複雑な心
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一度意識すると見え方が変わるのだろうか。ふとした時に見せるテオの仕草にドキッとすることが増えた。
一緒に歩いていた時に、人にぶつからないように肩を抱き寄せられたこともそうだ。これまでテオは、手を繋いで引っ張ってくれていた。それを微笑ましく思っていたのに、そうやって大人の女性扱いをされると、テオがテオじゃないみたいに思える。
新鮮な気持ちになるものの、反対にテオとの心の距離が遠ざかっているような不安に襲われる。だけど今のテオに昔のテオの姿が重なって、やっぱりテオはテオだと安心するという、複雑な気持ちだった。
◇
「はあ……」
お店の掃除をしながら溜息が漏れる。これはきっと曇り空のせいだけではないだろう。厨房で作業をしていたダンさんとリーシャさんが客席の方に出てきた。
「朝から疲れてるようだね」
「後は開店を待つだけだから、少し休みましょう」
二人はそう言ってわたしを座らせると、向かいに並んで座った。
「それで、どうしたの? 女の子たちの追求をかわすのに疲れた?」
リーシャさんの言葉に、最近のことを思い出して力なく笑う。
「そうですね。ここまでテオの人気があるとは思いませんでした」
あの日から一週間経つけど、テオは相変わらずお店に迎えに来てくれる。行かない方がいいかとテオに聞かれたけれど、テオは客としても来てくれているのだ。それを断るのもおかしいと、わたしは今まで通りでいいと言った。
だけど、あれ以来女の子たちがテオに話しかけるようになった。中にはテオの素性やわたしとの関係を知りたがる子もいて、テオは明確にはせず、うまくかわしている。
そうなると矛先はわたしに向く。わたしたちが身内ということは知っているので、今度はわたしの素性を聞いて、そこからテオを知ろうというように変わったのだ。
「お客様だから無碍にもできないし、話せば話すほどボロも出そうで。迂闊なことが言えないんです」
「貴族っていうのも大変なんだねえ」
ダンさんはしみじみと言う。その隣でリーシャさんがいいことを思いついたというように目を輝かせた。
「それならもう本当のことを言ったらいいんじゃないかしら」
「ですが、わたしたちが男爵家の者だとわかると、お二人にも迷惑をかけるかもしれませんし」
ここで働くに際して、両親と約束したのだ。もし素性がバレたら、家に戻るか護衛をつけると。護衛付きで働くのは目立って、客足が遠のくのではないだろうか。
わたしはそう思ったのだけど、リーシャさんは別のことを考えていたようだ。苦笑して否定する。
「そうじゃなくて、二人が恋人だって言えばいいのよ。モテる恋人がいると反対に嫌がらせされるかもしれないけど、それくらいなら私たちも何とかできるし」
「リーシャさん、テオは弟ですって!」
驚きすぎて声が裏返ってしまった。それでもリーシャさんは納得していない。
「血は繋がってないんでしょう? 女の子たちも何で気づかないのか不思議だわ。少なくとも、テオドールくんを見ていればすぐにわかりそうなものだけどね」
「いえ、確かに血は繋がってはいませんけど。ですが恋人ではないです」
わたしが断言すると、二人は顔を見合わせて溜息をつく。
「テオドールくんも可哀想に」
「あれだけあからさまに周囲に牽制しているのにね。まあ、家族として育ったのならわからないでもないか」
「え、テオがですか?」
「そうよ。男性客がクレアちゃんにちょっかいを出さないように見張ってるのよ。男性客が注文のついでにクレアちゃんに話しかけようとすると、テオドールくんがクレアちゃんを呼ぶの。気づかなかった?」
「はい、まったく」
牽制も何も、わたしはまったくモテないのだけど。リーシャさんの思い違いではないだろうか。
「……報われないねえ」
ダンさんの呟きが余計にわからず首を傾げる。二人の生温い視線が痛い。
「クレアちゃんは恋をしたことがある?」
リーシャさんの唐突な問いに、黙って首を左右に振る。
幼い頃に父が出て行った後、男の子たちはわたしを父親に捨てられたとからかうから、好きになれなかった。母が再婚してからは、平民上がりの令嬢もどきと馬鹿にされて、やっぱり好きになれなかった。
何より、恋愛結婚でも破綻してしまった両親を見ていたから恋をする気にもなれなかった。
思い出してわたしの表情は暗くなる。
「……恋ってそんなにいいものですか? 別に恋なんてしなくても生きていけるんじゃないんですか?」
「クレアちゃん……確かに恋をしなくても生きていけるかもしれない。だけどね、恋って理屈じゃないの。気がついたら落ちているものよ」
リーシャさんは傍らのダンさんを見る。慈しむような優しい顔。それだけで、リーシャさんがダンさんをどう思っているかが伝わってくる。
そして、ダンさんも。どちらかというと強面なダンさんが表情を緩めてリーシャさんを見返している。
二人の世界に入っているところを邪魔するようで申し訳ないと思いつつ、恐る恐る聞いてみた。
「お二人は、今も恋をしているのですか?」
ようやくわたしがいることを思い出してくれたらしく、リーシャさんはわたしに向き直って答えてくれた。
「そうねえ……恋というよりは愛かしら。ねえ、ダン?」
「……そういうことを真顔で言えるのがすごいな。だけど、まあ、そうだな」
どこか照れ臭そうにダンさんも頷く。
「そうですか……」
わたしには愛と恋の違いがわからない。神妙な顔で黙り込んだわたしに、リーシャさんは苦笑する。
「クレアちゃんは頭で考え過ぎなんだと思うわ。頭よりも心の方が正直よ。ただ素直に感じればいいと思うわ」
「リーシャさん……」
「少しは表情が明るくなったみたいね? それじゃあそろそろ開店しましょうか」
「はい。聞いていただいてありがとうございました」
「いいえ、いいのよ。他人の恋愛話って面白いし」
お礼を言うと、リーシャさんはあっけらかんとそんなことを言う。これには苦笑するしかない。それでも話をして幾分楽になったわたしは、その後は仕事に集中することができた。
◇
夕方の、もうそろそろ仕事が終わろうかという頃になってポツポツと窓硝子を叩く雨音に気づいた。気づいてから土砂降りになるまではあっという間だった。
「ひどい雨。テオ、まさかこの雨の中、来ないわよね……」
そんな心配をしていたのだけれど、その心配は当たってしまった。
しばらくして扉が開くと、ずぶ濡れのテオが入口で立ち尽くしている。額に張り付いた前髪をかきあげると、テオは困ったように笑う。
「これじゃあ、お店に入ったら迷惑だよね」
「テオ! 傘は持ってなかったの?」
「そうなんだ。朝、曇っていたけど大丈夫だろうと思って持って来なかったんだ。まさか帰る頃になってここまで降るとは思わなかったよ」
「ちょっと待ってて! 仕事もう終わりだから、ダンさんとリーシャさんに挨拶してくる!」
慌てて厨房へ向かい、ダンさんとリーシャさんに挨拶をすると、二人で店を後にした。
早足で家に向かう。未だにひどい雨が降っていて、傘を持つテオをわたしはタオルで拭いていた。それでも間に合わないくらいに濡れている。
テオは時々小さくくしゃみをしていた。もうすぐ冬になるのだ。寒いに決まっている。
家まで送ってくれたテオがそのまま帰ろうとするのを、わたしは引き止めた。
「テオ、わたしの家に寄って行って。このままじゃ風邪引くわ」
「いや、だけど……」
こんな時でも男を家に上げるのはとテオは言う。だけど、わたしは有無を言わさずテオを引っ張って部屋へ連れ込んだのだった。
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