15.誘惑するエレナ
王都から伸びる街道をアルヴァリオン家の治めるアルゴ領へと、まっしぐらに走る馬車があった。
閉鎖型の黒い車体の中には宰相アルエストが若い秘書官と共に乗っていた。
「それにしても、宰相様を呼び出すなんて、身の程知らずもいい所です」
秘書官が、道中で何度目かの愚痴を溢した。政庁のあるロエンダン城からアルヴァリオン家の屋敷まで、半日以上はかかる。無理も無かった。
だがアルエストは、いい加減聞き飽きた。
「口を閉じていろ。ここからは揺れるぞ」
秘書官は、慌てて口を閉ざした。
王都の街道は石畳だが、中心を離れると、土の道になり、でこぼこが酷くなる。王領でも整備の行き届いてない所は多くあった。
がたがたと車体が大きく揺れ出した。
「いてっ」
ひときわ大きく揺れ、秘書官が強かに頭を天井にぶつけた。数日前の雨の影響かも知れない。
アルエストは涼しい顔をしていた。彼が大人しくエレナの呼び出しに応じたのは、彼女がよこした書簡の中で、金の採掘権を半分王家に譲渡する、と持ちかけられていたからだった。
どういう心積もりなのか。本気なのか。確かめる必要があった。
人をやっても良かったのかも知れない。だが、エレナは、ヴェルエラが唯一攻略出来なかった女だ。自分で直接会って話をしてみたかった。
薄い土色の石造りの三階建ての屋敷の前に馬車が停まったのは、昼をとうに過ぎ、日が傾き始める頃だった。
二人は、玄関の前に立った。秘書官が、大きな木製の扉を拳で叩いた。
間も無く、玄関の扉が開いた。出迎えたのは、眠っているかのように見える細い目をした年配の執事だった。
「宰相アルエストと秘書官のリメリオです。御当主の求めに応じて参じました」
「ようこそおいで下さいました。どうぞお入りください」
執事が、丁寧に挨拶をし、二人を招き入れた。
エレナは、法的には当主ではない。女は家を継げないからだ。かと言って、後見人の叔父リヴェーロも後見人であって当主ではない。秘書官は単に便宜上、当主と言った。
当主ではないエレナは、アルヴァリオン家の保有する金の採掘権をはじめとした財産を受け継ぐ権利を持っていないが、訴訟によってこれを確保していた。
玄関前広間を抜け、板張りの廊下をしばらく行くと
「秘書官殿は控えの間でお待ちください」
と、執事が秘書官を控えの間に入らせた。
アルエストだけが、隣の応接室に通された。
何かある、と思いながらも、アルエストは、大人しく応接室に入る。
控えの間の二倍以上はある大きな部屋だった。中央に三人掛けのソファがあり、奥側のソファには既にエレナが座っていた。
エレナは、アルエストが入って来ると、すくっと立ち上がった。
品の良い濃紺のドレスを着たエレナは、穏やかに微笑み、正面のソファを手で示す。
「どうぞ、お座りになって」
アルエストは、応じて、対面に座った。エレナも座った。
エレナは、微笑んだ。
「王都と違って、ここは辺鄙よね」
アルエストが微笑む。
「とは言え、金山を含む、大切な土地ですよ」
「そうね」
「手紙にあった話、本気ですか?」
「ああ、あれね・・・」
エレナは、そう言って、立ち上がった。上半身を倒し、のしかかる様に、アルエストに顔を近づける。
右手をアルエストの太腿に置いた。ぎゅっと力を入れて、服の上から肉を掴んだ。小指の爪が軽く食い込んだ。
アルエストは、目だけを動かし、エレナを見た。
エレナは、微笑んだ。
「貴方が私のものになるなら、譲ってもいいのよ」
エレナは、そう囁いた。右脚を開き、ぬるりとアルエストの太腿に乗る。ドレスには深いスリットが入っていた。白く美しい太腿が露わになる。更に上半身を倒し、胸をアルエストに押し付ける。アルエストの顔に、エレナの甘い吐息が当たった。
エレナは、アルエストを見つめた。薄い青い目が、西日を浴びた湖面の様に茜色を含んで透き通っている。
エレナは、心臓が高鳴るのを感じた。
なんて美しい人なの。アルエスト。
自分の身体を通じて、アルエストの身体の逞しさが伝わって来る。熱い体温が伝わって来る。胸から、激しい拍動が伝わって来る。息遣いから、隠しても隠し切れない興奮が伝わって来る。
ああ、アルエスト・・。
エレナは、ヴェルエラから奪えればよかったアルエストに、既に溺れていた。吸い込まれる様に、アルエストの唇に自分の唇を近づける。
ふっ。
強い鼻息が、エレナの顔に掛かった。
エレナは、冷や水を浴びせられた気分で、アルエストを見た。目の前のアルエストは、すっかり冷静さを取り戻し、苦笑を浮かべていた。
エレナは、レイオスを奪われた時の痛みを思い出した。
「なによ・・。何が可笑しいの?」
アルエストは、微笑んだ。
「可笑しくはないさ、エレナ。君は、賢く、美しい」
エレナは、驚きを露わにした。こんなことを言われたのは初めてだった。
アルエストは、強い目でエレナを見る。
「残念だが、君には、私が本当に欲しいものを用意することが出来ない」
「・・本当に欲しいもの?なんなの?」
アルエストは、微笑んだ。
「ヴェルエラ」
はっきりと、そう答えた。
エレナは、嫉妬で顔を歪めた。
「あんなっ!あんな女の何処が良いのよ!!」
アルエストは、暗く微笑むと、エレナの肩と手首をがしりと掴み、押し返すように対面のソファに座らせ、ソファに乗り、上から顔を近付けた。有無を言わさない力強さに、エレナは子犬の様に身体を震わせた。
「あんまりオイタが過ぎると、殺すぞ」
低い、どすの利いた声で、アルエストが言った。
エレナは、目を見開いた。
それが、恐怖なのか。それとも恍惚か。エレナには分からなかった。