6.侯爵令嬢の恋
フィリアは、十二歳。
その時はまだ、恋を知らなかった。
フィリア・アンヴァーケンは、オルヴァスト領主の長女。小柄で、色白、亜麻色の髪を胸のあたりまで伸ばした、玻璃の瞳を持つ少女である。
オルヴァスト領は、ヴェルエラの父の領地と隣接する。同時に、カイレン王国とも接する。ロエンダ王国にとって、重要な場所であった。
オルヴァスト侯には長男がいなかった。諸侯の領地は男が継ぐ決まりになっていたので、婿を取らなければならない。
フィリアの父、ハーネルトは、最近になって、屋敷の改築の為、国王の紹介で設計士のエレオを雇った。
エレオは三十代、背が高く、引き締まった体にスーツが良く似合う。くるくるとした黒い髪のくせっ気で、睫毛が長く涼し気な目元でありながら、大きな黒い瞳は子犬の様に優しい眼差しをしていた。
あぁ。エレオ。なんて素敵な方。あの黒い瞳に見つめられて、あの方の胸に抱かれたい。私、あの方になら、私の唇を・・・
「エレオ・・」
薄紅色の唇がほろりと愛しい名を零す。打ち合わせの為、何度となく屋敷を訪れ、父と家の内外を歩くエレオを見る度に、フィリアは、身体が熱くなり、悶えた。
どうしよう。私、このままじゃ、生きていけない。
「フィリア、結婚の話が進んだぞ!」
夕食時、鼻の下と顎に豊かな髭を蓄えた陽気な父が、喜色を溢してフィリアに言った。
「えっ?!」
フィリアは、青ざめた。
フィリアには、二年前から三人の婚約者がいた。より正確に言えば、あくまで、婚姻候補者であり、皆、こちらの家に入る前提の者達だ。その中の、一人と、話が固まりそうだという。
フィリアは、三人の婚約者と何度か会ってはいる。結婚に向けての準備である。だが、どの婚約者にも、特に何も感じなかった。あちらはがつがつと迫って来るが、こちらはただただ、義務で会い、話をした。最初から自分の意思が介在していない所で、事が決められている状況が、兎に角、嫌だった。
フィリアは、心のどこかでずっと政略結婚を拒んでいた。しかし、それが、突然目の前に迫って来る。
嫌。そんなの嫌!!
「お父様、私は、結婚などしません」
「お前、何を言うんだ。うちには長男が出来なんだ。跡継ぎは貰うしかあるまい」
「でも、嫌です」
フィリアは、それきり黙り込み、自室へ戻った。
数日後、眉間に皺をよせたアルエストが、マーニの屋敷に戻って来た。
アルエストは、力尽きた様に居間のソファに腰を下ろす。
「また問題が起きた」
「今度はなんですか?」
ヴェルエラは、苦笑を浮かべて、向かいのソファに座る。
シルヴィラ王女が、カイレン王国へ嫁いだ後、婚期を迎えた女性たちはヴェルエラに相手と時期を伝えられ、大人しく嫁いで行った。
王女ですら政略結婚を拒めなかったのだ。なのに自分たちが拒否できる訳が無い、と考える者も多かったようだった。
アルエストは、波風の立たない状況に油断しきっていた。
「オルヴァスト卿の御息女だが、結婚は嫌だと言っている」
顰め面のアルエストが、言った。
「結婚そのものが嫌なのですか?」
「分からぬ。父親が結婚の話が進んでいる事を伝えた途端、嫌だと言い出した、、らしい」
「今までは、その様な事はなかったのですか?」
「うん。聞き分けの良い、大人しい娘だったそうだが」
ヴェルエラは、沈黙した。身分のある家の娘たちは、いつか政略結婚することを教えられて育つ。
早々と受け入れる者もいる。だが、受け入れられない者もいる。立場上、簡単に嫌だとは言えない。きっとその御息女は、ずっと嫌だったのだ。
「この結婚は、重要だ。オルヴァスト領は、ロエンダで確保しなければならない」
アルエストは、はっきりと言った。
「はい」
ヴェルエラは、義務的に答えた。
ヴェルエラは、内心、気乗りしていなかった。
女たちに結婚を伝える役を請け負って、一年経っていた。
女たちが、大人しく、はい、と言ってくれれば、こちらも言うことは無い。
だが、嫌だと言う者がいれば、自分が説得しなければならない。
ヴェルエラは、自分が政略結婚をしている為、当然にそれを出来ると思っていた。王女の時もそう思っていた。しかし、やってみると、思っていた以上に辛かった。
ヴェルエラは、常に女たちに肩入れする。
だからこそ、嫁ぐように説得もする。家や政治を拒んで生きていける女はいない。
それでも尚、好き合っている者同士を別れさせるのは、嫌われてなじられるより辛かった。
件の令嬢は、好きな人でもいるのかも知れない。
「君は、どうだった?」
ふいに、アルエストが訊いて来た。
「何がですか?」
「嫌・・ということは無かったのか?」
ヴェルエラは、苦笑を浮かべる。
「今更、そんな事聞いてどうするのです?」
「気になるんだ」
アルエストが、寂し気に言った。じっと、ヴェルエラの目を見つめる。
ヴェルエラの胸は、熱くなった。アルエストは、私と同じように、令嬢に好きな人がいると考えたんだわ。
私にもいたと思って、嫉妬しているのね。
ヴェルエラは、嬉しかった。
なるべく穏便に、本当の事を伝える。
「いいな、と思う人はいましたけど、それ以上のことはありませんでしたよ」
「本当に?」
「はい」
アルエストは、ゆっくりと立ち上がって、ソファに座るヴェルエラの身体に器用に覆いかぶさる。
夫の顔を目の前にして、ヴェルエラは目を見開く。心臓が、どきどきと鳴り、顔が赤くなった。
「アルエスト・・」
「お前は、俺だけのものだからな」
アルエストは、低い声で囁いて、ヴェルエラの口に自分の口を食い込ませた。
ヴェルエラの身体は、熱く、とろけた。