母の考え
よろしくお願いします。
その後、わたしのアパートメントまで送ってくれたテオは、部屋に上がらずに帰ってしまった。引き止めたのだけど、テオは困った顔で言ったのだ。『夜に一人暮らしの部屋に男を入れるのは駄目だよ』と。
テオが帰ってしんとした空気の中で、リーシャさんからもらったシフォンケーキを一人で食べた。いつもだったらすごく美味しいリーシャさんのお菓子は、寂しい味がした──。
◇
それから数日後。仕事が休みなので、わたしは一週間ぶりに、母に会うために実家へ帰った。
城に近い高級住宅街にある実家は、わたしのアパートメントの部屋が何部屋入るかわからないくらいに大きい。それでも並び立つ侯爵邸や子爵邸に比べるとこぢんまりとしてみえるから恐ろしい。
そんな長年住んでいた屋敷の門を馬車はくぐり、入口付近で止まる。扉が開いて降りたわたしの格好は、普通の町娘にしか見えないくらいに質素だ。そんなわたしに使用人たちは、お帰りなさいませ、と声をかけてくる。
やっぱり何年経っても慣れない。母の居場所だけ聞いて、わたしは早々に使用人たちの前から退散した。
◇
「お母さん、ただいま」
「あら、クレア。おかえりなさい」
部屋で何やら刺繍をしていた母に声をかけると、驚くこともなく淡々と返ってきた。
「何を縫っているの?」
母の手元を覗き込むと、ハンカチに花が縫い込まれている。細かいところまで再現されていてすごい。
「いつもながら見事ね。お母さんはこういうの向いてるからいいわね。わたしには無理だわ」
「まあ、私は仕事柄縫い物は得意だったから。まさか貴族に嫁いで刺繍をするとは思ってもみなかったけれど」
そう言って母は笑う。
母は元々仕立て屋で働いていた。その腕を見込まれ、亡くなったリュドガー男爵夫人のドレスを仕立てていたことが縁で男爵と知り合ったそうだ。
もちろん生前は母と男爵は職人と客という立場だった。夫人が亡くなったあとも、女手一つでわたしを育てていた母のために男爵はちょくちょく仕事をくれたらしい。
そして、夫人が亡くなって悲しむ間も無く次々に再婚話を持ち込まれることに辟易していた男爵は、母と夫人の思い出話をすることで気を紛らわせていた。それから数年後に母に結婚を申し込んで今に至るというわけだ。
「それで、何か用なの?」
刺繍に見惚れている場合じゃなかった。わたしは今日、母にテオのことを確認するために来たのだから。とはいえ、どう聞けばいいのかわからず、言葉を選びながら話を切り出した。
「……それが、その、テオのことなんだけど……」
「ああ、そのこと」
あっさりと納得した母にわたしは驚いた。
「そのことって、お母さん。それじゃあテオが言ったように、お母さんはわたしとテオのことを認めたってことなの?」
「別に認めてはいないわよ」
「え?」
それなら反対ということだろうか。わたしが聞き返すと、母は刺繍を止めて机の上に置き、わたしの方へ向き直った。
「初めに話を聞いた時は反対だったわ。あなたとテオドールは戸籍上は姉弟だからということもあるけれど、私とエルヴィンでは常識が違って擦り合わせに苦労したから、あなたたちもそうなるのではないかと心配だったのよ」
「じゃあ、お母さんは再婚したことを後悔しているの?」
聞きようによってはそう聞こえるのだけど。だけど、母は苦笑いで否定した。
「いいえ。苦労はしたけれど、よかったことの方が多かったわ。だけど、自分がよかったからってあなたがそう思うとは限らないでしょう?」
「まあ、そうね。だけど意外だった。わたしはてっきり、テオと釣り合わないから反対なんだと思ってたわ。お母さんはテオには優しいのにわたしには厳しいから」
「だって、テオドールはずっとこの家で育ってきて文句のつけようがないもの。あなたは私と同じように貴族の常識とはかけ離れた生活をしてきたから、厳しくないと身につかなかったでしょうね」
そう言われてしまえば何も言えなくなる。実際、家庭教師の先生につきっきりで教えてもらって何とかなったようなものだ。家を出た今となっては関係ないけれど。
話がずれたけれど、わたしが聞きたかったのはそういうことじゃない。
「ああ、そうじゃなくて。認めてないなら反対ってことじゃないの?」
母は初めは反対だったと確かに言った。それなのに認めたわけじゃないという意味がわからず、わたしは首を傾げた。
「それは違うわ。あなたたちももう大人なのだから、自分のことは自分で決めればいいと悟ったのよ。あなたがテオドールを拒んでも、受け入れても、決めたのはあなた。責任を取るのもあなた」
「……お母さん、冷たい」
突き放されたようで、恨めしげに母を見る。いっそ最後まで反対してくれれば、こんなに悩まなくても済むのに。
母は呆れたように嘆息する。
「何を言っているの。あなたが先に貴族なんて嫌だと、この家を出て働き始めたんでしょう。その時点であなたは自立した大人。だから早く結婚しろとも私は言わなかった。エルヴィンもそう思ったから、あなたへの縁談を断っているのよ」
「え、わたしに縁談? どこの物好きさんなの」
思わず吹き出すと、母は胡乱げにわたしを見る。
「あなたねえ。自分が男爵家の者だってわかってる? 生まれは平民だとしても、リュドガーの籍に入っているのだから政略の対象になるのよ。リュドガーと縁続きになりたい家があってもおかしくはないでしょう?」
「そういうものかしらね。でも断ってくれてよかったわ。わたしは結婚なんて考えていないから」
「それならテオドールはどうするの? あの子はきっと諦めないわよ? さすがはエルヴィンの血を引いているだけあるわ」
感心したように母は言う。感心するところが違うと思うのだけど。
エルヴィン様、もとい、今の父は、身分違いだと母が何度も断っても諦めなかったそうだ。結婚して欲しいと言い続け、三十回をこえたあたりで母が折れたのだと、父が笑顔で話していた。
それを知っているだけに、わたしは笑えなかった。
「……テオならもっといい人がいると思う。何もわたしみたいなのを選ばなくても……」
「わたしみたいなのなんて言わないで。あなたは私の自慢の娘よ。テオドールもそう。二人とも立派になったわ。だからあなたたち二人が悩んで選んだ答えなら私も受け入れようって思ったのよ」
「……そんなことを言われたら余計に悩むじゃない。わたしの選択がテオに影響を与えてしまうのだから」
テオのことを考えたら拒むべきだと思う。
テオは貴族として育ってきたのだ。次男で後継から外れたとしても、入り婿という手がある。貴族女性と恋をして、その人と結婚をすれば、政略だけでなく、幸せな家庭を築けるだろう。
もしわたしがテオを受け入れたとして、わたしはテオを異性だと思っていないから、テオはその温度差に傷つくだろう。考えて欲しいと言われて考えると約束したけれど、テオを男性として好きになれるかというのは別問題だ。気持ちは言われて変わるものじゃない。
結局はわたしが答えを出さなければいけない問題なのだ。答えを母に委ねようとしたのが間違っていた。
「……わかった。お母さんの気持ちを聞かせてくれてありがとう。楽な方に逃げては駄目ね。テオに言われた通り、ちゃんと今のテオを見て答えを出すわ」
「ええ。そうしてあげて」
おっとりと笑うお母さんにお礼を言って、わたしはアパートメントに帰ったのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。