史上最高の調味料
ケンジはもう限界だった。
再開した物凄い空腹感の影響で食べ物の事ばかり考えてしまう。
空腹の為に鼻が利きすぎてしまうので、ちょっとした調理の香りがするだけで、すぐに口の中が唾液で満たされていった。
ケンジは村長の妻のエレノアの料理が楽しみで仕方が無かった。
どうやら何かを煮ているようだ、30分ほどでエレノアが帰ってきて一皿のスープをケンジに差し出した。
「どうぞ、ゆっくり召し上がってください。」
ジャガイモのスープだった。
それは細かく徹底的にみじん切りにしたジャガイモを、ただ煮て塩を軽く振って味を整えただけのシンプルで消化に優しいスープだった。
便宜上ジャガイモと書いたが実際は別のものだ、しかし味はまさにジャガイモでケンジの世界の物とよく似た物である。
しかしそんな事はどうでもよかった。
ケンジにはエレノアのスープがとても素晴らしい宝物に見えたからだ。
「いただきます」
それはそれは素晴らしく見事な動作の、「いただきます」であった。
美しく姿勢を正し、両手を合わせ神に祈り、食物に感謝し、エレノアに感謝し、世界に感謝し、生きている事に感謝する。
最高の敬意敬愛を全身で持って示し、動作、表情、声の調子、誰の目から見てもケンジの計り知れない喜びと幸せの感情を読み取る事が出来た。
まぁ、とんでもなく滅茶苦茶ウルトラスーパーお腹が空いているだけなのだが、いやここで茶々を入れるのは止そう。
村長の妻のエレノアはいくらでも料理を美味しくする事は出来たのだ、食材や香辛料や調味料を加えひと工夫もふた工夫も加えて豪華にする事は可能だった。
村長であり愛する夫でもあるグリーフの妻として、誇りに思う夫グリーフの威厳ある立場の為にも客人をもてなす事に手抜きなど自らのプライドが許すはずもない。
しかしケンジの特殊な環境下に置かれた体調を考慮すると、複雑な物を出すとかえってケンジの体調を悪化させてしまうだろう。
村長の妻エレノアは歯がゆく思いつつも、このような簡単な料理を出す事に躊躇いを感じていた、ケンジの「いただきます」を見るまでは。
ケンジは優しいカーブをもつ手触りのよさそうなやや厚手の木スプーンを、ジャガイモのスープに優しく緩やかに穏やかに滑らかな動作で斜めに差し入れた。
まるでそのスープが尊い存在であるか如く黄金や宝石の詰まった宝箱以上にそれその物が生命の源でもあるかの如くケンジは扱っていた。
恐れ多く仰々しく扱い、緩やかで丁寧にスープを、これまた使い込まれて使いやすそうな柔らかで味わい深い形をした木のスプーンに救い上げようとスプーンを持ち上げようとした。
細かくみじん切りにされたうえでよく煮込まれて柔らかく荷崩れさせたジャガイモのスープの重みがケンジにはとても重く感じられた。
より強く鼻に届くジャガイモの素材本来の香り、柔らかい見た目が更にその素材がなめらかな味わいである事を明らかに主張していた。
ケンジの口の中はこの香りを味わうだけで大量の唾液で満たされていく、ようやくありつけた食事に体中が食べよと全力で欲し命令している。
目が鼻が口が全力でジャガイモのスープを味わおうとあらゆる手段でもってケンジの脳に美味しさを伝える準備はもはや万全である。
ケンジはジャガイモのスープをすくい上げたスプーンをゆっくりと、ゆっくりと、すべてを味わうように口に焦る事なく滑らかに穏やかに丁寧に差し込めた。
薄味でありながら絶妙な塩加減、滑らかでありながら確かな粒状感、そして存在感、思わず目をつぶり味と香りを全力で味わってしまう。
口に含む事で強く感じるジャガイモ本来の香りが鼻を突き抜け優しく味わい深い食べ物が入ったことを感じた。
目の中にうっすらと涙が蓄えられる、この感動を長く感じていたいがために口に含んだジャガイモのスープをなかなか飲み込む事が出来ない。
口の中に含んだ途端にとけてしまうような柔らかな具材だが舌がジャガイモの味を逃そうとしない、自然と咀嚼をはじめてしまうのであった。
租借をすることで口の中全体にジャガイモのスープが行きわたる、唾液と混ざりより消化を促進させようとする、口の中全体で味を感じ取るように。
たったスプーン一杯のジャガイモのスープに長い長い租借を行った健司は、ついに飲み込もうとする。
舌の付け根にジャガイモの味が染み込んで行く、喉にジャガイモのスープが流れ込んでいく、喉がジャガイモの味わいを感じている、味を感じるはずのない部分がジャガイモのスープの存在を感じているのだ。
喉を抜け食道をジャガイモのスープが通っていることを敏感に感じる、胃が久しぶりの食事に大喜びで受け止める。
更に不思議と胃の中にジャガイモのスープを感じるのだ。
ケンジは幸福感に包まれていた、目をつぶったまま一口の余韻を楽しみ思わず感動と幸せを込めた溜め息を吐いた、目から一雫の涙が落ちていった。
村長夫妻のグリーフとエレノアはケンジの食事を穏やかに微笑ましく見ていた。
2週間食べていないらしい、余程お腹が空いていたのであろう、ケンジの食事風景は夫妻も一緒に幸せな気分になってしまうくらいの心を込めた食べっぷりであった。
エレノアはケンジにスープを出して良かったと心から思った、グリーフもケンジの食事風景を見てケンジの人となりをよく理解した。
村長の立場としても、外部の得体の知れないケンジの存在を訝しく思う事は少なからずあったのだが、この光景を見てしまうとケンジを悪く思う感情は完全に消え失せていた。
異世界側の人たちからすれば、日本という平和ボケした国から来たケンジの警戒心が無さすぎるこの幸せそうな食事作法を観てしまうと、もはや何かを疑う事など出来無かったのだ。
ケンジはたっぷり一時間もかけて茶碗一杯程度の量しかないジャガイモのスープをたいらげたのだった。
空腹という名の史上最高の調味料は意図せずして、ケンジのジャガイモのスープを最高の食べ物にしたのだった。
きっとケンジはこのジャガイモのスープの味を一生忘れないだろう。
「ごちそうさまでした」
ケンジの表情は至福の極みであった、嬉しさ、喜び、感謝、感激。いくら言葉を尽くしてもケンジの表情は説明することが出来ない。まさに悟りの境地である。果たしてそれは大袈裟なのだろうか。
食事の終わりもまたそれはそれは美しいものであった。
ケンジは最高の食事を頂いたあと、久しぶりの柔らかくて温かいベッドで気持ちの良い穏やかな眠りに入るのであった。