運命
馬車の外が静かになった。盗賊が全滅したのか、それとも逃げたのかはわからなかった。
でも、もう危険がないことだけはわかった。だから、馬車の扉をそっと開けた。
「お嬢様。」
「オルギュール、終わった?」
「はい。きちんと全て、終わりました。」
エドラ=ケンタウロス公爵家に仕える非常に優秀な家臣が笑みを浮かべる。エルフィの鼻腔には何かが焦げるような匂いが漂ってきていて、これが死んだ賊徒たちのモノである、という事実を否応なく突き付けてくる。
「燃やしたの?」
「はい。こうすることで、その灰は大地に還り、その躯は世界をめぐります。彼らの死を、生きた証を無駄にしない。それが、私に出来る唯一の手向けです。」
襲われたとはいえ、殺した。その罪は、きちんと償う。彼の言は、そのためのもの。
「私も、弔う。」
死者の弔い方など知らない。だから、彼女は前に出る。火の前で、黙祷して、その死が綺麗に大地に還れるように。
「次は、きっと綺麗な世になっているから。……して、見せるから。」
だから、安心して。そう、心の中で呟いて。
振り返って、少女は驚いた。
「誰?」
そこには、彼女の知らない、一人の男がいた。
「初めまして、エルフィールお嬢様。私は王宮師範、『王像候補』指南役を務めております、ギュシアール=ネプナスと申します。以後、お見知りおきくださいませ。」
その背丈は180に届こうかという、身長100にも満たない少女から見たら巨人とすら思わせるような男が立っていた。その背中には、男の背よりも長い巨剣が二つ、交差するようにかけられている。
「あなたが、助けてくれたの?」
その筋肉は、見るだけで畏怖を抱かせるほどに大きく、浮き出た血管は少々生々しい。言い方は悪いが、5歳の少女には気味が悪いはず。
しかし、彼女は臆することなく、頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう。」
「どういたしまして、お嬢さん。あなたがエルフィールさんで合っていますね?」
男は確信をもって尋ねる。男は、自分の姿が少なくとも幼い少女には恐怖の対象になり得ることを承知している。実際、少女の目の奥には、先ほどの襲撃とは別の意味でも怯えがあるのも見てとれる。
それでもなお、怯えを我慢して礼を言えるような少女が、ただの平民だとは思えなかった。胆力というのは、勇気というのは、誰でも振り絞れるものではないのだ。
「ええ。わたしが、エルフィールよ。はじめまして。」
優雅に挨拶をする少女に、男は屈んで目線を合わせた。目線の差が恐怖を生み出すだろうと考えた故だった。
「いいわ、立って。今から、王都に行くの。一緒に行って、もらえる?」
たどたどしい言葉だった。人見知り、というよりも、恐怖が先行しているだけではあったが。無理もない、先ほどまで命の危険に晒されていて、今は命の恩人とは言え見知らぬ巨人と話をしているのだ。
むしろ拒絶もせずに、ついてくるように依頼した少女の方が、ある種豪胆だろう。
「ほう。」
むしろ感心したのは、男の方だ。プルプルと震える腕で気張る姿は、見る目がない者にとっては滑稽に映るものだ。しかし、その姿がどれほど難しく、また気高い行為であるか、男が知らぬはずがない。
まだ5歳の少女が、成人男性にすら難しいことをやってのけている。将来が楽しみだと、真剣に思った。
依頼であった。メンケント=エドラ=ケンタウロス=ペガサシアからの、娘の護衛依頼を受けただけのつもりであった。
つまらない依頼だったが、ちょうどアダットの更生に諦め、レッドの自信に倦み始めていた頃である。王都の外に出るのも気分転換になるだろう、と思ってのことだった。
思いもよらぬ拾い物をした、この娘を育てられないか……そんなことをうすぼんやり望んでしまった。
「勿論です。喜んで、護送いたします。」
男が即答する。面倒だと思っていた心が霧散する。
その日、男は未来の運命を見た。
馬車の道程は四ヵ月が予定されていた。アルハンデロからディアエドラまでは、昼夜を徹した騎馬での強行軍でさえ一月かかる。
護衛は歩兵、馬車での行軍、食事は自炊……四ヵ月想定でも短いくらいである。結構な強行軍であった。
「エルフィール様、よく馬車の上で本を読んで目を回しませんね。」
「これくらいなら、大丈夫。馬を休ませている間は、読める。」
そんな強行軍の中、エルフィールが読んでいるのは歴史書だった。読み書き計算がそれなりに出来るようになって、次に求められたのは刺繍か音楽か、という状態になった少女だが、馬車の旅ではそのどちらも難しい。
それなりに技術がある状態であれば馬車の中で刺繍を学ぶのも一興かもしれなかったが……いくらなんでも、初心者にそれを要求するのは無茶というものである。
そういう事情も相まって、彼女に要求されたのは、より高度な文章の理解能力。大の大人が何ヵ月もかけて読むような代物を、ほんの一割でいいから「読める」ようになれというものだった。
求められたのは読めるようになることであって、理解できるようになることではない。エルフィールはそんなこと知らなかったし、知ったところで意味など分かるまいと父メンケントは思っていた。
「ギュシアールさん。この本、どこを探しても農民たちの生活についての記載がないんだけど、どうしてなの?」
その本を想定外の速度で読み進めていた公女が声を発した。目を落としているだけで読んでいるわけではないだっろうと考えていた侍従は目を丸くし、護衛の男は仰天して腰を浮かせた。
二人の反応に首を傾げつつ、幼女は続ける。
「神様の力がどういうものかは書いてあるわ。どういう戦いでどんな功績を立てて貴族の家が出来上がったのかは書いてあるわ。私の家が、元々エドラ=ケンタウロス公爵家なんて名前じゃなかったこともわかったわ。でも、人々の暮らしがわからないのよ。何一つ。」
「それは……。」
どう話すべきか、護衛の男が言葉に詰まる。だが、それよりも前に侍従の男が口を挟む。
「待ってください、お嬢様!……まさか、本当に全て目を通されていると?」
「読んでいるだけよ、オルギュール。1回まず内容を把握しようと思って。でも、1回読んでいるだけで疑問が出て来ちゃったの。」
オルギュールは唖然とした。何度も読むつもりで本に目を通す、という所業もそうだが。軽く目を通すだけで、深く考えずとも内容を把握できるその頭脳にである。
とはいえ、問われたからには何かしらの答えを出さねばならない。エルフィールが疑問に思わず、公爵家にとって都合が悪くなく、その場しのぎではない答え。
無論、そんなもの都合よく出てくるはずもない。唖然としながらも必死で頭を悩ませるオルギュールを尻目に、ギュシアールは答えた。
「重要なのは、その歴史書が何のために編纂されたものなのか、という点です、エルフィール様。あなたの目から見て、その本は何を中心に描いているように見えますか?」
公女はその問いに、微かに首をかしげて固まる。車輪が砂利道に三度跳ねたとき、ようやく重い口を開いた。
「私の家。エドラ=ケンタウロス公爵家、だと思う。」
思う、とつけたのは自信のなさの表れ。だが、その言葉には迷いもなく、これが答えだと確信しているようで。
男は目を細めた。物事をよく理解している。さっき聞いた言葉を信じるならば、エルフィールは今、理解するつもりで本を読んでいなかった。深く考えながら本を読んでいるのではない。表層をなぞっているに過ぎないのだ。
そんな中で今の答えが引っ張り出せる。問い返したこちらの意図を汲んだだけではなく、これを読ませようとした父の意図を汲んでいるのだ。
そうでなければ、この問いに対する答えは、「わからない」以外にない。
「そうです、エルフィール様。これはあなたの父が、あなたに生家の誇りをもってもらうために用意した書物。エドラ=ケンタウロスにとって重要なことが書いてある書類となります。」
急ぎで詰め込みをするには、どうしても時間が足りなかったのだろう。生まれに見合った所作を身につけるには、どうしても時間がかかる。
というのも、所作、礼節というのは意識的に出るものではない。鋼の理性をもってしても、ほんのわずかな身じろぎ、頭を動かした時のブレ等に出てくるものだ。言動なら、もっとわかりやすい。
そういう基礎を叩き込むのは、いかな天才とはいえ時間がかかる。エルフィールは一年で基本的な読み書きが出来るようになった天才だが、礼節所作もまた一年で叩き込まれている。一般論で考えて、無茶である。
基本的な礼節ですら怪しいのだ、一族の出自など、学ぶ暇がなかった。だから、この馬車の旅の中で覚えてくれたら助かるな、くらいの感覚で、公爵はエルフィールにその本を読むよう言ったのだ。
そこまで聞いて、しかしエルフィールは疑問が消えたわけではなかった。むしろ、深まってしまった。
「なぜ、エドラ=ケンタウロス公爵家にとって重要なことの中に、農民たちの生活がないの?」
「それは、農民の生活が貴族に執って重要であると他の家から思われることがあれば、舐められるためです。」
農民たちはそこまで重要な存在ではない、と暗にギュシアールが告げる。もちろん、国にとっても文明にとっても生きるために必要な役柄をこなしているのは間違いない。が、政治とは見栄の世界だ。
それ以上に。『神定遊戯』のある世では、王から役職を与えられ、覚えがめでたければ、領土の豊作をある程度保証してもらえるのだ。そんな環境で、農夫に意識を割くこと。それは、見方によるが……利益には、ならない。
「公爵家の農夫を守るにあたって、公爵家は王家にとって有用であることを証明しなければなりません。そしてその証明方法とは、『神定遊戯』にて『像』を得られるほどに有能な人材であること。つまり……家としての誇りを掲げ、遺した功績を喧伝することこそ、重要なのです。」
だからこそ、貴族の歴史書に……家の隆盛を描く書物に農夫の話が出てくることは、よほどのことがない限り、あり得ないことだとギュシアールは言う。
「さて、講義の続きは後ですね。」
フラリ、と首が揺れた公女に言った。馬車に揺られながらの読書は、出来るとはいえやはり体力を消耗したのだろう。急激に襲ってきた眠気に少女は抗おうとしていたが……流石に護衛の男の目は誤魔化せなかった。
「お休みなされませ、エルフィール殿。知りたいことがあれば、また後でお話いたします。」
オルギュールが苦い顔になるのを無視しつつ放たれた言葉に、エルフィールは安堵して……その意識を、落とした。