母、沖縄へ行く
母が突然、沖縄に行く宣言をした時の思い出です。
誰と行くん?と聞いたら、秘密。だそうで。
母は布団の中で、急に背筋を伸ばすようにして言った。
「今から沖縄に行く!」
その声は力強くて、私と看護師さんは思わず顔を見合わせた。
え? 今、なんて?
母はきっぱりと繰り返す。
「沖縄へ行くんや。海が見えるところに泊まって・・」
看護師さんはすぐに乗ってくれた。
「いいですねえ、沖縄! 楽しそう! どこに泊まるんですか?」
「海が見えるとこ。青い海」
母は得意げに答える。その顔はまるで旅行番組のリポーターだ。
「ハイビスカスも似合いますね」
看護師さんが言うと、母は笑いながら、片手で髪を撫でるしぐさをした。
「一緒に髪に挿して行こ!」
布団の上の狭い空間が、一瞬で南国に変わったようだった。
母の瞳は、子どものように輝いている。
私は、笑いながらも少し心がざわついた。
――本気なのか、冗談なのか。
もしかしたら、どちらでもいいのかもしれない。
「お土産は、やっぱりちんすこうにする?」
看護師さんが尋ねると、母は小さく頷いた。
「そうやな。あとゴーヤも。チャンプルーにしてあげるわ」
思わず私は吹き出しそうになる。
やがて母は目を閉じかけながらも、旅を続けていた。
「海の風は気持ちいいわ~」
「夜は三線の音が聞こえるやろか?」
その声はどんどん遠くなり、
まるで飛行機のエンジン音にかき消されていくみたいだった。
そして最後に、夢と現の境目で言った。
「あんたも、一緒においで」
その瞬間、母は本当に楽しそうだった。
笑顔は、部屋の壁を突き抜けて、
青い空まで届いているように見えた。
私は信じることにした。
母は沖縄へ行ったのだと。
ハイビスカスを髪に挿し、
潮風に吹かれながら、ちんすこうを片手に笑っているのだと。
そして時折、私に向かって手を振っているのだと。
だから泣く代わりに、笑って送り出そう。
――いってらっしゃい。
沖縄の海が呼んでるよ。
そうそう。飛行機じゃなくて、船で行ったそうです。
船旅、してみたかったのかな。