心を蝕む長い道のり
―2日目
健司は川に沿って歩き続けた。
川の熱気は回りの雪を溶かしてくれている、おかげでかき分ける雪が少なくなり健司の体力の消耗を抑える事が出来た。
足が疲れても川辺の岩に座って足湯の要領で体を温める、半袖のワイシャツ姿では腕や指先も冷えやすいが川のお湯に浸しておくだけで血流は回復した。
水分の補給はお湯で賄えるので体温の維持は問題ない、非常に寒い気温である状況と健司の服装が薄着である事もあって汗をかきにくい状況である為、少々トイレが近くなってしまうがそれはどうとでもなる。
人のいる場所まで必要とされる行動の時間がどれくらいになるのか現状は想像が出来ない以上、目下の問題は食料が必要であると言う差し迫った現状だった。
空腹感は川のお湯をがぶ飲みする事である程度凌げているが限度はあるだろう、健司はメガネを鞄から取り出した。
健司は裸眼で1.0だ、日常生活では正直無くても問題はない、重要な仕事の場面ではメガネを着用し2.0に矯正している。
最近流行のブルーライトカットが入った薄く茶色の色がついたレンズのメガネだ。
メガネを掛けたのは食料確保の可能性を少しでも上げる為だった、川沿いなら植物も色々な物があるかもしれない、野イチゴに類推するような物が取れれば御の字なのだ。
健司は周りの植物を観察しながら川を下って行った、時に休憩をはさみつつ長期戦を視野に入れて覚悟を決めた。
―夕暮れ時
どれくらい歩いただろうか、健司は努めて冷静に考える、朝から休憩を数回挟んだが結局今日は収穫が無かった。
川辺を移動していたので障害となる雪はほとんど無かった、岩場を渡り歩いただけで平坦な道のりではなかったが昇り降りの激しい道ではなかった。
移動距離を考えても20キロは移動できたはずだ。間もなく日が落ちるので寝床の確保が必要だった。
森の木々は針葉樹林が生い茂るのみであった。葉っぱを集めて焚き火か何かをするのは無理だろう、この深すぎる雪をかき分けて更に何かをする気力はない。
川沿いは雪が殆ど無くなっていた、しかし奥へ進めば健司の身長を超える雪が未だに沢山積もっているのである。
しばらく行くと川から少しだけ頭が出ている大岩を見つけた。水面が近く暖かい熱気が岩を温めている、十分な広さもあるので寝床はここしかないと判断した。
岩の上で横になりビジネスバッグを枕代わりにした。少々固いが文句言えない、気温とても低く寒かったのだが代わりに岩が温水の影響でとても暖かかった。
ベルトを緩め楽な体制になる事にした、お腹が冷える可能性があるのでうつ伏せになってお腹を温める体制になった。
スマホは寒さで相変わらず電源が入らない。
暗くなってしまってはどうしようもなかったのでここで一晩明かすことにした。
それは真夜中の出来事である。
外が若干明るい事に気がついた、しかしすぐに原因が判明した、夜空には視界いっぱいのオーロラが広がっていた。
健司はオーロラを生で見るなんて初めての経験である。
オーロラはとても言葉にならないほど美しかった、テレビを介した映像で暗闇のノイズの多いオーロラを見た事くらいなら有る
だが健司はオーロラの美しさに感動すると同時に心底舌打ちしたい最悪の気分だった。
オーロラがある事実が、ここはほぼ間違いなく日本では無いという事、日本海側の豪雪地帯の山奥であるという希望を完全に打ち砕いていた。
ここは間違いなく日本から見て北にある場所だという事をオーロラが証明していた。
南かもしれないが重要なのはそこでは無い、当然こんな悲惨で厳しい状況ではある程度健司は自覚していた、しかしやはりどうしてもオーロラが見えるという現実が健司の精神を更に暗く焦らせ蝕むのであった。
―3日目
とても肌寒い目覚めだが川の暖かい熱気により体温の極端な低下を避ける事が出来た。
幸いにも身体の疲れはまあまあそれなりにとれた、でも正直な心境としては心の疲れがぐっと増した気がする。
未だ何の手がかりも見つからない現実が健司の起き上がる気力を奪っていく、まぁそうは言っても結局やらねばならないと自分自身に言い聞かせた。
健司は川下りを再開した、そろそろ肩に食い込むビジネスバッグの重さが厳しくなってきた、だが健司にはどうしても捨てる事は出来なかった。
中にはノートパソコン等が入っている、自分へのご褒美として奮発したかなり高価な代物だ、独身実家暮らしの温室育ちで草食系の健司にはとても捨てるなんて事は出来なかった。
食べ物は未だ見つける事が出来ない、本来ならこの様な針葉樹林だらけの寒冷地域で食べ物を見つけることは現実的ではなかったのだ。
こういった地域では狩猟をするのが現実的だろう、道具も無ければ知識も無い、人の居る場所を探すに限る、健司は休憩を挟みつつ歩みを進めた。
―夕暮れ時
今日も20キロは歩いたはずだ、川はまだ暖かい、足湯の要領でしっかりと疲労した足の筋肉を揉む、足の疲労は著しいけれども可能な限り無理をせず、継続的に歩む事が出来るように努めたのだ。
この日も浅瀬の岩の上で寝る事にした。
夜にオーロラは無かった、周りに明かりの無い星空は今まで経験した事がない美しさだった、そして同時に気が付きたく無い事実がそこにあった。
月だ……………4つもある…………、より正確には衛星が4つもあるという事だ、4つもある月は全てとても細い三日月だった。
昨晩は新月だったのだろう、4つとも色まで違う、3つが赤緑青、気持ちが悪いくらい綺麗な正三角形の頂点の位置にある様子が伺える。
4つ目はその丁度真ん中で色は水色だった…。大きさも一回り小さい?というか普通の月の大きさに見える。
しばらく眺めてみた、するとある事に気がついた。
長時間見続けないとわからないが3つの月はゆっくりと真ん中の月を中心に互いにぶつかる事なく回転していた。
全くとんでもない話である、もはや地球ですら無い、今更なのでそれはいい、もう諦めた。
この異星(仮)は一回り大きな月が3つと小さい月が1つの合計4つも公転している、しかも大きな3つの月は1つの小さな月を中心に時計回りに公転している。
健司はなんで色が違うのかに関して考えるのが面倒臭くなったのでもうやめた。
色々突っ込みどころが多すぎるが、ツッコミする相手が居なかった、もう既に元の世界の常識など通用するはずも無いのだから。
―4日目
空腹感が著しい、飢餓感といった方が正しいだろうか、川のお湯で飢えを凌ぐ頻度が増えた。
健司は絶食ダイエットをしている気分だった、まだこの程度では人間は死なない、まだ冷静だが踏ん張りが利かなくなってきた。
休憩の頻度が増えた、岩を登る気力が湧かない、歩いてもすぐにしゃがんでしまう。
いよいよ体温が上がりにくくなってきた。
歩きながら食べ物の事を考えてしまう様になり想像だけで口の中が唾液で満たされてしまう。
精神を奮いたたせ。歩む速度を決して緩めない、自分にひたすら言い聞かせる。
ここには誰もいない、ここには誰もこない、立ち止まれば死ぬだけだ。
強い意志を持って20キロを、歩いた。
しかしもうフラフラだった。
―夕暮れ時
空の4個の月は昨日よりやや太い三日月になっていた、真ん中に水色の1個、三角形で囲むように配置された赤青緑の3個、やはりずっと観察していると真ん中の月を中心に公転している。
今夜は寒さが増した気がする、凍傷による末端の壊死が一番怖いので足先と指先は湯に浸かるようにして睡眠をとる。
このやり方はなかなか良かったようだ、足先指先からお湯の熱を吸収できて体温も高めを維持できた。
気温はかなり低いがお湯のおかげで体温の低下を防ぐ事が出来た。
―5日目
空腹感が収まったきがする、不思議と体の倦怠感が抜けている。なんとなく体が軽い。
相変わらず踏ん張りは利かないが歩む速度はなかなかの速度だ。
頑張れるなら今の内に距離を稼いでおきたい。
川の流れが2つに分かれていた。
川幅がほとんど同じで、本流がどちらか判断できなかった。
川の流れに沿って右側を歩いていた健司はとりあえず右側に沿って進む事にした。
30分ほど進むと、辺り一帯の雪が全て解けている場所に到達した。
周囲の木々が黒焦げになって居る、大規模な火災があったようだった。
火災の熱気がまだ残っており周囲は熱を持っていて近寄るには少々暑かった。
状況を確認してみるが目新しいものは見つからない、火災といえば人工的な事案があって起こりそうな物である。
特に雷のような物が起きる天気でも無いため、何かしらの人為的な影響を疑ったのだ。
諦めずに健司は火災の現場を確認した、しばらく探索すると、焼け爛れた小さな卵ような物が見つかった。
黒焦げである、まだ焼けのこってから時間が経ってないようで、熱を持っていた。
健司はあまり美味しそうでは無い玉子を最後の手段として取っておく事にした。
ビジネスバックにしまう為に川で洗うと川の水が非常に冷たい事に気がついた、まるで氷のようだった、このままでは夜を越せない。
健司は、この火災の現場が気になりつつも、昼を過ぎたこの微妙時刻では、安全を考えて引き返す選択を選んだ。
川の分かれ道に戻った健司は川の水温を確認した、とても暖かいお湯は指先の血行を回復させてくれた。
対岸に移り反対側の川の流れに沿って健司は進む事にした、30分ほど歩いて水温を確認したがとても暖かく、選択は間違っていなかったようだ。
この日も日没近くまで歩いた、20キロ前後は歩いたはずだ。グロッキーと言って差し支えない状態だが、まだなんとか耐えられた。
―夕暮れ時
恐れていた事に吹雪いてきてしまった。この日は服を全て脱ぎビジネスバックにしまった。
川の小岩をうまく並べ替え配置し寝転ぶようにして寝る事にした。
自分の体の肉付きを見たがまだそれほど劇的な変化はないようだ。
まだいける、まだ頑張れる、まだ動ける。
健司はそう念じながら浅いぬるま湯の湯船の中で寝転んで睡眠をとった。
湯のおかげで凍傷や低体温症は免れているが、吹雪は次第に勢いを増していくのだった