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Identity Spoofing

 彩羽は不安に震えて、また崩れ落ちそうになる足を必死に両手で支えながら、受け取ったスマートフォンを起動してパスコードを打ち込んだ。

『4420』――暗い画面に地図アプリが浮かび上がり、その中心には端末の現在位置を示す青い矢印。そして、この周囲一帯を表していると思しき地図と、そこに張り巡らされたルートが、青く点滅している。この青は、『Hxyrpe』で見る青色とは違う。

 人工的な青。

 あまりに鮮やかで、暴力的なほどの青。誰が見ても、青としか答えようのない青だった。また遠くで地響きが鳴る。彩羽はスマートフォンを片手に持ったまま、示されたとおりのルートを歩き出した。ノイズにまみれたこの世界は不安定で、今にも消えてしまいそうな、崩れてしまいそうな錯覚を与えてくる。踏み出そうとした先のアスファルトは相変らずの真っ暗な闇色だが、時折、ここには立ち入るなと言わんばかりの赤いノイズを走らせ、彩羽の身体をすくませた。

 地図を拡大する。このルートはあちこちをぐるぐると迂回して、一度通った交差点を二回も通ったり、細い路地へ入り込んだりして、最終的には市街の病院へと向かうようだ。この病院には、昔母親が入院したときにお見舞いに行ったきりだ。よほど、大きな病気やケガをしないとお世話にならないような、相当大きな病院だ。この場所に逃げ込めば、ハランから身を隠せるということだろうか?

「鷹山彩羽」

 その冷たい声には、嫌というほど聞き覚えがあった。振り返ると、すぐ目の前に真っ黒な影が浮かび上がっていた。『Hxyrpe』の闇の中でもひときわ鮮やかに浮かび上がる白い肌と、それを覆い隠すほどの黒――檳榔子黒。

「黒……どうしてここに」

 思わず身構える。さっき、湖南から聞いた話が、頭の中をぐるぐると渦巻いていた。檳榔子黒、目の前にいるこの少女の言うことに、耳を貸してはいけないと。

「心配した。もうすぐ、ハランがここまでくる――」

 と差し出された手を、彩羽はとっさに身を引いて、拒絶した。黒は、軽く伸ばしたままの手をそのまま宙で固めると、錆びついた発条のような挙動で首を上げて彩羽の目をじっと見た。

「どう、したの?」

「黒……、」彩羽は意を決して、「ほんとうなの? あなたが、私の身体を乗っ取ろうとしているって」

「だれに、そんなことを言われたの」

「それは……」

 檳榔子黒は、ひどく悲しそうに睫毛を伏せてうつむいた。伸ばしたままだった手を引いて握りしめると、前髪から冷たい雫が一滴、地面へと吸い込まれていく。それを見ると、彩羽のほうが、なんだか悪いことをしたような気分になってしまって、ばつのわるい気持ちになった。

 やがて黒は語りだす。

「私の肉体は、基底現実には、ない。それはほんとう。だけど、私はあなたの肉体を奪おうとなんて、していない。これも、ほんとうのこと。誰にそんなことを言われたのか、分からないけれど、鷹山彩羽、あなたにそれを伝えた人は、私のことを誤解している」

「あなたの肉体はどうなったの? もしかして……階段から飛び降りて自殺した、とか?」

「それは、また、別の人」黒の答えは少し、驚きの色を帯びていた。「私の肉体は――初めから、基底現実にはない。私はこの世界で生まれて、この世界でしか生きられない、人間じゃないもの。自我を持った、この世界の一部」

 黒はその場から動こうとしない。喋っていなければ、その場に佇む彫像か何か、芸術作品だと言われても納得してしまいそうになるほどだ。彩羽はそこで、檳榔子黒の口から、白い息が漏れていないことに気が付いた。

「じゃあ、あなたは……人間じゃ、ない?」

「人間――と、変わらない。この世界では。肉体の有無は、基底現実でしか意味を持たない価値基準だから。鷹山彩羽、でも、私はあなたの味方」

「あなたは、私に死なれちゃ困るって言った。それは、どうして? 私の身体を狙っていたからなんじゃないの?」

「ちがう。私は……あなたに死んでほしくなかった」

「どうして?」

 それきり黒は答えない。彩羽と、目を合わせようともしない。

「なにか、答えられないような理由があるの?」

「それは……、そんなことは……、」

 やにわに激しい光が視界に飛び込んできた。それは交差点の信号機だった。LEDの赤・黄色・青の三色が、これ以上ないほど強烈な光を発して、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。まるでスポットライトに照らされたミュージカルの舞台みたいだ。まわりが暗いから、なおさら際立って見える。

 その中心に立っているのは――

「みいつけた」白い衣装に身を包んだ少女だった。「にげないで。もう、にがさない」

「行こう!」

 黒に取られた手首が、激しいノイズと共に熱を帯びた。鋭い悲鳴と共に、彩羽はそれを振りほどいて、その場にへたり込む。彼女に捕まれた手首が、ノイズによって砕け、内部の黒い深淵まで露になってしまっている。

「いや……やめて」

 彩羽の拒絶の言葉に、黒は何も言わずに立ちすくんでいるだけだった。その向こう側から、白く小さな少女が、ゆっくりと近付いてくる。彩羽はすくむ足と、ノイズに震える身体を必死に動かして振り返り、湖南から受け取ったスマートフォンに示されるルートの通りに走り出した。ひとつ先の交差点を真っ直ぐ走り抜け、ふたつめのT字路を曲がって右へ。道中に灯る街灯や信号機はひとつもなかったが、彩羽の進む先は裁縫糸のように細い、けれどしっかりと輝くワイヤーフレームの輪郭線が照らしてくれていた。走るたびに息が口から洩れ、白い煙となって取り残されていく。息が切れ、脚が重くなっていくたびに、身体じゅうをむしばむノイズは収まっていく――次第に鷹山彩羽という人間としての輪郭を取り戻していく。住宅街だろうか、せまい一本道をずっと走っていくと、やがて突き当たりに星形の五差路が見つかった。左側の奥のほうへ向かい、その先ですぐに左へ。そしてまた左へ曲がると、またさっきの五差路へと戻ってくる。それが見えたとき、ちょうどその交差点を白い光が覆いつくした。

 粒のように小さく光る少女――ハランだ。

 彩羽は咄嗟に息を潜めて、電信柱の影に身を隠した。ハランは五差路の中心で、きょろきょろと周囲を見回すと、もと来た道へと戻っていった。そのあいだじゅう、彩羽の心臓はバクバクと高鳴り、ぎゅっと縮み上がるような恐怖に襲われ続けていた。黒はどうしたのだろうか? ここにハランがいるということは、ハランは黒のことを見つけているはずなのに。

 そのまま襲われて、取り込まれてしまったのか? 

 それとも――檳榔子黒とハランは、実は手を組んでいて、協力して彩羽のことを追い詰めようとしているのか?

 五差路の向こう側から白い光が完全に消え、ハランの気配が遠のいていくのを何度も確かめてから、彩羽は電信柱の影から飛び出し走り出した。次はこの五差路を、そのまま真っ直ぐに通り抜ける。その先は長い坂になっていて、住宅街と住宅街の隙間のような、狭く細い通路がずっと続いていく。交差点を渡り終え、狭い道路へ入ろうとしたまさにその瞬間、彩羽の脚は急に止まり上半身がつんのめる。

 そこは階段だった。長く、細く、急な石造りの階段――一段、一段の輪郭が、濃い深海の青へと染まり、まるで水の中へ彩羽をいざなっているようだった。申し訳程度に取り付けられた手すりのグラデーションは、下へ、下へと流れていく。その終わりは――見えそうもないほど深く低い。

 スマートフォンを確かめる。確かにこの先へとルートは示されている。不安で彩羽は振り返ったが、そこには当然、ハランも、檳榔子黒もいなかった。

「行くしかない」

 今は、取りあえず雲居湖南を信じて進むしかないと、彩羽はそう考えることにした。

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