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<1.芭皇登場>

 芭皇邪九ばおう・じゃくは、ホームレスである。

 彼は、東京都T市にある荒無川の河川敷で、仲間と共に生活していた。


 36歳、身長180センチ、体重70キロ。

 太い眉にクッキリとした目、厚めの唇に尖った顎。

 スキンヘッドに作務衣という姿は、まるで僧侶のようでもあったが、しかし紛れも無いホームレスだ。


 ただし、彼は普通のホームレスではない。


 *


 芭皇が暮らす河川敷は、ホームレスにとって小さな集落のような存在だ。現在は、芭皇を含めて6人のホームレスが暮らしている。

 彼らは自分達の集落を、失楽園ならぬ“極楽園”と呼んでいる。

 極楽とは大げさだが、しかし彼らが特に不自由も無く、それなりに幸福感を抱きながら暮らしていることは間違い無い。


 極楽園の面々は、それぞれ別々にテントを張っているが、横の結び付きは非常に強い。

 料理や掃除を当番制にしたり、夕食を一緒に取ったりするなど、まさに共同生活という呼び方がふさわしい暮らしぶりである。

 当然、彼らの行為は不法占拠になるわけだが、しかし地元の役所が排除しようと動く気配は微塵も無い。

 そもそも市民からの苦情も無いので、わざわざ面倒なことに首を突っ込むような必要は無いというのが役所の考えなのだろう。


 市民が苦情を訴えない最大の理由は、極楽園の近辺は人通りが皆無に等しいということにある。

 その近辺だけ道路の舗装が不充分である、向かい側の広大な土地が所有者の死去に伴って荒地になっている、通行者は数十メートル先の橋を使う、など複数の要因が重なり、ほとんど忘れられた地域と化しているのだ。

 そのため、今や極楽園は、ある種の聖域となっている。

 おかげでホームレスの面々は、穏やかで平和な日々を過ごすことが出来ている。


 だが、そんな聖域を侵そうとする酔狂な者も、たまに現れる。

 その人物は、自分が愚か者だということに気付いていないのだ。


 *


 ある日の午後5時半頃。

 太陽が傾き、辺りは薄暗くなりつつある頃。

 河川敷に、20代前半と見える若い男が現れた。

 髪はショートウルフで、紺色のスーツに茶色のネクタイという服装。

 顔が赤く、目が充血している。

 若者は、明らかに酔っ払っていた。


 ちょうどその時、ホームレスの1人、西崎万作が、テントから姿を現した。その日の食事当番が彼なので、夕食の準備を始めるために出て来たのだ。

 西崎は52歳。以前は小さな印刷会社を営んでいたが、資金繰りが悪化して廃業に追い込まれ、3年前にホームレス生活に突入した。

 常に丁寧な態度を取る、物腰の柔らかい男である。

 西崎は、極楽園の面々が“台所”と呼んでいるスペースへ移動した。もちろんシステムキッチンのようなものがあるわけではない。廃品置き場から拾ってきたガスコンロや、廃品を拾い集めて作った調理台などを並べて、料理の出来る環境を整えてあるのだ。

 周囲は薄暗いが、極楽園だけは明るい。近くに街灯は無いし、もちろん極楽園には電気が通っていないが、自分達でソーラーシステムを設置して電力を生み出し、照明器具を使っているのだ。ソーラーシステムも照明器具も、全て手作りによるものだ。


 西崎は調理台の前に立ち、準備に取り掛かる。今日のメニューは、野草の天ぷらと根菜の煮物にするつもりだ。

 極楽園の面々は、食料に困ることは無い。

 河川敷には食べられる野草が生えているし、自分達で勝手に作った畑も持っている。それに、馴染みの店が何軒かあって、余った食料を安く分けてもらっている。

 「安く分けてもらう」といっても無料ではないので、金が無ければ手に入らないのだが、彼らには少ないながらも収入源がある。

 その収入源については、後述することにしよう。

 そんなことよりも、今は若い男の話だ。


 若者はかなり酒が回っているらしく、おぼつかない足取りで河川敷を下りていった。そして極楽園へと足を踏み入れ、西崎へと歩いて行った。

 無言で近付いてきた若者に気付いた西崎は、顔を上げて視線を向けた。

 「なんです、あなたは」

 西崎は、その若者に尋ねた。

 すると若者はいきなり、西崎の腹にパンチを食らわせた。

 「うっ」

 西崎は小さくうめき、膝からガクッと崩れ落ちる。

 「な、何を……」


 「おい、このクズが」

 若者は、西崎を見下ろして言った。

 その口から、強いアルコール臭が漂う。

 「お前らみたいなクズどもはな、オレが成敗してやる」

 若者は軽蔑の眼差しで、そう言い放った。

 ようするに、酔った勢いで弱い者イジメをするという、タチの悪い奴なのである。


 「やめてください、お願いします」

 西崎は、地べたに座り込んだままで弱々しく体を引いた。

 「うるせえっ、お前らホームレスはな、人間のクズなんだよ。殴られても蹴られても、

文句は言えないんだ」

 「そんなムチャクチャな」

 「黙れ。このオレ様が、ボコボコにしてやるからな」

 若者はしゃがみ込んで、西崎の胸ぐらを掴んだ。

 その時だ。


 「おい、そこのバカ男」


 背後から、鋭い声がした。

 「誰だ?」

 若者は西崎の胸から手を離し、パッと振り向いた。

 そこにはスキンヘッドに作務衣の男、芭皇邪九が立っていた。

 「ああ、芭皇さん」

 西崎は、安堵の表情を浮かべた。

 「良かった。ちょうどいい所に帰ってきてくれました」

 「西崎さん、大丈夫か?」

 芭皇が心配そうに尋ねる。

 「ええ、何とか」

 「他の連中は?」

 「それが、みんな出払っていまして」

 「珍しいな。運がいいのか悪いのか分からないが」


 「おい、坊さんよ」

 若者が、威圧するように芭皇を見た。

 しかし芭皇は臆することも無く、平静を保ったままで彼に向き直る。

 「どうやら久しぶりに、バカが紛れ込んだらしいな」

 芭皇は、落ち着き払って言った。

 「誰がバカだ。坊さん、何か文句でもあるのか。お前は寺でも掃除してろ」

 若者は立ち上がり、不遜な態度を示した。

 「俺は僧侶ではない。この人と同じ、ホームレスだ」

 芭皇は淡々と言葉を返す。

 「そうかい、お前もクズの仲間なのか」

 「クズにクズとは言われたくないなあ」

 耳の後ろをポリポリと掻きながら、芭皇はゆっくりと一歩前に出た。


 「オレはクズじゃない」

 若者は激怒した。

 「ほう、クズじゃないなら、何なのかな」

 「オレはな、超エリート様だぞ」

 得意げに言って、若者は胸を張る。

 「エリート様ねえ」

 芭皇は、フッと笑った。

 「俺も36年間生きてきたが、自分で自分に『様』を付ける奴で、様と呼ばれるにふさわしい人間と出会ったことは無いな」

 「うるせえっ」

 若者は、激しく唾を飛ばした。

 「オレはな、あの偏差値70の西北大の学生で、超一流企業のムラサキ製薬への就職が内定したエリートだぞ。自分に様を付けて、何が悪いってんだ」

 「やれやれ、どうやら本気でバカのようだな。まあいい。それで、そのエリートの男が、こんな時間に泥酔か」

 芭皇は体の後ろで手を組み、そう言った。


 「酔っ払って何が悪い。イベントサークルの仲間が就職祝いの集会を開いてくれて、だから昼間から飲んでいたんだよ。自分へのご褒美として、酒ぐらい飲ませろよ」

 「お前、『酒は飲んでも飲まれるな』 という言葉を知らないのか」

 「オレは飲まれてなんかいないぞ」

 「じゃあ、飲まれていないのに西崎さんを殴ったのか」

 「オレは前からな、お前らホームレスを見る度に胸クソが悪かったんだよ。だから、いつかボコボコにしてやろうと思っていたのさ」

 「どうしてホームレスを嫌うんだ」

 「お前ら、いつもオレのことを見てバカにしてるじゃないか」

 若者は、芭皇を指差して怒鳴った。

 「それは逆じゃないのか。お前が我々をバカにしているんだろう」

 芭皇は冷静に指摘する。


 「それに、お前がいつも我々に見られていたとは考え難いな。この辺りに来たのだって初めてじゃないのか。少なくとも、俺はお前を初めて見たぞ」

 「うるせえっ」

 「さっきから、『うるせえっ』が多いな。エリートにしては、ボキャブラリーが貧困だ」

 「うるせえっ」

 若者は、さらに大きな声で同じ言葉を重ねた。

 「よし分かった。坊さん、そこまで言うなら、お前を先にボコボコにしてやる」

 若者は肩をいからせ、芭皇に一歩近付いた。

 「おお、怖い怖い」

 芭皇は、わざとらしく怯えた態度を取ってみせた。

 「こいつ、永久に立てなくしてやろうか」

 男は、ますます頭に血が昇ったようだ。

 そんな彼の怒りを受け流し、芭皇は周囲を見渡す。

 いつものように、人通りは全く無い。


 「おい、何をキョロキョロしていやがる。俺はここにいるんだぞ。ボコボコにするってのは、冗談じゃねえぞ」

 「そんなことは分かっているさ。念のために、周囲に誰もいないことを確認しておかないとな」

 「そんなことに、何の意味があるんだ」

 「これから起きることを誰かに目撃されるのは、望ましいことではないからな」

 「ワケの分からないことを言いやがって。これから起きるのは、俺がお前をボコボコにするってことだぞ」

 「分かった、分かった」

 若者をなだめるように、芭皇は言った。

 「なあ、確認したいんだが、お前は俺にケンカを売ったと判断してもいいのか」

 芭皇は淡々とした調子で、そう尋ねる。

 「ああ、ケンカだよ、ケンカ」

 若者は右手の拳を握り、左の掌をパンパンと打ってみせた。


 「俺にケンカを売るということは、殺るか殺られるかということだが、いいんだな」

 「お前、オレに勝てると思っているのか」

 若者はニヤッと笑う。

 「オレはな、こう見えても空手3段、柔道2段なんだぜ」

 「それがどうした」

 芭皇は、平然と言い返した。

 「聞こえなかったのか。オレは空手3段で、柔道が……」

 「段で人は倒せないぞ」

 若者の言葉を遮るように、芭皇は鋭く言い放つ。


 「うるせえっ、ゴチャゴチャ言わずに、おとなしく倒れてろっ!」

 若者は、全力で殴り掛かった。

 「おっと危ない」

 芭皇は軽く言い、男の繰り出した右の拳を、少し体を捻って避けた。

 「ぬなっ」

 若者は、勢い余ってバランスを崩す。

 前につんのめりそうになり、慌てて踏ん張る。

 「おいおい、急に殴り掛かるとは、危ないじゃないか」

 芭皇は、後ろに組んだ手を離さずに言った。

 「このっ、余裕ぶっこきやがって」

 若者は、再び右の拳を飛ばした。

 しかし、芭皇は一歩右に移動するだけで、スッとかわしてみせた。

 「うわっ」

 またバランスを崩した男は、今度は踏ん張り切れず、前方に転がって倒れた。


 「畜生、なめやがって」

 若者は目の前の草をむしり取り、芭皇を睨み付けた。

 その視線の先に、彼は調理台の上に置いてあった包丁を捉えた。

 「くそっ」

 若者は調理台に近付き、ガバッと包丁を手に取る。

 「さっき、てめえは段で人は倒せないとか言ったな。じゃあ、これならどうだ」

 「メチャクチャだな、お前。段が泣くぞ」

 芭皇は、呆れたように首を振った。

 「うるせえっ、そこにある物を有効利用して、何が悪い」

 「妙な開き直りだな。まあ、いいだろう」

 芭皇は悠然と言った。


 「ところで、もう一度だけ確認しておきたいんだが、俺にケンカを売るということは、殺るか殺られるかということだが、いいんだな。酒に酔っているからと言って、甘やかすようなことは無いぞ」

 「また生意気な口を。おい、これでも勝てると思っているのか。こっちは武器を持ってるんだぜ。殺られるのは、そっちだぞ」

 若者は右手を軽く振り、握った包丁をアピールする。

 「そうか。では、掛かって来てみろ」

 そう言うと同時に、芭皇の眼光が鋭く変化した。

 そして、後ろ手に組んだ右手の人差し指と中指を、臀部のポケットにスッと入れた。

 彼の作務衣は特別あつらえで、幾つものポケットが付けてあるのだ。

 「この野郎、死ねっ!」

 若者は包丁を突き出し、襲い掛かろうとした。

 彼が一歩目を踏み出した瞬間、芭皇は後ろのポケットから鉄製の楊枝を取り出し、素早く投げた。


 ビュッ。

 風を切り裂く音。

 鉄楊枝が、若者の眉間にスパッと突き刺さる。


 「ふごっ」

 若者が、ハイトーンで妙な声を発する。

 続いてドンッという鈍い音。

 それは、若者が後ろにバッタリと倒れ込んだ衝撃音だ。

 そして彼は地面に大の字になったまま、動かなくなった。

 絶命したのである。


 芭皇は若者に近付き、鉄楊枝を抜き取った。

 眉間の穴から、小さな血のシャワーが噴き出す。

 「愚かな奴だな。ケンカなんて、何の得にもならないのに」

 そうつぶやき、芭皇は西崎に視線を向ける。

 「大丈夫か、西崎さん。ケガは無いか?」

 芭皇の視線からは鋭さが消え、すっかり穏やかな顔になっていた。


 「ええ、大丈夫ですよ、この程度」

 西崎は、殴られた腹をさすりながら立ち上がった。

 「すみませんね、芭皇さん。いつもいつも、助けてもらって」

 「礼なんて、別にいいさ。それより、この死体の処理を頼むよ」

 「ええ、久しぶりですが、いつもの通りに。これで夕食の献立が変わってしまいましたね。今日は、久しぶりの肉料理ですね」

 西崎は淡々と言いながら、若者の死体に視線を落とした。


 「そうだ、料理と言えば」

 ポンと膝を軽く叩き、西崎は深刻な表情で顔を上げた。

 「芭皇さん、知っていますか。この近くのトルコ料理店の店長が、捕まったそうですよ」

 「近くのトルコ料理店というと、『イー・ギュンライ』のことか」

 「ええ、その店です」

 「あそこの店長は、シティミというトルコ人だったな。また外国人の逮捕か」

 「ええ、ここ最近、全国的に外国人の逮捕が一気に増加していますね。この辺りだけでも、この1ヶ月で5人目です。3日ほど前にも、イラン人の輸入業者が捕まりましたし」

 「どうやら、最近は外国人の逮捕が流行しているらしいな」

 芭皇は、冗談か本気か分からないような口調で言った。


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