幸福論による逆転性理論
この話は、私の幸運に対する一つの希望的観測を書いたものである。
物書きとして、このような場で発表する処女作でもあるため、荒い面も多々あるかと思う。
そのような拙い文ではあるものの、この話に興味を持ち、いま、この文章に目を通してくれている全ての人に無上の感謝を述べるとともに、皆様に少しでも楽しんでもらえればとても嬉しいことである。
『序章』
突然だが、私の幼馴染の友人に順調の人生を送っている者がいる。
私と彼は、同じ年齢だから今年で45歳。
この世代になると、ある程度人生の積み重ねに比例したような過程と結果が表れるものだが、私が知っている彼は、特にこれまで大きな失敗もせず、ここまでに来ているように思える。
いや、20代の頃に一浪し、名前だけは、そこそこ知られているような何の変哲もない大学に一緒に入学した頃までは、彼も普通の失敗が多い人生を行っていた気がする。
そんな彼が気が付けば、大学のマドンナともいえるような二学年下の女性と交際を初め、たまたま知り合った縁を活用して、世でいう勝ち組ともいうべき企業に就職をし、人生を謳歌しているわけだ。
一方、私といえば、大学卒業間際に何とか内定を取れた企業に就職し、そこまで魅力的でもない、むしろ平均よりやや下な人生を送ってきたものだと思う。
なんせ彼は、30歳の頃には、大学時代のマドンナである彼女と結婚をし、マイホームをローンを組んで購入し、家庭の基盤を作り上げ、40歳になる頃には二人の子供と年を重ねることでまた新しい魅力が出てきた妻との四人家族で幸せな家庭を演出している。
もちろん、会社でも順調に出世。年収は世代平均以上。しっかりと貯蓄もある。
素晴らしく成功しているというわけではないかもしれないが、十分、幸せそうな人生だと思う。
そして私は、この年になるまで結婚もせず、会社からもらわれる安い給料を独身の気ままさから自由に使い、そこに幸せを感じつつも、同時に不安も得る、そんな不安定な日々に身を任すだけというわけだ。
ここまで差が開くと、逆に嫉妬も起きず、ただ別世界の話にしかならない。
そんな別世界を生きている彼だが、何故か私との交流は細々と続いていた。
幼いころからの付き合いだからか、それとも別の何かがあったのか。
ただ、お互いに年に何回か会う時、互いに相手の近況には必要以上触れずに近況報告をして、思い出話に花を咲かせながら一晩を過ごしていた。
しかし、45歳を迎えたその年、私は、二人の酒の席でふとタブーを犯す言葉を放った。
それは、そこまで強い言葉ではない。
ただ何となく、彼に「君は幸運で、幸せそうに思える」と、妬みとも称賛とも言えない言葉を投げかけただけ。
その瞬間、アルコールで顔を赤くしていた彼の表情が消えた。
私は、それが失言だと気づき慌てて取り成そうとするする。
しかし彼は、そんな私を制しながら、話を始めた。
それは、次の言葉で始まり、そして終わった話だった。
「こんな人生は、まやかしだ。だから、私は君が羨ましい。」
前置きが長くなった。
ただ、彼が酒の席で話してくれたのは、次のような物語だった。
『彼の話・きっかけ』
僕が大学に入った時、君も知ってのとおり、僕の人生は普通だったと思うよ。
それなりの挫折を味わい、そこそこの成功を収める。そんな日々が続いていたよ。
例えば、君と一緒に受けたあの大学、一緒に浪人して、次の年一緒に受かった。
それこそ、失敗と、成功が両立した最もたる体験だと思う。
さて、僕は大学時代の夏休み(そう、あの無駄に長い休暇という期間)、一つでかいことをしてみようと考えた。
それは、三年生の夏休みかな。したいことがない中、周りに流されるように進路を決めるということに変な反抗心を持っていたころだ。
といっても、所詮は、金のない学生の考えること。所詮できることが多いわけではない。
ただ、何も行動せずに時間だけが過ぎていくのも癪だからね。僕は、制限が多い中、中途半端な計画だけを立てて実家に帰り車を借りたんだ。
そう、意味もなく車をどこか田舎の方に走らせてみる。
そこでの色々な体験を糧にしてみる。そんな旅をしてみようと思ったんだ。
さて、旅行を初めて二日後、僕は、A県の山奥にいた。
正直な話、こんな旅行に意味などないのではないかと考え始めていたころだよ。
なんせ行く先々に、コンビニやら何やら、まあ普段の日常と変わらないような光景が続くんだ。
そこに何か意味を見出すこと自体が無意味に思えてしまったんだよ。
ただ、A県の山奥の村についた時、正確には、そこの温泉宿で一つ話を聞いたんだ。
そこの女将が話好きでね、食堂で一人でいる自分に色々と聞いてくるんだ。
そこで僕は、簡単に旅の目的を話してみた。
色々な変わったものを見て、自分の糧にしようと考えているんだとね。
すると女将は、是非見に行くべき場所があるというんだ。
それは、村にある神社の奥にある洞窟で、なんでも大蛇が住んでいるとのことだった。
もちろん、そんな与太話を本気にしたわけじゃない。
ただ、その女将にいうには、その大蛇とは神が地上に降りた際の姿の一つで、村には、昔から伝説が残っているということだった。
その神たる大蛇に認められたものが、力や幸運を与えられるといった類の伝説がね。
そして最近じゃ、ちょっとしたパワースポットにもなっているということで、それなりに外から訪れている人もいるそうだ。
ちょっとした非日常を実感できるかもしれない。そんな軽い気持ちと好奇心が僕を突き動かしたんだ。
さて、山の洞穴前に行くと、疎らながら人が集まってお祈りをしたり、写真を撮っていた。
問題の洞穴は、高さ3mぐらいの結構大きそうな穴で、奥は暗くてよく見えないが、大分深そうな穴だった。
穴の周りには、結構しっかりとした柵が配置され、「危険」という看板とこちらを見ている係員達が、好奇心にあふれた馬鹿が穴に入るのを防いでいた。
そんな奥が見えない穴は、どこか非日常を感じさせてくれ、僕は、しばらく穴の奥を見続けていた。
ただ、しばらくすると周りにいる人々の声、カップル達の笑い声、近くの売店の呼び込みの声、そんな日常を実感させる音が僕の集中をかき乱し、現実に引き戻すこととなった。
そのまま現実に戻った僕は、もう穴に惹かれる気分にもなれなかった。
僕は、軽く穴の周りを歩き、そして何故かおいてった賽銭箱に小銭を入れ、適当に祈り、そのまま立ち去ることにした。
そして祈りを終え、そのまま立ち去ろうとしたとき、ふと穴の奥を見た自分は、そこに光る一対の目を見た。
それは、蛇の目だったのだろうか?それとも神の目だったのだろうか。
気が付いたとき、僕は、係員に肩をつかまれていた。
どうも、無意識に柵を乗り越え、穴の方に行こうとしていたらしい。
係員が、そこは立ち入り禁止だと、厳しく怒るように声をかけてくる。
周りの注目が集まる中、僕は、適当に謝りながら、逃げるようにその場を去った。
次の日、僕は、車に乗ってそのまま山奥の村を去った。
さて、ここで話を飛ばそうか。
それから旅行は、大学の夏休みの終わりが近づいた段階で打ち切り、僕は学生らしい日常に戻った。
しかしね、そんな生活の中でどうしても、あの穴のことが頭から離れなくてね。
いや、正確には、穴の中に見えた目がね。
そこで、秋に入ったある連休の時、もう一度A県のあの山奥の村に行ったんだ。
本当は、夕方前には着く予定のドライブだったが、途中、渋滞やら、道に迷ったこともあり、村に着いたのは、もう深夜だった。
長時間の運転で疲れてた自分は、とりあえず村の中にあるコンビニでタバコを買って一息をついたとき、ふとあの洞窟がある方を見た。
すると、向こうの方から、ふと視線のようなものを感じた。
勿論まやかしに決まっている。
それでも、その感覚に惹かれた僕は、深夜にもかかわらず、そのまま洞窟の方に向かうことにした。
洞窟の前は、前回訪れた時と違い、静寂が支配していた。
無邪気にはしゃぐカップルもいない、大声を上げている売り子もいない。
そして洞窟を見守る警備員たちもいなかった。
疎らな外灯だけが照らしているこの場所は、決して十分な光がなく、その静寂さと合わさり不気味な空間であったが、どこか僕を落ち着かせてくれた。
さて、ここで僕は、そのまま帰るという選択肢もあった。
クタクタで疲れていたし、洞窟の中を見ても、あの一対の目も、視線のようなものも何も感じられなかった。
ただ、僕はここで一つ冒険をすることとした。
誰も見ていない今、洞窟の中を見たいと感じたんだ。
手元には、たばこを吸うとき使っていたライター、そして駐車場からここまでの道中で利用した懐中電灯があった。
僕は、そっと明かりをつけて、柵を乗り越え、洞窟の中に入っていった。
『彼の話・後悔』
洞窟の中に入る。明かりも何もないその場所は、入り口から少し奥に行くだけで漆黒の闇に包まれる。
足に何かが当たった。懐中電灯をつけてみる。
そこには、缶ビールの空き缶や、スナック菓子の残骸が散らかっていた。
これも、自分と同じような客人の残置物だろうか。
過去に、自分と同じようにここに入ってきた人間がいたことに、どこか安心感を感じた自分は、そのまま奥に進むことにした。
少し進むと、徐々に空き缶等のゴミが減り、まるで未開の地にいるような錯覚に陥る。
ただ、ところどころにあるお札や、ライター等の落とし物が、人が立ち入ったことを実感させてくれる。
しかし、ある程度奥地に入り、ふと気が付くと、そのような人工物も見当たらない、一面の闇が広がる空間に僕はいた。
明かりは手元の懐中電灯のみ。
それで周りを照らすが、洞窟の岩盤が広がるのみで、そこには何もない。
ふと、我に返った僕は、無性に怖くなってこの洞窟を出ることを考えた。
結局一対の目とも出会うことなくこの場所を去ることに、一瞬後悔も感じたが、何もないという恐怖が僕を無性におびえさせたんだ。
さて、洞窟を出ようとして、元来た道を戻り始めたが、行けども行けども続くのは洞窟の壁のみ。
途中、何度か道が分かれているが、どちらから入ってきたかもと覚えていない。
次第に自分が向かっている方向が、本当に正しい道なのかもわからなくなり、僕は、このまま出られないんじゃないか。という恐怖と絶望に追い込まれていった。
しかし、しばらく歩いていると、目の前にお札のようなものが貼られている道が見えてきた。
お札。普通に考えれば、あまり好ましくない物だ。
ただ、五里霧中で自分の行くべき道が分からなくなっていた自分にとって、それは灯台の明かりのように行くべき道を示してくれいたように思えたのだ。
僕は、そのままそのお札のある方向に向かって歩き出した。
お札は、徐々に枚数が増えていき、より不気味な空間を演出している。
その中には、明らかに古いようなものから、至極最近新しく貼りなおしたであろう物まで混ざっていた。
つまり、最近も人がこちらに来ている。
それは、不安で押しつぶされそうな僕の心を明るくしてくれる、うれしい情報だった。
どれぐらい歩いただろうか、ふと目の前に開けた空間が見えた。
僕は、そこに向かった。
そこは20帖ぐらいの空間だった。
一見、何もないように見えた空間だったが、そこの奥に僕は古びた祭壇のようなものを見つけた。
何を祭っているかはわからない。
どこか底知れぬ恐怖を感じながらも僕はその祭壇に近づいた。
祭壇の奥には、ちょうど人が入りそうな大きさの穴の入り口があり、そこの奥には漆黒の闇が続いていた。
まるで穴を祭るような祭壇。
それは見る者を吸い込んでしまいそうな広がりを感じさせていた。
ふと気づく。穴の奥に一対の光った目が見える。
何度も感じた目。
それがいま、直接、僕をしっかりと見ている。
そして、まるで蛇に見られたカエルのように、僕は動きが取れず、その目を見続ける。
「ナンジ、ノゾミタマエ」。
頭に声が響く。
「ナンジ、ノゾミタマエ」。
声が続く。
「のぞみたまえ」。
そして僕は、声に促されるように自分の欲望を心に浮かべる。
金がほしい。美人な恋人がほしい。社会的名声がほしい。成功をしたい。幸せでいたい。
様々な欲望が心に渦巻く。
それは、一対の目に吸い込まれるように、心に浮かんでは消え、また心に浮かび、回り続けた。
多くの人から羨ましがられるような、最高の人生を送りたい。
一対の目が、笑ったような気がした。
『懺悔』
「すいません、ラストオーダーのお時間です」。
飲み屋の店員の女性の声で、私と彼は現実に戻される。
お互いに我に返り、それぞれ自分の飲み物のお代わりを頼んだ。
彼の話は、回りくどく、そして思い出語りのように冗長であったが、徐々に熱に浮かされたような迫力のあるような喋り方もあり、私は聞き入っていた。
お代わりできた酒を飲みながら、一息をついて改めて、彼に聞く。
「それで君は成功を続けてきたのかい?」
彼は、それを聞き、考えるように目を閉じて、そして答える。
「そうだね、成功かもしれない」
そのままお互いに近況を話し、私と彼は、店の会計を済ませて、外に出た。
駅までに向かう道、お互いにどこか無口のまま歩き続ける。
私は今聞いた告白の真意を考え、彼は、今話した物語について考えたいことがあるのだろうか。
駅が見えてきた。
その場所で、彼が口を開いた。
「さっきの話の続きだが」。
私は、振り返る。
彼は、真剣な顔をして続ける。
「確かに、あそこから君が言うところの成功、幸運が自分には舞い降りるようになった」。
だが、それは、偽物だ。
彼は、吐き捨てるように言った。
一対の目は、こちらを見透かすように見続ける。
そして、語る。
「叶えよう」と。
自分に舞い降りた幸運に、僕は信じられずに固まる。
対価を払うことを考えもせず。
それは、何なのか。
彼は、続ける。
ふと僕は目が覚める。そこは暗闇だ。
一対の目は、僕を見続ける。
祭壇の奥の穴、身動きもとれず、頭も働かず、ただ一対の目に見続けられるだけ。
ただ、時々夢を見る。
自分は、結婚をして幸せな家庭を築き、入社した会社でも上々の出世。同級生たちが羨望の目で見つめるような幸せな生活を送り続ける。そんな夢。
しかし、所詮は夢。
すぐに覚めて、この場所に戻る。
ただただ暗闇で、どこかマヒしたような日常を送り続ける一時を。
あぁ夢だ。夢だからすべてがうまくいく。
それは確かに幸せだ。自分の理想だ。
しかしそれは夢に過ぎない。実感できない夢に過ぎない。
見ている間、その刹那のみの幸せに過ぎない。
そのどこが本物となりえるだろうか。
コンナ、シアワセ、ショセンマヤカシ、ボクノ、ノゾミジャナイ。
「こんな人生は、まやかしだ。だから、私は君が羨ましい。」
疲れた顔で、されど真剣にその言葉を放ち、彼は、改札に向かう。
自分は、別の改札なので、彼に別れの挨拶を言い、彼がそれを返す。
それは、普段の彼と何も変わらず、何か囚われているようには思えない足取りだった。
彼は、結局何が言いたかったのだろうか。
疲れていたのか、心に何か病でもあるのだろうか。
そんなことを考えながら、私は帰路についた。
次に会った時、もう一度話を聞いてみよう。そう思いながら電車に乗り込む。
しかし、その次は、二度と来なかった。
『終章・結末』
彼の名を次に見たのは、半年後。
彼の奥さんからの電話だった。
「先日、あの人は永眠しました。」
突然の電話だった。
脳内出血で倒れて、発見が遅れてそのまま亡くなったらしい。
急ぎ、予定を調整し、彼の通夜の会場に向かう。
生前の会社の付き合い、学生時代の友人、近所の人たち。
多くの人がごった返した通夜の会場で、人ごみにまみれながら、焼香を済ます。
告別式は、次の日というが、その前にはどうしても戻らないといけない用事もあったため、私は、彼との最後の別れをすますと、そのまま帰路に就くことにした。
これで彼にまつわる話は、大体語り終えた。
しかし、私はもう一度だけ彼に関する話を聞く機会があった。
葬儀から一年後、大学時代の同級生と飲む機会があった。
生前の彼とも付き合いがあり、一年前の葬儀には参加していたため、話は自然とそのころの話になる。
その場で、自分が帰った後のちょっとした事件の話を聞かされた。
遺体を火葬場にもっていき、燃やしたところ骨も残さずにすべてが焼けてしまったらしい。
年齢を考えると、骨が無くなるなんてこともめったになく、それを目の当たりにした多くの人は驚いたらしい。
しかし、彼の妻や家族は、特に動揺した様子もなく、そのまま何もなく葬儀は終わったらしい。
そして、それからしばらくした後、彼の妻や家族は、いなくなっていた。
ある日、気が付いたらすでに引っ越しをしていて、誰も行方を知らなかったらしい。
恐らく様々な事情が重なっての引っ越しだろうが、多くの人々にとっては、格好のゴシップのネタとなり、しばらくの間、多くの人々の噂話の中心となっていた。
最後に、どうしても彼の話が頭から離れなかった自分は、A県の山奥に行ってみることにした。
別段、これまでの不可解な出来事とA県の山奥の話は関係ないんだろうと思いながらも、自身の安心のため、確認をしてみたかったのだ。
彼が話した村に着いたのは、ちょうど昼過ぎ頃だった。
太陽がさんさんと照り付ける中、私は、恐らく彼が話していたであろう、山の道を上り、その洞窟の前に立った。
洞窟の前には、彼が話してくれた通り柵があり、屋台が立ち並び、管理人らしい人物がこちらを見ている。
しかし、洞窟は、奥が見えるほど浅く、手前に賽銭箱が置いてあるだけの一つの観光スポットに過ぎなかった。
もちろん、彼が言うところの一対の目を感じることはなかった。
どこか拍子抜けをしたように、私は、周りを少し散策するとそのままふもとに向かった。
山の麓には、宿屋があった。
村には、他に宿屋がある様子もないため、恐らく彼が話していた女将がいる宿屋であろう。
既に建物は、朽ち果て、その営業を終えてかなり長い間放っておかれたことが分かった。
もし女将がいれば、当時の話でも聞けたかもしれないが、それは望めなそうだった。
ふと周りを見ると、道路を挟んで反対側に公民があるのが見えた。
中では、初老の男性が受け付けの椅子に座りながらこちらを見ている。
私が公民館に気が付いた様子を見せると、老人はこちらに軽く会釈をし、受け付けの奥にあるテレビの方に目線を戻した。
私は、公民館の入り口に向かった。
公民館の中に入ると、先ほどの老人が改めてこちらの方を見ている。
要件を問おうとする姿勢を確認した自分は、口火を切った。
「お向かいの宿屋、最近閉められたのですか?」
もし、最近宿屋を閉めたようなら、そこから当時の従業員等の連絡先を聞けるかもしれない。
そこから彼について何かを聞けるかもしれない。
何かに憑かれたように、私は言葉を紡ぎ、老人の回答を待った。
そして、老人は口を開いた。
「あそこの宿屋かい?あれは、終戦の年に廃業したよ」。
"終戦"。あり得ない時代。
私も彼も戦後生まれだ。
そのような時代に廃業した宿屋に縁を持てるはずがない。
言葉に詰まった私に気が付かないのか、老人は言葉を続ける。
終戦の年、そこの主人の出兵を機に家族は、遠くの親戚を頼り一旦宿屋を閉めた。
そして終戦後、主人は無事に帰国したが、そのまま都会に生活の基盤を作っていた家族と合流し、向こうの方で生活を始めた。
当初は、何度かこちらにも戻ってきていたようだが、ここ40年程は全く戻ってきておらず、荒れるに任せているらしい。
私は、適当なところで礼をいい話を打ち切り立ち去ることにした。
最後に念のため、他に宿屋がないか聞いてみる。
「いや、この村には宿屋なんてあそこ以外なかったね。」
私は礼を言うと、そのまま立ち去った。
改めて宿屋の前に立つ。
確かにここ数年人が出入りしている様子もなく、その荒れ模様は、長い年月を感じさせた。
私は、宿屋の周りもぐるりと回ると、そのまま立ち去ることにした。
A県の山奥、それはきっと彼が、この村を訪れた後に考えた一つの話だと思いながら。
ふと、宿屋の引き戸が一か所中途半端に開いているのが見えた。
私は何気なしに、その隙間から宿屋の室内をちらりと見てみる。
中から据えたカビのような匂い、そして一面の闇が広がっていた。
何も見えないことに失望し、私は、そのまま立ち去ろうとする。
そして目線を動かしたとき、私は、宿屋の中に一対の光を見つけた。
ちょうど時は夕方の遅い時間帯。
日が短くなりつつあるこの季節、周囲は徐々に暗闇を増していく。
私は、何事もなかったようにそこを立ち去った。
『日常』
日常は、これまでと変わらずに過ぎていく。
私は、変わらぬ日々を送り続ける。
ただ時々夢を見る。
私は、あの宿屋の前に立つ。
しばらくすると、そこの引き戸が少し開く。
そしてその隙間から一対の目がこちらを見ている。
そのままの状態が続くだけの夢。
そんな夢が繰り返されているある日、私は気が付いた。
あの一対の目は、彼の目であることに。
それからしばらくの時が経った。
今、私は夢を見ない。
今までとは変わらず、むしろ最近少し上向きになってきた人生を楽しみながら生きている。
だけど、時々彼の目が自分を見ているという錯覚に陥る。
そして同時に、今の自分の生活に実感を持てない現実に気が付く。
本当の自分は、暗闇の中にいる。
動きが取れず、一対の目に見られ続けているだけ。
だけど同時に自分は、どこか上向きになった人生を楽しんでいる。
ただ、それはまるで夢のような感覚。
それを現実のものと実感できず、ただむなしさだけを募る人生を送り続ける。
暗闇の中に入ったとき、自分は、その生と人生を実感する。
そこに現実が感じられる自分の今の日常は、何と儚いことか。
確かに幸せな日であるその一時は、されど現実として受け入れられない。
今日も自分は、そんな思いを持ちながら、幸せな日常を堪能する。
そしてふとしたとき、暗闇の中で、それが夢のようなものだったと実感する。
何が夢で、何が現実か。
何もわからぬまま、生きている自分は、いま少し、あの時の彼を理解した気になれた。
そもそも論として、この話自体は、前書きで述べたように自身の幸運に対する一つの思いを綴ったものである。
人は各々の人生がある中、他者の芝は青く見え、羨ましく見える。
その一方、その芝が正しいとは必ずしも限らず、それとて案外虚構のものかもしれない。
そう信じることで、幸運とは、全ての者に平等に与えられており、決して誰か一人が幸せに見えるということはありえない要素であると考え、自身を慰めるための話である。
主人公は、友人の生き方に嫉妬を見せる。
一方友人は、囚われた自身の人生の空虚さを実感している中、その実態を知らない主人公の思いを聞く。
結果、友人は、自身のむなしさを語り、主人公の人生への嫉妬を間接的に語ることとなる。
この両名の対比に重点を置きながら、幸運という要素の儚さを書き綴りたかったものであるが、恐らくこの度の話では、そこまで語りきり、まとめることができず、中途の形で話を止めることとなったことを後悔したい。