プロローグ
治癒はイメージが大切だ。
マイアは目の前で苦しむ青年の腹に手を当て、自分の体の中の魔力を流し込んだ。
すると手の平から金色の光が放たれて、青年のお腹の傷を包み込む。
頭の中で考えるのは、酷い怪我を負った場所が再生・修復していく様子だ。
人間の体の構造を思い出し、損傷した場所が一刻も早く塞がるように祈りながら魔力を流す。
イメージと現実との違いが大きければその分魔力が持っていかれる。聖女による治癒魔術はそういうものだ。
治癒魔術にも限界がある。何でもかんでも治せる訳ではない。
脳、心臓、肺――生命の維持のために重要な場所が傷付いた場合は残念ながら手の施しようがない場合がある。
だけどこの青年の場合は大丈夫なはずだ。彼の場合怪我をしたのは下腹部。腸が露出して酷いことになっているが、怪我の程度がこの程度なら後遺症もなく治せるはずだ。
「マイア様、次をお願いできますか?」
青年の処置が終わるやいなや、声をかけてきたのはマイアの治療をサポートしてくれる護衛兼衛生兵のダグだった。
腸を治したことでかなりの魔力を消費したけれど、もう一人くらいなら治せるだろう。
マイアは立ち上がると、ダグに従って次の負傷兵の所へ向かった。
次の怪我人の受傷箇所は右腕。肘と手首の中間あたりを魔物に食らいつかれたようで、その辺りで腕はどうにか皮一枚で繋がっているという状況だった。
衛生兵によって治癒魔術をかける前の下準備として止血や衣服を取り除く処置が施されている。
「せいじょ、さま……なおり、ますか……?」
苦悶の表情を浮かべた負傷兵本人に尋ねられ、マイアは目を閉じると首を横に振った。
「ごめんなさい、私の治癒力ではここまでの傷は治せません」
(ごめんなさい)
心の中でも謝罪しダグに指示を出す。
「ダグ卿、この辺りで切断してください」
「承知いたしました」
「き、切るんですか……?」
顔を引き攣らせる負傷兵をよそに、ダグは粛々と処置の準備を始めた。
天幕内にいた他の衛生兵を呼ぶと、処置用の簡易ベッドに横たわる負傷兵の体を起こし、右腕を切断しやすいように固定する。そしてすらりと腰の剣を抜くと、負傷兵に話しかけた。
「一気にやる。安心しろ。一瞬で終わらせる」
「ダグ卿……」
負傷兵の顔は蒼白だった。
ダグは元騎士だ。卿の敬称で呼ばれるのはそのためである。
二年前の魔の森の討伐の時に左目を失うまでは前線でかなり活躍していたと聞いている。
ちなみにその時のダグの目の治療にあたったのはマイアだ。
当時のダグの左目は、魔蟲の毒液を浴びて半分以上溶けていたので諦めてもらうより他なかった。三十代前半の働き盛りで隻眼となった彼の苦悩は察して余りある。
元々腕利きの騎士だった彼が所持する剣は魔剣である。だから本人の言う通り、負傷兵の処置は一瞬で終わった。
鮮やかに斬り飛ばされた腕が地面にごろりと転がる。マイアは目を逸らさずに一部始終を確認すると、綺麗になった切断面にすかさず魔力を流した。せめて綺麗に治るように祈りながら。
何かが鼻から垂れてきたのは、腕を切断した負傷兵の治療を終えた直後だった。
「マイア様、限界ですね。今日はここまでです」
ダグが清潔なリネンの手巾を差し出し、鼻に当ててくれた。
魔力を使い果たすと鼻血や血涙が出ることがある。手巾を確認すると赤く染まっていた。
「おい、まだこっちが終わってないぞ」
「明日まで我慢しろって言うのか!」
すかざず順番待ちの負傷兵から不満の声か出るが、ダグや衛生兵が睨みつけて黙らせた。
「今日はここまでだ。聖女様がいなければそもそも自然に治るまでもっと時間がかかるんだから我慢しろ!」
負傷兵を宥めるのは衛生兵に任せ、マイアはダグに付き添われて救護用の天幕を出た。
◆ ◆ ◆
『聖女』とは、魔力保持者の中でも、治癒の性質を持つ特別な魔力を持って生まれてきた女性に与えられる称号だ。
これは、治癒魔力を持って生まれてくるのは女の子と決まっているからだ。例外は大陸の長い歴史の中でも聞いたことがない。
神話には、子供を産む性別だから神様がそう決めたのだと言われているが、本当の理由はまだよくわかっていない。
ただ一つ確かなのは、治癒魔力を持って生まれる女の子はとても希少だという事だ。だからこそ聖女と呼ばれ大切にされている。
不思議なのは、この大陸に存在するどの国家でも産まれてくる聖女の人口に対する比率は変わらないという事だ。
そして、魔力保持者が珍しいこのイルダーナ王国でも、魔術大国で魔力保持者の数がこの国よりも圧倒的に多い隣国アストラでも、生まれてくる聖女の比率はだいたい同じという事実は学者たちを悩ませていた。
聖女は国に囲い込まれて色々優遇される。
準貴族の地位や高い年棒、王の居城の中に部屋がもらえる、など、例え下町に生きる貧しい平民の生まれだったとしても、まるで貴族のお嬢様のような生活をさせて貰える。
だけどその代わり、国の指示に従い治癒の力を使わなければいけないし、戦争や魔蟲の討伐の時には従軍の義務がある。
魔蟲――それは魔素により巨大化・凶暴化した虫を定義する言葉である。
魔素は魔力の源となるエネルギーだ。
夜空に浮かぶ黄金の月からこの大地に降り注いでいると言われており、大気中を循環している。
魔素が月から降り注ぐという学説は、魔力保持者の瞳が月と同じ金色を帯びたり、身体的・精神的に月の満ち欠けの影響を受けたりする事が根拠となっている。
魔力保持者は満月の日には精神的に満たされ、また魔術を使用するときの威力も上がるけれど、新月の夜には逆の事が起こる。
苛々して怒りっぽくなり、魔術の威力もがくりと落ちる。だから魔力保持者は新月の夜は家の中に閉じこもり、人と接しないようにする。
普通の人にはこういう変化は起こらないから、魔力を持って生まれるという事は、必ずしもいいことばかりではない。
それはさておき、魔素は他にも世界に大きな影響をもたらしている。
その最たるものが、そこここにいる色々な虫を魔蟲と呼ばれる異形の化け物に変化させることだ。
大気中を循環する魔素は、気候や地形の影響を受けて一ヶ所に滞る事がある。
あまりにも滞りすぎると魔素溜り――ホットスポットと呼ばれる場所ができる。
ホットスポットはその地に棲む虫の体を変異させる。この変化は不思議なことに虫に分類される生き物にしか発生しない。
魔蟲研究者によると、虫には人間や獣にはない魔素受容体があるためそのような変異が起こるらしい。
この大陸にはいくつものホットスポットが点在している。これらは地形や気候的な要因でできるものなので、人の手で無くすのは無理だ。
しかしホットスポットを放置すると魔蟲が大量発生する。
魔蟲に変異した虫は更なる魔素を求め、ある程度の期間はホットスポット内で食い合いをするという習性がある。しかし食べるものがなくなればホットスポットを出て人間や家畜を襲い始める。
ホットスポットから外に出てくる魔蟲は、食物連鎖の頂点に立つ個体なので特に大きく凶暴である。
記録に残る最大サイズの魔蟲は、体長二メートル半ほどあったと言われている。
そのサイズで虫の運動能力をそのまま備えるのだから恐るべき脅威である。
人類にとっての救いは奴らに繁殖能力がない事だ。
これで変異前の虫と同レベルの繁殖力があったとしたら、今頃地上を支配していたのは人間ではなく魔蟲だっただろう。
ただ、繁殖の本能は残っているようで、ホットスポットから這い出てきた魔蟲に襲われた人里では無惨な光景が見られる事がある。――食い荒らされるだけでなく、そこかしこに卵を産み付けられるのだ。
連中をホットスポットから出さないためには、定期的にホットスポット内に入り間引きを行う必要がある。
このイルダーナ王国では、毎年秋の霧月――隣国風に言うと十一月――になると一斉に陸軍による大規模な魔蟲の討伐が恒例行事として行われていた。
マイアがこうして酷い怪我を負った兵士の治療を行っているのは、今が魔蟲討伐の時期で、この国の第二王子が率いる陸軍第一部隊への同行命令が出たためである。
陸軍第一部隊は普段は首都の治安維持を担当する部隊だ。
魔蟲討伐においては、首都を中心とした王国南西部に点在する二つのホットスポットを担当していて、現在はそのうちの一つ、フェルン樹海へとやってきていた。
現在国内では十八人の女性が聖女として認定されているが、魔蟲討伐に動員されるのは若くて未婚の聖女と決まっている。
既婚の聖女は子育てや妻の役割を果たさなければいけないから、基本的に首都に留まり王城の中で首都の負傷者の治療に当たっている。また、年齢的に聖女として活躍するのが難しい状態になっている人もいた。
今遠征に行ける未婚の聖女は軍の部隊の数と同じちょうど五人。そのため一部隊に一人ずつ配属されるのが最近の決まりだった。
マイアが第二王子を擁する第一部隊に指名されたのは、暗黙の了解としてその時点で一番能力の高い聖女が割り当てられるからだった。
マイアの治癒力は若手の聖女の中では一番で、聖女全体の中でも二番目に魔力量が多い。
ちなみに一番はその治癒力を見込まれて国王に嫁いだフライア王妃である。
聖女の持つ治癒魔力は、一般的な魔力保持者と同じで遺伝する事があるため、例え生まれが平民であっても王侯貴族の妻候補として引く手あまただ。
そのため、マイアは平民の孤児だが、年回りの近い第二王子のアベルの有力な妃候補と言われていた。
だけど、それはマイアにとってはあまり嬉しいことではなかった。なぜなら――。
「また鼻血を出したそうだな」
「申し訳ありません。魔力が尽きてしまいました」
(私はフライア様ほど魔力がありませんから)
ため息交じりにアベルに言われ、マイアは殊勝に謝りながらも心の中で反論した。
そしてナイフとフォークを手に目の前の食事との格闘を始める。
今日のメインディッシュは干し肉を戻して油で揚げたフライだ。肉が硬くてなかなか切れない。
「……今日もカトラリーの使い方が下手だ」
ぼそりと言われ密かに傷付く。
アベルはベースキャンプにいる間、なるべくマイアと食事を共にしようと招待してくれるのだが、それはマイアにとっては気詰まりで憂鬱なものだった。
王子に出される食事だけあって、野営中とはいえ、一般の兵士とは一線を画したいいものが出されている。
本人としては妃候補に気を使っているつもりなのかもしれないけれど、逐一食事の作法を監視されながらの食事になるのだ。正直味なんてしないしストレスが溜まるだけである。
お貴族様の作法は庶民育ちのマイアに言わせるとまだるっこしくて鬱陶しい。
しかしそんな内心はおくびにも出さず、申し訳なさそうな顔を作ると素直に謝罪する。
「ごめんなさい、アベル殿下。練習はしてるんですがなかなか上達しなくて……」
アベルは王子だけあって食事の所作がとても綺麗だ。
例えば食事に林檎が丸ごと出されても、ナイフとフォークを駆使して綺麗に皮を剥いて上品に食べる技術の持ち主である。
骨の多い魚も、硬い肉も、ナイフが皿に触れる音を一切出さずに優美に食べる姿はいっそ芸術的ですらある。
それは純粋に凄いと思うけれど、自分が同じレベルを要求されると話は別だ。できるようになればいいなとは思うけれど、どんなに頑張って練習してもなかなかアベルの認める水準には至らない。
「『申し訳ございません、アベル殿下、練習はしているのですがなかなか上達いたしません』だ。言葉遣いもなかなか直らない」
ため息をつかれて、マイアは俯いて心の中に浮かび上がった嵐を必死に沈めた。
この国では言葉遣いや発音で生まれ育った階級がわかってしまう。
上流階級の人々が使う気取った貴族言葉は庶民育ちのマイアには難しい。
目下勉強中とはいえ、王侯貴族に嫁ぐための学習はマイアにとっては辛いものだった。
治癒魔力を持って生まれた事はマイアにとっては幸運だったけれど、人よりも優れた魔力まではいらなかった。
マイアは王子妃になる事なんて望んでいない。礼儀作法を学ばされるのは辛いし、そもそもアベルが好きになれない。
だけどアベル側もマイアを嫌っているからお互い様だ。
(嫌われてるから嫌いになったんだけど……)
初めてアベルを目にした時に見惚れた記憶が頭の中をよぎり、マイアは慌ててその記憶を打ち消した。
アベルは美形だ。誰もが想像するおとぎ話の王子様そのものの容姿をしている。
王侯貴族には髪の色が淡い者が多いのだが、彼もまたその例に当てはまっており、蜂蜜色の金髪に深い青の瞳を持つ王妃譲りの整った容貌の持ち主だ。
普通の人よりも華奢な傾向がある魔力保持者の例に漏れず、女の子としても小柄なマイアより頭一つ半くらい高い長身で、軍人だけあって鍛え上げられた体つきをしている。
見た目も生まれも文句なしの極上品の男性だが、マイアに向けられる目はいつも冷たい。
恐らく礼儀作法もおぼつかない平民の孤児が自分の妃候補と言われているのが気に食わないのだ。
こっちだって本当はお前なんかに嫁ぐのはお断りだ、と心の中では思うものの、身分差があるので本人に面と向かっては言えない。うっかりそんな事を口に出したら不敬罪に問われるかもしれない。だからマイアは落ち込んだ表情を作って謝った。
「もっと礼儀作法の勉強を頑張ります。なかなか身につかなくて、嫌な思いをさせてごめんなさ……じゃなくて、申し訳ございません」
「当たり前だ。それがそなたの為だ」
横柄で冷たくて実に腹の立つ王子様である。
マイアは心の中でため息をつきながらも、できる限り優雅な所作を心がけて目の前の食事に集中した。