22.4cm
その物差しが自分のものだと気付いたのは、22.4cmの目盛りが綺麗に抉り取られていたからだった。
泥まみれで、焦げたような色に変色しながらも、傷はしっかりとそこに刻まれていた。
「何それ?物差し?」
大きくなったお腹をさすりながら、佳那が後ろから覗き込んでくる。
「これさ、昔僕が使ってたやつだと思う。」
「え、なんで分かるの?」
佳那の目が丸くなる。
初夏の田園を撫でる風が、背の低い稲を揺らした。
これを捨てたのは、丁度この時期だっただろうか。
物差しの傷跡を指で感じながら、僕は少しだけ笑った。
藤枝が僕の隣の席になったのは、小学3年生の3学期のことだった。
僕のクラスでは、定期的にくじ引きで席替えが行われていた。
くじを引く前、仲の良い友達と「隣の席になれたら最高だな!」と騒いでいたが、藤枝が隣の席だと分かった途端にその友達のことは頭から離れていってしまった。
「七峰くん。3学期の間よろしくね。」
藤枝はきゅっと口角を上げて僕に笑いかけた。元々茶色がかっている髪が、窓からの日に照らされていつもよりもずっと明るく見えた。
僕が答えるよりも先に藤枝が続ける。
「友達と隣の席になれなくて、残念だったね。」
藤枝は少しも残念ではなさそうに笑って言った。
僕は、本当は舞い上がりそうな気持ちを必死で抑えながら、ぶっきらぼうに答えた。
「別に。」
藤枝はもう一度微笑んでから、黒板に目を向けた。
藤枝と初めて話したのは、3年生で同じクラスになる前のことだった。
小学校からの帰り道、僕はわざと遠回りをして田んぼの畦道を通るのが好きだった。
僕の家と同じ方面に帰る友達がおらず、帰りはいつも一人だったが、畦道には木の枝や大きな石、蜻蛉や蛙など暇を潰せるものがたくさんあった。
その日は、俯いて歩きながら、視界に入ってきた雑草を手に持った木の枝で叩いていくという一人遊びをしていた。僕はそれを雑草ゲームと名付けていた。
雑草を叩く度に1点のスコアが加算される。この畦道を抜けるまでに今日は何点稼ぐ事ができるだろうか。
順調にスコアを稼いでいき、自己最高点の更新も見えてきた時、視界に真っ赤なものが入ってきた。
よく見るとそれは、女子用のランドセルだった。
僕のランドセルと違って、まだ擦り傷の少ないエナメルの光沢が夕焼けを反射していた。
雑草ゲームを中断して顔を上げる。辺りを見渡すと、畦道を逸れた細い小道に、茶色い髪を揺らした女子が田んぼを覗き込むようにしゃがんでいた。
別のクラスの藤枝という女子だ。時々この帰り道で僕の前を歩いているのを見かけていたので、名前だけは知っていた。
「何やってんの?」
右手で持った木の枝をぐるぐると回しながら声をかけた。
僕の声に反応した藤枝は、こちらに顔を向けると、口角をきゅっと上げてから答えた。
「おたまじゃくしがいるの。ねぇ、こっち来てみて。」
「おたまじゃくし?」
僕は藤枝の元へ駆け寄り、同じように田んぼを覗き込んだ。
そこにはおたまじゃくしが一匹いて、泥の上に張られた水の上でじっと動かないでいた。
「おたまじゃくしがどうしたの?こんなやつどこにでもいるよ。」
僕は得意げに言った。おたまじゃくしなど何度も見たことがあった。
「蛙になるかなぁと思って待ってるの。」
大きな目を僕に向けて、嬉しそうに藤枝は言った。
「おたまじゃくしはそんな早く蛙にならないよ。手が生えて足が生えて尻尾がなくなって、ゆっくりと蛙になるんだよ。」
僕は更に得意になって、藤枝の横にしゃがみこんだ。
「なんだぁ。そうなんだぁ。待ってて損したぁ。」
隣で藤枝は悔しそうに唇と尖らせた。
しかし、すぐにその唇をきゅっと横に伸ばして、綺麗に生え揃った小さな歯を見せて僕に言った。
「物知りなんだね!」
僕はなぜかその顔から目を逸らせられなくなった。耳のあたりがぽうっと熱を帯びるのを感じて、目が合っていることが急に恥ずかしくなってしまった。唾を飲み込んだらゴクンと喉が鳴ったことまで恥ずかしく感じて、ようやく顔を背けることができた。
「別に。」
立ち上がるなり早足で畦道に戻る僕を、藤枝が後ろから小走りで追いかけてきていた。
ある日の算数の時間、僕は家に定規を忘れたことに気がついた。
仕方なく引き出しの奥に隠れていた竹製の物差しを出してきて、それを机の上に置いた。
すると藤枝の右手が伸びてきて、僕の机に鉛筆で何かを書き始めた。
『じょうぎわすれたの?』
横目で藤枝を見ながら小さい声で「別にいいだろ」と言うと、茶色い髪を小刻みに揺らして小さく笑っているのが見えた。
その日の授業は定規を忘れた僕を狙い撃ちしているかのように、いつもの授業よりも定規の出番が多かった。
ミニテストでは辺の長さが書かれていない三角形がいくつも出てきて、それぞれの辺の長さを測ってから面積を求めなくてはならなかった。
その度に僕の机の上を30cmの物差しが縦横無尽に走り回った。
ようやく面積を求め終え、僕は満足げに解答用紙を眺めていた。僕は算数が苦手ではなかった。定規を忘れたことなど、他のクラスメイトへのハンデのようなものだった。
ミニテストの終了間際、再び藤枝の手が伸びてきて、机の上に何かを書いた。
『22.4cm』
何のことか分からずに藤枝を見ると、藤枝は何事も無かったかのようにミニテストを続けていた。
ミニテストを見返してみたが、辺の長さを書いたメモの中にもそのような長さはなかった。
結局、授業が終わっても何が22.4cmなのかを聞くことが出来なかった。
22.4cmの謎を聞くことが出来たのは、藤枝の転校が決まった3学期の終わりのことだった。
ある日、いつものように帰りの会が始まったかと思うと、突然担任の教諭が藤枝を黒板の前に呼んで立たせた。
「藤枝さんは4年生から別の小学校へ転校することになりました。」という担任の声を聞いた瞬間、ランドセルに筆箱を詰めていた僕の手がぴたりと止まった。
担任の言葉を頭の中で反芻はんすうしながらゆっくりと黒板に顔を上げると、茶色い髪で目を隠すように俯く藤枝が唇をきゅっと結んでいた。
来週の道徳の時間が藤枝の送別会に充てられること、皆で色紙を書いて藤枝に送ることが告げられてから藤枝は席に戻された。
僕は隣に帰ってきた藤枝の方を見ることができなかった。
帰りの会が終わるとクラス中の女子が藤枝の席に集まってきた。僕はそれを掻き分けるようにして足早に教室を出た。
田んぼの畦道で木の枝を拾い、久しぶりに雑草ゲームを始めたが、いつのまにか自分のスコアを数えるのを忘れていた。
気付くと、畦道を逸れてあの日藤枝がしゃがんでいた場所で同じように田んぼを覗き込んでいた。
葉も水もなく、ただ土だけが敷き詰められていた。
あの日ここで出会ってから、僕は毎日のようにこの道を通って帰っていた。
藤枝に会うことを期待していた。
下を向いて雑草ゲームを始めるより先に、道の先に茶色い髪の女の子が歩いていないかを確かめた。
本当に藤枝に会うことは何度もあった。
後ろから藤枝の茶色い髪を眺めていることもあれば、声をかけられて一緒に帰ることもあった。
藤枝に声をかけられても僕はちゃんと話すことが出来ず、それでも藤枝は楽しそうに笑いながら隣を歩いた。
4年生になったらその全部がなくなるのだと考えた時、急に鼻の奥がつんとした。
僕は一生懸命に鼻をすすり、こみ上げて来る涙を抑えた。
「七峰くん?」
いつもそう言って後ろから声をかけてくれた。
「七峰くん?」
その声を聞くたびに僕の心は跳ねるように踊り出した。それと同時に、その喜びを隠すことに必死になった。
「ねぇ、七峰くん!七峰くんってば!」
・・・?
いや、そんな風に声をかけられた事はない。
僕はいつも、すぐに藤枝の声に反応していたから。
ふと横を見ると、僕の隣で本物の藤枝が小さく笑っていた。
「何してたの?」
そう言うなり藤枝は僕の顔を覗き込んできた。
先程まで泣きそうになっていた顔を見られたくなくて、僕は慌てて顔を逸らした。
「別に。何もしてないよ。」
「ふーん。」
トーンダウンした声が背中に刺さる。しかしその声には、いつも僕を見て笑う時のような嬉々とした響きも含まれていた。
ギアが切り替わったように、藤枝は明るい声を僕に飛ばす。
「ねぇ!転校びっくりした!?」
「・・・別に。」
「ふーん。」
風が藤枝の髪を撫でる。まだ春らしい暖かさのない風だった。
素直に驚いたと言えなかった後悔が波のように押し寄せてくるのを振り払い、僕は話題を変えた。
「そういえばさ、前に机の上に書いてきた22.4cmって、あれ何なの?」
藤枝は、一瞬考えた後、あーあれね、とくすくす笑った。
「最後だから教えてあげるよ。あれはね、私と七峰くんの距離だよ。」
「へ?」
間抜け声だと自分でも分かった。藤枝は口を閉じてひとつ笑った。唇が、コンパスで書いたような綺麗な弧を描く。
「距離だよ。あの日さ、七峰くん頑張って物差しで三角形の辺の長さを測ってたでしょ?気付いてなかったみたいだけど、全部測り終えた後に七峰くんが置いた物差しが私の右手をかすめたの。」
ふふ、と本当に嬉しそうにして笑ってから、藤枝は続けた。
「ちょうど私の右手から22.4cmのところに、七峰くんの左手があったんだよ。だから、あの時の私と七峰くんの距離は22.4cmだったの。」
なんだか恥ずかしくなってきて、僕はまた足下の乾いた田んぼを見た。
苦し紛れに「なんだよそれ」と言っても藤枝は「べつにぃ」と言って笑うだけだった。
「ねぇ、あのおたまじゃくしは蛙になったかな?」
一通り笑った後に、田んぼに目を落とす僕を見て藤枝が言った。
「なったと思うよ。今は産卵の季節だから、今頃卵でも産んでるかも。」
七峰くんは物知りだね、と藤枝はまた笑った。
藤枝は転校していった。
親の都合でここからずっと離れた街に引越すのだと言っていた。
藤枝の転校先は小学生1人ではとても会いに行けないような遠い場所で、僕はもう二度と会うことがないということをどこかで理解していた。
しかし、そうは分かっていながらも、それからも僕は何度かあの田んぼの畦道を通って帰った。かつて藤枝がしゃがみこんでいた場所を横目で見ながら歩いた。勿論、そこに藤枝はいなかった。
22.4cmを忘れたくなくて、僕は物差しの22.4cmのところに彫刻刀で傷を入れた。
それを見るたびに、僕と藤枝はこの距離にいたのだと実感出来た。
だけど、時間が経つにつれてその傷を見ると、懐かしい気持ちだけでなく寂しさが込み上げてくるようになった。僕と藤枝の、今の本当の距離を考えずにはいられなくなった。
僕から22.4cmという距離に藤枝が存在することはもうないのだと、そう考えずにはいられなかった。
ある日の授業で物差しを使った時に、鉛筆の芯が22.4cmの溝に引っかかって折れた。
唐突に強い虚しさが込み上げてきて、その日の放課後、僕は物差しをランドセルに入れて畦道へ走った。
最後に藤枝と話した場所で、僕は物差しを握りしめた。
目を瞑り、藤枝を思った。
今、藤枝はどこで何をしているのだろうか、
あの悪戯に満ちた笑顔は、誰に向けられているのだろうか。
藤枝の席の隣には、誰が座っているのだろうか。
藤枝の22.4cm先には、誰がいるのだろうか。
僕は、水の張られた田んぼに物差しを思い切り投げ捨てた。
水を弾く音と共に、物差しは呆気なく田園に吸い込まれた。
そしてそれ以来、小学校の帰りにその道を通ることはなくなった。
「ねぇ、なんでそれが自分のものだって分かるの?」
佳那が僕の持つ物差しを指差してもう一度尋ねた。
僕は笑ったまま答えた。
「別に。なんとなく。」
「ふーん。」
おたまじゃくしがすぐに蛙にならないことを知ったあの日の藤枝のように、佳那は唇を尖らせた。
しかし、すぐにニヤリと笑って僕に言った。
「分かった。初恋の思い出でも詰まってるんでしょ?」
「別に何もないって。」
久しぶりに通った畦道は、僕の記憶よりももっと多くの緑があちらこちらにあって、生き生きとしているように見えた。
僕は佳那のお腹に耳を当てる。そして目を瞑った。
数cm先に自分の子供がいると思うと不思議な気持ちになる。
この子もいつか、誰かを好きになることがあるのだろう。
かつての僕がそうだったように、その恋に心をかき乱されることもあるのだろう。
そして今、ここで僕がこの物差しを拾ったように、何かのきっかけでその恋を笑える日が来るのだろう。
僕は目を瞑ったまま、佳那のお腹から聞こえる新しい命の音を聞いた。
「大きくなったね。」
「うん。もうね、おたまじゃくしだった頃から手が生えて足が生えて尻尾がなくなって、こんなに大きくなったよ。」
佳那は唇をきゅっと上げて笑った。
しかしすぐに目を見開いて、口を大きく開けた。
「あ!良い名前思いついた!ツツジ!ツツジはどう!?季節もぴったりだよ!」
「ツツジかぁ。女の子だし花の名前ってのは可愛いけど…。なんでまたツツジなの?」
佳那はふふっと笑いながら、僕の持つ物差しを指差した。
「22.4cmだから。」
なんだ、覚えてたのか。
僕は急に恥ずかしくなって視線を足元に落とした。
初恋の相手はあの日と変わらない悪戯っぽい笑顔で、22.4cmより近いところから僕の顔を覗き込んだ。
-了-