家針
それから三年の月日が過ぎた。
エルフィールの日課には、武術の訓練に加えて軍学の勉強が増えた。
それに伴い、地理・歴史の勉学が増え始め、経済を始めとした一部カネの流れについての学習も増える。
13の娘がやる勉強量ではなかった。男であればそちらを要求されただろうが……エルフィールは、同じ年ごろの子女として要求される刺繍や音楽を始めとする芸術について学ぼうとはしなかった。護身に用いる魔術の勉強こそしていたが……そちらも、ほどほどに、である。
「時間が足りない。」
この頃の彼女の口癖は、それであった。
とはいえ、13歳である。
貴族の子女としては、そろそろ婚約を考えなければならない時期に差し掛かっていた。
「エルフィール。いつになれば舞の練習をするのですか。管弦のひとつふたつ、早く学びなさい。」
「母上……。俺は恐らく結婚など出来ませんよ。俺みたいな傾奇者を妻にしたい者など、いないでしょう?」
「あなたは顔はいいのだから、男の領分は男に任せて、妻としての技術を身につけなさい。」
結婚は女の幸せだと言わんばかりの母の剣幕に、エルフィールは辟易する。最近はずっとこうだ、結婚しろ結婚しろと煩い。
もちろん、エルフィールとてエドラ=ケンタウロス公爵家の者として義務を放棄するつもりなどない。
いずれは誰かと結婚し、子を為すだろうとは思っている。
だが、せめて……国の端から端を横断するうちに、20では利かない数の襲撃を受ける国の状態を変える気概を持つ男とでありたい。そしてそんな男、そうそういないと思うのだ。せめて……せめて自分が世界を救おうとする行動を許す人とがいい。
「大人しく嫁に入るつもりはない。俺が武を磨いて、軍を率いて、勝手に民を守ろうとする行動に援助できるような男じゃないと、結婚対象にはならないよ。」
「そんな寝言言うんじゃありません!」
母が怒りを公女に向けた。だから、婚約なんてする気はないんだと公女は肩を竦める。寝言のつもりも勝手のつもりもない。
本気で、心底から。
自分は、家より世界を何とかしたい、盗賊が跋扈せず、農民たちの命が脅かされることもなく。
ただ、誰もが安心して生きられる世の中にしたいと思っているのだから。
とはいえ、である。エドラ=ケンタウロス公爵家としては、その意見を尊重してやるわけにはいかない。
客観的な事実として、それは娘の教育に失敗したという『成果』になる。メンケント個人の名声は地に落ち、その経歴には無視できぬ傷がつく。公爵家当主は、別にそれ以外の仕事を持たないわけではない。王家から現在、執政官の一人として役職をもらっているのだ。順当にいけば、あと五年ほどで宰相位まで駆け上がれるとすら言われる身。決して、娘の教育失敗などという汚名を被るわけにはいかぬ身の上である。
メンケントは、娘を呼び出し、王都行きと、見合いを命令するしかなかった。
「エドラ=ケンタウロスに連なる者として、家の利益になる婿を探しだせ。……命令したくはないのだ、エルフィ。それだけは、わかって欲しい。」
苦々しい表情で吐き出す父の顔を見れば、心の底からそれを告げている事実を疑うわけにもいかなかった。
しかし、公爵家とは名門だ。決して、見合い、婚約から逃れられたとも思えない。いずれは命令を受けることになっていた、とばかりにエルフィールは大きくため息をつき。
「どうしたらいいと思う?」
かしこまりましたなどとは決して答えず、天井裏を睨み据えるように問いかけた。
クスクス、と小さな笑い声。それと共に天井から人が動く音。数秒の空白の後、鍵を開けてあったのだろう、窓から飛び込むように人影が転げ落ちる。
「エルフィール、よく気づきました。腕をあげましたね。」
「師匠があっさり俺を手放すとは思わねぇよ。」
だからこそ、集中して気配を探した。本気で隠れてはいなかっただろう、とまで言い当てられて。ギュシアールは苦笑する。
「流石、賢いですね、エルフィール。で、どうしたらいいか、ですか。」
婚約などする気はない、と言わんばかりの問いに、しかしギュシアールは明朗に答えを返した。
「あなたが結婚を選べる女性になればいい。」
性格には、選りすぐりしても文句を言われないほどの女性であればいいのだと男は言った。
一瞬、考える。どういう意味合いで言われているのか、すぐに悟るのは難しかった。
前提として、エルフィールは結婚する気はない。少なくとも、民を安んずるつもりのない者たちに嫁ぐつもりは決してない。
しかし、公爵家令嬢という出生が、それを許さないのだ。女であるという性別が、軍政や民の生活を考えることを許さないのだ。
家を守り、子を繋ぎ、次代を育む。教育を受ける令嬢の最も大事な役割が、エルフィールの望みを潰している。
「あなたが家から婚約を急かされているのは、婚約をすれば武や軍への傾倒がなくなるだろうと思われているからです。」
「それだけではない、ギュシアール。エルフィールの軍武への傾倒を隠すのが大変だからだ。」
その言葉に、エルフィールもギュシアールも苦笑した。否定しきれぬものを感じたからだ。
繰り返すようだが、貴族子女の義務は結婚、子を繋いでいくことが大きい。もちろん内政への参加もあるが、そちらは夫を助ける内助の功というやつが求められる。
つまり、武や軍を学び、財政を学び、経済を学ぶエルフィールは、本質的に貴族令嬢としては失格である。当然、そんなものを生み出してしまった公爵家なんていう疵を、メンケントはつけられない。
そもそもエドラ=ケンタウロス公爵家は相当の有力貴族である。その家名に『エドラ』を冠する、『王像の王』を排出する可能性のある一門である。
一昨年産まれたエルフィールの弟……カウスには、『王像の王』になる可能性がある。
エルフィールの結婚は、王の姉の結婚という結果になる可能性もあり、重要ごとであり……だからこそ、その成否は一族の将来に直結する。
将来の宰相候補として名を馳せているメンケントとしては、家に傷をつけないためにも全力で情報統制を行い、エルフィールの成長の実情を隠し通さなければならなかった。
隠し通さなければ、一族は没落するのだから。
「ですが、エルフィールの才覚は稀有なものです。腐らせたくはありません。」
「それはお前の都合だ、ギュシアール。エドラ=ケンタウロス公爵家にとって、エルフィールの才能は腐らせておかないとならぬものだ。」
エルフィールが歯噛みする。世の中を安寧にするべく鍛えあげた能力のすべてを、否定された気分になった。
彼女とてわかっているのだ。父は、エルフィールを否定したわけではない。そこに価値を産み落とさなかっただけだということは、エルフィール自身がよくわかっている。
「ええ、私の都合、そしてあなたの愛娘の都合です。よもや、愛娘の都合を無視するとは言わないでしょう?」
「それが家の為であれば、無視するしかない。ゆえに……話してみよ、どういう手があるのか。考慮に値するのかは、私が判断する。」
厳格な顔を見せつつ、どこか甘い父の面影を隠せぬままにメンケントが吐き出す。それに、ギュシアールは満足そうに笑んだ。
「エルフィールに見合いをさせる。、大いに結構。ですが、時期は改めなさい。一年後にすることだ。そしてエルフィール。君は、今すぐに公爵令嬢として完璧な技術を身に着け、社交界に飛び込みなさい。」
え、という表情を二人ともがした。エルフィールの軍武政務の実力を買い、その才覚を腐らせたくないと言った男の口から出た発言とは思えなかった。
だが、ギュシアールは本気も本気である。むしろ、それしか手がないと考えていた。
「まず、エルフィール。よく聞きなさい。あなたは、今のままだと望まぬ男と婚姻を結ぶ。必ずそうなる。だから、社交界にて『高嶺の花』になりなさい。」
何を言っているのか、エルフィールにはわからなかった。望まぬ男と婚姻を結ぶことと、高嶺の花になることが、結びつかない。
ただ、何か考えがあることだけは理解して、エルフィールは話を聞く姿勢を維持する。
ここで不機嫌になろうものなら、彼は話さないことを選んだに違いない。そう思わせる、含みのある笑みをギュシアールは浮かべ……。
「あなたを手にした貴族男子は栄光を手に出来る……そう思わせられるほど、理想の貴族女性になりなさい。誰もかれもがあなたに求婚する、そんな女性として名を馳せるのです。」
そんなことをすれば、より結婚を求められるだけではないのか。そう問いかけた公女に、師は優しく笑んだ。
「あなたの我儘で結婚をしないのか、あなたの目に適う男がいないと捉えられるのかの違いです。前者は公爵家とあなたの名声に大きな疵が付きますが、後者はまだマシでしょう。」
なるほど、確かに。メンケントは大きく頷きを返す。エルフィール個人が求婚を断るだけの名と権威を持てば、エルフィールへの結婚の申し込みは嫌と言うほどに増えるだろうが、同時に断ったところで文句も言われ難い。
元よりエドラ=ケンタウロスは名門。公爵家という爵位もある。彼女に、家柄という面で求婚できる男は元より少ない。
「あなたの美貌は、他の追随を許さないものがある。体型こそ筋肉質ですが、多少は魔術で誤魔化し服装で隠し通せる。あとは立ち居振る舞いと教養さえなんとかなれば、あなたは完璧な淑女として扱われるでしょう。」
それさえあれば、あなたの望む、民を救おうとする男が現れるまでの時間稼ぎも出来るだろうと告げるギュシアールの瞳は、本気そのものである。話している言葉の理屈は、理解できるとエルフィールも笑った。ただ、あまりに現実味のない話でもある。
「俺は全く嫁入り修行も刺繍も管弦も学んでねぇ。見合いで相手を断って当然だと思われるほどの女になるために、どれだけかかる?」
「あなたが王都へ行くまでの半年間、私がみっちり叩き込みます。半年で完璧と言われるほどにやってのけなさい。」
「んな、無茶な!」
「あなたの才覚と努力があれば出来ますよ、エルフィール。それとも、諦めて素直に嫁に行きますか?」
それはごめんだった。無茶苦茶な努力だとわかっていても要求してくる師に少々呆れはしたものの、大人しく嫁入りをしたくなければ無茶を通すくらいはしなければならなかった。
「あなたが誰もが得たいと思うほどの美しい宝石であればあるほど、あなたは我儘が許されるようになる。頑張りなさい。」
「待て!」
エルフィールとギュシアールの間で話が決まりそうなところで、メンケントが声を上げる。エドラ=ケンタウロスの当主は彼である。娘の進退については、実際のところ彼が決定権を持つ。
なのに、娘と、娘を武とかいう最悪の道に叩き落とした悪鬼がまず間違いなく家の進退に関わる決定を下そうとしているのである。
「そもそもエルフィールのその夢は、女が抱くものではない!ましてや、片隅の一貴族がだ!王が決める国の方針だぞ、それは!」
身分に合わない夢は諦めてくれ、もう13になったんだと公爵は思っている。もう、エルフィールの心変わりはないのかもしれないという諦めもまた、ある。
だからこそ、さっさと婚約させて逃げ道を塞ぎ、エドラ=ケンタウロス……もとい、自分と長男の出世の道を絶たないようにしようと、必死の想いであるのに。
「エルフィールの武への傾倒がバレると、それだけで娘も碌に教育できなかった男の烙印を貼られかねないのだぞ、わかっているのか!」
お前らの勝手で家を滅ぼすな、そう言わんばかりの主張に対し、ギュシアールは疑問符を浮かべつつ逆に問い返す。
「完璧な令嬢としての学を修めた女が軍武への理解もあるのと、軍武に傾倒し貴族女性として失格なのと、どちらがよいですか?」
それは、その二択であれば当然前者であるとメンケントは思う。だが、そういう問題ではない。そういう問題では到底ないのだ。
確かに、貴族女性として何もしないより、最高級の宝石になるほどに磨き上げられる方が良い。だが、そうなったところで、エルフィール自身の武への傾倒が、男顔負けどころか引き離す次元の異常な強さが消えるわけではない。
婿を取らせ、家から離してしまえば「エルフィールはエドラ=ケンタウロスのものではないから関係ありません」ということが出来た。もう少し大人しくなることを期待することも出来た。
民を救うということを諦めさせる必要がある中で、それを諦めずともよいと主張するギュシアールのやり方は、到底受け入れられるものではない。まじめに、家が傾く。
「いいえ。エルフィールが女性としての嗜みを身に着けていないなら家が傾くでしょう。しかし、非の打ちどころがほとんどないほどに完璧に嗜みを覚えた上での武・軍の心得は、確かに汚名にはなるでしょうが家を傾けるほどにはなりません。」
何しろ、嗜みを怠ったわけではないですからね、というギュシアールの言葉に、メンケントは頭を抱えざるを得ない。
彼の言葉は正しい。まず間違いなくエルフィールの武芸の腕は、正しい女性の在り方を望む貴族たちにとって大顰蹙を買うものだ。同時に、大量の結婚申し込みが来る程度……女性側が男性を選べるほどに「モテる」状態までに器量を高めた後であれば、家にとって致命傷になるほどの大問題ではない。
それでも確かに疵はつくのだ、という主張は受け入れられそうになかった。娘の瞳には決意の彩が浮かんでいたし、こういう時のギュシアールはたいてい脅迫をしてでも意見を通すのだ。
目を瞑ってわずかに考える。ふざけるな、勘当だと言ってしまってもいいかとすら思った。同時に、そんなことをしてもエルフィールはしぶとく生き残るだろうし、そうなれば二度と会うことがないかもしれない。
娘を手放したくはなかった。失いたくはなかった。これでも、己の子供なのだ。
「メンケント。私の主張を呑むというのなら、5年以内に、私はあなたを宰相の地位に押し上げて見せましょう。」
王家にいる、『王像候補』全ての教育を一手に担っている男からの後援。その言葉に、惹かれないわけではなかった。己は公爵家だ。家柄で見ても、能力面で見ても、宰相の資格は十分に持っているとすら思えた。
だが、あの国王が。自身を『宰相』にするとは思えなかったのに。
「出来るのか?」
「はい。」
願ってもない話だ。宰相になるということは、その分メンケントの能力が国に認められるということ。家柄込みにはなるが……それほどまでに人臣位を高められるのであれば、エルフィールによる悪評も命が残るかどうかの致命傷から全治5年の大骨折くらいに留まるかもしれない。いや、留まる。
「わかった。もう一つ条件を付けた上でなら、エルフィールの『高嶺の花』化と、それに伴うエルフィール自身の手による婚約放棄を認めよう。」
エルフィールが目を剥く。ギュシアールが満足したように頷く。
「まず、エルフィールは二年後に見合いを行うこと。それまでに、社交界での名声を確かなものとすること。」
それなりに高位の貴族令息からの見合い話は、断れない。「モテる」ようになるということは、そういうことだ。
見合い話に対し席を設けないということは、相手の家との交流を求めないという意味に繋がる。メンケントは、そこまで将来を投げ捨てられない。流石にエルフィールもわかっていたから、頷いた。二つ目の条件に関しては言うまでもない。名声を確かにする……「高嶺の花」になれなければ、エルフィールは自分の我儘による婚約相手の選別を行えない。
「最後に。……お前が婚約を断れる年齢の上限は、20だ。行き遅れと言われるまで我儘を通すことは、決して許さない。」
ギュシアールとエルフィールが苦い表情になった。それまでに、エルフィールが夢を諦めるとはメンケントも思っていない。それまでに夢を叶えられるとは、三人ともが思っていない。
それでも、エルフィールはその言葉に頷かざるを得なかった。
メンケントの「20には結婚相手を勝手に決めるぞ」という無言の主張は、決して、エドラ=ケンタウロスの家長としての発言ではなかったからだ。
貴族の常識としての考えではある。女は家に入るべき、という考えではある。
だが、それが人間の女性としてあるべき幸せだと信じて疑わない、エルフィールにとってただ一人の、父親としての愛情あふれる発言だったから。
こうして、2年。エルフィールは、ペガシャール王国で最も美しく、賢い女性として名を馳せることになった。




