序章※一部残酷描写有
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それでは、早速。どうぞ!
──重たく、沈んだ空だった。
灰色の雲が、空一面を覆っている。
風は冷たく、空気は妙に湿っていた。
だが、雨はまだ降っていない。ただ、降り出す寸前のような、息を潜めた緊張だけが辺りを満たしていた。
人々の声が波のように広がる。
怒号、罵声、嘲笑。
そのどれもが、彼と私に向かっていた。
「民の苦しみも知らず、奪い尽くす貴族どもが!」
「反逆者に慈悲は要らん!」
「今度はあんたが、晒される番だ!」
広場に響く罵声は、彼らの名を呼ぶことはなかった。
誰一人として、これから死にゆく者の名に興味はなかった。
ただ“悪徳貴族”“血塗られた支配者”と、象徴としての怒りだけが彼らを飲み込んでいく。
檻のように組まれた柵の向こうで、彼は静かに立っていた。
罵声も、投げつけられる石も、
まるで何も聞こえないかのように。
その姿は──冷たく、遠かった。
隣に並べられた私は、手も足も縛られ、ただ無力に震えていた。
心は恐怖と悔しさでいっぱいだった。
なのに、彼は……彼だけは、最期のときを前に、微動だにしなかった。
「……どうして、黙ってるのよ……!」
私は叫びたかった。
こんな仕打ちを受けても、あなたは何も言わないの?
あなたのことを、誰も分かってくれないのに。
いいえ、私でさえ──あなたのことなんて、何ひとつ。
静寂。
瞬間。
刃が、落ちた。
視界が、ぐるりと天地を返す。
世界が反転する中で、最後に映ったのは──
濁った石畳に転がった、ひとつの顔。
彼の顔だった。
その紫の瞳が、じっとこちらを見ている。
その目から、静かにひとすじの涙が流れていた。
そして——口元が、わずかに動いた。
声にはならなかったけれど、確かに彼は、何かを伝えようとしていた。
…私に、何かを。
──どうして、あのとき、泣いたの?
冷たくて、遠くて、私には決して届かなかったはずの人。
それでも最後の最後で、彼は私を見て、涙を流していた?
あの瞬間を、私は今も夢に見る。
何度も、何度も、繰り返し。
その意味は、今もわからない。
けれど、
彼の瞳に浮かんだあの涙だけが、ずっと、私の心を離れない。
もう届かないのに……知りたいと願った。
* * *
──扉が静かに閉じる音に、父の声が重なる。
「紹介しよう。お前の婚約者、リュシアン・ヴァルグレイヴ殿だ」
その名を耳にした瞬間、心臓が一際強く脈打った。
そんな場面──知らないはずなのに。
それなのに、なぜか胸の奥が、ざわついた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
淡い金の髪が陽の光を受けて揺れ、
整った前髪の奥から覗くのは、
あのときと同じ──
静謐な光を湛えた、紫の瞳。
その瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。
──この人を、私は知っている。
そう確信した瞬間、理由のわからない眩暈がした。
記憶の奥底を掻き乱すような、不穏な波紋。
けれど、その正体に手を伸ばす前に、父の声がそれを打ち消す。
「優秀な方だ。若くして伯爵位を叙爵されて、王城でも頭角を現していてな、陛下からの信頼も厚い。これ以上の縁談は、そうそうあるまい」
父の声には、隠しきれない満足と安堵が滲んでいた。
まるで難題が一つ片付いたとでも言いたげな、晴れやかな調子。
「リュシアン殿には、公爵家の名を継いでもらうことになっている。私と妻は、しばらくは南方の領地で静かに暮らすつもりだよ」
それが、まるで何の問題もないことであるかのように、父はさらりと告げた。
私の意思など、初めから存在しないかのように。
「……あの、それは──」
言葉を差し挟もうとした私に、父は軽く片手を上げて制した。
「心配いらん。すべて決まったことだ。お前のためにもなる」
その物言いに、悪意はなかった。
けれど、それがかえって冷たかった。
まるで、娘という存在は“駒”のひとつでしかないと言われたようで。
「……では、若いお二人で、ゆっくり話すといい」
そう言い残して、父は部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに重たく響く。
部屋には、沈黙が落ちた。
私と──彼、リュシアン・ヴァルグレイヴだけ。
「……」
彼は、私を見たまま何も言わない。
その瞳の奥には、やはり何かが隠されている気がした。
私がどう言葉を選ぶべきか考えていると、彼のほうが先に口を開いた。
「先に言っておこう」
低く、落ち着いた声だった。
淡々としているのに、どこか冷えた鋼のような響きがある。
「この婚約は政略の一環だ。私にとっても、君にとっても。愛情や忠誠といった感情を求めているわけではない。……君も、そうだろう?」
それは、確認というより宣告に近かった。
まるで何度もこの言葉を口にしてきたかのように、整いすぎた声音。
私が返す言葉を探すよりも先に、彼は淡々と続けた。
「私には、すでに心を通わせている相手がいる。だから君も、好きにして構わない。ただし──」
視線が一瞬だけ、私の腹部のあたりをかすめる。
言葉よりも先に、背筋に冷たいものが走った。
「外に子を作ることは、許さない。名門公爵家の名を預かる以上、それだけは許容できない。
私は私で動くし、君に干渉はしない。その代わり──君も、私の邪魔はしないでくれ」
思わず、言葉を失った。
私は、何も言っていないのに。
それは、まるで契約の条件のようだった。
夫婦ではなく、協定。
温もりではなく、線引き。
そう言った彼の顔には、何の揺らぎもなかった。
けれど──なぜだろう。
その「正しさ」が、どこか過剰に整っているように思えた。
──何かが、違う。
ほんの一瞬、胸の奥がざわめいた。
まるで、頭の奥底に沈んでいた何かが、泡のように浮かび上がってきたような。
この言葉、この態度、この結婚の形。
私に一切の情を向けないまま、処刑台に立っていたあの人。
私が“あの時”に見た彼とは、どこかが違っている。
彼はもっと冷たくて、もっと無関心で──何も言わなかったはず。
少なくとも、こんな風に「契約の条件」を突きつけてくるような人ではなかった。
なのに──。
(……おかしい)
もしかして、繰り返し見たあの夢の状況とは、少しずつずれている?
あの夢が“過去”だと信じていたけれど、もしかして……違う世界の“未来”だったのかもしれない。
歴史をなぞっているようで、擦り切れた糸のように、少しずつ軌道がずれている。
誰かが、見えない手で世界を少しだけ動かしているような、奇妙な違和感。
「クラリス・フォン・リューデンベルク──名門公爵家の一人娘にして、淑女としての作法も非の打ちどころがない。名門の血を引きながら、派手に振る舞うこともなく、社交の場では、ただ静かに咲く花のようだったと聞く。そういう性質は、むしろ好都合だ」
それは、本当にただの“情報”としての言葉だった。
私という人間への理解ではなく、あくまで見聞きした情報を読んだように。
けれど、まるで彼は、私のことを“よく知っている”ような気がして。
それでいて、“何も知らないふり”をしているような……そんな、妙な感覚。
「……あの」
「私たちの関係に、余計な感情を持ち込まないこと。それが、互いのためだ」
ここにいる彼は、“ただの”リュシアン・ヴァルグレイヴ。
冷静で、優秀で、そして政略のために私と婚姻を交わす相手。
……それ以上でも、それ以下でもない。
だから、こんな思い込みに惑わされてはいけない。
「……わかりました」
私はただ、そう答えるしかなかった。
世界のずれも、夢の意味も、今の私にはどうにもできない。
ただ、少しずつ。
あの夢と、この現実の“差”を、見逃さずに積み重ねていくしかない。
最後まで見てくださって、ありがとうございました!
また次回、お会いできるのを楽しみにしています!
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