<15.復帰依頼>
「このままだと、おしまいだ」
安藤は苦悩の表情で、そんな言葉を口にした。
ここは、ピカソ・トリガーである。
「どうしたんだ。この店、潰れそうなのか」
芭皇は、茶化すように言った。
彼が店に来ているのは、『パンスト万歳』シリーズ第11弾のマスターDVDを渡すためだ。つまり、前回の訪問から1ヶ月が経過しているということだ。
店に客の姿は無く、安藤と芭皇だけである。さっきまで江里杉がいたのだが、ちょうど去った直後だ。
安藤は2人きりになるのを待って、芭皇に相談を持ち掛けたのだ。
「いや、この店のことは、どうだっていい」
安藤は冗談に付き合わず、言葉を吐き出した。
「おいおい、どうだっていいことは無いだろう。世の中の多くのフェチを、路頭に迷わせるつもりなのか」
「それどころじゃないんだ。困った事態になっているんだよ。だから、お前に手助けを頼みたいんだ」
「お前も頼みごとか。やれやれ」
芭皇は、苦笑いを浮かべた。
「どうして笑う?」
「いや、つい最近、ある男から仕事を頼まれたのでな。どうも、何かを頼まれる時期にでも入ったのかと思ってさ」
「おれの頼む仕事は、普通の仕事じゃない」
「いや、それも普通の仕事じゃなかったが」
「おれの依頼は、アングラ・ファイトに出てくれということだ」
安藤が言う。
「アングラ・ファイトに?」
まじまじと安藤を見つめ、芭皇が聞き返す。
「そうだ」
「その冗談は、ちょっと笑えないな」
芭皇の顔が険しくなった。
「こんなこと、冗談で言うかよ」
「おい待て、忘れたのか」
芭皇が、安藤の顔を覗き込むようにして言った。
「もうとっくに、俺はアングラ・ファイターを引退しているんだぞ。お前なら、それは分かっているはずじゃないか」
確かに、かつて芭皇はアングラ・ファイターだった時期があった。
2年ほど前の、わずか半年という短い期間だ。
殺し屋時代の仲介人だった安藤に請われ、足を踏み入れたのだ。
その頃の安藤は、まだ発足から間もないUFAで幹部を務めていた。
安藤は幹部会議で許可を得て、芭皇をデビュー戦でタイトルマッチに組み込んだ。
もちろん、これは異例のことだ。デビュー戦でタイトルに挑戦させることなど、現在のUFAなら絶対に有り得ない。
芭皇は“バオー”という名前でリングに上がり、その試合に勝利してチャンピオンとなった。そして半年後に引退するまで、タイトルを連続防衛した。
つまりチャンピオンのまま、彼はアングラ・ファイトの世界を去ったのだ。
安藤が芭皇を引き入れた目的は、彼をチャンピオンにすることでもなければ、アングラ・ファイトを活性化させるためでもなかった。
アングラ・ファイトは当時、まだ始まったばかりで混迷期にあった。
選手も観客も、そして運営側のUFAも、半ば手探り状態にあった。
そのため、ふざけた気持ちでアングラ・ファイターを志願する者や、調子に乗ってリングに乱入しようとする者が現われ、運営面で支障が生じていた。
そこで安藤は、芭皇をアングラ・ファイトにおける“ポリスマン” として雇ったのだ。
すなわち、なめた態度でリングに上がる選手や、イベント運営の妨げになる行動を取る観客に制裁を加える役割である。
そういった連中が現われると、芭皇は一撃で失神させたり、時には怪我を負わせて再起不能に追いやったりした。
そうすることで、他のアングラ・ファイターや観客への見せしめとしたのだ。
UFAによる運営が円滑に進むようになった頃、芭皇はアングラ・ファイトの世界から足を洗った。
バオーが人気を集めていたこともあって、安藤からは留まるよう求められた。
しかし芭皇は、
「もう役目は終わった。お前への義理も果たした」
と言って断ったのだ。
その後、安藤はUFAでの仕事を続け、現在は副会長の座に座っている。
「お前が引退したことぐらい、分かっているさ」
安藤は言った。
「だから、復帰してくれと頼んでいるんだ。わずかな期間だったが、お前もアングラ・ファイトの世界に一度は身を置いた人間じゃないか。頼む、助けてくれ」
「復帰の依頼か。やれやれ、そんな所まで同じかよ」
芭皇は、鷹内との話を思い出して頭を掻いた。
「とにかく、話を聞いてくれ」
安藤は険しい顔付きで言った。
「まあ、聞くぐらいは構わないが」
「今、アングラ・ファイトの世界では、厄介なことが起きている。それは、地獄山という選手のことだ。こいつは現在のチャンピオンだが、デビュー戦から圧倒的な強さで勝ち続けている」
「別にいいじゃないか」
「だが、その強さを恐れて、挑戦者を選ぶのも困難な状況だ。奴と対戦した相手が全て再起不能になっているので、他の選手が怖がってしまってな」
「だらしない奴らだな。腰の引けたアングラ・ファイターなんて、何の価値も無いぞ」
「全くだ」
芭皇の辛辣な物言いに、安藤は反論しなかった。
「それで、挑戦者選びが大変だというのが問題なのか?」
「いや、そっちは、まだ何とかできる部分だ。地獄山の問題は、他にある。リングの上で強いだけなら、別に構わない。だが、奴はリングを離れても、他の選手やスタッフに暴力を振るうんだ」
「そんなことをしたら、他の選手が報復に出るだろうに」
「いや、情けない話だが、みんな地獄山の強さを恐れて、手を出さないんだ」
「おい、さっきから聞いていると、本当にそいつらはアングラ・ファイターなのか。そんなに弱い奴らが、アングラ・ファイトのリングに上がっていいのか?」
「残念ながら、最近のアングラ・ファイターはどんどん弱体化しているかもしれない。お前がいた頃と比較すると、興行としては順調だが、選手の質という部分では落ちているような気がするよ」
安藤は嘆いた。
「だがな、もちろん他の選手が情けないということもあるが、それよりも地獄山が強すぎるんだ。奴が規格外の強さを誇っているのさ」
「それで、そいつが強すぎるのが問題なのか?」
「いや、違う。あいつは、さっきも言ったようにリング外での行動が悪く、UFAの秩序を乱す。それだけじゃない。ギャラの大幅アップや特別待遇、マッチメイク権などを要求してきた」
「調子に乗ったわけか。だが、そんな奴は、さっさと追放すればいいじゃないか」
「そう出来ればいんだが」
安藤は、歯がゆそうに言った。
「何をためらうことがあるんだ?相手がチャンピオンだから、簡単には追放できないとでもいうのか」
芭皇が聞く。
「そういうわけじゃないさ。確かに、観客は地獄山の強さに熱狂し、奴を見るために会場に来ている。だから、奴がいなくなると、客の数は一気に減少するだろうけどな」
「チャンピオンがいなくなれば、しばらくは影響も大きいだろうが、すぐに客は戻ってくるさ。その証拠に、俺はチャンピオンのままで引退したが、今もアングラ・ファイトは盛況じゃないか」
「お前が引退した後、客はガクンと減ったんだよ。だから、崩壊の危機に陥ったアングラ・ファイトを建て直すために、おれも他のUFA幹部も苦労したんだぞ」
安藤は責めるように言う。
「悪かったよ、さっさと引退して」
芭皇は静かに告げた。
「いや、そうじゃないんだ」
すぐに安藤は、釈明じみた言葉を発した。
「地獄山がチャンピオンだからとか、客が減るからとか、そういうことではないんだ」
「だったら、なぜ追放しない?」
「アングラ・ファイトの会場として倉庫を無償提供してくれているのが、矢見田重工のCEOだということは知ってるよな?」
「ああ、知ってるさ」
「そのCEOが、チャンピオンを追放した場合、倉庫の提供を取り止めると言ってきた」
「ほう。何か、特別な理由でもあるのかな」
「分からん。理由は教えてくれなかった。しかし、あの倉庫が借りられなくなると、アングラ・ファイトは終わりだ。他に場所を提供してくれる人を探すとしても、かなり難しいだろう」
「どこかから圧力でも掛かったかな」
「何のためだ?地獄山の横暴を許して、誰か得をする人物でもいるのか」
「いや、それは俺に聞かれても分からんさ。そもそも、CEOに対して圧力があったというのも、俺の推測に過ぎないからな」
その推測は当たっていたが、もちろん芭皇は知るはずも無い。
「それで、地獄山の処置は、どう考えているんだ。要求は飲めない。しかし簡単に追放することも出来ない。どうする、ハムレット?」
「問題を解決する方法は、地獄山が防衛戦で負けることだ。奴がチャンピオンでなくなれば、無茶な要求も出来ないし、追放処分を下すことも出来る」
「そういうことか」
芭皇は、すぐに察した。
「つまり、地獄山の対戦者として、俺をぶつけようという腹なんだな」
「その通りだ」
「しかし繰り返すが、俺は引退した身だぞ」
「現役のアングラ・ファイターで、地獄山を倒せる奴はいない。お前しかいないんだよ」
「俺しかいない、か。どっちの世界も、余程の人材不足らしいな」
独り言のように、芭皇が口にする。
「頼む、引き受けてくれ。もちろん、ギャラは出す」
「あのな、安藤」
芭皇は、穏やかに言葉を発した。
「なんだ?」
「さっきも言ったが、俺はつい最近、ある男からの復帰要請を受けた。それに対して、面倒だからという理由で断っているんだ」
「だから、おれの依頼も断るというのか?」
「向こうは断って、こちらだけ引き受けるというのもな」
「こっちは重大な問題だぞ」
安藤は口調を強める。
「残念なお知らせだが、向こうの方がもっと重大な問題なんだよ」
芭皇が淡々と告げる。
「だったら、どうすれば引き受けてくれるんだ?」
「そんなこと、俺に聞くなよ」
「お前が引き受けてくれないと、地獄山の要求を飲まざるを得なくなる」
安藤は、肩を落とす。
「仕方が無いから、そいつの要求を飲んでみるか?」
芭皇は惚けた調子で言ったが、安藤は深刻な表情でため息をついた。
「UFAにある金だけでは、とても奴の要求額は払えない。足りない分は、おれの持ち出しになる。そうなれば、この店も売り払うことになるだろうな」
安藤は何とか頼みを引き受けてもらおうと、やや大げさなことを口にする。
「おいおい、それは困るな。この店が潰れたら、『パンスト万歳』シリーズを売り込む場所が無くなる」
「だったら、引き受けてくれよ」
安藤が懇願した。
「お前なあ、『パンスト万歳』シリーズのために、俺に復帰しろというのか。なんてバカバカしいんだ」
「そんなバカな理由では、やっぱり引き受けられないよな」
安藤は再びため息をついた。
しかし、芭皇は少し考えて、表情を緩ませた。
「……いや、逆に、引き受けたくなったな」
「えっ、本当か?」
「ああ、言葉に出してみて、面白くなった。たかがアダルトDVDのために、アングラ・ファイトに復帰する。俺は、そういうバカバカしいことは好きなんだ」
笑みを浮かべて芭皇が告げる。
「じゃあ、復帰してくれるんだな」
「ああ。ただし、その1試合だけだ」
「分かっている。その代わりに、必ず地獄山を倒してくれ」
「ま、努力はしてみるさ」
芭皇は、軽い調子で言った。