったかもしれない。
ところで、普通はこれほどの個体の討伐任務を一人に任せるようなことはしない。
少なくともうちのギルドではありえないことだ。
なぜこんなことになったのか、誰かが報告を間違えたのか?
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
ミノタウロスが丸太のような腕を振り上げ、地面を思い切り叩く。
僕への攻撃というよりも、癇癪を起こしたことによる代償行動のよう。
だがそれもあまりの威力で、川石が大小問わず吹き飛ばされる。
僕の方にも降りかかってきそうになったので、慌てて後ろにステップした。
とにかく距離を取りたかったため、僕は背を向けて全速力で走り出す。
だが、追いかけてくるミノタウロスの方が圧倒的に速い。
そもそもここは川岸で大小さまざまな石が足場になっているため、微妙に走りにくい。
ミノタウロスの体がぶつかるのは時間の問題だった。
こうなれば、無謀ではあるが魔法でなんとかするしかない。
こんな大岩が転がってくるような一撃に対して槍は役に立たない。
飛び上がってかわす手もあるが、あまりにも巨体なため飛距離が足りない可能性が高い。
覚悟を決め、右足に力を入れて振り向く。
右手を思い切り前に出し、ミノタウロスの咆哮に対抗するかのような大声で叫んだ。
「防壁!」
叫んだ瞬間、焦燥感に答えるように前方に半透明の壁が現れる。
見た目は壁だが、これは我々魔法使いにとってはれっきとした盾である。
盾が出てからミノタウロスがぶつかるまでは1秒も無かったが、その一瞬が少し長く感じられた。
鈍い音を聞いた瞬間、体が宙を舞っていた。
盾が砕けたというより、盾ごと吹っ飛ばされたようだった。
一応、グリフォンの突進に耐えることができるぐらいの強度はあるはずなのに。
魔法にかけていたなけなしの自信が、一瞬で砕け散った。
吹っ飛ばされた体は結局川に着地し、血と水の味を感じながらごろごろと転がっていく。
浅い部分なので沈むことはなかったが、それでも全身がびしょ濡れになるぐらいには転んだ。
「ぐっ……ゴホッゴホッ!!」
深めの咳で水を吐き出し、手で目についた水滴を払い前を見ると、不幸中の幸いと言うべきかミノタウロスとかなり距離が離れていた。
20メートルほど吹っ飛ばされたのだろう。
槍は吹き飛ばされた時に手放してしまったのか、手元にはなかった。
もう残っているのは魔法だけ、それも、あれに通用するかもという僅かな期待はとっくに消えている。
そもそも体がかなりのショックを受けていたようで、魔法どころか立ち上がることすらできなくなってしまった。
あっという間に満身創痍になってしまったこちらに対して、ミノタウロスは先程と同じように突進してくる。
ミノタウロスは獰猛な分狡猾さはないといったが、それに合わせて容赦というものも存在しない。
こちらがどれだけ手負いで動けなかったとしても、向こうは油断などせず全力で殺しにかかってくる。
こうなると、もう死を覚悟するしかなかった。
体の痛みは無い、そして恐怖心もどこかへ消えていた。
悟りを開いたような感覚になり、思考が冷静さを取り戻していく。
ふと、ワイバーンがいた位置に注目すると、さっきまでそこで倒れていたワイバーンの姿はなかった。
きっと、僕を騙してどこかへいったのだろう。
よくよく考えてみればいくらワイバーンといっても、このミノタウロスを相手にして勝てる保証なんてなかった。
そもそもこんなところで傷だらけになって死にかけるようなやつだ、ワイバーンの中でもきっと最底辺だったのだろう。
人を騙し、自分だけでも助かるような汚い考えは、そんな弱いワイバーンにはとてもお似合いだ。
追い詰められていたとはいえ、ワイバーンなんてものにすがった僕が愚かだった。
みんな、ごめんなさい。
僕はあなたたちの仇を頼るような小心者です、その上さらっと騙されました。
―――これだけ色々な事を考えたのに、現実の時間はさほど経過していなかったらしい。
ミノタウロスはまだ僕を跳ね飛ばしていなかった。
それでも、僕の視界からは胴体までしか見えないぐらいには近づいていた。
あとちょっとで僕はこのミノタウロスに轢かれ、自然の一部に還る。
ここまでくればもう、全てどうでもよくなっていた。
だがいきなり突風が吹き荒れ、土煙が上がる。
それと同時に何かが僕の目の前を通り過ぎ、轟音が左の方で鳴り響いた。
その方を向くと、ミノタウロスが吹き飛ばされていた。
何が起きたか、鮮明に理解するだけの余裕はなかった。
それほど一瞬の出来事だった。
「グオオオオオ!!」
痛々しい悲鳴を上げるミノタウロス。
その後に聞こえてきたのは、風格のある落ち着いた声。
「よくぞ耐え抜いた。あとは私に任せるがよい」
紫のワイバーンが、そこにいた。




