鳥がお嫌い?
静まり返った香牢の午前。
薄く開けたままの窓から、ひゅう、と風が入り込んだ。
それと一緒に──
「……ぴぃ」
高く、小さな鳴き声がした。
桐嶋は手元でビーカーを傾けかけたところで、動きを止めた。
視線をゆっくりと持ち上げる。
沙耶が、調香台の横でぽつりと囁いた。
「……鳥、さん……」
見れば、小さな白い小鳥が一羽、
香材棚の端にちょこんと留まっていた。
羽をすぼめ、目をくりくりさせながら、こちらをじっと見ている。
桐嶋の目が細められた。
いつものように、微笑が口元に浮かぶ。けれど──
「……っ」
沙耶は、言葉にできない“何か”を桐嶋の顔に見た気がして、思わず足をすくめた。
「沙耶さん。動かないでください。香材棚の並びに……干渉されました」
「……はい」
桐嶋は、静かに立ち上がる。
だが足取りは、どこかぎこちない。
背筋は伸びているのに、腕が微妙に前に出ている。
そして、はっきり聞こえた。
「なぜこちらを見ているのです?」
問いかけは、棚の小鳥に向けられていた。
沙耶が思わず見つめてしまう。
桐嶋のまなざしには、珍しく──戸惑いの光があった。
「桐嶋さん……もしかして、動物、お嫌いなんですか?」
「……ええ。言葉が通じませんし、予測がつきません。
特に、ああいう……羽根のあるものは……
飛びますから。法則性が読めない。とても……無理です」
無理です、って今言った⁉︎
沙耶は驚きながらも、思わず口元を押さえる。
笑ってはいけない。でも、可愛い。
小鳥が、棚の上を歩いた。
コトッ、と隣のガラス瓶に羽が触れる。
桐嶋の肩がぴくりと動いた。
「落とします。非常にまずい。倒れたら大惨事です。
しかもセンサーにかからないので、香反応のログが残らない……っ……!」
桐嶋さん、めっちゃ早口になってる。
沙耶はぷるぷる震えながら、全力で笑いを堪えた。
その時、小鳥がひとつ羽ばたいた。
ばさっ、と小さな風を起こし、室内をぐるりと旋回する。
桐嶋が──予想外の速さで沙耶を引き寄せた。
「動かないで。あなたに香がかかったら再調香です」
しれっと冷静な口調で言いながら、
ぎゅっと腕の中に沙耶を収めているのは何⁉︎
「…桐嶋さん、少し、震えてませんか……?」
「羽音が、苦手なんです。鼓膜の傍をすり抜ける感じが……」
完全に本音が漏れていた。
沙耶は頷きながら、そっと目を伏せた。
笑ったら、きっと怒られる。
でも、胸がふわっと温かくなる。
──この人にも、こんな弱点があるんだ。
そんな当たり前のことが、どこか嬉しかった。
小鳥が迷い込んだ日の午後。
ようやく部屋から出て行った小さな訪問者のことが、沙耶の胸にじんわりと残っていた。
その夜、食事のあと──
桐嶋が茶を淹れる傍らで、沙耶はぽつりと呟いた。
「……あの、小鳥さん……かわいかったですね」
「そうですね。外敵のいない空間では、無垢な生き物ほど、映えるものです」
桐嶋はいつものように微笑む。
けれど、その視線はどこか遠くを見ていた。
沙耶は、少し迷ってから、声を落とした。
「……飼ってみたいなって、思いました」
その瞬間。
桐嶋の手が、静かに止まった。
茶器に添えていた指先が、ぴたりと静止する。
数秒の沈黙。
「……飼う、とは?」
「小鳥さんを。部屋で、ちゃんとお世話して……」
言い終わる前に、桐嶋がわずかに首を傾けた。
「そうですか。そうお思いになるのは、ごく自然な反応です。
……では、幾つか、条件を提示してもよろしいですか?」
思いがけない肯定に、沙耶は、少し驚いたように頷いた。
桐嶋は立ち上がり、整然とした所作で言葉を重ねていく。
「飛ばせないよう、羽根を適度にカットしていただきます。
夜間は、香材への影響を防ぐために遮蔽ケースでの管理が必須。
排泄物による香反応を防ぐため、床材は吸収機能付きの非香マットを。
餌は香干渉のない特注ブレンドを、毎日一定量──
加えて、鳴き声は音反応を誘発する恐れがあるので、できれば抑制訓練を施してください」
沙耶は、どこかで何かが崩れる音を聞いた気がした。
「……それって、小鳥さん……幸せなんでしょうか」
桐嶋は一歩近づいて、ゆっくりと目を細めた。
「構造上は、問題ありません。
……むしろ、幸福であると定義された環境を与えられます」
やわらかな声音。
でもその奥には、“決定された正しさ”しかなかった。
沙耶はそっと目を伏せた。
桐嶋は一歩下がり、ふと穏やかに続ける。
「ただ、僕は、あなたが何かを“育てたい”と思ったことが嬉しかった。
だからこそ、無秩序に進行する前に、正しい構造を提示しただけです」
「……はい」
それ以上、何も言えなかった。
その夜、沙耶は静かに気づいた。
この人は、“生かすこと”には長けていても、“自由にさせること”には向いていない。
そして自分もまた、それを受け入れかけているのだと。
部屋の外では、どこかで鳥が鳴いていた。
届かない、小さな音だった。