幕間 首都イースヴェルム 02
「申し訳ございません。本当に何も覚えていなくて……」
ネリー・セネットは怯えた表情を意識しながらグローサー宮中伯の質問に答えた。
この問答を繰り返すのは何度目だろう。うんざりだったがそれを表に出す訳にはいかない。眉を下げ、不自然にならない程度に震えてみる。
グローサー宮中伯は『トリンガム事件』と名付けられた、トリンガム侯爵家が関わる一連の騒動の捜査を取り仕切る監察官だ。
監察官は国家監察院という国の機関に所属する官僚で、地方領主の不正・違法行為の調査と取り締まりを職責としている。そのため領主貴族には煙たがられ恐れられる存在である。
強面の中年男性が相手なので、怯える演技をするのは簡単だった。
今、ネリーは精神操作系魔術の影響で、誘拐されてからの記憶が全く思い出せないという事になっている。
こんな演技しているのは、マイアの駆け落ちを助けるためだ。
ネリーに暗示の魔術をかけた魔術師は、隣国アストラの人間の可能性が高いらしい。
愚かにもトリンガム侯爵はアストラの人間にも手を出していたため、その報復を受けたのではないかというのがその推測の根拠だ。
イルダーナは魔術師の数が少なく、その全員が国の管理下に置かれていると言っていいから、その推測は的を射ているように思えた。
マイアには幸せになって欲しい。それがネリーの願いだ。
上流階級には自由な結婚なんて許されていないし、聖女の出奔に目を瞑るなんて国に対する裏切りだが、それ以上にマイアを可哀想だと思う気持ちが強かった。
「本当に覚えていないのですか? ネリー嬢に魔術をかけた魔術師は相当な腕の持ち主です。あなた以外の人々は後遺症もなく日常生活に戻っている。無関係な人間の精神に影響を及ぼさないよう、細心の注意を払っていたように見受けられるのですが……」
口を開いたのはグローサー宮中伯と一緒にやってきた若い女の宮廷魔術師だ。女性を担当として寄越したのはネリーへの配慮かもしれないが、大人二人がかりでの尋問という構図になっている。
ここはセネット伯爵家が首都イースヴェルムに所有するタウンハウスの応接室だ。
無事トリンガム侯爵領から保護されて両親の元へと帰されたネリーだったが、事情を詳しく聞きたいという国王の意向で、領地ではなく首都に留めおかれていた。
本日の監察官の訪問は突然で、外出の予定があった父に代わり母だけがネリーに付き添ってくれている。膝に置いた手でこっそりと太腿の内側をつねって涙をにじませると、すかさず母が間に入ってくれた。
「今日の所はこの辺りで……よっぽど怖かったのでしょう。本当に何も覚えていないようですし帰ってきてからずっと精神的に不安定な状態が続いております。まだ子供であるという事もご配慮下さい」
「申し訳ありません、夫人。我々も心苦しいのですが国王陛下直々に再調査を指示されたものでして……王子妃候補にと考えていた聖女マイア殿が関わる事件という事で、陛下も強く関心を示されております。何卒ご理解いただきたく存じます」
「理解はしております。ですから本日はお約束無しのご来訪でしたがこうしてネリーを呼びました。ですがどうぞ今日の所はこの辺りでお引き取り下さい」
母に任せておけば追い返してくれそうだ。
ネリーはうつむくと、どこかへ消えてしまったマイアの顔を思い浮かべた。
グローサー宮中伯や両親から聞かされた話を総合すると、マイアがキリクにいたのは駆け落ちしたからではなかったようだ。
ネリーを誘拐した張本人であるトリンガム侯爵が、非人道的な儀式魔術で聖女に仕立て上げた偽聖女、ティアラ・トリンガムがアベル王子を手に入れるためにマイアを殺害しようとしたのがそもそもの原因だったようだ。
しかし、遺体を埋めたとされる場所を探しても何も見つからなかったため、実際には殺されておらず、同時期に部隊から行方不明になった腕利きの傭兵と一緒に失踪したのではないかとこの国の上層部は考えているようだ。
そして、ネリーと一緒に誘拐されたアイクやファリカの証言から、トリンガム侯爵領に女の魔力保持者がいた事を聞きつけて、マイアに結びつけたのだろう。
この国は隣国ほど魔力保持者が多くない。紅茶の様な赤茶の髪に青金の瞳の若い女の魔力保持者という特徴を聞かされたら、誰もがマイアを連想するに違いない。
マイアが本当の事を話してくれなかったのは残念だが、仕方のない事だとネリーは納得していた。
恐らくこの国の上層部の推測はほぼ当たっていて、マイアは傭兵の若者に助けられたのだろう。
人攫いに攫われて押し込まれた馬車の中で、駆け落ちだと偽りながらもくだんの傭兵の事を話すマイアは、恋する女の子の顔をしていた。物語に出てくる騎士のように窮地に陥っていたところを助けられたのだ。そこに恋愛感情が生まれても何もおかしくない。
ネリーに暗示をかけたあの血色の悪い中年の魔術師がアストラの人間だというのなら、今マイアは隣国にいるのだろうか。
マイアのためならその方がきっといい。聖女はどこの国でも大切にされるし、アストラは魔力保持者は貴種と呼ばれ、生まれ育ちに関わらず貴族扱いされる国だと聞いている。相手が普通の人間の傭兵だと一緒になれるかどうかまではわからないが、この国でのマイアは出自のせいで軽んじられている。きっとマイアにとってはアストラの方が良い環境だ。
ネリーはそう結論付けると、小さく息をついた。
「約束無しで来た上に何度も何度も同じ質問をするなんて、本当に腹が立つわ。二度と来なければいいのに」
どうにかグローサー宮中伯たちを帰らせることに成功したネリーの母は、二人が出て行った応接室のドアに向かって憎々しげに吐き捨てた。そしてネリーを優しく抱き寄せる。
「怖かったでしょう、ネリー。可哀想に……午後の予定は変更してもらいましょうか?」
午後には実はアイクが母親のブレイディ男爵夫人に連れられて、この屋敷にやってくる約束になっている。
同じ誘拐された者どうしを引き合わせる事で、何かネリーに良い影響が出るのではないかと考えた母が二人をティーパーティーに招いたのだ。
アイクを招きたいと思うがどうかと尋ねられ、ネリーは母の提案を受け入れる事にした。
マイアを助けに来た魔術師に記憶を弄られて、正気に返った時には既に両親の元に戻されていたので、一度くらいは顔を見ておいてもいいかと思ったのだ。
本当はカーヤやファリカの方が会いたいが、今は両親が神経質になっており、ネリーはこのタウンハウスに軟禁されているような状態である。キリクに住む平民の彼女たちに会うのはなかなか難しい状況だった。
「予定通りで構わないわ、お母様」
ネリーは母の腕の中で首を横に振ると微笑みかけた。




