刊行御礼番外編 エピソード0
しまった、と思った時には遅かった。
蟻型魔蟲から放たれた飛沫がルカの右腕から顔にかかり、ジュウという肉の焼ける音が聞こえた。そして一拍遅れて激痛が襲ってくる。
魔蟲と化した蟻が放つ酸は毒性が高い。幸い目には入らなかったようだが、酷い苦痛に顔を顰める。
「ルクス! すまん!」
ルカが反射的に庇った男が謝罪してくる。同じ小隊に配属された傭兵で、確か名前はクレイグだったはずだ。
『ルクス』はこの国――イルダーナに潜入するにあたって用意した傭兵としてのルカの偽名である。
「いい。それより敵から目を離すな」
ルカはクレイグに短く返すと、こっそりと左腕に魔力を流した。
そこには、彼を『最強の兵士』にするための魔術式が刻まれている。その中には身体強化だけでなく、継戦能力を高めるための《麻痺》の術式も含まれていた。
一見するとソードリリーという植物の刺青に見えるそれは、ルカにとって武器であると同時に忌まわしいものでもあった。
幼少期のルカを、実験動物扱いにしてくれた屑の顔が脳裏をよぎるが、慌てて振り払う。
今は目の前の敵から目を離す訳にはいかない。
ルカは愛用のエストックを構えると、地を蹴り目の前の蟻の眼を狙って剣身を繰り出した。
◆ ◆ ◆
《麻痺》も身体強化も、使用中はずっと魔力を消耗する。
ルカの体は生物学上の父親によって施された魔術的操作によって、平民と変わらない身体能力を持っているが、硬い魔蟲の外皮を刺し貫くには魔術による筋力強化が必要になる。
ホットスポットでは、いつどこで魔蟲に襲われるかわからない。
だからルカは、襲ってきた蟻型魔蟲が事切れたのを確認してから、体に刻まれた術式への魔力供給を解除した。
途端に酷い苦痛がルカを襲う。顔を顰めて右腕を押さえると、再びクレイグが謝罪してきた。
「本当にすまない! 庇ってもらったおかげで助かった!」
「気が付いたら体が動いてただけだから謝罪はいい」
「いや良くないだろ! 傷は大丈夫か……?」
「痛いに決まってる」
「そうだよな……しかし凄いな。怪我した手でそのまま蟻を屠ったのか……」
クレイグはまじまじとルカを見た。
「痛みなんて忘れてた」
「火事場の馬鹿力って奴か」
感心したようにつぶやきながら、クレイグは背嚢を下ろし、中から応急処置のための道具を取り出した。
「今日はここまでだな。ルクスの手当てのためにも引き返そう」
蟻を解体していた小隊長がこちらに声を掛けてきた。
「顔にも酸がかかってるな。早めに聖女様に治療して貰えたらいいんだが……痕が残ったら本当にすまん」
聖女の治療は血筋で優先順位が決まる。高位の騎士に怪我人が出ていたら、傭兵は後回しにされる。治癒魔法をかけてもらうのが遅れたらそれだけ顔に傷が残る可能性が上がるが、ルカには祖国からこっそりと持ち込んでいる魔術薬があるので、うまく治るのではないかという確信があった。
むしろこれは、この国の次席聖女の実力を確認するいい機会だ。諜報員として教育されたせいで身についた自分の思考に、ルカは心の中で苦笑いした。
◆ ◆ ◆
ルカの部隊が蟻型魔蟲に出くわしたのは、どこかの部隊がそいつらの巣を不用意につついてしまったせいらしい。小隊がベースキャンプに戻ると怪我人が溢れていて、ルカの順番が回ってきたのは、太陽が傾きかけた頃だった。
「お待たせしました。大丈夫ですか?」
待機していたルカの所にやってきた陸軍第一部隊所属の聖女は、艶やかな赤茶の髪が印象的な小柄で可愛らしい女性だった。顔色がかなり悪く見えるが、もしかしたら魔力切れを起こしかけているのかもしれない。
安全なベースキャンプについた瞬間に、ルカは体に刻まれた《麻痺》の術式を起動させた。だから傷口は痛くないのだが、苦痛をこらえる表情を作り、聖女を見上げる。
第一には、伝統的に若手の中でも一番優秀な聖女が配属される。
(この子が次席聖女か)
次席聖女、マイア・モーランドの名前は有名だった。
今まで遠くから見た事はあるが、大きな怪我をした事がなかったので、ここまで接近するのは初めてである。
「すぐに治療しますね」
マイアが目配せすると、傍に付き従っていた屈強な隻眼の男がルカの右腕を覆う包帯に手をかけた。
「顔の布を取りますよ」
前置きをしてからマイアはルカの右の頬を覆う布に手をかけた。布は軟膏が接着剤代わりになって貼り付いている。彼女は慎重な手付きで、ゆっくりと端から剥がしていった。
「魔力を流しますね」
腕の包帯と頬の布が取り払われてから、マイアはルカの頬に手を伸ばした。
金色の光が放たれるのが視界の端に移る。治療がようやく始まったのだ。
マイアから流れてくる魔力は温かく力強かった。ちらりと右腕に視線を移すと、驚くべき速度で爛れた皮膚が再生していく。
速い。
ルカは祖国にいた時に別の聖女から治療を受けた時の事を思い出した。
その時とは、回復速度が全然違う。
「終わりました」
マイアは青白い顔で微笑むと、隻眼の男を従えて次の患者へと向かっていった。
イルダーナの次席聖女はかなり優秀だ。もしかしたら祖国の首席聖女よりも。
ルカはマイアの後ろ姿を見送りながら、次回の定例報告書への記載事項にするべく心のメモに書き留めた。




