<19.怨念炎上>
静寂に包まれた夜の埠頭で、福間は連絡を取った相手と接触した。
福間が到着すると、男が海の方を見つめて立っていた。
「あなたが、カウント乃木様ですね」
福間は早足で近付き、右手を差し出して握手を求めた。
だが、その男はコートのポケットに両手を入れたまま、無言で突っ立っている。
角刈り頭、太い眉毛に三白眼、割れた顎。
焦げ茶色のトレンチコートに身を包んだその男こそ、カウント乃木である。
「あ、あの」
相手が全く反応を示さないので、福間は戸惑った。
すると、乃木は福間を睨み、静かな口調で言った。
「……貴様、俺を怒らせたいのか」
「い、いえ、滅相も無い」
慌てて福間が否定する。
「では、なぜ右手を出した?」
「それは握手を……あっ、しまった」
福間は、自分の失態に気付いた。
「……オレは、依頼人と握手はしない」
乃木は低い声で言った。
「す、すみません。知っています。あなたが握手をしない主義で、それから背後に回る者は殺してしまうことも。その情報は知っていたのですが、緊張して、ついうっかり」
福間は焦った様子で、ペコペコと謝った。
「あなたのような偉大な殺し屋と会ったものですから、冷静ではいられなかったのです。申し訳ありません」
「……まあ、いいだろう」
乃木は賞賛の言葉を受け、すぐに怒りを収めた。
「では乃木様、早速ですが、依頼内容について話してもよろしいでしょうか」
「……ああ」
「あなた様に殺していただきたい相手は、芭皇邪九です」
「芭皇邪九!」
それまで冷静だった乃木が、芭皇の名前を聞いて大きな反応を示した。
「そうです。殺人王と呼ばれた男、あの芭皇邪九が標的です」
予想以上の反応に、福間は心の中でほくそえんだ。
彼は、カウント乃木が芭皇を敵視していることを知っていた。
だから、乃木に今回の仕事を依頼したのだ。
「……しかし、妙な話だな」
乃木は、再び落ち着いた態度に戻った。
「何がですか?」
「10年も前に殺しの世界から足を洗った人間を、なぜ始末する必要がある?」
「もしも芭皇が復帰を考えているとしたら、どうですか」
福間は、声を潜めて言った。
もちろん口から出まかせであったが、乃木は狙い通り、その言葉に食い付いた。
「……復帰だと?」
「ええ、そうです。彼は、再び殺し屋に戻る意欲を持っています」
「……そう簡単には、信じられんな」
「しかし、事実です。こちらも、あなたほどの人物に仕事を依頼する以上は、標的について完璧に調査しています。その調査結果から、芭皇邪九が殺し屋稼業に戻ることは間違いないと断言できます」
福間は、適当な嘘を並べ立てた。
「……奴が、復帰する……」
乃木は唇を曲げる。
「……芭皇邪九め……」
「引き受けて、くださいますか」
「……分かった、引き受けよう」
乃木は、重々しく言った。
報酬について聞く前に依頼を引き受けるのは、彼にとって非常に珍しいことだった。
だが、乃木には金を度外視してでも、この仕事を引き受ける大きな理由があった。
*
カウント乃木が殺し屋の世界に入って、もう20年以上が経っている。
殺しの仕事を始めた頃から、彼は自分が世界一の殺し屋だと自負していた。
実際、彼に勝る者などいなかった。
その正確な射撃の腕前で、乃木は殺し屋として名を上げていった。やがて周囲からも、ナンバーワンの殺し屋として評価されるようになっていった。
裏の世界では、乃木はスターのような扱いだった。
だが、そんな彼の地位を脅かす者が現れた。
それが、芭皇邪九である。
芭皇は彗星のように殺し屋の世界に登場し、あっという間に大きな仕事を幾つも成功させた。
彼は銃を使用しないため、ターゲットに接近しなければ仕事は遂行できない。つまり、遠くから銃で狙うよりも、リスクは大きいということになる。
そのことは、芭皇の評価を高めるのに、大いに有効に働いた。
芭皇の名は、あっという間に裏の世界で広まった。そして、ナンバーワンの殺し屋は彼ではないかという声が、日増しに高まっていった。
もちろん乃木の耳にも、芭皇の噂は届いた。
乃木は、プライドが非常に高い男である。
ナンバーワンの称号を奪われることは、彼にとって耐え切れない屈辱であった。
急激に芭皇が名を上げる中、乃木は漫然と日々を過ごしていたわけではない。芭皇が活動を開始して以降も、彼は依頼された仕事を着実に遂行していた。
だが、それも全て、芭皇の活躍によって霞んでしまった。
乃木は焦心した。そして苛立った。
ナンバーワンであり続けることが、彼のプライドを保つ唯一の方法だった。
そのためには、芭皇は邪魔だ。
邪魔な者は、排除すべきだ。
乃木は、そういう考えに至った。
それでも彼は、しばらくの間は我慢した。
依頼を受けたわけでもないのに、私憤のために殺すことは出来ない。それは、殺し屋としての誇りに傷を付けることになる。
そのように、自分に言い聞かせたのだ。
だが、芭皇が政財界の大物を次々に暗殺し、ナンバーワンの称号が完全に彼の物となった時、乃木の我慢は限界を超えた。
このまま芭皇を放置しておくわけにはいかない。
奴を殺さなければ、自分はナンバーワンの座を取り戻せない。
そう確信した乃木は、芭皇の抹殺を決意した。
ところが、その直後に、芭皇は殺し屋から足を洗って姿を消してしまった。
乃木は、胸を撫で下ろした。
殺すことは出来なかったものの、芭皇がいなくなれば、再び自分がナンバーワンの称号を取り戻せると思ったからだ。
ところが、芭皇は絶頂期に引退したことで、伝説的な存在となってしまった。
それ以後、乃木がどれほど大きな仕事をやってのけても、芭皇には勝てなかった。いくら地位を取り戻そうとしても、「かつて殺人王と呼ばれる凄い殺し屋がいた」という伝説を超えることは出来なかった。
この10年、乃木は歯がゆい思いを抱き続けてきたのだ。
そして今、乃木は、芭皇が殺しの世界に復帰するという話を福間から聞かされた。
しかも、奴を殺してほしいという依頼だ。
これは絶好のチャンスだ。
芭皇を殺せば、伝説を超えられる。
打ち砕かれたプライドを取り戻すことが出来る。
乃木は、静かに燃えていた。
「……必ず、殺ってやる……」
彼は目をギラギラさせ、つぶやいた。