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Apple Girlの冒険 火星探査の任務について

 


 大学4年生の絵里子は時々地球が嫌になる。真夏の夕日は絵里子の薄ぼんやりした影を容赦なく炙り、彼女に残されたフレッシュさを容赦なく焼き焦がしてしまう。絵里子は面接対策に励む同級生たちを尻目に帰宅すると、自室のベッドにカバンを放り投げた。陰影の濃い横顔に薄いブラウンの髪が垂れ下がる。推薦で会社を決めたため、髪を染めなおす機会を逃してしまったのだ。おかげで絵里子の生活に特別なプレッシャーはなかったが、その分張り合いにもかける日々が妙に情けなく思えた。汗に濡れたブラウスを勉強机の椅子に投げ捨てる。


 絵里子は部屋の窓から街を見た。2年後に控えた東京オリンピックの看板が寂しく夕影に浮かびあがり、遠くの空に浮かぶ火星に見下ろされている。今日の火星は昨日よりもなぜだか少し、大きく見えた。彼女は無性に寂しくなって、まだ陽もあるというのに布団に潜り込んでしまう。

 そうして布団の中で、夢を見る。眠りに落ちる寸前、シナプスは次々と発火し、火球の連鎖となって絵里子の脳内を駆け巡る。もし誰かがそれを見ていたら、まるで深宇宙を駆け回る流星群のようだと思ったことだろう。最後のシナプスが燃え尽きてしまうと同時に、絵里子は火星に生まれ変わる。火星の街は土の匂いも風の匂いも薄くて、その代わり、群青の空に林檎の香りが漂っていた。

 

 火星でも彼女は授業を受ける身だ。絵里子が周りを見渡すと、小さな白い教室に机が8個置かれ、教壇の前に教師が立っている。現代と変わらない普通の授業だ。彼女以外の学生は机の天板に据えられた青白いキーボードを叩き、聞き取った内容を黙々と端末に保存する作業に没頭している。時計が音を立てる。学生がため息をつく。椅子が床を擦る。全てが予定通り。教室の中はまるで一つの独立した世界のように完璧だ。


 教室内の風景に飽きて窓の外に目をやる。穏やかな夏の青空の下で、火星の街は寂しく佇んでいた。

 ここでは無限の地平線など存在しない。半径30キロの半球ドームがこの世界の物理的な世界の終わりで、同時に想像力の地平線だ。この線より向こうに世界はない。何もないんだ。

 一昔前の映画のような曲線ばかりの未来的建物なんて火星には一つもない。常識的な四角いデザインの平凡な高層ビルが街を埋め尽くしているだけ。高層ビルの向こうにかすかに尖塔が見え隠れしているのが、ただ一つの火星オリジナルの風景だ。

 きっとその尖塔の麓には優しい風が吹いているんだ、と絵里子は夢想する。そこで起きた風が緩やかに街をくすぐって、そして最後に教室の窓から飛び込んでくるんだ。

 鼻をひくつかせると、どこか懐かしい甘酸っぱい香りがして、思わず絵里子は席を立った。

 絵里子には、自分が何かを探すためにここにいるんだとわかっていた。きっと、それは絵里子が自分の足でちゃんと地球を歩くために必要なものだ。

 街へ行けば分かるかもしれない。絵里子は心の中でつぶやいた。ここは私の夢の中、きっと私を知ってる人がいる。

 林檎の香りを追いかけて、絵里子は火星の旅に出る。ここでの私はApple Girl。どこまでだって行ってみせる。

 教室のドアを開け放つと、清涼な空気が肺を満たし身体中の血管がキュッと締まった。絵里子は一歩踏み出した。閉じられた教室から閉じられた街へ。

 

 立ちすくむビル群の根元を縫うように歩いていると、火星がようやく見えてくる。見たこともない奇妙なものや人が道中に溢れ、奇抜な服装が目を引く。火星では極彩色をふんだんに使うのが流行らしい。そのうち絵里子は広い公園に出た。公園は円形で周囲をレンガの花壇に囲まれ、中央の噴水に近づくほど段差が低くなっている。  

 この公園だけ、やけに生きているものの匂いがする。人の体臭、周りに囲むように植えられた広葉樹の樹皮の匂い。人工的な街では生命の痕跡が、かえって作り物くさく感じられるのだと、絵里子は初めて知った。

 家族連れや恋人同士が休んでいるのを横目に見ながら、絵里子は彼らから離れ、公園の隅にゆっくりと歩いていく。そのあたりには、なぜかたくさんのカーキ色のゴミ袋が風に揺れていた。

 近づいてみると汚い身なりの浮浪者たちが数人固まって座っているのがわかった。薄汚れた幅広の袖や襟が風に揺れてゴミ袋に見えたのだ。彼らはそれぞれヘッドマウントディスプレイを装着し、虚空をぽかんと見上げている。まるで彫像のように微動だにしない。その中の一人がゴーグル越しの視線を絵里子に向けていた。一人だけ意思のある視線を向けているので嫌でも気がついたのだ。

 絵里子がそばに立つとその中年男はゴーグルをとった。男の顔は10人のうち8人は昔の知り合いだと勘違いしてしまうような、どこか懐かしい顔をしていた。実際絵里子もそう思った。

「河野と言います」男がそう言って頭をちょこっと下げた。

絵里子は黙ってお辞儀した。

 男が微笑むと黄色い乱杭歯があらわになった。絵里子はその笑顔を見て罪悪感を覚えた。

 男は絵里子の表情を見て憮然とした。

「私はご覧の通りの有様だがね、落ちぶれたつもりはないよ。肉体を捨てるのはいいことだと、そう思わないか」

「肉体を捨てる?」

「そう、私は自分をネットワーク上に置いてしまっていてね。私はすべての精神的な活動をネット上で行う。現実では物を食べ、排泄し、呼吸する。それだけ」 

「そこで何をするんですか」絵里子は河野の姿をまじまじと見た。男は絵里子の視線の意味に気がつくと、バツの悪そうな顔で襟にこびりついた食べかすを指先でつまんで放り捨てた。

「コミュニケーションだよ。現実での会話のように不完全なものではなく、意思の奔流に身を委ねる」

 絵里子は少しだけ身を引いた。地球で会えばすぐさま向きを変えて立ち去るようなヤバイ人だ。正直、夢の中だって関わり合いになりたくない。

 遠くの方で子供たちの喧しい笑声が聞こえた。

「私は教師だったんだ。学校で地理を教えていた」河野は絵里子の視線をあっさり受け止めていった。

「学校、つまらなかったんですか」教員がホームレスにおちぶれるなんてあってはならないことだという社会的な観念が絵里子にも備わっていた。

「学校が好きなら君は一生教師を続けるかい?」

 河野は嘲るように笑って、絵里子が何か言う間もなく、捲したてるように身の上を語った。

「教員になった時、僕はもう一生迷わなくていいんだと思っていた。。少しだけの不安とそして大きな安堵があった。もう人生はこれから変わりっこないってね。だけどそうじゃなかったんだ。全然、そうじゃなかった。……なあ僕の生徒たちは覚えているかな。僕が学校を去りゆく彼らに人生はいくらでもやり直せるって言ったことをさ。あれは半分間違いだった。人生はいくらでもやり直せたりなんかしない。もう戻れない分岐点というものが必ずある」

「意味わかりませんよ、先生」絵里子はあらぬ方を見つめたまま、河野のそばにそっと座った。きっとこの人は苦しむ必要のないことに苦しむ人なんだ。そう思うと、突然この人が愛おしく思えた。

「わからなくていい。受け入れたらそれでいい。惨めで貧しいホームレスだって快適だ。1日1度食事を手に入れ、あとの時間は五次元展開する仮想世界に潜っている。ジャハールの作品を見たことがあるかね。不断に姿を変える幾何学模様は美しいぞ。ネットに意識を飛ばせばそこに友人だっている。三次元世界のしがらみを捨て、美しいものとだけ繋がっていられる。……幸せさ」

 絵里子は河野の横顔を見た。そしてゆっくりと群座するホームレスたちを見回した。


 彼らにとってリアルは軽い。ネットで積み重ねた人間関係は現実世界のそれを凌駕し、比重が逆転してしまっている。現実世界に居場所はないが技術的ネットワークの上になら故郷があるのだ。確かに、幸せなのかもしれない。彼らは自分のしがらみを意図的に見ないようにしているのだから。そこまで考えて彼らがどうしてこの大都市に来ることになったのか気になった。

 河野先生に尋ねようとした時、絵里子の視線の先で、一人の女の子が走りだろうとして、転んでしまった。公園に幼児の金切り声が響き渡った。

 絵里子は話の腰を折られてまた黙り込んでしまった。女の子はぶつけた膝小僧を抱きかかえながら、助けを求めるように辺りを見渡し、周りの大人たちを責めるように更に大声で喚き始めた。

 本当はこんな場所に居たくなんてないんだろうな、と思う。この人たちは、今まで大事に握りしめていた何もかもを振り捨て、遠くに見える赤く素敵な世界に恋い焦がれた旅立って、そしてついには重力に引きずり落とされてこの街に不時着してしまったのだ。

 絵里子が少女から視線を動かすと、河野の落ちくぼんだ眼にぶつかった。濁った眼球が微動だにせず絵里子を舐め回す。

「私はお前を知っているよ」河野は機械仕掛けのような軋んだ声でそう言った。「覚えているかい。お前が14歳の時、私はお前のクラスの担任だった」

 絵里子の背筋に冷たいものが流れた。先生は痩けた頬を熱で紅潮させ、憑かれたように喋り続ける。

「お前の見せる表情は全部嘘だった。笑顔も怒ったような表情も。無邪気なようでいて、本当は誰よりも教室のことを冷徹に観察していた。部屋の隅の本棚も黒板消しのチョークの汚れもクラスの人間関係ですら、お前の嫌らしい観察からは逃れられなかった。お前は傷つくのが怖くて、飛びかかる火の粉をかわすためだけに周りを実験動物にしてしまった。教室での出来事で傷つかないように、お前はセンサーを張り巡らせたんだ。本当に嫌らしいやつだった」

 絵里子は何も言わずベンチから離れた。

「自分が不健全な子供だったと認めたくないんだね」

「認めますよ。私は他の子みたいに無邪気に笑ったり、冗談を言い合ったりできません。他人を心の底から信用できないんです」

「じゃあどうして怒っているんだ」

「怒ってません。でも不愉快なので帰ります」絵里子は歩みを止めずに言い捨てた。「見たくないものを無理やり見せられるのはごめんですから」

 公園の広場を横切って花壇のところまで戻ってくると、河野が突然後ろで叫んだ。

「行くんだね。そうしたまえ! ここは寂れた街さ。きっとお前が見たくないもので溢れてる」

「さよなら先生、もう二度とお会いしません」

「さよなら、またきっと会うさ」

 絵里子は近くに停車した路面電車に飛び乗った。手すりにつかまると同時に電車が走り出す。絵里子は手すりにしがみついて、顔を伏せた。

「忘れるな。お前には未来なんてないぞ。全ては過去にある。今までなんども思い返してきた、一番綺麗で愛らしい思い出だけをこれからもずうっと思い浮かべて生きていくんだ。それを忘れるな!」

背後から投げつけられた叫びを電車は振り落として疾走する。扉のない観光客向けの路面電車に吹き込んだ風が絵里子の紅潮した頬を冷やす。頭の中で溶解した鉄が波打ち、それが顔の表面ににじみ出るような気がした。何かがこぼれそうで歯を食いしばった。

 一番輝かしい記憶は私のものじゃない、それだけはわかっていた。絵里子の双眸が去りゆく街をいつまでも追い続けた。路地を抜け、家々を通り過ぎて、気がつくと電車は大きな川と並走していた。

 絵里子はタラップを踏んで降車すると、土手を滑り降りて河原にでた。眼前を、濃い草の匂いが流れていった。足が自然と草むらを踏み分け水の中に入っていく。水が皮膚に触れた途端、貫くような冷たさが身体中を血流に乗って駆け抜けた。ふと、何かの香りが鼻先をくすぐった。鼻先を引かれて振り返ると、あの尖塔が街を睥睨していた。

一筋の風が吹き抜けた。気がつくと、絵里子は地球の自室で寝転がっていた。朝がやってきていた。

 

 地球の絵里子は毎日同じ道を通って学校へ行き、同じ教室で授業を受け、同じ時間に帰宅する。

 通学路の新築マンションから漂う湿ったコンクリートの匂いが鼻腔を刺激し、くしゃみしそうになる。

 きっと引っ越してくる人たちは幸せな顔をしている。家を買うときに不幸せな顔をする人なんていないから。ふわふわした気分のままそんなことを考えた。自分はどうしてあのマンションを買わないのだろう。この街で働いて、結婚して、あの素敵なマンションで子供を作る。ありえない未来。絵里子自身が一番信じられない未来だ。

絵里子はゆっくりとした足取りでマンションの前を通り過ぎると、商店街の並木道を進む。同級生たちの姿が路上に増えるにつれて、背筋にもかすかな緊張が宿る。彼らに油断しきった姿を見られたくないから。学生たちの群れから距離をとりながら、横目でチラリとそれぞれを伺う。その中の一人、前を行く女学生がふと振り向いて、絵里子に笑いかけた。白い頰にうっすらそばかすの浮いた女の子だった。心臓が高鳴った。

 生ぬるい風が吹いて彼女のスカートがひらりと揺れる。絵里子は小走りになってその女性の隣に並んだ。

 違う星に行けたら。絵里子はふとそう思った。隣に並ぶより上から眺めた方がきっと素敵だ。私が違う星に旅立つとしたら。

 多分友達の何人かは見送りに来てくれるだろうな。お母さんと弟は泣くかもな。絵里子は軌道エレベータのプラットフォームに立ち、大人になったところを見せようと気丈に笑顔を見せる。扉が閉まり、その瞬間地球との縁は完全に切れてしまう。私は微笑んだままこれまでの22年間を思い出し、まだ見ぬ宇宙の生活に思いを馳せ、ちょっぴりの期待と同じ分量の不安を胸中に広げ、軽く目を閉じる。ズシンと体が重くなり、心臓を体の内側に埋め込もうとする重力に逆らって体が上昇していく。肉体を縛る重力が消え、再び火星の土を踏む瞬間を夢見て。そして自分が彼女の視界から消えてしまうことを夢見て。


 火星は広い。ドームの内側にいくつも街があり、それぞれが違った顔をしている。絵里子は街の中心を目指した。歩くごとに尖塔の影は濃く、そして高くなっていく。彼女がその麓に辿り着く頃には、もう塔の上半分は霧に隠れてしまっていた。どうしてもあの塔の頂点から街を見下ろしたかった。そうすれば何かわかるという確信があった。塔の土台に鍵穴の形をしたドアがあった。絵里子はそっと手を伸ばす。

「覚悟は決めたかい」

 河野先生がポツンと立っていた。今日も砂色のポンチョのような上着を羽織り、とぼけた笑みを浮かべている。絵里子は無視して通り過ぎようとした。

「あの塔は登れないよ」先生は意地悪く笑う。「あそこには何もない。飾りだけの張りぼてだ」

「先生には関係ないでしょう」辟易した絵里子が振り返ると先生はニヤニヤ笑っていた。

「遠くから見てるだけなら美しい。だけど近づいちゃうと、もうね、ダメなんだ。わかってるだろ」

「うるさいな」

「鍵がかかってる。扉は開かないよ」

「だからうるさいって!」目の前の取っ手をつかんで、力一杯引っ張った。絵里子はたたらを踏んで体のバランスをなんとか保った。鍵なんてかかっていなかったんだ。扉の内側は意外なほど殺風景で、錆びの浮いた鉄階段が、らせん状にどこまでも伸びていた。絵里子は登り始めた。

「すぐに疲れるよ。もういやだ、登りたくないって駄々をこね始める」河野先生はまだついてきていた。絵里子は黙って登り続けた。

 階段は意外なほどあっさりと途絶えた。ものの10分も歩かないうちに頂上にたどり着いたのだ。拍子抜けして後ろを振り向くと、はるか後方で河野がふらつきながら登っているのが見える。絵里子は手すりにもたれて、身体を休めた。眼前に火星の街が広がっていた。

 地平線よりはるか手前に、白っぽい街が唐突に途切れるラインがある。街を覆う半球ドームだ。植民と同時に建設されたドームは人類とそれ以外を分ける唯一の明確な基準だ。つまり、そこより外側で呼吸できるなら人間ではありえない。きっと火星の人には悩みがない。どこにいるかで自分か他人か簡単に決まってしまうのだから。隣に河野がやってきた。荒い呼吸を整えて、先生はそっと絵里子の肩に手を触れた。

「今、何を考えているかよくわかるよ」

「私にはわかりませんけど」絵里子の声は尖っていた。

 先生は肩をすくめて、並んで街を眺めた。しばらくの間、ひゅうひゅうという風切り音が二人の間を隔てていた。

 どれだけの時間そうしていたのか、絵里子がふと気がついたときには、陽が傾いて夕焼けが街を覆っていた。

「先生」絵里子が呟くようにいうと、河野先生は優しく振り向いた。「私の人生は輝いてましたか」

「君くらいの年頃は誰だって輝いているよ」

「どのくらい輝いてるのかが問題なんですよ」

 河野先生は瞳に不思議な光を浮かべていた。火星の太陽がゆっくりと尖塔の陰から姿を現し、先生の表情と一緒に瞳の光を消し去ってしまった。

「私、ここから飛び降ります」

「構わないよ。ここは君の夢だ」先生はにべもなく言って、手すりにもたれかかった。「好きにするといい。火星で死んだら地球に戻れるかもしれないぞ」

「土星に生まれ変わるかも」

「そいつは地球なんかよりよほど運がいい。太陽系の果てを見ることのできる人間は限られているからな」

「たぶんここから飛び降りても何にもなりませんね。あんなに高く見えたのに簡単に登り切れちゃうくらいだし」

「そういうもんさ。人生ってのはそういうふうにできてる」

 低いものは高く、高いものは低く見えるんだ、と河野は諭すように笑う。その笑顔が消えるか消えないかのうちに絵里子は手すりを飛び越えて、手すりに腰掛けた。足が空中で頼りなく揺れ、尻に鉄の冷たい痛みが鈍く響く。

さっきより、街がよく見えた。

 河野先生が突然顔を上げた。

「私が飛び降りてみよう!」叫び声が消えないうちに河野は手すりに飛び上がった。革靴のかかとを丸い鉄棒に巧みに引っ掛けて手すりの上に立ち上がる。あっけに取られる絵里子を尻目に、不安定な足場だというのに大きく伸びをした。

「考えてみれば肉体なんて必要なかった。いや、必要かもしれないが必要である可能性は君より私の方が低い。私は自分という存在がネットワークでのみ存在しうると考えているわけだし、それなら肉体を消してみて、なおネット上に残るか試してみたっていいはずだ」

「どうせ死にませんよ、これは私の夢なんです」

「わからないぞ。怖い夢を見ることがあるだろう? 何かに追いかけられて必死に逃げる夢を見たことがあるよな。あれは実は追いつかれたら肉体も死んでしまうからだ。悪夢から逃げ延びた分だけ人は長生きできる」

「死んだって何もなくなったりしませんよ。人間の想いとか感情はそう簡単に消したりできないんです」

「そうかな? 試してみるさ」先生はそう言うと絵里子に微笑んで、そして目を閉じた。先生の体から力が抜けていくのがわかった。収縮していた筋肉が次第に緩んでいき、閾値を超えた途端体が傾き始める。次の瞬間先生の姿は最初から存在しなかったかのようになくなっていた。

 落下音はなかった。残骸もなかった。

 人が死んだというのに、絵里子は悲しくなかった。それよりも遠くの空に小さな星が輝いているのが妙に気になって仕方がなかった。

 あの星はなんだろう、綺麗だな。それだけの事が妙に大事なことのように思えた。

 「先生も最後に会うのがこういうときに泣ける女だったらよかったと思ってるのかな」

呟いた声は夕日に吸い込まれていき、後には少女だけが残された。絵里子は目を細め、せめてあの星が放つ光を見逃すまいと一心に見つめた。次第に視界が滲んでいくのに気がついて、そして本当に唐突にあの星の正体に気がついた。

 火星だ。絵里子が今いるこの星ではない。何年も前、絵里子が今よりもっと幼い頃地球に大接近したあの大きな火星。その焼け付くような赤褐色の炎と見たこともないほど大きな惑星に驚愕した瞬間を昨日のことのように覚えている。

 そして隣に立って丸のままの林檎をかじっていた仲良しの少女のことを。

 絵里子はゆっくりと元来た階段を降りて地上に戻った。世界は今までと何もかわらずぼんやりと存在していた。地球に戻りたいと初めて思った。大切なことを思い出した。この夏だけは絵里子は地球にいなくてはいけないのだ。早く、帰りたかった。

 

 第三紀四次元世界の地球では緞帳のように分厚い雲が上空から垂れていた。絵里子はぐったりとうつむいている。校舎は薄汚れた外壁を曇り空にさらし、体育会グラウンドの砂は重たく湿っている。教室の窓から見える街が最後の中間を終えたばかりの大学に重苦しく迫ってくるように思えた。

 教室のライトはその日の天気に不似合いなほど明るくて、うんざりする。

 絵里子は腕の中に押し込んだ頭を持ち上げて横目で教室を伺った。数人の男女が固まって下品な笑い声をあげていた。合コンで出会った男の子がどうした、とかそういう話だ。絵里子が目を閉じて聞くともなしに聞いていると、そのうち同じようだった笑い声がぼやけ、一つのソプラノだけが教室の埃っぽい天井にふわりと浮き上がった。

 彼女は地元で働くらしい。教職課程を履修していたから、きっと高校の先生にでもなるのだろう。彼女は健全で、明るくて、まっすぐ自分の人生を生きていく。そして明るく優しい男と誰もがうらやむ家庭を築くんだ。郊外の落ち着いた街にこじんまりとした一軒家を立て、休日になると子供や夫と買い物や公園に行く。半径30キロの小さな世界。そんな人生を毛嫌いしていたはずなのに今になって無性に羨ましく感じていた。


 絵里子は地方の企業に就職する。いつもこの街にはもう一秒たりとも居たくないと思い続け、夢の中で架空の街を旅してしまうほどに知らない街に憧れた。4通作った履歴書は全て遠く離れた田舎の企業に出した。そのうちの一つから採用通知が届いた時、自分がもう生まれ育ったこのゴチャゴチャした土地や人間に縛り付けられていないのだとはっきりと悟った。そしてそれが、美しい彼女との別れになってしまうということも。違う町に住むというだけのことだが、それは永遠の別れと等しいということは絵里子にもよくわかっていた。

 旅立ちが近づくにつれ、自分が何か見落としているのではないか、飛び出した結果後悔だけが残ってしまうのではないかという疑念ばかりが増していき、もう何をどうすべきなのかわからなくなってしまった。何もしない日々が焦燥感を募らせた。

 絵里子がこの街を去った後、二人はお互い別の人生を歩む。あとはもう、10年くらい後になって、いろんな痛みや喜びを経験して全く知らない人間になった彼女の、その人生の結果をSNSでちらりと覗き見るだけだ。自分から舞台から降りてしまうのはとても愚かしいことだと、今更になってわかった。

 ふと、顔を上げるとあの子が立っていた。白い頬に浮いた微かなそばかすが微笑んだ。

 絵里子、と赤い唇が動き、一瞬遅れて甘い声が耳朶を打つ。

「新しい家は?」惚けた絵里子はようやく立ち直って必死に答えを脳内で検索した。

「決まった。結構良さそう。一人暮らしは初めてだからわからないけど」

かすれ声に相手が吹き出し、つられて絵里子も微笑んでしまう。

「絵里子が地方に行くなんてねえ。都会にずっと居るのかと思ってた」

「人生で一度くらいは東京以外もいいかなって」絵里子は肩をすくめた。

「そっか」彼女の唇からかすかな吐息が漏れる。「あんた、がんばんなよ。やればできるんだから」

少女はニヤっと笑った。「絵里子とは生まれた時から一緒にいるけど、とうとうお別れだね」

 絵里子は曖昧に微笑む。彼女が自分の旅立ちを悲しんでくれていることがよくわかった。そして、彼女が絵里子のことをすぐに忘れてしまうということも。彼女の人生に自分が入る隙間は用意されていないのだと突きつけられたようで、胸が痛んだ。

 幼馴染の少女は絵里子の心中を知ることもなく、浮かれたように華々しい未来を語って聞かせた。

「……絵里子が住む町遠いもんなあ。もう会えないかもしれないけど、私の恋の成功を祈っといて。あんたも、次にあった時私が気づかないくらい成長しておいてよ」

 そうだね、と絵里子は苦しく微笑んだ。見せたくない時に限ってどうして笑顔を浮かべなければならないのだろう。それでも最後のプライドを守るために、懸命に表情筋をこわばらせ、必死になって自分が傷ついてなんかいないと、周囲にメッセージを送り続けることしかできないのだ。相手が去って頬に込めた力を抜くと、パリパリと音を立てて笑顔と一緒に何かが崩れていった。


 心のなかで絵里子はつぶやく。

 今日の私を覚えておいて。きっと次に会うときはもっともっと素敵な人間になって、後悔させてやるから。

 

 絵里子は荷物をまとめて席を立った。もう大学に未練はない。

 校舎を出ると、どんよりした雲の向こうで盛夏の遠雷が轟いた。絵里子は一度も後ろを振り返ったりせずにこの夏最後の帰路を歩んだ。

 薄暗い路地のひんやりした空気を通り抜けると、そこはもう家の前だ。夏服のシャツが風で肌にぺったりとひっつき、指で剥がすと肌に残った水分がくすぐったく蒸発する。夏の終わりがそこまで来ていた。

 

 翌日、早朝の街はぬかるんでいた。前夜の雨は夜半まで降り続けた。アスファルトに浮かんだ水たまりは青い空を水面にうつし、その小さな水底に泥を貯めている。絵里子は水たまりを慎重に避けながらスイスイと歩いた。無人の街でコンビニだけがいつもと変わらない無機質な光を放っていた。


 向こうからスーツの男性が歩いてきた。口だけが動いている。体のどこかに身につけた端末で誰かと会話しているのだ。幸せな表情をしているから相手は恋人かもしれない。絵里子は黙って通り過ぎた。数秒後立ち止まって耐え切れず振り返った。河野先生はこちらを振り返らない。

 裏切り者! と怒鳴りつけてしまいそうだった。地球の河野先生はどう考えてもホームレスではなかった。見覚えのない皺の刻まれた温和な表情は彼が絵里子の夢に出てきたような人間ではないということを物語っていた。大人の男性として、計画通りの幸せを手に入れた素敵な平凡人だ。火星の都市で幸せな家族連れを横目で見ながら仮想世界に逃げ込んだ人ではなかった。

 河野先生はこちらに気づくこともなく角を曲がって視界から消えていった。絵里子はそれを呆然と見送り続けた。

 早朝の通行人が絵里子を迷惑そうに避けていく。

 絵里子はぐるぐると回る疑念を弄びながら、ゆっくりと国道沿いを歩きは秘めた。

 河野先生は不幸じゃなかったんだ。不幸でいて欲しかった。絵里子は自分の生きづらさを、先生のその薄い皮膚に見出そうとした。すでに可能性を消費してしまった人に「人生こんなものだ」と寂しそうに呟いて欲しかった。そうすれば胸を張ってこう言えた。

「私は違う! 私はそんなつまらない人間じゃない! 私はちゃんと生きていくから!」

 でも現実はみんなそれなりに成功していて、満足していた。絵里子は火星に旅立って、そして夜な夜な不満足な人生を作り上げた。火星都市で人々は不満足で焦燥して、そして無気力だった。火星ではただ一人のちゃんとした人間だった絵里子は地球の重力の元では普通ですらなくなってしまう。

 反対車線を2トントラックが轟音を立てて走り抜ける。絵里子はそれを見送って、そして足に力を込めた。コンクリートを蹴る。白い脚が疾走する。瞬く間に視界から消え去るトラックを必死に追いかける。絵里子がどれだけ腕を振っても、肺が燃え上がりそうなほど熱くなるだけで、トラックも街路樹もコンビニの前に置かれた幟も彼女を一顧だにしない。

 目の前に下り坂があることに彼女は直前まで気付かなかった。道は坂を下ってどこまでも続いているように見える。絵里子はついに諦めて、足を止めた。途端に体に重力が戻ってきたかのように重くなり、膝に手をついてしまう。

 シャツの襟で汗を拭うと、かすかに林檎の香りがした。甘酸っぱい小さな林檎が足元から転がって、あっという間に坂を転がっていった。すぐに見えなくなった丸い果実が絵里子をあざ笑っているような気がして、再び足に力を込める。もう何もかもがどうでもよくなっていた。胸が燃える。街が背後に走り去ってしまい、絵里子は白い光の中を駆けぬけた。


 普通の絵里子は普通に生きていかなければならない。この街にも引っ越す先の街にも特別なんてありはしない。他ならぬ絵里子が特別ではないのだから。どの街でもその街独特の、澱んだ生活の匂いにうんざりしながら生きていくのだ。きっとあの美しい幼馴染もそういう普通の人生を送るんだ。生活の中で傷ついた心を癒すためにどうでもいい飲み会に出かけ、周囲に流されてつまらない男と結婚する。気高い頰は惰性に緩み、引き締まった美しい唇は弱さにひび割れるんだ。

 だから、絵里子は普通に慣れなければならない。絵里子が自分の普通を受け入れ、足元を手探りで進むとき、小さな林檎の一かけらでも、彼女はきっときっと見つけることができる。絵里子は立ち止まって腰に手を当て、空を見上げた。霞む視界いっぱいにひんやりとした青空が広がっていた。

 昨晩遅くにやっていたニュースを思い出す。2018年夏の盛り、再び火星が地球にやってくる。15年ぶりの火星大接近はさしたるニュースにもならなかったが、絵里子の心は興奮に震えた。あの時火星とともに始まった恋が、この夏火星の訪れとともに終わる。

 素敵じゃないか。絵里子は手の甲で汗をぬぐった。

 役場についていた。こじんまりとした駐車場には車が数台しかなく、何人かの早出の職員が出入りするほかは建物が凍りついたかのように動きがない。絵里子は建物裏の時間外出入り口の扉を押し開けた。

 建物の内部はがらんとしていて薄暗い通路に非常灯が青緑の光を放っている。絵里子は道なりに進んで、時間外窓口に向かった。無人の窓口に起動済みの端末がジージーとかすかに音を立てているのを見つけた。

 絵里子はその音に急かされるように、画面に指を這わす。目当てのパネルを指先で触れると、しばらくして一枚の用紙が印刷された。絵里子はそれを手に取ると、黙って表面をなでた。黒い印字で転出届と大書してある。

 横目で人を伺うだけの生活なんてもうやめよう。求めていたものは手に入らないかもしれない。いろんなものを見落として通り過ぎ、持っていたはずのものさえ知らない間に失ってしまうかもしれない。だけど絵里子は進むのだ、この火星移住許可証を手に。そして彼女はやっぱり夢を見る。まだ誰も見たことのない火星の街の尖塔に立ち、絵里子は颯爽と腕を組む。


いつだって私はApple Girl。私はきっと、うまくやれる。


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― 新着の感想 ―
[一言] 取り敢えず最後まで読んだ 話に起伏がなくて物語としての盛り上がり的なのはない けど純文学路線としては詩の連綿という感じで好きだわ 後は単純に改行が少なくて文字が詰まりすぎって感じ 基本横書…
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