器が見る夢
はじめましての方へ。
『香牢』シリーズは、人を“悦ばせる”香に支配された密室実験の物語です。
調香師・桐嶋と、被験者であり、監禁された少女、沙耶。
この掌編集は、本編で語られなかった、桐嶋と沙耶の“余白”や“日常”を描いた短編集です。
香に満ちた静謐な狂気の世界に、どうぞ一歩だけ足を踏み入れてみてください。
この話は、まだ沙耶が“器”になる前の静かな一夜を描いたものです。
時系列的には、【香牢-香と従属の記録-】の途中経過くらい。
本編未読でも読めますが、読了後に読むとより深みが増す内容です。
書いた時期によって、沙耶一人称だったり三人称だったりで、読みづらい部分もあるかも知れませんが、そこはご愛敬で(ヲイ
夜の帳がすっかり降りて、障子越しの庭には虫の声がかすかに響いている。
涼やかな香が、部屋の空気にほのかに漂っていた。
沈丁花のようで、けれど違う。もっと深く、もっと甘やかに――どこか、眠りを誘うような匂い。
桐嶋さんは、隣に横たわっていた。
背中越しに距離を取ると、すぐに手を伸ばされるのが常で、今夜も例に漏れず、その指先が私の肩口に触れてくる。
「眠れませんか?」
囁くような声。
頷くと、すこしだけ布団が揺れた。
「では……少し、話をしましょうか。眠くなるまで」
心臓が、ひとつ跳ねた。
桐嶋さんが話をしてくれる。たったそれだけのことが、まだ嬉しいと思ってしまう。
「昔々、あるところに、“悦びを宿す器”を求めた人々がいました。
何を与えても、決して壊れず、何度でも悦ぶ。
そんな器が、もしこの世に在ったなら――人は、孤独から救われると信じたのです」
低く穏やかな語りは、まるで夢の入口のようで。
私は目を閉じ、耳だけを澄ませる。
「器は、心を持っていてはいけません。
悲しみも、怒りも、恐れも、できれば……愛情さえも。
そういったものは、全て“形”を歪ませてしまいますから」
少しだけ指が、私の髪に触れた気がした。
それは撫でるとも違う、繊細な検査のような手つきで、私の存在を確かめてくる。
「でも、人間は――少しずつ、器になることができるのです。
時間をかけて。手順を守って。余分なものを取り除いていけば……ね」
まるで、やさしい調香のように。
ひとつずつ香りを重ねていくように、感情を、言葉を、記憶を剥ぎ取っていく。
「あなたは、美しい器になるでしょう。
ほら、こうして目を閉じて、静かに話を聞いてくださる。
それだけで、十分です……十分すぎるほど、ね」
何も返せなかった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
怖がるという感情が、ほんの少し鈍くなっていたのかもしれない。
「その器には、名前がついているんですか?」
思わず口にした声は、驚くほど掠れていた。
桐嶋さんは少しだけ間をおいて、笑った。
「ええ。“悦びの器”。けれど、僕はもう少し詩的な呼び名が好きでね。
たとえば、そう……“香炉”なんてどうでしょうか。
香を焚かれ、悦びを燻らせながら、ただ静かに、そこにある。
……とても、美しいと思いませんか?」
その言葉を、私は静かに反芻した。
――香炉。
どこか懐かしい音の響きだった。
子どもの頃、お寺に行ったときに見た、青い煙をくゆらせる丸い器。
触れたら熱そうで、けれど美しくて、まるでなにか特別なもののように見えた。
でも。
「それは、」
声にならない声が、喉の奥で滲む。
香を焚かれるためだけに存在する器。
燃やされることに意味があるもの。
静かに、壊れることもなく、ただそこに在り続ける――そんな存在。
「……綺麗、だと、思います」
そう口にした瞬間、自分でも驚くくらい、胸の奥がきゅっと縮こまった。
綺麗だと、本当に思ったのだ。
でもそれは、どこか少しだけ、“自分が自分でなくなっていく”ような怖さに近くて。
桐嶋さんは、何も言わなかった。
ただ私の返事に、満足げな微笑みを浮かべて、ゆっくりと髪を撫でてくれた。
「ありがとうございます。嬉しいですよ、沙耶さん」
その声に、私の心のざわめきは、すうっと香煙のように薄らいでいった。
綺麗なものになれるのなら、それでもいいのかもしれないと、思ってしまった自分が――少しだけ、こわかった。
やがて、桐嶋さんの手が私の背に触れ、静かに布団を整えてくれた。
「おやすみなさい、沙耶さん。綺麗な夢が見れますように」
その声に頷いて、私は目を閉じる。
夢の中で、香りに満たされた器が、薄暗い水底のような場所に、ただ静かに沈んでいるのを見た。