夢のような人
ここに来てから、何度目の朝だろう。
障子越しの光がやわらかくて、空気は香に満ちている。吸い込むたびに、心の底まで染み込んで、落ち着いていく。
桐嶋くんは、毎朝、私の様子を見に来てくれる。
髪のほつれを直してくれて、着物の襟元を整えてくれて、目が合うたびに笑ってくれる。
その笑顔を見るたびに思う。
──王子様、みたい。
こんなふうに思うのは、馬鹿みたいだとわかってる。
助け出されたわけでもない。自由になれたわけでもない。
それでも、桐嶋くんの前にいると、不思議と怖くないのだ。
「おはようございます。体調は、いかがですか?」
そう問いかけてくれる声は、朝露を含んだ銀の鈴のよう。
たぶん、香のせい。
そう思えば思うほど、それでもなお、心が揺れる。
「おかげさまで、落ち着いています」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
反射のように、悦ばせるための答えが口からこぼれる。
けれど、それを“嘘”だと思いたくなかった。
桐嶋くんはうなずいて、わたしのそばに膝をつく。
香炉から漂う香りが、彼の衣擦れとともに揺れて、髪に、肌に、絡みつく。
目の前にある着物の胸元。細い指。整った横顔。
──ほんとうに、綺麗な人。
こんな暗い場所に似合わないくらい。
「なんだか……王子様、みたいですね」
思わず漏れた言葉に、自分でも驚いた。
でも桐嶋くんは、すこしだけ目を細めて、やさしく笑った。
「それは、光栄ですね……では、あなたは、眠れる姫ということにしましょうか」
眠れる姫。
それは“待つ者”の名前。目を覚まさないまま、ただ眠るだけの存在。
けれどその言葉が、なぜか心にすとんと落ちた。
──私は、目を覚ましてはいけないのかもしれない。
目を覚ましたら、夢が終わってしまう。
桐嶋くんの指先が、髪に触れる。
ほんの一房をとって、耳の後ろにそっとかきあげるだけ。
でも、そのやさしさが怖いと思った。
この人は、やさしい顔で、やさしい声で、
わたしのすべてを、少しずつ塗り替えている。
それに、気づいてしまっている自分がいる。
それでも、この夢のような時間を、失いたくないと思ってしまっている。
「良い夢を。僕の▇▇▇」
そう言って桐嶋くんが立ち上がる。
畳に残る温度と香りだけが、そこにとどまった。
わたしは、閉じたふすまをぼんやり見つめながら、胸の奥にうずく感覚を見つめていた。
不安か、悦びか、それとも──そのどちらでもない、もっと深いもの。
夢のような人だった。
でも、夢の奥にある現実から、目を逸らしているのは──きっと、わたし自身だった。