あの花束を君に
この小説は『春・花小説企画』参加作品です。
一目惚れだなんて、
きっと君は信じてくれないだろうね
でも、あの瞬間、
僕は恋に落ちたんだ
――本当だよ
◇◇◇
「ハルト・オーウェン」
その夜、ハルトは自分の名前を呼ぶ声で目を覚ました。
初めは夢だと思っていた。ハルトは一人暮らしであったし、いくら築三十年木造アパートの薄壁であっても、隣人の声があんなにもはっきり聞こえるなど、考えられなかったからだ。
綺麗な声だ、と思った。まどろむ彼の耳にさえも、その声は鈴を鳴らしたかのように美しく響いた。ずっと聞いていたいと、そう思わせる声だった。
しかし、心地良いまどろみは鼓膜への強い衝撃で破られた。
「何回呼ばせたら気がすむの! いいかげん起きなさい、ハルト・オーウェン」
「うわっ!」
耳をつんざくような甲高い怒声に驚き、ハルトは目を見開いて飛び起きた。
「な、なんだ?」
枕元を探り眼鏡を取る。取り敢えずは眼鏡だ。眼鏡をかけなければ三歩先だって見えやしないのだ。しっかりと黒縁眼鏡を装着し、ハルトはようやく顔を上げた。
「……!」
そのまま言葉を失った。
なぜならば、彼の目の前には一人の美少女が立っていたからだ。
艶のある腰までの長さの黒髪に、闇の中にあってもそうだと分かる白い肌。翡翠色の瞳は、窓から差し込む月明かりによってまるで宝石のように輝いている。なぜ一人暮らしである自分の部屋にこんな美少女が、などという単純な疑問は、この時ハルトには思い浮かびもしなかった。
ただ、目を――心を奪われた。
「き、君は?」
普段お目にかかることのないほどの美少女を目の前に、ハルトの声が震える。
そう、自分でも自覚している。さえない容姿に父親譲りのひどいくせ毛は、どんなにセットに時間を費やしても寝ぐせにしか見えない。加えて画家を目指し家を飛び出した彼には、金もない。こんな美少女に出会う機会など、あるはずもなかった。
「ねえ、君は――」
もう一度同じ問いを口にしようとしたハルトの唇に、少女が人差し指が当てた。そして微笑む。
それはハルトの目には、天使のように美しく、無垢な子供のように愛らしく映った。
「……一度聞かれれば分かるわ。無駄な時間を取らせないで」
笑みを浮かべたまま、答える。その笑顔と言葉のぶっきらぼうさとのギャップに、ハルトは面食らった。
「私はルルー。あなたを迎えに来たの、ハルト・オーウェン」
唇にいまだ指を当てられたまま、口を挟むことが出来ないでいると、そのままの体勢で自らをルルーと名乗った少女はもう一度目の前の青年の名前を呼んだ。
「ハルト・オーウェン、あなた分かっていないようだから言うわ。あなた――」
少女の瞳はまっすぐハルトに向けられる。それを受けてハルトは頬が熱くなるのを感じた。こんな状況に免疫のない彼には仕方のないことだと言えた。
しかし、そんなハルトの心中を察することなく、少女は残酷な言葉を続けたのだ。
「――あなた、死んだのよ」
◇◇◇
「……だいたいあなた、自分の健康管理くらい出来なくてどうするの」
仁王立ちでルルーは言い放った。その翡翠色の瞳は、ハルトに向けられている。
「はは、返す言葉もないよ」
そう答えてハルトは頭を掻いた。返す言葉もない。その通りだった。
死んだのよと言われ、ハルトは真っ先にその理由を尋ねた。今思えば、なぜ疑いもせずその言葉を聞き入れたのか不思議だったが、あの時その口から出たのは、そのひとことだった。なぜ、と。
「いやあ、それにしても栄養失調なんてね」
それこそが自分を死に至らしめた理由であるのだが、ハルトはあくまでも軽い口調で続けた。
「そんなに腹を空かしていたなんて、気付かなかったな。アトリエにこもりすぎて感覚が麻痺してたのかな」
自嘲気味な笑みを浮かべたハルトのほうに向き直り、ルルーは眉をしかめる。
「……あなた馬鹿? そんなことありえないわ。子供だって空腹を泣いて知らせるというのに」
「はは、その通りだ。僕は馬鹿だな」
焦げ茶のくせ毛を揺らし、ハルトが笑う。そんな青年を一瞥してから、ルルーは背を向けた。光沢のある黒いサテンのスカートがふわりと揺れる。
「取り敢えず、猶予は二十四時間よ。いくら頼まれたって、それは譲れない」
背を向けたまま、言い放つ。
二十四時間の猶予――それは死に逝く人間に与えられた最後の時間なのだと、ルルーは言った。死んだ人間の魂を、天に導く役目を負う彼女だけが与えることができる特権だとも。
画家になるという夢を抱いて家を飛び出し、あげく死んでしまったこの青年にも、それは例外なく与えられたのだった。
「うん、分かっているよ」
背を向けるルルーに返事を投げかける。
与えられた二十四時間の猶予。ハルトはこの部屋――アトリエに残された未完成のキャンバス、その完成を目指すとルルーに告げた。何の変哲もない風景画だが、どうしても仕上げたいのだと、そう言ったのだ。
「……ところでさっきから、何をしているの」
ルルーの視界には、きょろきょろと辺りを見回しながら、部屋を歩き回るハルトがいる。
「ちょっと待って、ルルー。今、準備を……」
艶やかな漆黒の髪を払いながら、ルルーはハルトに翡翠色の瞳を向ける。どうやら青年は、辺りに散乱している画材道具を拾い集めているようだった。
よくよく見れば、ひどく散らかった部屋だ。これでは道具を揃えるにも時間がかかるだろう。そう思い、ルルーは嘆息した。
そんな様子に気付き、ハルトはいったん顔を上げ、頼りない笑みを浮かべた。ごめんよ、と付け加えたがその表情は到底悪びれているようには見えない。
ルルーはそんな青年に睨みをきかせたが、頼りない笑みは崩れない。仕方なく、わざと聞こえるように再び大きく息を吐いた。
「……あなた、マイペースね。もう少し焦ったらどうなの? さっきも言ったけれど二十四時間なのよ」
真っ直ぐに見据えてくるルルーの瞳に向き直ってから、ハルトは立ち上がり伸びをした。
「うん、じゃあそろそろ始めようかな。ごめんよ、気を使わせちゃって」
マイペースではあるが、素直に詫びるハルトの姿を見て、ルルーはそれ以上とやかく言うことも出来ず、ただひとことだけ続けた。
「……分かったわ」
結局のところ、彼女にはどうこうすることなど出来ないことを、彼女自身が知っていた。死んだのは彼であって彼女ではないし、もちろん心残りを晴らすことも、彼自身にしか出来ないからだ。
「……私のほうこそ、ごめんなさい。この時間は、あなたに与えられたものだもの。私がどうこう言うことではなかったわ」
両手に絵の具や筆、パレットを抱えたハルトは、目を丸くして勢いよく首を横に振った。
「そんな! 謝らないで、ルルー。君が謝ることじゃない。それに僕がマイペースなのは本当のことだしね」
そう言いながら、ハルトは画材道具をかかえたまま、イーゼルとキャンバス、さらには肘掛け椅子を窓際まで引き寄せた。そして、そんな様子を遠目に眺めるルルーに声をかける。
「まあ、座って待っていてよ」
その言葉に、今度はルルーが目を丸くする番だった。まさかこんなにも優遇されるとは、と思いつつも、長くなりそうなこれからの時間を想像して、ルルーは素直にその言葉に従うことにしたのだった。
◇◇◇
沢山の絵の具のチューブが散らばる、狭い部屋に置かれたキャンバス。ハルトが真剣な表情でそこに向かってから、半日が過ぎようとしていた。
黙々と絵筆を進めるハルトに対し、ルルーは完全に暇を持て余していた。窓際に置かれた椅子に腰掛け、ぼんやりと外を眺める。大通りからは多少離れている場所に位置しているにもかかわらず、人通りは多い。さらには、そこからはこの町の中央に位置する公園の噴水も、それを囲む沢山のチューリップの花壇も眺めることができた。
「ずいぶんと眺めがいいのね」
ぽつりと呟く。その声にハルトは笑みを浮かべた。
「そうなんだ。この眺めがあったからこそ、ここに住むことを決めたんだ。まあ、少し家賃は張るけど」
「ふうん」
そのせいでろくに食べるものも買えなかったという事実にルルーは憤りを感じたが、口に出すことはなかった。人それぞれ重きを置くものが違うのだろう。それにしても、彼の場合は行き過ぎではあったのだが。
「……眠いわ」
「死神も眠るんだ」
ぶっきらぼうなルルーの呟きに、今度は手を止め、さらにはキャンバスから身を乗り出して、ハルトは虚を突かれたような顔をする。
「退屈だもの、眠くもなるわ。……少し眠ろうかしら」
「いいよ。僕は逃げないし――いや、逃げられないし、ね」
そう言って、ハルトは微笑んだ。ルルーは立ち上がるのすら億劫になって、そのまま顔を伏せた。
「……それじゃあ、お言葉に甘えるわ」
おかしな人間だ、と思う。
普通なら、もし自分が死んだと言われれば、もっと取り乱したり、泣きわめいたりするものだ。事実、彼女が今までに導いた人間は皆そんな行動に走った。
しかし、彼はどうだ。
まるで落ち着き払って、恐怖も、混乱も何も感じていないように思える。むしろ楽しげにも見えるほどだ。
「おかしな人間」
ぽつりとそう呟いて、ルルーは眠りに落ちた。
◇◇◇
「ハルト・オーウェン」
未完成の絵を書き上げた達成感から、いつの間にか床に座り込み眠りこけていたハルトは、二十四時間前に聞いたものと同じ声で目を覚ました。
顔を上げると、そこには自分に二十四時間の猶予を与えた死神――ルルーが翡翠色の瞳を向け、凛とした姿勢で立っていた。
「時間よ」
ルルーは抑揚のない、しかし美しい声で短くそう告げた。
「……ああ、うん。早いね、ルルー。もう起きていたんだ」
「死神にとって睡眠はあなた達人間のように重要ではないわ。退屈だったから、ただの時間つぶしに眠ってみただけ。それだけよ。さあ、起きなさいハルト・オーウェン」
その言葉を受けてハルトは立ち上がろうとする。つい癖で眼鏡を探す仕草をするが、すぐにかけたままであることを思い出し、情けない笑みをルルーに向けた。
「はは、そう言えばかけっぱなしだった」
あくまでも最後まで情けないその姿を見て、ルルーは嘆息した。
「あなたって変わってるわ。残り少ない時間に眠るなんて。……ところで絵は完成したのかしら」
ルルーは布が被されたキャンバスに視線を移し指差した。
「もちろん」
間髪入れない返事に若干驚きながら、ルルーはハルトに視線を戻す。もとからよれたシャツはさらによれよれに、グレーのズボンも皺だらけになっていたが、そこにいたハルトはひどく生き生きとした表情をしている。
「満足いくものが描けたのね」
「うん、悔いはないよ」
言葉通り満面の笑みを浮かべるハルトにつられて、ルルーは思わず頬を緩めた。
「よかったわね」
それは本心から出た言葉だった。
今までに彼女は多くの人間の死の瞬間に立ち合ってきた。若くして死ぬ者、志半ばに倒れる者、天寿を全うした者さまざまだったが、それでもこの瞬間の笑顔だけは変わらない。その時だけは、ルルーも笑顔になれたのだ。
そしてそんなルルーの笑顔を見届けてから、ハルトはキャンバスを覆っていた布を引いた。
「これが僕の最後の作品さ」
沢山の色が乗せられたキャンバスを指差し、ハルトはもう片方の手でルルーの白い手を取った。突然のことに口を挟む間もなく、ルルーはハルトの隣に引き寄せられ、キャンバスの目の前に立つことになった。
そして目を奪われた。
淡い色彩で描かれたそれは、このアトリエの窓から見える景色。石畳の道も、レンガ作りの家々も、行き交う人々の一人一人も、全てにおいて細密に描かれている。絵心があるわけではないルルーでさえも、思わず感嘆の声を漏らしてしまうほどのものが、そこにはあった。
「……驚いたわ」
「え?」
近付き、キャンバスの縁に触れる。
「素晴らしい作品ね」
「そ、そうかな」
まじまじと絵を見つめるルルーの隣で、ハルトは照れたように頭を掻いた。
まさかこれほどの実力があるとは思っていなかっただけに、目の前のキャンバス中に広がる風景はルルーに衝撃を与えた。同時に、皮肉とも思う。十分な実力が備わっていながらも、結局彼の画家への道は開かれなかったのだから。
「……運がなかったのね」
小さく呟く。
ただ、それだけだ。
ひとしきり絵を眺めるとルルーは俯き、嘆息した。そしてハルトに向き直る。
「それじゃあ、いきましょうか」
「……そうだね」
ハルトもまた向き直り、小さく笑った。向かい合うようなかたちになり、ルルーが手を差し出す。
「手を」
白く細いルルーの手の上に、ハルトは自らの手を重ねた。その瞬間、意識が遠のくような感覚に襲われる。
「安心なさい、危険はないわ。目を閉じて、委ねなさい」
ハルトの手を両手で包み、優しく囁く。そして、目を閉じた。
これで終わりなのだ。ハルトという人間の命は、天に昇る。
淡い光を放ち、輪郭すらぼやけ始めたその時、ハルトの手がルルーの手を強く掴んだ。その力強さに驚き、ルルーは目を見開いた。
「……ルルー」
かすかな、かすかな声。
それでも手に込められた力は、その姿や声からは想像できないほど強い。
「最後に、ひとつだけ」
ルルーは見開いた瞳をハルトに向けた。目の前の青年は微笑んでいた。
「君に、これを――」
そこまで言って、ハルトの体は消えた。たった一瞬だけ、目が眩むほどの光を放ち、あっけなく。
それは何度も繰り返されてきたことだ。死した人間に最後の時間を与え、そして天に昇るのを見守る――それこそが、死神であるルルーの担う役目なのだから。
しかし、今回だけは少し違った。
パレットや絵の具が散乱するアトリエに立ち尽くすルルー、彼女の手には小さく折り畳まれた紙が握らされていたのだ。
◇◇◇
「……意味がわからないわ」
ハルトに最後に手渡された紙を広げ、ルルーは思わず呟いた。
「『絵を削って』って……」
手にした紙には、短くひとことだけ書かれていた。額に手を当て考える。しかしその意図は全く理解できない。だいたい、最後の時間を使ってまで完成させた絵を削らせるなど、理解不能だ。それでは、あの時間は無意味だったということになるのだから。
「馬鹿馬鹿しいわ」
ポイと紙を放り、ルルーは踵を返す。そしてそのまま歩き出した。
馬鹿馬鹿しい。
もう一度呟いて扉に手をかける。ガチャリと音をたて扉が開くが、なぜかここから出ていくのは躊躇われ、ルルーは足を止めた。馬鹿馬鹿しいと思いつつも、何かしらあの言葉に意味があるのではないかと思う自分もいるからだ。しかし、それが分からないから苛ついた。
「ああ、もう!」
ルルーは扉を閉め、振り返った。
「いいわ、やるわよ。天上で後悔なさい、ハルト・オーウェン!」
キャンバスに対峙し、声を荒げる。もちろん、天へと昇ったハルトに対してだ。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。そして周囲を見渡した。
「……これね」
イーゼルの足元に散乱する絵の具や絵筆に混じって放置されているパレットナイフを手に取り、目の前にかざす。
「行くわよ」
パレットナイフはもとより、絵筆すらまともに握ったことのないルルーにとってそれは初めての挑戦だ。しかし、これを済まさなければ、苛つきも解消できない。そんな思いで、ルルーはキャンバスにパレットナイフを滑らせた。
ガリガリと音を立てて、あんなにも美しかったこの町の風景が崩れていく。レンガ作りの建物が消え、行き交う人々が消え、噴水が消えた。
初めはそのことに抵抗すら覚えていたが、慣れてくるにつれ、ルルーはそのスピードを上げていく。しかし、半ば投げやりになっていたその作業は、後半、削り落とした絵の下から現れた文字によって、ピタリと止まった。
その手からパレットナイフが落ちる。音を立て床に転がったそれを気にすることもなく、ルルーはキャンバスを見据えた。
いつの間にか夜は明けようとしていた。鳥の囀りがどこからともなく聞こえ、窓からは朝日が差し込んでいる。それに伴ってそのアトリエの散らかり具合も露わになってきたが、それでもルルーはキャンバスから目を離せずにいた。町の風景の下から文字が現れたのだ。それはどう見ても、ルルー宛ての手紙だった。
現れた文字をなぞる。
それと同時に、ルルーの脳裏にハルトの顔が浮かんだ。ボサボサ頭によれよれシャツの、情けない笑みがよく似合うあの青年。
まさかあの時間にこんなことをしていたとは。呆れるのを通り越して、笑いが込み上げた。けれど、なぜか悪い気はしない。
そこにあった言葉は、ルルーの死神という立場上、決してかけられたことのない言葉だった。死神は、死を運ぶ存在。疎まれてこそ、望まれることはないからだ。
それなのにあの青年は――。
ルルーは天を仰ぎ目を細めた。その口元には柔らかな笑みを浮かべている。
「本当に……最後まで……」
呟き、歩き出す。
床に散在する絵の具を避け、扉を開ける。最後に振り返り、キャンバスを見た。
「……変な人ね」
そう言い残し、死神ルルーは扉が閉じるよりも早く、朝日に溶け込むようにして消えていった。
誰もいなくなったアトリエの窓際に置かれたキャンバスは、ただそこで朝日を浴びながら佇んでいる。
彼の人への想いをのせて、ただひっそりと――。
『一目惚れだなんて、
きっと君は信じてくれないだろうね
でも、あの瞬間
僕は、恋に落ちたんだ
本当は花束なんかを渡して言えたら
素敵だったけれど
だから、
このアトリエから見えるチューリップの景色を花束のかわりに……言わせてほしいんだ
君が――
――好きです』
読んでいただきありがとうございます。この小説は『チューリップ:愛の告白』をお題に書かせていただきました。
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