五月
五月、さわやかな薫風の吹く通学路。
高校の音楽教師猫西響は、軽い頭痛とめまいに耐えながら朝の道を歩いている。
今朝、ホリーの夢を見た。
――「おっはよ!」
猫西の背中をばんと平手で叩いたのは、早朝から威勢のいい男子生徒、宵待月人だ。
「あ…あぁ、おはよう。早いな」
月人は訝しげに首をひねり、自分より小柄で細身の高校教師の顔を覗き込んだ。
「先生大丈夫?顔色悪いけど」
「ああ。ちょっと夢見が悪くて…」
「それ、どんな夢?」
「いや…なんでもない」
月人は不満な顔つきだが、それ以上はその話題に首を突っ込まなかった。
「先生のメガネって伊達?」
「うんまぁ…そうだ」
「何で?」
「…ちょっとは老けてみえるかなって…」
逡巡したのち答えた猫西の言葉に大いに笑う月人。
「…こら」
「ごめん!ああおっかし〜」
本当は憮然としていたかったが、高校生相手に大人気ない、と自制心が働いた。とりとめもなく話しかけてくる月人のおかげで、何となく会話をしているうちに学校へ着いた。
「じゃあ、また後でな」
「うん!ふへへ」
へんな笑い方をした後、月人は生徒用の通用門へ駆けていく。
猫西は何か腑に落ちない表情をしてしばらくぼんやりしていたが、やがて職員用の出入り口へ向かった。
今朝の夢。ホリーが笑っている。いつものように少しはにかんで。上等なお菓子のようなやさしさを分けてくれる。大好きだ、ホリーもっと遊ぼう。ずっと、こうしていようよ。
そのときホリーが突然、ひどく悲しそうな目をして、猫西に言った。
(もう帰らなくちゃ)
駄目だ、帰らないで。
(でも…)
帰るな、帰ったら死んじゃうんだろう。帰らないでここにいろよ。
ホリーは困った顔をして、それでもそばにいてくれる。
そういう夢。
産休代理で月人の高校に赴任したばかりの頃、猫西が放課後準備室で仕事をこなしていると、月人がやってきた。
「何だ宵待、下校してなかったのか」
「先生、あの…」
「うん?」
「…先生さ、この曲知ってる?タ、ラランタン、タ、タンタン…」
「ああ、サティの「Je te veux」だな」
「ジュ…何?」
「ジュトゥヴー。フランス語だよ」
「どういう意味か知ってる?」
「知ってる。「あなたが欲しい」」
「うわ…」
採点していたの楽典の小テストを中断し、月人に向き合った。
「気が済んだか?俺はまだ仕事が…」
月人が慌てて部屋の中にもう何歩か踏み込んでくる。
「ま、待って!」
「なんだ」
「先生さ、その曲、ピアノで弾ける?ピアノの曲でしょ、これ」
「弾けるけど…」
何がなんだかよく解らないまま、気がつくと椅子に座ってピアノを弾いていた。曲は「Je de veux」。難易度の高い曲ではない。猫西はピアノを歌わせた。弾き終わると月人が喜色満面で拍手をしている。
「すごい!いい曲だね!!」
「…そうだな」
月人は興奮していたが、曲が終わってさみしそうでもあった。
「ほかに用事は?」
「うん、あのね」
もごもごしている。
「…何か悩み事なら、保健室にでも…」
「悩みっていうか…質問なんだけど」
「何なんだ」
「先生さ、うちの学校の中庭に温室あるでしょ。何か今さ、バラ育ててんじゃん、白いの。温室の管理も任されてんの?」
ああ、そんなことか。
「任されてるわけじゃない。前は園芸部が取り仕切ってたけど、俺は植物の世話とか好きだからって自分で買って出たんだよ。土いじってると気が静まるし、株分けや繁殖も楽しい」
「本格的だね…」
自分の事を良く見ている生徒だ。少なくとも赴任から今までの短い期間に、自分に温室の話をしてきた生徒はいない。偏屈と思われているのかもしれないが、白いバラを育てているとまで言ったのは、教職員にだっていない。猫西はうっすらと感じ取ったものを、丁寧にもとの場所に戻した。
「もう帰れ。俺は忙しいんだ」
「うん。ごめんね…」
うなだれる姿と、ピアノを弾いたときの喜びいっぱいの顔を思い出して、猫西は言った。
「曲が聴きたけりゃまた来いよ。暇なら弾いてやれるし。ここはレコードもあるし」
犬が飼い主をみつけたように、月人はすっ飛んで喜んだ。
「本当?」
「ああ」
「じゃ、また来るね!」
目には見えない大きな尻尾を振り回して、月人は帰っていった。事務机に戻ってテストの採点を再開する。二階にある準備室の窓からふと外を眺めると、月人が伸び上がってこちらに手を振っていた。思わず笑ってしまう。あれで高三か。落ち着きが無くて、感情が豊かで。俺だって少年のころは単純なガキだった。でもいつか必ず、大人になってしまう。それは目出度いことのはずなのだが。
「先生。本当に来ちゃった」
「…ああ」
月人のごく控えめな自己主張は、猫西の警戒心をやわらげさせていた。
「今日は何がいい。レコードかけるか」
「先生のお勧めは?」
「好みの問題だからな…」
「先生の好きなのがいい」
適当に選ぶぞ、と前置きして、レコードが収納されている箱を探し出す。
適当に、といったものの、音楽教師として適切に少年の…というか生徒の「いま」を額に入れて飾るような何かを選びたいという欲が出る。散々迷ってビートルズのブルーカラーレコードにした。
「先生、ビートルズ好きなんだ」
「お前はどうなんだ。青春の歌だぞ」
「うん、英語で何言ってるかわからない…」
歌詞カード、と言って渡すと興味深げに読んでいる。
猫西は喉の渇きを感じ、月人に「何か飲むか」と尋ねた。
「何があるの?」
「コーヒーか紅茶、緑茶とほうじ茶くらいは」
「先生のお勧めは?」
「だから、好みの問題で…まぁ、紅茶には金をかけている」
「先生、紅茶好きなんだ。じゃあ、紅茶にする」
「アイスとホット」
「アイス!」
準備室で水を汲み、小ぶりのなべに入れる。火に掛けている間にマグカップに氷を入れ、泡が立ってぐつぐつ言い出したなべに茶葉をいれ、火を止めてふたをし、蒸らす。30秒経ったら火から下ろして、ふたを取り茶漉しを使ってマグカップに注ぎ入れ、ミルクとガムシロップを加えて出来上がり。
「できたぞ」
猫西がマグカップを手渡すと、目を丸く見開いて、少量啜り、喉を鳴らして飲んでいる。
「美味しかったー。ご馳走さま」
もう少し味わえば良いのに、と思ったが、本人はいたく満足げなので黙っておく。
「先生さ」
「何だ」
『フール・オン・ザ・ヒル』がかかっている所で、月人が呟いた。真剣な顔だ。
「あの白いバラ、株分けってどうやるか判らないけど、俺にも分けてくれないかな」
「…あれは…」
一瞬、猫西が気まずい雰囲気で口ごもる。自分のマグカップに口をつけた。
「…だめ?特別な花なの?」
「…そうだな」
目に見えて思いつめた顔をしている。かわいそうだが事実を曲げてもしょうがない。
「先生、今好きな人、いる?」
月人の話題が大きく梶を切った。猫西はため息をつく。困った、と思う。
「俺のこと、少しでも…す、すき…?」
猫西は産休代理で赴任前、まだ教免をとって学校の講師の登録をしたばかりのときに、個人経営の学習塾の講師のアルバイトをしていたことがあった。猫西の生まれ育った所の、落ちこぼれの生徒を主に見るような塾。半分遊びのような、アットホームで楽しい仕事だったが、ある女生徒に好意を寄せられ、結局そのバイトをやめてしまった。
「…宵待」
「き…きら、い…?」
猫西は逡巡する。可愛い生徒だと思う。しかしどうしたら彼に、思春期の気の誤りだと諭すことができるだろう。
「……あのバラ、どうするの先生」
「…人にあげる」
「誰?」
悩んだ末に、誤魔化してもしょうがない、という気になった。相手が男子生徒であるということもあるかもしれない。話してしまおう。
「好きだった人」
「付き合ってた…?」
「ああ。死んじゃったけどね」
花がしおれたようにしょんぼりしたと思っていた月人が、急にバネでもあるかのように機敏に身を乗り出して、言った。
「僕は元気だし、絶対健康を貫く!お酒も煙草も諦める!交通事故もそれはもう気をつけて、ずっと先生をひとりになんかしないよ!だから…」
少なからず驚いている猫西に、目の高さをあわせ、覗き込む。月人は色が白く、髪はハシバミのように真っ黒い。紅茶のような色をした、不思議な目だ。
「だから、俺のこと、好きになって。時間がかかってもいいんだ」
猫西は迷惑そうに眉を寄せた。
「ごめんなさい…でも俺、先生のこと、好きなんだ」
レコードはもう終わりに近かった。『LET IT BE』、なすがままに。
猫西はもう終わるから、と告げてピックアップを盤面から外した。ターンテーブルの回転が減速し、やがて止まる。
「あの、俺、明日も先生に会いたい」
「明日は公休日だが」
「うん!だから、どこかへ遊びに行かない?」
「…はぁ?」
次の日が遠足だという子供の喜びかただ。
「動物園とか…遊園地とか!」
「俺が?お前と二人で?」
「あ、もしかしたら河原でピクニックのほうがいいかなぁ!?」
段々青ざめてきた猫西に、月人は言った。
「先生、大丈夫だから。誰にも何にも言わないから。誰かに見られたらさ、俺に無理やり遊びにつれてかれましたって、抗弁すれば良いよ。ね?」
借りてきた猫が傍若無人になってきた…。
結局、せっかくの休日を帳消しにして、月人と遊園地に行くことになった。宵待は待ち合わせの場所である最寄の駅から、ずっとハイテンションだったけれど、しばらくすると少し落ち着いて話したり、聞いたりするようになった。
遊園地に猫西が足を踏み入れたのは何年ぶりだろう。いや、何十年ぶりだろう。
「…何かカップルばっかだね…」
「そうだな…」
猫西と月人は、色々頑張った。ジェットコースターに、コーヒーカップ、バイキング、フリーフォール…最後にメリーゴーラウンドに月彦が乗っている所を見ていた猫西が、倒れた。パニックになった月人が木馬から降りようとすると、警備員に警告を受け、それでも月人は柵まで乗り越え、猫西を救護室まで背負い、看病して張り付いていた。
30分を少し過ぎたくらいの時間で、猫西は目が覚めた。ただの過労と、睡眠不足だろうということだった。対応に当たってくれたスタッフ全員に、月人は頭を下げた。
「俺、年になったなぁ…お前くらいの頃なんか遊園地なんて楽しくて嬉しくて仕方が無かったのにな」
「いいよ。こうしてベンチで座ってるのも乙だもんね」
「男同士でか?」
目の前を通り過ぎる恋人たち。
「ああいうの、お前は羨ましくないのか?」
「ない。だっていつか、俺と先生は本物の恋人になるから」
恋愛沙汰で一番恐ろしいのが思い込みだと、猫西は思う。
「先生弁当食べよ」
自前のサンドイッチをもぐもぐ言わせながら、猫西は考えた。
「宵待、お前モテるだろう」
「そんなの…!」
「モテるだろ、女子に。顔がキレイで、飄々としてて、ノリが軽いし」
「褒めてる?」
「褒めて…る」
「好きでもない人はどうでもいい。なんなら俺、先生の言うとおりしてもいい。希望を言って、そうするから」
瞬間、猫西の目がずるがしこい子供のようにキラキラと輝いた。
「…じゃ、カピバラがいい」
「カ…ピバラ??」
「俺が好きだから。駄目?」
月人はぐうの音も出ない。
「そうかカピバラ駄目か。残念だな」
「じゃあ…次は動物園にしよっか?!」
猫西は食い下がる月人に、思わず吹き出してしまう。
「…なんで宵待は俺なんか…その、俺がいいんだ。可愛い女子生徒、いくらでもいるのに」
月人は告白したときよりも緊張しているようなそぶりでもぞもぞ体を動かした後に言った。
「初めて先生を見たのはね、春だった。温室がある中庭なんて、私立校らしいなってその辺きょろきょろ見て回ってたら、先生が花の世話をしてて…ああ、見たことない綺麗な人だって、ドキドキして…」
「それで?」
「だから…タイプ、だったから。それから「たすけて」って言ってたから」
「そんなことは言っていない」
「そうじゃなくて、目で。淋しそうでフラフラしちゃって、てんで無防備でさ。あぁ俺が、守ってやらなくちゃって思って。頼もしいでしょ」
「……」
猫西は急に胸を圧迫されたように苦しさを感じていた。
「たすけて」、か。
傍目に分かるくらい、自分は弱っていたのだ。
「今はそんなに変わらないけど、身長だってすぐ伸びるしさ」
幼いはずの生徒の言葉が、やけに身に沁みた。
「だって俺、毎日牛乳飲んでるし!」
猫西が吹き出すと、月人が驚いて目をきょろきょろ動かしている。
「何かおかしかった?俺…」
「いや…何というか…」
まだ笑い続ける猫西に、月人がむくれる。
子供なんて、嫌いだったはずなのに。
猫西の心に、夕暮れがせまる。
別れ際、名残を惜しむように月人が言った。
「先生、今日俺ホントに楽しかった。ありがと。また、誘ってもいい…?」
「放課後、遊びに来るくらいなら…」
「ホント?!俺、また通うから!」
「ああ」
へこたれなさは若さの証拠だろうか。
「紅茶くらいは出す」
「うん!」
ひょこひょこスキップを踏んで、月人がぴたりと止まりこちらを振り返る。
「じゃあ先生、またね。おやすみなさい」
「おやすみ。気をつけて帰れよ」
「うん!ありがと!」
手を振り続ける月人を後に、猫西は自宅方面へ歩き出す。ふと気がついて振り向くと、まだ月人がこちらに手を振り続けている。いろんなことがあった一日だった。おかしい。昨日まではホリーの夢を見てはうなされていたのに。手を振り返してやると、月人がますます手を振り笑いかけてくる。
早く帰ればいいのに。いつまでああしてるのかな。自分が帰るまでか、と猫西は気付き、再び家路に着いた。
「今日は、あの曲がいい。ジュ・トゥ・ヴー」
放課後の音楽室。
「俺が弾くのか?」
「うん」
弾きだすと浮かない心が晴れるようなシャンソン。単純な伴奏、ワルツのリズム。
「先生」
「何だ」
「…いつも服の袖で隠してるかさぶた、どうしたの?」
猫西はメロディーを崩さないように努力する。
「ごめんね。その、この間遊園地で倒れたとき、見えちゃって…」
「…醜かっただろ」
「ううん。何か、痛々しいっていうか」
「…癖なんだ。痒くなって、噛んで、もっと痒くなって…爪も短かっただろ」
「ピアノの為じゃないの?」
「爪も噛んでるんだよ」
喋ってしまってから、後悔した。言い過ぎたと思った。月人に問われたことをスラスラ自分が話しているのもおかしかった。いくら親しいからといって、生徒に話すことではない。
「それ…この間言ってた、白いバラあげる人のせい…?」
ほら、みたことか。自分で自分の首を絞めている。
猫西は演奏を中断した。
「俺が考えなしだったな。お前、今日はもう帰れ」
月人が目を見張っていた。哀しそうな、怒り出す一歩手前のような表情だった。
「ごめんね、先生。また明日、来る…」
そうだ。いつも月人は「さよなら」とは言わない。「またね」「また明日」と、約束を残して去ってゆくのだ。ホリーに対する自分のように。別れが、辛いから。もう一度会いたいから。…好き、だから。
月人がかばんを手繰り寄せて肩に掛け、こちらを気にした様子で去ってゆく。
本気なのか。
いまさら気がついた。子供だと、年下だと馬鹿にしていた相手が、自分を真剣に想っていること。
猫西は恋愛には消極的だ。来るもの拒まず、などというが猫西はそれをも回避してきた。恋をしてしまいそうだな、と思うと、いつもその対象から目をそらした。それがたとえ、映画やテレビの中の人間でも、恋というものから、頑なに逃げ回っていた。だから、月人のこともそうして過ぎてゆけると思っていた。
それでも、どうすればいい。猫西は長い間、散らかった頭の中を片付けることもできずに、月人の去っていったドアをみつめていた。
翌日の放課後になって、猫西は準備室にいるのが胸苦しいような気になり、学校の中庭にあるひっそりとした温室に佇んでいた。どうせ、すぐにみつかるかと思うけれど。もしかしたら自分は、それを望んでいるのだろうか。かくれんぼをしていて、最後までみつからないでいる子供のように。
温室の入り口の扉をこつこつと叩く音がして、振り返る。
「…宵待」
手を振って、必死で笑顔を作っている。ドアを開けてやる。
「先生、準備室にいなかったからここだと思って…職員室にもあんまり居ないでしょ?」
黙っていると月人が急かされたように会話を繋げようとする。
「先生のバラ、そろそろ見頃かな?俺、あんま詳しくないけど…」
「…花屋で売ってるようなバラは殆どつぼみの頃に売り出すんだ。痛まないように」
「そうなんだ」
会話が滞っている。
「…以前お前に「そのバラ誰にあげるの」って訊かれたよな」
「うん…亡くなった、好きだった人だって言ってたよね、先生」
「「堀井」って名前でな。みんなが「ホリー」って呼んでた」
「そうなんだ…」
「今も夢に見るよ、奴が生きていて、帰るだなんて言って」
月人が瞠目したのが気配でわかる。
「…ホリーって、男の人だったの…?」
「そうだよ。ホリーは男で…自殺したんだ」
猫西響と堀井悟は、恋人というよりつがいだった。
互いに寒さに凍えて身を寄せ合わすように、二人もそうしていたのだ。
問題は彼らが小鳥ではなく人間だったこと。そして彼と彼とが同じ人間ではなかったことだ。
「幸せ」。
それが何か解らず、そうなりたいと願って馬鹿なことをいっぱいやった。
「…俺は、先生といたら超ハッピーだよ。幸せオーラ出るよ。だって、大好きだもん」
「わかってるよ」
最後の数ヶ月、歯車が狂った。自分とホリーの道が隔てられているのに、猫西は気付かなかった。相手を責めた。けれどホリーは猫西を殆ど責めなかった。
頻繁だった電話でのやり取り。最後の通話を猫西は思い出す。前向きなことを少し聞かされて、「何もかも全部やり遂げるから」、といったような内容だった。
猫西はいつもそうしていたように彼に「じゃあな」と言った。それが本当の最後だった。
「お前、いつも「さようなら」とか「バイバイ」とか言わないだろ。俺もそうだった。ホリーにはいつも「またな」って言ってたんだ」
「じゃあな」と言って自分は。その後がどうしても思い出せない。ホリーが死ぬつもりで掛けてきた電話なら。ホリーは「さよなら」と言ったのかもしれない。
言い切ると月人の表情が変わった。
「…ホリーって、嫌なやつ」
「宵待…?」
「じゃあ、そいつはこの先ずっと、先生が自分のことしか考えないで生きてけって、恋も幸せも現実も捨てて、自分に操立てて欲しいわけ?」
「違う、宵待」
「先生はもう充分苦しいでしょ?苦しんでるよね、手にかさぶた作って、誰にも心開くもんかって思いつめて。でも、それでいいの?」
溢れてくるものに、なんとなく気付きながら、猫西は立ち尽くしていた。胸の奥で衝突していた二つの感情がもっと大きな強い傍流に押し流されていった。
「…ひどいこと言ってごめん。でも俺、先生のこと好きだし、好きな人には、笑っていて欲しいでしょ」
「…そう、だな」
「好きだよ、先生」
自分の涙を拭いながら、月人が触れてくる。そのことが嫌ではなかった。
「先生、俺まだガキで、わかんないこといっぱいあるけど、その…先生が待っていてくれたら、大人になるから。そしたらできることやわかること、増えると思うし。…待っててくれる…?」
ただ、頷いた。
取りとめも無く泣いていると、唇にキスされた。唇が離れても、手をつないでいる。
「ホリーのお墓、行くんだったら俺も一緒に行きたい」
「…もうキスしないか」
「…う、うん」
小さく吹き出すと、抱きしめられた。
「宵待」
「うん…先生、」
「なんだ」
「たまには泣いてもいい、から」
「……分かったから、もう離せ」
「うん…」
彼の体は、温かくしっかりしていた。
月人が腕を緩める。切なさが互いの胸を責めている。
猫西は丁寧に顔を拭い、剪定ばさみでバラの茎を切った。
そのあとは、互いにつかず離れず。
温室の窓を超えて、青い青い空が広がっていた。
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