14.裏切り
アルヴァリオン家の屋敷の台所の、奥の壁際で若い女中と男がキスをしていた。
熱く。何度も。何度も。
手前の竈を囲う煉瓦の壁が死角になって、男の顔が見えない。
二人は、互いが互いを求め、キスでは済まなくなる。
女が、男を壁際に追い詰める。
男が、しゃぶりつく様に、女の首筋を愛撫する。
女が髪を乱して、悦び喘ぐ。
男の手が、女の身体を下へ下へと這っていく。
それを台所の入り口からエレナが見ていた。
「レイオス?」
男女が、驚いて振り向いた。男は執事見習いのレイオスだった。
「お嬢様・・」
息を切らしながら、レイオスが呟いた。
エレナは、地獄に落とされた気分だった。
なによ、これ。なんなの!?
女中が、申し開きをしようと身体を動かした拍子に、作業台にあった磁器の皿を落とした。
ガシャン!!
「申し訳ありません!」
女中が、慌てて拾おうとする。
「触らないで!!」
怒声に近い激しい声で、エレナが叫んだ。女中は身体を止めた。
「私のものに触らないで!!クビよ!!出て行って!!」
女中は、何も言わず頭を下げ、台所を出て行った。
エレナは、レイオスを見た。
レイオスは、その視線から逃れる様に、下を向いた。
エレナの目から、涙が零れた。
「裏切者・・」
震える、消え入るような声に、レイオスは顔を上げる。
罪悪感と、悲しみを混ぜた顔で、レイオスは言い訳をする。
「私は、、、お嬢様に相応しくありません」
エレナは、鼻で嘲笑った。
「あの泥棒女には、相応しいの?」
「・・お嬢様」
「やめて。もう何も聞きたくない。クビよ。出て行きなさい」
レイオスは、頭を下げ、
「お世話になりました」
そう言うと、顔を上げ、口を真一文字に結び、台所を出て行った。入り口に立っていたエレナと微かに肩がぶつかったが、何も言わず、立ち去った。
エレナは、泣き崩れた。
レイオスの目。
レイオスの唇。
瞼を閉じると、少し気弱な、優しい顔が目の前に現れた。
なんでよ。
私の何がいけなかったの?
女中と激しくキスをするレイオスの姿が、脳裏に焼き付いている。
あんな風に、求められた事、一度も無い。一度も・・。
相応しくないって・・。
私は、最初から、相手にされてなかったのね・・。
「はは・・は・・」
エレナは、冷たい床に座り込んだまま、力無く笑った。
数日、エレナは、誰とも口を利かなかった。
エレナの中には、ある葛藤があった。
自分の愚かさを受け入れようとすると現れる姿があった。
ヴェルエラ。
何故か、ヴェルエラに負ける気がした。
違う。私は、あの女に負けてない。
負けてない。
或る夜、夕食を共にしていた後見人の叔父のリヴェーロが、慰める様にエレナに言った。
「やはりエレナは、自由が似合う」
エレナには、叔父の言葉が、皮肉に聞こえた。
まだ戦える、とでも言うように、エレナは、鋭く叔父を見た。
「私は、結婚しませんから」
「勿論。分かっているよ。言ったろう?君には自由が似合うと」
エレナは、沈黙した。
叔父は、一口ワインを飲んで、薄く深紅の膜を張ったグラスを見つめた。
「私は、常々宰相のやり方はどうかと思っていた」
エレナは、黙っている。
叔父は、ふつふつと怒りを沸かせて低い声で呻く。
「あの男、権力を独占して、自分の都合の良い様に国王を動かしている。我々貴族の金を吸い取り、自らの懐に入れてるのだ」
エレナは、片方の眉を吊り上げた。
そうなの?
噂には聞いていたけど、思っていた以上に、強欲な男の様ね。
「お前の結婚にしたって、あの男が口を出していたのだぞ」
エレナは、顔を強張らせた。
ヴェルエラの顔が浮かぶ。――余裕に満ちた微笑み。
「ヴェルエラ」
叔父が、その名を口にした。
エレナは、目を鋭く細める。
叔父が、エレナを見て、苦々しく微笑む。
「このまま好きにさせていいと思うか?今に我らの領地は、否この国は、あの夫婦に食いつぶされるぞ」
エレナは、表情を緩めた。急に、叔父の事が、味方に見え、頼もしく見えた。
エレナは、何か考える様に目を伏せ、ワイングラスを手に取った。
「私たち、これまで以上に良い関係を作れるんじゃないかしら、叔父様」
そう言って、叔父を見た。
叔父は、
「そうだね。エレナ」
と言って、微笑んだ。
テーブルの上の燭台の灯が不穏に揺らめいた。