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小説・生き残れ!

作者: 岩城 十一

【1】

「ぐっ…いでぇ…」

衛は呻いた。電車が線路の分岐に差しかかって大きく揺れた途端、すぐ隣の男が肩にかけたバッグの角が、脇腹に思い切り食い込んできたのだ。毎朝のことながら、この線の無茶な混雑にはうんざりだ。衛は手すりのポールをしっかりと両腕で抱えこみ、つま先にぐっと力を入れて押し寄せる人の圧力に耐えた。男の自分でもこんなに苦しいのに、よくもまあ女性が乗っていられるものだと、いつも思う。年の瀬も近い今頃はみんなかなり着膨れしているせいで、尚更だ。

 

 次はやっと地下鉄への乗り換え駅に着く。見ず知らずの人とのおしくらまんじゅうから、やっと開放される。衛が両足の間の床に置いたショルダーバッグを取ろうとしてもぞもぞと動き始めたその時、車内のあちこちからくぐもった、しかし神経を鋭く逆なでするような電子音が一斉に鳴り響いた。携帯電話の緊急地震速報。車内の誰もが一瞬息を呑み、何人かがもがくような手つきで慌てて携帯を取り出した。一瞬固まった衛も、なんとかズボンのポケットから自分の携帯を取り出して、ディスプレイを開く。


『千葉県で地震発生。強い揺れに注意してください。』

ディスプレイに表示された無機質な短い文章を一瞥してから、思わず顔をあげて周りを見た。周囲の乗客も不安を宿した目できょろきょろと見回しているが、それ以上の動きは無い。

《まあ、大したことはないだろう…》

《今までにも大きい地震来たことないし…》

《前に鳴った時も小さかったし…》


突然頭をもたげて来た不安を、誰もがそんなふうに考えて打ち消そうとしているようだった。だれにとっても、ここで地震など来てもらっては困るのだ。今は仕事場や学校に遅刻せずに行くことが最優先課題だ。地震ごときに今日の予定を邪魔されるわけにはいかない。それに周りの誰も動かないし ―そもそもほとんど動けないが― 騒ぎ出さない。だからきっと大丈夫だ。そう、きっと大したことは無い。現に、揺れなんか全然感じないじゃないか…。


 衛もそう思って息を吐いた時、電車の揺れとは明らかに異質の、足元がぐいっと持ち上げられるような動きを感じた。次の瞬間にはドスンと落ちるような衝撃が来て、車内の空気が再び一瞬で凍りついた。

「で…でかい…!」

衛が思わず声に出した途端、いきなり電車ごと大きく振り回すような揺れが来て、車体がギシっと軋んだ。車内がざわめき、女の短い悲鳴が響く。その時、電車に急ブレーキがかかった。運転指令からの無線連絡を受けた運転士が、非常ブレーキをかけたのだ。


 普段駅に止まる時の数倍の減速度に、すし詰めの乗客は身構える暇も無く、車内前方に向かってドドドっと押し寄せた。吊革や手すりにつかまっていなかった乗客が人の壁に向かって投げ出され、何人かは転び、さらに後方から押し寄せる人波にのしかかられた。すさまじい圧力で肺から空気が叩き出される、ぐえっと言うような奇妙な呻きが車内に満ちる。


 車両前方のドア脇に立っていた衛は、後方から押し寄せる人の波に押されて手すりにしがみついている腕を振りほどかれそうになったが、なんとか踏ん張った。しかし右腕がポールと男の背中の間に挟まれて、骨が折れるんじゃないかというほどの苦痛に呻いた。

《うぅっ…ウソだろおい…》

普段からなんとなく想像はしてはいた“大地震”のイメージがいきなり現実になり、頭の中は真っ白で、身体は硬直していた。窓から見える電線と架線柱が、ぐらぐらと揺れている。電車の速度はかなり落ちたが、揺れはさらに激しくなり、このまま電車が脱線転覆するんじゃないかと思ったが、衛はシート脇の手すりにしがみついたまま、足を踏ん張っていることしかできなかった。


 電車は、車輪を軋ませながらなんとか停止した。揺れは次第に収まって行く。どうやら、大地震と言うほどではなかったらしい。車内では皆が一斉に携帯やスマホで地震情報を確認し出す。遅刻するかもしれないと、勤め先に早速電話をし出す気の早い者もいる。衛は携帯を持ったまま相変わらずポールにしがみついているだけだったが、周りから聞こえて来る声によると、今の地震はこの辺りで震度5弱だったらしい。でも感覚的には、それよりずっと大きかった気がした。

「なんとかなった…」

ざわめき始めた車内で、衛はやっと一言だけ、つぶやいた。

 

 電車は数分間その場で停車した後、既に目の前に見える次の駅に向かって、人が歩くような速度で動き出した。それにつれて、車内の空気は急速に“日常”に置き換わって行く。これなら遅刻せずに済むかもしれない。電車が駅に着くと、開いたドアから溢れ出した乗客は我先にと地下鉄ホームへ続く階段を駆け下りた。


今の地震で地下鉄が動いているかわからないが、とにかく行ける所まで行く、それがサラリーマンの本能でもあるかのようだ。ホーム上では幾人かが座り込んだり倒れたりしているが、それを気にかける人はあまりいない。きっと誰かが助けるだろうし、自分がわざわざしゃしゃり出ることは無い…。


衛は人波に押されるように階段を駆け下りながら、自分の後ろの方で女の悲鳴と男の怒号が飛び交うのを聞いた。

《ここで転んだらヤバイな…》

頭の隅でそう思いながらも、振り返りもせずに階段を駆け下りた。実際、こんな人の流れの中で、立ち止まることなどできはしない。だから、何もできないのは仕方ない…。



 地下鉄ホームは、人が線路にこぼれ落ちそうなくらいの混乱だった。でも、少しの間だけ施設点検のために止まっていた電車は、既に動き出しているようだ。電車の入線を知らせる放送ががなり立てる。衛は二本目の電車になんとか乗り込んだが、車内は先程よりひどいすし詰めだ。電車が動き出すと、車体が大きく揺れる度に車内に呻き声が満ちた。電車が遅延回復のためにいつもより速い速度にまで達したその時、車内のあちこちからまた、あの警報音が鳴り響いた。しかし車内の空気は先程よりは張り詰めなかったし、それは衛も同じだった。

《またかよ…きっとさっきの余震だ。大したことはない…》


 次の瞬間、いきなりドン!と地の底から突き上げられるようなたて揺れが来た。厚いフェルトで包んだ巨大なハンマーで下から叩き上げられるような衝撃で、電車が線路から飛び上がるのではないかと誰もが感じるほどだった。電車の轟音に重なってトンネル全体がゴーっと唸りを上げ、車内の悲鳴をかき消す。

《さっきより、でかい…》

衛が、そして誰もがそう悟ったとき車内の照明が消え、いくつかの小さな非常灯の明かりだけになった。誰もが息を呑み、もうほとんど悲鳴も上がらない。すぐに非常ブレーキがかかり、すし詰めの乗客は激しく前方に圧縮される。たて揺れと横揺れが混ざった振り回すような激しい揺れが、どんどん強くなって行く。


 その時、電車の前の方からガーンという衝撃音とも爆発音ともつかない轟音が車内を駆け抜け、そのままガガガガガっという鋭い金属音と共に、車体が飛び上がるように感じた。実際に先頭車両では乗客が飛び上がり、天井や荷物棚に頭から衝突した者もあった。その他の車両には激しい減速ショックに襲われ、ほとんど暗闇の中で真っ黒な人波がなだれ落ちるように、車両前方に押し寄せた。


トンネルの天井から落ちたコンクリート塊に乗り上げた先頭車両が脱線して、傾いた車両がトンネル壁に接触していた。ガガーっという轟音と共に激しい火花が長く尾を引き、明かりの落ちた車内がまだらなオレンジ色に照らし出される。とっさに手すりを掴んでなんとか衝撃に耐えた衛が視線だけで車内を見回すと、想像もしていなかった状況に、呆けたような表情がいくつも目に飛び込んできた。しかし、衛自身も同じような顔をしているということには気付かなかったが。


 電車は飛び上がるような激しい震動を繰り返しながら次第に減速し、やっと止まった。脱線によって車両間に渡した電線が切れ、いつの間にか非常灯も消えている。自分の手元も見えない。文字通りの真っ暗闇だ。車内放送も沈黙している。辺りが静まると、たくさんのうめき声が暗闇の中から湧き上がるように、衛の耳に届き始めた。

「い、いてえよう…」

「ううぅ…やられた…くそ…」

「助けて…おねが…たすけ…」

すぐ足下の暗がりから聞こえてくる若い女の声に向かって、衛は気休めとは思いながらも

「大丈夫だ。なんとかなる」

とかすれる声で言葉をかけたものの、どうして良いのかは全くわからない。


 その時、トンネルの奥からゴーっという地鳴りが聞こえて来るのと同時に、再び振り回すような激しい揺れが襲ってきた。視界ゼロの暗闇で誰もが息を呑んだ瞬間、車内に野太い男の声が響き渡った。

「トンネルが崩れるぞっ!」

その声に、多くの脳裏にはっきりと“死”、それも暗闇で電車ごと押しつぶされる、苦痛に満ちた最悪の死のイメージが浮かび上がった。何も見えない中、倒れている人などかまわず踏みつけながら、だれもが近くの窓を開けようとしたが、脱出用の窓は車両中央部と車端部にしかなく、それも人ひとりがくぐれるくらいの広さしかない。それでも、暗闇でパニックを起こしかけた乗客は、窓を開けようと遮二無二人を掻き分けた。踏みつけられた人々が上げる悲鳴など、もうだれの耳にも届かない。誰かが

「非常コックだっ!」

と、ドアを手動で開けられるコックの存在を叫ぶが、それがどこにあるかわからず、探そうとしても、人間がぎっしり詰まった暗闇ではろくに動くこともできない。


「ヤバいぞ…これはマジでヤバイ…」

ひたすら手すりにしがみついていただけの衛も、とにかく脱出口を捜そうと真っ黒な人波を掻き分け始めようとした時だった。突然、衛からほんの2メートルほど離れた場所で、強く白い光の束が天井に向かって放たれた。白い天井で反射した光が、暗闇の車内を薄ぼんやりと照らし出す。その光に皆が息を呑み、一瞬車内が静まる。ほとんど同時に、よく通る若い女の声が響き渡った。

「全員その場を動かないっ!トンネルは崩れませんっ!必ず出られます!指示があるまで静かに待機するっ!」


衛は、手のひらに収まるほど小さいけれど、強力な白い光を放つLEDライトを左手に掲げる女の横顔を見た。カールした長い髪が肩にかかる、ベージュのロングコートを着た小柄な女だった。しかしその横顔には、この状況をまったく恐れていないような、凛とした強い意志がみなぎっている、衛にはそう思えた。


すると女がくるりと顔を衛の方に向け、再び叫んだ。

「まず負傷者を救護してくださいっ!」

衛と女の目が合った。衛は自分が置かれた状況も忘れ、思った。

《か、かわいい…》

女はそのまま、大きな目で衛をまっすぐ見据えながら言った。

「そこのキミ、すぐに負傷者救護!」

衛は女の迫力に押されて、先生にしかられた小学生のように、あたふたしながら反射的に返事をしていた。

「は、はい…でも、救護ってどうすれば…」

「そんなこともわからないの?バカっ!」

「…すいません…」


 女の剣幕に、衛は固まったまま動けなかった。30歳の自分より年下の女に、こんなに本気で怒鳴られたのは初めてかもしれない。それでも衛は、女の瞳の中に恐怖や怒りとは全く異質の、なにか暖かい光のようなものも感じ取っていた。どこか人をほっとさせるようなその光が、状況に圧倒されていた衛に、小さな勇気のようなものを与えた。

「…教えてください。手伝います」

思わず、そう口が動いていた。


【2】

 六両編成の地下鉄電車は先頭車両がふたつの台車ともに脱線して右に傾き、二両目も前方の台車が脱線していて、重傷者の多くはその二両に集中していた。ほとんどは急減速や脱線の衝撃で投げ出されて車内のどこかに激突したり、なだれかかった乗客の下敷きになって負傷したものだが、割れた窓ガラスの破片で深い切り傷を負った者もいた。


 衛の乗った三両目では、大半が人の下敷きになって負傷したようで、骨折するような重傷者も出ているようだったが、ほとんど暗闇の、しかも人がぎっしり詰まった車内では負傷者に近づくどころか、倒れている負傷者の脇にかがむことさえ容易ではない。それでも、皆が取り出した携帯やスマホのディスプレイが放つ薄ぼんやりとした明かりを集め、少しずつ負傷者の様子を見る者も出始めた。


そこへ、トランジスタラジオの音声をイヤホンで聞いていた若い男の声が響いた。

「津波の心配は無いそうです!津波は来ません!ラジオで言ってます!」

その声に、張りつめていた車内の空気が揺れた。だれもが大きく息を吐き、さざ波のようにざわめきが広がる。携帯やスマホでネットに接続しようとしていた者も一斉に顔を上げた。ネット回線は生きていたようだが、地下であることと激増した通信トラフィックのために、情報が得られそうなサイトには全く接続できていなかったのだ。


 この地下鉄線は海に近い低地を走っている区間があるために、東京湾で大きな津波が発生した場合、トンネルの一部が水没する危険性が指摘されていた。しかし現在電車が止まっている区間は浸水する可能性は無かったし、それ以前にほとんどの乗客はその事実を知らなかったのだが、とにかく大きな危険がひとつ無くなったということが重要だった。薄明かりの中で黒い人波の動きが激しくなり、窓を開ける者、周りに声をかけて負傷者を楽な姿勢にしようとする者など、早くもひとつの"秩序”が生まれつつあった。


 衛が乗った電車は幸いにして駅のすぐ手前で止まったため、程なく支援の駅員が駆けつけた。傾いた先頭車両のドアにはしごをかけて、乗客の救出が始まる。駅員が持つ強力なライトの光が、暗闇のトンネル内を交錯する。自力で歩ける乗客がぞろぞろと車内から出始め、15分ほどかかってほぼ全員が車外へ出た。しかしあの“彼女”はその間も車内に残り、動けない人の脇にしゃがんでは、皆の身体に手を置きながら、声をかけて回っている。

「どこか痛みますか?すぐに助けが来ますから、がんばって!」

「ゆっくり息をしてください。大丈夫ですよ」

「もう大丈夫です。すぐに手当てしてもらえますよ」

と、実にテキパキとした動きだ。衛はその様子を、突っ立ったままぼんやりと見ていた。手伝おうにも、何をして良いのかわからない。


 しばらくして、ヘルメットのヘッドランプを光らせながら、担架を抱えた二人の駅員が貫通扉から車内に入って来た。“彼女”はすぐに床に横たわる一人の男の足をLEDライトで照らすと、

「あの方からお願いします。ちょっと、急がないと」

と伝えた。どうやら皆の怪我の程度を見ながら、救出の優先順位を決めていたらしい。きっと看護師か何かに違い無い。それにしては髪型とか派手だけど…ぼんやりとそんなことを考えていた衛に顔を向けると、女は強い口調で言った。

「キミ、ちょっと手伝って!」

「…は、はいっ!」


 またもや小学生のように声が裏がえった返事をしながら、衛は暗い車内を小走りに近づいた。負傷者を担架に乗せるのを手伝うのかと思ったら、

「これ持ってて。顔を直接照らさないでね」

と、“彼女”は衛の右手を包むようにしながら、銀色に光る小さなLEDライトを手渡した。衛はその時、"彼女”の温かい手のひらがじっとりと汗ばんでいるのを感じ、はっと気付いた。

《この人も、怖いんだ…》

この混乱の中でテキパキと気丈に動いていても、当然ながら強い恐怖を感じている。でもそれを意思の力で押し殺して、他を救うために行動しているのだ。


そう気付くと、衛の胸の中にじわりと暖かいものが拡がった。そして思わず、自分でも意外な言葉が口をついた。

「大丈夫です。おれが、ついてます」

床にしゃがんで担架に乗せられた負傷者の様子を見ていた“彼女”は、はっとしたように顔を上げて衛を見た。見下ろす衛の視線の中で、彼女の大きな瞳が、ライトの反射できらりと光る。すると彼女は少しだけ目を細めて、微笑んだ…と、衛には思えた。


「では、お願いします」

しかし彼女はすぐに駅員に向き直ると、担架の搬送を促した。それを見送ると、シートにもたれて泣きじゃくっている女子高生の肩を抱いて、

「もう少し待ってね…もう大丈夫だから。足、痛む?」

と、優しく声をかけた。それを見た衛も、駅員が置いていったマグライトを手にして、床にうずくまったり、ドアにもたれて座り込んでいる負傷者の横にしゃがんでは、励ましの声をかけて回った。

「もうちょっと待ってくださいね。助けが来ますから」

彼女がやっているように、やればいい。


「心配無いですよ。おれら、最後までここにいますから」

足首を強くひねったらしく、シートに座ったまま動けずに不安そうな表情を浮かべている中年女性にそう声をかけた時、"彼女”が顔を上げて、衛の方を見た。衛がそれに気付いて見返すと、小さなライトふたつだけが照らし出す薄ぼんやりとした闇の中で"彼女”は、今度は確かに、にっこりと微笑んでいた。


 【3】

 衛と“彼女”は、六両編成すべての負傷者が駅員によって搬出されるまで、車内に留まって手助けをした。他にも数人が残って手伝っていたが、最後の担架と一緒に皆が車両を出て行った。衛が駅員から借りていたマグライトを返して、“彼女”のLEDライト一個の明かりだけになった車内は急に、不気味なほど静まり返った。衛は改めて、暗い車内を見回した。つい先程までの混乱がまるで夢の中だったように思えるし、張り詰めていた気が少し緩んだ今も、自分が置かれた異常な状況をどうにも理解することができない。


 これは現実では無く、まるでパニック映画の助演男優、それも駆け出しの役者にでもなって、必死に演じ続けていたような気がする。しかしパニックシーンが終わった今も、監督のカットの声も無ければ、スタッフからのお疲れ様というねぎらいも無い。あるのは無言の闇だけだ。ひとつだけ映画のようなことがあるとすれば、暗がりの車内には自分と『ヒロイン』のふたりきりだということだ。しかし衛には、次のシーンを演じ始める余裕は無い。衛は自分のワイシャツの袖口についた、負傷者の小さな血のシミに目を落とした。そこだけがただやたらと生々しく、これがフィクションの世界ではないことを物語っていた。


 "彼女”は車内をぐるりとLEDライトで照らして最後の確認をすると、衛の方へ向き直った。そして衛の目の前まで歩み寄り、

「手伝っていただいて、ありがとうございました」

と、丁寧に頭を下げた。カールした長い髪が数本、彼女の形の良い唇にまとわりつく。

「い、いえ」

「突然、救護をお願いしてしまって、すいませんでした」

衛は、“そこのキミ!”の迫力は凄かったぞと言いたかったものの、自分の反応のみっともなさも思い出して、それは言わずにいた。

「役に…立てたかな…」

「ええ、もちろん。本当に助かりました」

小柄な彼女は少し見上げるようにして、衛の目をまっすぐ見つめた。床に向けたLEDライトの反射が彼女の大きな瞳に飛び込み、きらっと光る。


《やっぱり、かわいい…》

衛の胸の中に、再び熱い衝動が広がった。脱線した真っ暗な地下鉄車内という、異常な状況で始まる…恋。そんな勝手な思いが衛の中に湧き上がる。なんだか本当にハリウッドのパニック映画みたいじゃないか。せめて名前を聞こうと衛が口を開こうとした時、彼女は

「さあ、わたしたちも早く脱出しましょう!」

促した。その言葉に衛は、はっとして現実に引き戻された。

《そうだった。おれたちも被災者なんだよな…》


 右に傾いて床にガラスの破片が散乱する先頭車両を通り抜け、車両正面のドアに備え付けられた避難用はしごから線路に降りる時、衛は前に出て、彼女に手を差しのべた。衛の手に乗せられた彼女の手のひらは、もう汗ばんではいなかった。でも、その手は彼女の見かけから想像するよりもずっと厚みがあり、暖かな量感を伴って、衛の手をしっかりと握り返してきた。


 駅員の誘導で暗い階段を上って地上に出ると、朝の街中は人々が右往左往し、異様な空気に包まれていた。停電で信号が消え、渋滞した大通りの車列は全く動いていない。サイレンの音があちこちから響いている。それほど遠くない場所で、黒い煙の筋が何本か立ち上っている。この辺りはビル街なのでひどく損傷したり倒壊している建物は見当たらないが、窓ガラスが割れ落ちているビルは思いのほか多かった。


 つい今しがたの騒ぎは地下鉄の中だけの出来事ではなく、かなり大きな地震が発生して、広い範囲で被害が出ているのだということを説明するかのような光景を見て、衛はまたもや映画を演じ続けているような気分になる。まるで深夜の暗がりから騒乱の朝のシーンへ、いきなり場面転換したかのようだ。あまりに非日常的な光景をそのまま現実として受け入れるを、思考のどこかが拒否している。できることなら、この辺でカットの声がかかって欲しい。


それでも衛は少し芝居がかって、もうかなり高く上った朝日に手のひらをかざした。そして眩しさに顔をしかめて空を見上げたまま、彼女に聞いた。

「これから、どうしますか?」

「そうですね…とりあえず、会社に向かってみます」

衛もそのつもりだったので、次に彼女の勤め先の場所を聞いてみて、落胆した。同じ電車に乗っていたのだからこの先一緒に行けるかと思っていたが、その駅からは、衛の会社とは別方向だったのだ。このまま別れたら、もう二度と会えないかもしれない。


その時、ふたりが同時に、同じ言葉を口にした。

「あの…」

彼女ははっとして、すぐにクスっと笑うと、言った。

「そちらからどうぞ」

「…じゃあ…あの…お名前を教えてください」

彼女の顔に微笑みが広がる。

「わたしも同じ事を聞こうと思っていました」

彼女の微笑みが、刺々しく張り詰めた冷たい街の空気をそこだけ暖かい陽だまりに変えたように、衛には思えた。


「わたしは、ミサキレイナといいます」

うわ、アイドルみたいな名前。

「おれ…いや僕は、岩城衛です。岩に城に、衛は人工衛星の衛」

「素敵なお名前ですね」

「いや、ありふれてますけど・・・」

反射的にそうは言ったものの、普段ならば唯の社交辞令でしかないそんな言葉も、衛の目をまっすぐに見つめる彼女の口から出ると、どんな褒め言葉よりも衛の胸を熱くしていた。


 彼女は、大きめの黒いハンドバッグから濃いグリーンの名刺入れを取り出して、一枚を抜き出すと衛に渡した。衛も慌てて自分の名刺を出し、彼女に渡す。

「あ、それから」

彼女はそう言いながらハンドバッグから黄色い紙箱を取り出すと、それを開けてアルミパックをひとつ、衛に渡した。高カロリーのエネルギーバーだった。

「お礼と言ってはこんなもので申し訳ないですけど、今日は役に立つと思うので」

「あ、ありがとうございます」

衛は受け取りながら、彼女のハンドバッグからそんなものが出てきたことに、心底驚いていた。


「それでは、行きますね。岩城さんも、気をつけて行ってくださいね」

衛は慌てた。これが映画なら、このまま別れる場面では無い。衛は大きく息を吸ってから、言った。

「あの…落ち着いたら…連絡させてもらってもいいですか?」

彼女は一瞬目を伏せたあと、衛を見た。華やかな微笑みが広がる。

「ええ。では名刺の携帯番号にお願いします」

「か、かならず連絡します」

「はい。お待ちしてますね。では、本当に岩城さんも気をつけて」

「ありがとう。ミサキさんも、気をつけて」


するともう一度、彼女の大きな目が、衛をまっすぐに見つめた。稟とした強さの中に、少女のような可憐さも感じさせる瞳だ。明るい場所で見る彼女の顔は暗がりで見るよりずっとかわいらしいと、衛は思った。ただ、最初に思ったより少しだけ、歳が上のようだけど。


 彼女は白い歯を少しだけ見せて微笑みながら頭を下げると、すっと踵を返して歩き出した。その後ろ姿を、衛は呆けたように見つめている。背筋をきれいに伸ばして、ベージュのコートのうしろ姿が、朝日に照らされて遠ざかって行く。カールした長い栗色の髪が、背中で揺れている。すると彼女はビルの角を曲がる前に足を止め、こちらを振り返った。そして佇む衛の姿を認めると、軽く頭を下げた。そしてそのまま数秒の間こちらを見つめたあと、ふわりと角の向こうへ消えた。


衛は、彼女が消えた曲がり角をしばらく見つめていた。そしてふと我に返ると、左手に持ったままの彼女の名刺に目を落とす。そして彼女の名前をゆっくりと一文字ずつ、記憶に刻み込むように、声に出してみる。

「三・崎・玲・奈…さんか…」


 彼女が消えた曲がり角から救急車が現われ、渋滞の車をかき分けるように、けたたましいサイレンが近づいて来た。もしこれが本当に映画だったとしても、ふたりの始まりのシーンとしては、それほど悪くないんじゃないか。そう思いながら、目の前で停まった救急車から救急隊員が飛び降りて来るのをぼんやりと見ていた衛の頭の中で、今度は想像の映画監督の声が響いた。


《カット!OK!》



【4】

 千葉県北西部を震源としたマグニチュード6.8の地震は、東京都内にも小さくない被害をもたらしていた。揺れの大きかった場所では最大震度6弱に達し、古い建物の倒壊や交通機関への被害によって犠牲者も何人か出ていた。しかし大規模な火災やインフラへの重大なダメージはほとんど無く、地震から数日が経つと、街は急速に落ち着きを取り戻して行った。


 衛はあれから、どのタイミングで三崎麗奈に連絡をしようかと、そればかりを考えていた。早すぎてもなんだかがっついているようだし、遅すぎてあまり興味が無いとも思われたくない。結局、地震の次の週の木曜日、昼休み中に電話をすることにした。名刺に書いてある番号だから、きっと仕事用の携帯だろうし。


穏やかに晴れた木曜日、衛は外回りの途中で早めに昼食を済ませ、ビルの谷間にある小さな公園のベンチに陣取った。時間は、12時45分。普通なら、彼女もそろそろ昼食を済ませている頃合いだ。衛は名刺入れから彼女の名刺を抜き出し、ひとつ大きく深呼吸してから、携帯のボタンをプッシュした。心臓の鼓動が、少し早くなる。


二回コールしたあと、繋がった。

《はい、MCコーポレーション総務課、三崎でございます》

やっぱり仕事モードだ。取り澄ましてはいるが、確かに良く通る、あの声だ。

「あの…先日お目にかかった、岩城です。今、大丈夫ですか?」

《あ…あの…ちょっとお待ちいただいてよろしいでしょうか?》


仕事中だったのか、周りにだれかいるのか、なんだか少し慌てた様子だ。声が少し素に戻っている。衛は彼女があたふたしている様子を想像した。かわいらしい人だ…。

「すいません。お忙しければ、またあとでかけ直します」

《…申し訳ございません。後ほどこちらから折り返させていただきます。お電話番号頂戴できますでしょうか?》

彼女の声はすぐに仕事モードに戻った。衛は自分の携帯の番号と、返信の時間はいつでも大丈夫だと伝える。

《…承知いたしました。申し訳ございません》

「いえ、お忙しいところすいませんでした」

《いえ、大変失礼いたしました。では後ほど…あの…》

「はい?」

彼女は、少し声をひそめるようにして、言った。

《…お電話、ありがとうございます》


衛はその声に、あの朝地下鉄駅で別れる時の、彼女の笑顔を思い出した。身体全体がじーんと熱くなる。でも声が上ずらないように、意識して低い声で答える。

「いえ、こちらこそ。では、お待ちしています」

《はい、失礼いたします》

電話を切った衛は、木立越しの冬の太陽を見上げて、大きくひとつ息を吐いた。そして思わず頬が緩んでしまうのを自覚しながら、呟いた。

「これって…脈アリだよな…」


 その日の午後7時過ぎ、西新宿のオフィスに戻っていた衛の携帯電話が震えた。彼女の番号からの着信であることを確かめた衛は、すぐに席を立って人気の無い応接ブースに向かって歩きながら、少し大袈裟な声で応える。

「あ、どうも、岩城です。いつもお世話になっております!」

静かな時間帯に馴染みの顧客から電話がかかって来た時には、よくある行動。ごく自然に決まったはずだ。こんな電話をうわさ好きの女子社員に感づかれると、ろくなことが無い。


衛はパーティションで仕切られた応接ブースのひとつに入り、声のトーンを落として、それでも思い切り意識した低い声を作った。

「お待ちしてました、ありがとうございます。こちらは大丈夫です」

《まだお仕事中ですよね。ごめんなさい》

彼女はもう会社を出たようだ。声の後ろに、街の喧騒が聞こえる。

「いえ、大丈夫ですよ。もうすぐ上がりますし」

本当は、まだ当分帰れそうにも無いが。

《あの時は、本当にありがとうございました》

「いえ…なんだかバタバタしてしまって…」

《岩城さんに最後までお手伝いしていただいて、本当に心強かったんですよ》

少し強張ってた頬が緩む。

「そう言っていただけると…」

《あの後、大丈夫でしたか?》

「ええ。会社の中が少しやられましたけど、大した事も無くて。そう言えば、いただいたあれ、昼メシにいただきました。助かりました」


 実際、あの地震の日はどこも店を閉めていて、弁当を持ってきている女子社員以外は、衛を除いて誰も昼食にありつけなかったのだ。

《お役に立ててよかった》

そう嬉しそうに言う彼女の笑顔が、衛の頭の中いっぱいに広がった。そろそろ、頃合か。あまりのんびり話してもいられない。衛は目をつぶって鼻から息をひとつ吸い込むと、切り出した。


「…あの…一度ゆっくりお話できたら…なんて思ってます」

ほんの少し、間が空いた。心臓がひとつ、どくんと大きく打つ。

「はい、喜んで…ってなんだか居酒屋みたいですね」

自分の言葉に突っ込みを入れてクスクス笑う彼女につられて、衛も声を上げて笑いそうになるが、それを慌てて呑み込みながら、調子を合わせる。

「では、そんな流れで」

「そうですね」

彼女の笑顔が、目に見えるようだ。ああ、12月なのにやたらと早い春が来たかも。


 その後さらに声を潜めながら話し、明後日、土曜日の夕方に彼女と食事をすることに落ち着いた。展開が早い。こういう時は、きっと上手く行く。電話を切った衛は、小躍りしたいような気持ちをぐっと堪えて自分の席に戻ろうとすると、三期上の先輩がパソコンに目を向けたまま、仏頂面で声をかけて来た。

「岩城」

「はい?」

「女か」

しまった、ばれたか。とりあえず、誤魔化す。

「いえ…得意先と食事を…」

聞く耳を持たずに、先輩は続ける。

「ほどほどにしとけよ」

衛は、無理に半笑いになって言った。

「…決め付けてるし」

やり取りはそれで途切れたが、衛はあまり風采の上がらない先輩に向かって、心の中で毒づいた。

《うるせえっての。そっちこそ早く嫁もらえって》

なんだか、強気だ。


【5】

 その週末の土曜日。衛は、少し早めに待ち合わせ場所の渋谷駅前に着いた。穏やかに晴れた、12月としては暖かい一日が暮れようとしている。駅前広場に鎮座している緑色の電車は先週の地震でどこか損傷したらしく、白いシートで覆われて少し角ばった巨大な繭のようになっている。デパートが入った駅ビルも外壁が何箇所か剥げ落ちたようで、足場が組まれて補修工事が行われている。ニュースによると、あの日ここで何人かけが人が出たらしい。


それでも渋谷の街は、いつもの土曜日とそれほど変わらない喧騒に溢れていた。衛はシートに覆われた電車の前にスペースを見つけると、行き交う人波の中に玲奈の姿を探した。今また大きな地震が来たらどうなるんだろうと、ぼんやり考えながらふと腕時計に目を落とすと、ちょうど午後5時25分になるところだった。


あと5分、と思った瞬間、全く意識していなかった左後ろから声をかけられた。

「岩城さん!」

衛は不意を突かれて、びくっと肩をすくめて小さく飛び上がった。慌てて振り返ると、玲奈の華やかな笑顔が衛を見上げていた。最初はシブく決めようと思っていたのに、なんだかひょっとこ踊りみたいな姿を晒してしまった。

「や、やあ…」

「もういらしてたんですね。すいません、お待たせしてしまって」

「いや、今来たところで…」

あまりにも陳腐な台詞しか出て来なくて、衛は自分ながらがっかりする。


 今日の玲奈は、ベージュを基調にした少しフレアのかかったワンピースに黒革のハーフコートを羽織り、首の周りには柿色のスカーフをマフラーのようにゆったりと巻いている。意外に渋めのコーディネートだ。化粧も平日よりは控え目で、もっと女性的な、なんというか派手な服装を想像していた衛には意外とも言えるスタイルだった。でも、衛はコーヒーブラウンのジャケットとベージュのチノパン姿にグリーンのモッズコートを羽織っていたから、ふたりのバランスは悪く無い。


衛は、いきなりどうかなと思いながらも、先程のみっともなさを帳消しにしようという考えもあって、思ったことをそのまま言葉にした。

「三崎さん、すごくきれいです。最高です」

玲奈は、はっとしたように大きな目を見開いて衛を見つめると、その頬にみるみる赤みが差した。

「え、あ、そんな…褒めすぎです…」

「本心ですって」

「あ…ありがとうございます…」

玲奈は頬を赤らめたまま、恥ずかしそうにうつむいた。


あの地下鉄の中で見せた鋭さからは想像もつかないような、なんだか小動物を思わせるような可憐な反応に、衛はできることなら今ここで玲奈を抱きしめたい衝動に駆られる。でもその気持ちをかなり苦労して抑えながら、言った。

「じゃあ、行きましょうか。お店、予約してあります」

「はい」

ふたりで肩を並べて歩き出しながら、衛は一昨日の電話で食事の約束をした後、玲奈が食べられないものが無いかをひそひそ声で確かめた時の事を思い出した。そう言えばあの時、誰か応接ブースの外を通ったような気がする。あれを先輩に聞かれたか。あの会話は、どう考えても得意先が相手ではないよな。まあ、いいか…。


混雑する駅前のスクランブル交差点を渡りながら、衛は左側を歩く玲奈に聞いた。

「でも、本当に居酒屋で良かったのかな?ちょっとおしゃれめな所にしたけど」

すると玲奈は首をひねって衛を見上げながら、にっこりと微笑みながら言った。

「はい、喜んで」

「あ、また出た」

ふたりは声を上げて笑いながら、夕暮れの雑踏に紛れて行った。



 その日から、衛と玲奈はお互いの都合がつく週末はいつも、衛自慢の大型四駆車で日帰りのドライブに行ったり映画や芝居を観に行ったりと、あちこち連れ立って出かけるようになった。お互い結構趣味が合うし、衛は玲奈と一緒にいる時間がなにより楽しかった。衛の誘いにいつも乗ってくれる玲奈も、多分そうなのだろう。衛は会うたびに玲奈にのめりこんで行ったが、しかしそこから先へは、なかなか進めなかった。


一度などは“今夜こそ”と思って食事に誘い、そのまま六本木のバーに流れたのはいいが、衛の方が酔いつぶれてしまい、玲奈に朝まで介抱されるという大失態を演じてしまったこともある。それでも玲奈は別れ際、落ち込む衛に向かって笑顔で、

「今度は、どこへ行こうか」

と言ってくれたのが、衛にとって唯一の救いだったのだが。


 年が明け、春めいた日が目立って多くなる頃には、年末に起きた地震のことはたまに関連のニュースを聞くくらいで、もうほとんど誰の口の端にも上らなくなっていた。そしてその頃には、ふたりはようやく、お互いを名前で呼び合うようになっていた。


玲奈が衛の想いを受け容れた日、玲奈はぽつりと呟いた。

「衛が地下鉄の中で『大丈夫、おれがついてる』って言ってくれた時から、たぶんこうなる、って思ってた…」


【6】

 4月も半ばのある夕方。西新宿に建つ高層ビルの45階にあるオフィスで、衛は営業日報をまとめていた。昨日から上司が出張中のせいで、オフィスにはなんとなく緩んだ空気が漂っている。

《…ったく、あの”鬼軍曹”め、二度と帰ってこなけりゃいいのに…》

何かとウマの合わない上司に向かって、衛はパソコンのキーをたたきながら、心の中で毒づいた。


 こんな日は、さっさと帰るに限る。実はつい先ほど玲奈にメールをしたら、玲奈も今日なら早上がりできるという。鬼の居ぬ間になんとやらで、今日は玲奈と近場で一杯やるつもりだ。玲奈が衛よりはるかに酒に強いことは、あの六本木での大失態以来良くわかっていたので、あくまで“軽く”だ。もっとも、もう玲奈を無理に酔わせる必要も無いのだけど。


ふと窓の外を見ると、暮れかけた西の空に、見事な春の夕焼けが広がっている。高層ビルで仕事をしているとすぐに見慣れてしまうが、都会の真ん中でこんな大パノラマを普通に見られるのは、実は贅沢なことなのかもしれない。


 日報を書き終えた衛は、グループウェアで上司宛に送信した。さあ、“鬼軍曹”から電話など来ないうちに、脱出だ。パソコンをシャットダウンしてデスクの上を片付けていると、向かいの席から、もうすっかり帰り支度を済ませた、一期下の秋江が声をかけてきた。

「岩城さん、今日はこれからデートですか?」

衛はどきりとしながら、無理に平静を装って聞く。

「なんでそう思う?」

「明らかに顔がニヤけてます」

しまった、顔に出ていたか。照れ隠しに言い返す。

「そういう指摘をする女は、彼氏ができないぞ」

秋江は笑いながら応える。

「それセクハラですね。それに、間に合ってますし」

「そういう秋江ちゃんも今日はデートと見た」

「どうしてですか?」

「幸せな人は、その幸せを近くの人と共有したくなるものだ」

秋江は一瞬思案顔になってから、聞き返した。

「それ、誰かの言葉ですか?」

「今考えた」

「なーんだ。でも岩城さん幸せなんですね…岩城さんの彼女って、きっとしっかりした人なんだろうな」

「なんでよ」

「相対性理論です」

「なるほど…っておい…」

一瞬納得しかけた衛が言い返す間もなく、秋江は

「お先に失礼しまーす」

と言い放って席を立つと、小走りにオフィスのドアへ向かって行った。


その後姿を見送りながら、何か釈然としない思いで衛も席を立ち、椅子にかけてあったジャケットを羽織った、その時。


ズボンのポケットに入れた携帯電話から、あの耳障りな警報音が飛び出すのとほとんど同時に、はるか下の地面から伝わって来る、小さな突き上げを感じた。

「あ、地震だ…」

ビリビリと震えるような細かい突き上げはその後も次々にやって来たが、デスクの上の液晶モニターをガタガタと振るわせる程度で、大したことはなさそうだ。それでもエレベーターホールにいた秋江が、

「地震です地震です!」

と大袈裟に騒ぎながら、オフィスに駆け戻って来た。


 数人残っていた他の課員は、椅子から腰を半分を浮かせて様子を見ているか、全く無視して平然としているかだった。もしでかいのが来ても、この55階建ての高層ビルが崩れることなんてあり得ないから、特になにもしなくても大丈夫だ。皆がそう信じ込んでいた。

「落ち着けって。大したこと無いって」

そう秋江に声をかけた衛も、この地震でお気に入りの店が閉まったりしたら困るな、などと突っ立ったまま呑気に考えていた。


震えるような揺れは数秒で収まったが、すぐにふわふわとした横揺れが始まった。それはまるで大型船に乗って少し高い波に揺られているような、ゆっくりとしたつかみ所のない揺れだった。

秋江は立ったままデスクに両手をついて、

「やだ…酔いそう…」

と、早くも顔が青くなっている。


 揺れ始めてから20秒ほど経ったろうか。衛は、秋江に多少は“しっかりした”所を見せてやるという考えもあって、落ち着いて声をかけようとした。

こんな時でも、おれは慌ててないぞ。しかし衛が秋江の「あ」の形に口を開いたその瞬間、それまでつかみ所のなかったふわふわとした揺れが、突然意思を持ったかのように、一気に振幅と速度を増し始めた。衛の声は、そのまま

「あっ、あっ、ああーーーーっ」

という叫び声に変わった。


足元の床が、逃げて行く。足をすくわれたようになってバランスを崩すと、次の瞬間、反対方向にぐぐっと押し戻される。そんな揺れというより”動き”がどんどん激しくなる。ぐらぐらという揺れではない。床が、あり得ないスピードで左右に動き出したのだ。


椅子から半分腰を浮かせていた課員が、床に転げ落ちる。キャスターつきのコピー機が通路に飛び出して動き回り、しまいには横倒しになって転写台のガラスが砕け散った。派手な音が響く。


10台が島になって置かれているデスク全体が床の上を滑り出し、窓際の壁に激突したかと思うと、今度は反対側に滑ってパーティションや観葉植物の鉢をなぎ倒す。キャスターつきの椅子がデスクに跳ね飛ばされ、あちこちに飛び散るように滑っては転がる。とっさにデスクの下に潜り込んでいた課員は激しい動きでもみくちゃにされ、最後にはデスクの下からはじき出されて、床をごろごろと転げ回った。壁際のスチールキャビネットが、ついに大音響と共に倒れてガラス片とファイルを床にばら撒いた時、秋江の引き裂くような悲鳴が響き渡った。


 衛は立っていられず、窓際の壁に身を寄せて、四つんばいになって必死に揺れに耐えていた。ポケットの携帯に着信があったような気がしたが、それどころではない。このビル、本当に大丈夫なのか…?そう思った時、天井の化粧版にビシっとひびが入り、破片がばらばらと降り注いで来た。

「ヤバい…いや、きっと、なんとかなる…」

衛は自分に言い聞かせるように、無理に言葉を絞り出した。


揺れ始めから一分半ほどが過ぎても、最初の頃からは少し緩やかになったものの、まだ大波に翻弄されるような大きな揺れが続いていた。もうデスクが動き回るほどではなくなって来たので、衛はなんとか立ち上がろうとした。しかし長い時間振り回されていたせいで平衡感覚がおかしくなってしまっていて、デスクにしがみついて膝立ちするのがやっとだった。なおもゆっくりと大きく揺れ続けるオフィスの中が、奇妙にゆがんで見える。ビルの自家発電装置が作動したのか、こんな地震でも照明が消えていないことに、その時気づいた。


 衛はデスクを支えにして、やっと立ち上がった。オフィスの中は、つい先ほどまであった整然とした秩序が消え去り、子供がおもちゃを散らかしたような無秩序の空間に変わっている。腕時計を見ると、揺れ始めからとうに3分以上が過ぎていたが、しかしまだゆっくりと左右に揺れている。地震はもう収まったはずなのに、ビルの揺れだけが続いているのだ。しかし確実に、少しずつ揺れは小さくなって行った。

「みなさん、大丈夫ですかぁ?」

デスクに両手をついてなんとか立ち上がった衛が、オフィス内に声をかけた。声が少し震えているのが、自分でもわかる。


「ああ、大丈夫だ。凄かったな…」

「おれはちょっとやられたよ。大したこと無いが」

そう答えた課員は、血が流れる額をハンカチで押さえていた。白いワイシャツの肩の辺りが、真っ赤に染まっている。デスクの下からはじき出された課員は、床にうつ伏せになったまま呻いていた。

「あっ!」

衛は駆け寄ろうとしたが、まだ続く揺れと狂った平衡感覚で足がもつれ、デスクに手をつきながらよたよたと進んで行った。すると、倒れていた課員は少し頭を持ち上げながら、

「なんとか…大丈夫だ」

と苦しげに言った。

「あちこちぶつけたが…骨は折れていないだろう」

そう言いながらゆっくりと上体を起こし、壁に寄りかかって座った。

「でも、こいつをくらっていたら死んでいたな…」

すぐ隣には、重いファイルがぎっしり詰まったキャビネットが、ガラスの破片の中に転がっている。


そういえば秋江の姿が見えない。衛が見回すと、パーティションで仕切った応接スペースの中で、ソファの横にうずくまったままがたがたと震えていた。衛はよたよたと近づいて、

「大丈夫か?」

と声をかけながら抱き起こし、ソファに横にならせる。顔面は蒼白で言葉が出ないが、大きな怪我は無いようだ。


 ふと、衛は揺れている最中の着信を思い出し、ズボンのポケットから携帯を取り出した。

『不在着信 三崎玲奈』

液晶画面の表示に、衛は胸が熱くなった。あの揺れの最中に…。すぐにコールバックしてみるが、何度やっても繋がらない。考え直して留守番電話センターにかけると、こちらは繋がった。受信時刻を告げる合成音声の後、玲奈の叫ぶような声が飛び込んで来た。

《こちらは無事、エントランスに行く!終わり!》

声のバックには大勢が騒いでいるようなノイズが入っている。外からかけて来たらしい。…エントランスって、このビルのエントランスか。降りなきゃ…しかし普段から地震の避難にはエレベーターを使わないようにという通達が回っていたし、あの揺れでは多分、止まっているに違いない。でも、“終わり”ってなんだ…?でも玲奈が下に来るにしてもすぐにではないだろうし、正直なところ45階から階段を下りたくはなかった。ここでもう少し様子を見よう。秋江も見ててやらないと…。


 同じフロアにある他社のオフィスでは、重傷者が出たところもあるようだ。廊下で怒鳴り声が飛び交うのが聞こえる。今出て行ったら迷惑だよな…。衛は自分勝手な解釈をして、秋江が横になっているソファの横のスツールに腰を下した。大きくため息をつくと、天井のスピーカーから、緊張した男の声が流れ出た。

『こちらは、三友ビル防災センターです。ただいまの地震により、エレベーターはすべて運転を停止しております。非常階段をお使いください。なお、自家発電装置で給電中のため、現在エアコンの運転を停止しております…』


道理で、オフィスの中がだんだん蒸し暑くなって来た。こうなると、窓の開かない高層ビルは困り物だ。ソファに横になった秋江の顔からはすっかり血の気が失せ、冷や汗をかいて震えている。衛は床に散らばった空のファイルをひとつ拾い、それで秋江の胸元を扇いだ。

「…ありがとうございます…」

秋江は唇を僅かに動かして、ほとんど聞き取れないくらいの声で言った。


秋江は、それでもゆっくりとひとつ深呼吸すると、かすれる小声で言った。

「彼女のところ…行かなくていいんですか…?」

玲奈の無事はわかったけど、あまりのんびりしてもいられない。でも45階だしな…どうしよう。衛が黙っていると、秋江は続ける。

「行ってあげないと…きっとすごく怖かったはずだし…」

「う、うん…。そっちはどうなんだ?」

衛はそう聞着返してはみたものの、秋江はまだしばらく動けそうにもない。左手にはピンク色のスマホをしっかりと握り締めているが、電話もメールも不通のままだ。

「まだ、連絡つかないし…」

そう言いながら天井を見つめる秋江の目には、涙が滲んでいた。



 どれくらい時間が経ったろうか。衛は、階段を下りて行く決心ができないままでいた。窓の外は、もう真っ暗だ。見下ろすと、周辺は見渡す限り停電していて、地上には自家発電しているビルの僅かな明かりと、渋滞でほとんど動かない車のライトしか見えない。代々木の方向に、火災と思われる炎が揺らめいて見える。そんな地上から煌々と明かりが灯っている高層ビル群をを見上げたら、一体どんな風に思うのだろうか。


衛がぼんやりそう考えた時、廊下をこちらに向かって駆けてくる、ピタピタという妙な足音が聞こえて来た。そしてすぐに、開け放ってあるオフィスのガラス扉に人影が現れた。振り返ってその姿を見た衛は、ぽかんと口を開けたまま、固まった。ウソだろ、おい…


人影はオフィスの入口で、乱れる呼吸を無理に押し殺すようにして、それでも良く通る大きな声で言った。

「岩城衛さんは・・・こちらにいますか?」

玲奈だった。長い髪を振り乱し、肩で大きな息をしている。黒いパンツスーツにハンドバッグを無理にたすきがけにして、両手にハイヒールを持っている。


「玲奈!」

衛ははじかれたようにスツールから立ち上がり、玲奈に駆け寄った。衛の姿を姿をみとめて、玲奈の瞳が大きく見開かれる。衛はそのまま玲奈を抱き締めてしまいそうになったが、周りの目を気にしてなんとか思いとどまった。

「…階段、上ってきたのか…」

ストッキングの爪先が破れて、むき出しになった足の指先に少し血が滲んでいる。階段の途中で、何度も座り込んだのだろう。膝が灰色の埃で汚れている。


「ど…どうして…来てくれなかったんですか…待ってたのに…」

玲奈は肩で息をしながら、とがめるような目をして言った。衛の身を案じて45階まで階段を駆け上がって来た玲奈に、衛はどんな言い訳もできない。

「凄い地震で、何かあったんじゃないかと思って…心配で…」

「ゴメン…」

衛は、今にも泣き出しそうな玲奈に、それだけ言うのが精いっぱいだった。


ソファに横になったままの秋江は、開けたままのパーティションのドア越しに、ふたりの様子を横目で見ていた。そしてだいぶ気分が良くなって来たのも手伝って、クスっと笑いながら小さな声で呟いた。

「相対性理論は、今ここに証明された」

そして天井に顔を向けてもう一言、半ば呆れたように、ため息混じりで言った。

「でも、しっかり者じゃなくて、超人だったわ…」


【7】

 「ねえ、ちょっと不動産屋さんに寄っていかない?」

5月末の土曜日、郊外のイタリアンレストランで食事をしようと、ふたりは衛の車で出かけていた。店までもう少しというところになって、助手席の玲奈が突然、妙な事を言い出した。


夕方の渋滞を見越して時間に余裕を持って出てきたものの、思いのほか車の流れが良かったおかげで、席を予約した時間にはまだしばらく間がある。衛は運転しながら、ちらっと玲奈を見て聞き返す。

「不動産って…なんで?」

「この辺って、住むのにいいかな…って」

「住むって、誰が?」

玲奈は助手席から前を見たまま、ひとつ小さく息を吸ってから、続けた。

「そろそろ考えていいかな、なんて」


 衛は、慌てた。ボクシングの試合をしていたら、いきなり見えないところから繰り出された蹴りを顔面に喰らったようなものだ。完全に想定外だ。ハンドルを握る手に思わず力が入り、車が少しぐらぐらと蛇行する。あの地震の日に地下鉄車内で玲奈と出会ってから半年ほど経ち、ここまでとても順調な交際だとは思っていた。でも結婚とか一緒に住むとかは、正直なところまだ一度も考えたことも無い。とにかく何か言おうとして口を開いたものの、

「あ…あの…住むなら…いやその…」

しどろもどろだ。


玲奈は少しだけ衛の方に顔を向け、横目で軽くにらむような、それでいてちょっと寂しそうな顔をして、言った。

「そういうこと、考えたくない?」

「いや、だから、そうじゃなくて…」

しばらく沈黙が流れた。車のFMラジオから流れる男性DJの軽快なおしゃべりが、いきなり耳障りに感じる。この場面にふさわしいBGMがあるとすれば、あれだ。チゴイネルワイゼンの、第一楽章。


 衛がなんとか取り繕おうと口を開こうとしたとき、玲奈はいきなりけらけらと笑い始めた。

「…?」

あっけにとられる衛を尻目に、玲奈は言った。

「うそ、うそよ。ごめんね。実はね、会社の社宅代わりのアパートを探しているの。この辺なら新宿出るのに便利でしょ」

そういえば、玲奈の仕事は総務担当だった。


衛は大きく息を吐きながら言った。

「なあんだ…おどかすなよ…」

「おどかす?そんなに想定外だったのかなぁ?」

「あーもう、だからそうじゃなくて!」

「でもあの慌てぶり、覚えておこっと」

「いじめるなよお…だって心の準備ってものが…」

「それはどちらかというと、女のセリフね」

「うっ…」

完敗だ。



 「あそこ、行ってみようか」

衛の狼狽を尻目に、玲奈が指差す先に大手不動産会社の派手な店舗が見えた。広い駐車場に車を停める。二人で肩を並べて自動ドアをくぐると、揃いの派手な黄色いジャケットを着た数人の店員が、すっと起立して丁寧に頭を下げた。


応対に出た40歳くらいの、髪を七三にきっちりと分けた男は、ふたりをもうすっかり新居を探しているカップルだと決めてかかっているようで、やたらと愛想がいい。こういう客は女を乗せるに限る、そう思っているかのように、まず玲奈に丁寧な仕草で椅子を勧めた。


「どんなお部屋をお探しですか?」

男は二人を見比べながら、満面の笑顔で聞いてくる。お若いカップル向け、新婚さん向け、マンションから一戸建てまで、いろいろ取り揃えておりますよ。

「えーと、この近くで、ワンルームか単身者向けのアパートなんですけど」

玲奈が言うと、一瞬、カウンター越しに微妙な空気が流れた。


「…おふたりのためのお部屋ではなくて?」

「ええ。社員寮代わりのお部屋を探しています」

「そうですか。わかりました」

そう言う男の顔からは、つい先ほどの満面の笑みが見事に消えて、事務的な笑顔になって椅子から立ち上がると、オフィスの奥から何冊かの物件ファイルを抱えて来た。


 男と向き合って立地、価格、契約諸条件などテキパキと確認していく、すっかり仕事モードの玲奈の隣で、完全に蚊帳の外に置かれた衛は実に居心地が悪い。いたたまれなくなってトイレにでも立とうと思った時、玲奈が突然聞いてきた。

「ねえ、あなたならどのお部屋がいい?」


「おれに聞くなよ」

不機嫌丸出しで答える。

「でも、住むのは男の子だから。男性の意見も聞きたいわ」

やっと少し居場所ができた。いや、玲奈が作ってくれたと言うべきか。

…そういえば、今“あなた”って言ったな…


 カウンターの上には、三冊のファイルが開かれていた。どれも間取りは同じような感じで、独身男性向けとしては甲乙つけ難い。ならば駅から近くて、コンビニが近くにあって、バストイレが別で、駐車場があって、当然、家賃も安い方がいい。あと足音とか気にしないでいいから一階がいいな。衛は自分が住むつもりになって考え、家賃が一番安い物件を選んだ。その他の条件も、悪くない。


「やっぱり、そうよね…」

玲奈は納得したような表情を浮かべると、晴れやかな笑顔で男に言った。

「週明けにまた連絡します。それだけじゃあれだから…」

玲奈はハンドバッグから名刺を取り出すと、カウンターの上に置いた。どうやら本気で契約を考えているようだ。きっとおれの選んだ部屋だな…二人はまた全員の礼に見送られながら店を出て、車に乗った。


 目的のレストランに向かいながら、衛は切り出した。

「おれの選んだ部屋、一番いいよな。安いし。あれで行くんだろ?」

「本当にそう思う?自分で住むならあそこでいい?」

「だって便利だし安いし、どこに問題がある?」

「残念でした。あの中で一番高いお部屋にしようかと思ってるのよ」

「なんでだよ。会社が儲かりすぎて税金対策かよ」

「バカ。今時そんなわけないじゃない」

「バカって言うな」

「じゃあ、考えが甘いわ」

「もっと悪い」

衛はかなりむっとしたが、まっすぐな道の先に、イタリア国旗の色に塗り分けられた看板が見えて来たので、話はそこで途切れた。


 ゆっくりと時間をかけてコース料理を楽しんだ後、二人は仕上げのエスプレッソをすすっていた。玲奈が切り出す。「ねえ、さっきの話、正解おしえてあげようか」

「部屋の話?」

「そう。あなたには知っておいて欲しいわ」

…あれ、また“あなた”だ…


「それではお説を拝聴いたしましょうかね」

「もう。茶化さないで。衛さんの選択は、一面では正解でした」

「じゃあどこが甘いのさ」

甘い、はバカよりずっと衛のプライドを傷つけていた。バカは地下鉄で出会った瞬間に言われて以来、何かにつけて言われていた。だからもう挨拶代わりみたいなもので…って、ひょっとしておれ、玲奈に飼い慣らされてきてないか?


構わずに玲奈は続けた。

「衛さんは、見えるところだけしか見ていませんでした」

「先生みたいな言い方するな」

「ごめん。つまり、大切なのは、見えない部分なのよ」

「というと?」

「衛が選んだのは、軽量鉄骨で1979年築の、古い建物なの」

「でも今っぽくリフォームしてあるようだし、いいじゃん」

「表向きはね。でも耐震補強はしてないわ」

「タイシンホキョウ?」

それから玲奈は10分ほどもかけて、建物の耐震性について説明した。どれも衛が知らない話ばかりだった。まとめると、こういうことだ。


1981年(昭和56年)に建築基準法が改正されて新しい耐震強度基準が適用となり、それ以後の建物は地震に対する強度が飛躍的に強くなった。1995年の阪神・淡路大震災では約10万棟の建物が全壊したが、1981年以降に建てられた新耐震基準建物は、そのうちたったの200棟、率にして0.2%に過ぎなかった。また、1981年以前の建物のうちでも、特に1971年(昭和46年)以前の建物に重大な被害が集中した。


建築基準法はさらに2000年(平成12年)に現行(2014年現在)の基準に改正され、耐震強度基準がより強化された。つまり2000年以降に造られた建物が、現在は地震に対して一番安心できる。


6434人が犠牲になった阪神・淡路大震災の犠牲者数を年齢別に見ると、基本的には年齢が上がるにつれて犠牲者数が増えるが、20~25歳の犠牲者数に不自然な突出が見られた。その後の調査で、その部分には仕事や学校に通うために神戸市内に住んでいた若者が多く含まれている事がわかった。


そのような若者は家賃が安く、耐震性が低い建物に住んでいることが多かったので、建物の倒壊に巻き込まれて犠牲が増えたのだという。このような事実があるので、住む家や部屋を選ぶ際は、家賃や利便性だけでなく、耐震性も十分に考えなければならない。


行政は1980年以前に建てられた、耐震強度が低い「既存不適格建物」の耐震補強を奨励しているが、東京都の場合は2012年現在で対象の約40%が未対策であり、南関東直下型地震や南海トラフ地震の発生が危惧されている今、防災上の大きな問題となっている。


そんなことを説明する玲奈の目は、あの地下鉄車内で見せた“毅然”モードに近いと、衛は思った。防災に対して、真剣なのだ。人の命に対して、と言っても良いだろう。衛は、惹き込まれるように聞き入っていた。


 一通り説明を終えると、玲奈は急に穏やかな表情になって言った。

「と、いうわけで、わたしが選んだのは一番新しい平成14年築の、二階のお部屋でした」

「なんで二階?」

「万が一倒壊するようなことがあったら、一階からが多いから。念のためね」

「そこまで考えてもらえる社員は幸せだな」

「その分しっかり働いてもらいます」

「おまえは社長か」

ふたりは声を上げて笑いあった。


会計を済ませて店を出るとき、衛が思い出したように言った。

「そういや、おれのとこは平成16年築だよ、安心安心」

「うん、知ってる」

「え、なんで?」

「衛のマンション行った時、エントランスに“定礎”ってあるでしょ、あれでチェック済みよ」

「さすが」

「部屋の中もしっかり対策済みだしね」

そういえば玲奈が二度目に部屋に来た時、いろいろ「耐震グッズ」を揃えて来ていて、半日かけて一緒にタンスとかに器具を取り付けたんだっけ。


 衛は玲奈の横顔を見ながら、頼りにしてますよ、というような表情で言った。

「玲奈のおかげですっかり安心だな。ありがとな」

すると玲奈は少しうつむいて、口ごもるように言った。

「…大切なあなたの事だから…」


しかし衛の反応が無いので顔を上げると、その言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、ひとりでさっさと店の前の駐車場に出て、あーっとか言って伸びをしている。


玲奈はそんな衛の背中を見つめながら、思った。

《本当にこの人でいいのかしら…》

そして思いの最後の一言だけは、小さく声に出して言った。

「バカ」


【8】

 少し蒸し暑さを感じる6月半ばの週末、衛と玲奈は仕事帰りに渋谷駅前で待ち合わせた。昨年末の地震で損傷した駅前広場に鎮座する緑色の電車はとうに修復されていて、衛は玲奈との初デートの時と同じ、運転席の前で玲奈を待っていた。


そしていつも通り、約束の時間のきっちり5分前に玲奈が現れた。これはどこでも毎回ブレない。ちょっと几帳面すぎないかとも思うけど、大抵は早目に待ち合わせ場所に来ている衛にすれば、安心できるのも確かだ。


 衛と玲奈は、駅近くで食事をしようと特に当てもなく良さそうな店を探しながら歩き出した。すると駅前のスクランブル交差点を渡り切った時、玲奈が突然言った。

「ねえ、今度の連休、海行かない?衛の車でさ」

今度の連休と言えば、7月第二週の三連休だ。


衛は《いきなりどうした?》と思ったものの、話を合わせた。

「ん、いいねぇ。でもちょっと気がはやくね?ツユも明けてないだろ」

「うん。でもあまり混まないうちがいいかなって。それにね、あまり日焼けしたくないし…」

ここで歳の話に振ると、玲奈は一気に機嫌が悪くなるのを、衛は今までの経験から学習している。


 実は付き合い始めてしばらくしてから知ったのだが、玲奈は衛よりひとつ年上だ。見た目の印象から二十代後半と決めてかかり、自分から玲奈に歳を聞いたことは無かった。でも、ふたりの共通の話題のひとつでもある車の話になった時に、玲奈がどんな免許を持っているかを知りたくて、免許証を見せてもらったのだ。


ためらいがちに差し出された玲奈の免許証を見て、衛は四回も驚かされた。まず、写真。五年近く前の、今よりずっと髪が短かい玲奈の写真は、どう見ても女子大生かと思いたくなるような可憐さだった。


そして、年齢。生年月日を見て、衛はしばらく意味が理解できなかった。自分のひとつ上、31歳?ウソだろ・・・。衛は口をポカンと開けて、免許証と玲奈の顔を何度も見比べてしまった。それは玲奈が実年齢よりずっと若く見えることに対する感嘆からが大半だったものの、玲奈にはその態度がいたく気に障ったらしく、その後しばらく機嫌を損ねていたのだ。


そのゴタゴタのせいでその場では話が及ばなかったが、玲奈が持っている免許の種類に、衛はあと二回まとめて驚かされていた。まず10トントラックとかも乗れてしまう『大型』に加えて、ハーレーダヴィッドソンでも乗れる『大型自動二輪』まで持っている。


自称"車好き”の衛はちょっと嫉妬する気持ちもあって、その後自分からその話題に振ることは無かった。でも、玲奈が過去にどんな暮らしをして来たのか、いつも心の隅にひっかかってはいた。まさか玲奈がトラックドライバーだったわけじゃないだろうし、バイクに乗り始める女性は、結構“彼氏”の影響だったりするし・・・。


 そんな経緯もあって、衛はその後年齢の話は意識して避けて来た。だから今も少しドキドキしながら、そ知らぬ顔で続けた。

「そうだなあ…じゃあ…新潟とかどうよ?」

玲奈はちょっと考え込んだあと、言った。

「ねえ、静岡に来な…行かない?」

そう言えば、玲奈の家は今は東京郊外に引っ越して来ているが、元は静岡の出身だ。でも日頃から東海地震とか気にしている玲奈にしては珍しい提案だと思って、そこは敢えてストレートに聞き返した。

「地震大嫌いの玲奈にしては、珍しいじゃん」

「地元への愛は、地震なんかに負けなくてよ。すごくいい所があるの」

「玲奈がそう言うなら、お邪魔しますか」

「衛も気に入ってくれると思うよ」

そう言いながら目を輝かせて衛を見上げる玲奈の表情に、衛は胸がキュンとする。


《こいつ本当にこれで三十路過ぎかぁ》と、例によって絶対に口には出せない言葉を呑み込みながら、あの日、地下鉄の車内で二人を出会わせてくれた“地震の神様”に、ちょっと感謝したくなった。そんな神様が本当いるのならだが。


 「ここにしようか」

衛が見つけたのは、宇田川町のシーフードレストランだった。公園通り沿いから白い螺旋階段を上がった二階部分の店はほとんどガラス貼りで、そこそこ客が入っている店内が見える。悪く無さそうだ。衛が玲奈の返事を待たずに、螺旋階段を上がろうとして振り返ると、玲奈は歩道から店を見上げたまま、立ち止まっていた。


 玲奈は時々、不思議なオーラのようなものを突然発するときがある。今がそれだ。そのオーラを一言で表現するなら、“毅然”が最も相応しい。あの地下鉄の中の混乱をほんの数語で鎮めた時の迫力が、黙っていても全身から放射されているようだ。口元に少しだけ笑みが浮かんでいるものの、ちょっと声を掛けずらいような雰囲気が漲っている。衛は螺旋階段の一段目に足をかけたままの格好で、そんな玲奈を見つめていた。


数秒後、玲奈の表情がほころんだと同時に、玲奈が発していたちょっと硬質のオーラは、街のざわめきに溶け込むかのように、ふっと消え去った。

「ええ、ここにしましょう!」

玲奈は衛に小走りに駆けよると、衛の左腕に自分の右腕を絡めた。衛は左の二の腕に、玲奈の胸の豊かさを感じる。ふたりは腕を組んで螺旋階段を上って行った。


 ブラックアウトされたガラスの自動ドアから店に入ると、黒服のギャルソンがふたりを恭しく迎えた。そして二人を従えて店内を進み、

「こちらのお席はいかがでしょうか」

と、一番奥まった窓際の席を勧めたことに、衛は満足した。正解だ。賑わう通りを見下ろす窓からの眺めも良く、他の客の出入にも煩わされない。ゆっくりと食事ができそうだ。


ギャルソンが玲奈のために椅子を引こうとすると、玲奈が突然言った。

「ごめんなさい、あのお席にしていただいていいかしら?」

玲奈が左手を上げて示したのは、窓から離れた奥の通路沿いの席だった。窓際より静かで落ち着くかもしれないが、ちょっと味気ない気がしないでもない。でも衛が言葉を挟む間もなく、玲奈は衛の組んだ腕を引っ張るようにして奥の席へ向かった。


 食前酒に白ワインを飲みながら、衛は玲奈に聞いた。

「なんでこの席にしたの?窓際は嫌?」

「なんでかなー」

「窓際を避けるのは、狙撃を恐れているから?」

「バカ。ゴ●ゴ13じゃないんだから」

「気になるなぁ」

「ね、それよりワインもう一杯いただいていいかしら?

「おう、のめのめ」

なんだかうまく誤魔化されたようだけど、まあこの席も静かで、それほど悪くは無い。トイレに行きやすいし。


 衛がギャルソンを呼ぼうと右手を上げた時、ズボンのポケットに入れた携帯が震えたような気がした。その次の瞬間、突然ドシンという突き上げるような震動と共に、テーブルの上のグラスが少し飛びあがった。衛は一瞬、一階で何か爆発でもしたのかと思ったが、すぐにドン、ドン、ドンと激しい突き上げが続いて来た。衛は右手を顔の横に上げて口をぽかんとあけたまま、状況を全く理解できずに、固まった。


そのまま、目の前の玲奈が素早く左右と天井に視線を走らせながら一動作ですっと椅子から腰を外し、流れるような動きで床のカーペットに片膝をつくのを呆けたように見つめていた。膝丈のフレアスカートの裾が乱れるのも、全く意に介していない。


そこでやっと、衛は理解した。地震だ。しかも、でかい。衛は

「逃げよう!」

と叫ぶと、椅子から立ち上がろうとした。するといつのまにか衛の右横に移動していた玲奈は、衛の耳元で

「動かないでっ!」

と鋭く言い、衛を椅子から引きずりおろすと、衛の身体を頭からテーブルの下に押し込んだ。自分もテーブルの下にもぐりこむ。その素早さと迫力は、あの時地下鉄の中で見せた姿そのままだ。


 一瞬の静寂のあと、いきなり激しい横揺れが襲ってきた。横揺れというより、たてと横が混じりあった、沸騰するウォーターベッドの上に乗っているとでも表現したくなるような、無茶な揺れだった。食器が砕け散る派手な音が厨房から響いた時、照明がふっと、消えた。いきなり頭から暗幕をかぶせられたような闇に覆われ、何も見えなくなる。


その時、女の引き裂くような悲鳴が暗闇に響き渡った。まるでそれが合図だったかのように、七分ほどの入りだった客の大半は激しい揺れの中で席を立ち、非常口の表示灯だけが緑色に光る出口へと、狭い通路に殺到する。しかしその多くが揺れに足を取られて転び、そこへ後から来た客がつまづき、折り重なった。暗闇に怒号と苦痛の呻きが交錯した。


【9】

 激しく揺れる暗闇の中、最初にレストランのエントランスへたどりついた男が、停電で開かない自動ドアに手をかけて力ずくで半分ほど引き開けると、身体をねじ込むようにして通り抜けた。そのまま続く何人かは通り抜けられたが、一人が転ぶと次々に折り重なり、真っ暗なドアの前で文字通り黒山になった。背中を踏みつけられた女が、絶叫する。


ドアを出られた客は表の螺旋階段を下りようとしたが、激しい揺れで手すりにしがみついていることしかできない。そこへ後ろから駆け下りようとした数人の客がつまづき、悲鳴と共に階段を転げ落ちて、大理石貼りの床に叩きつけられた。どすっという鈍い音が続けざまに響く。


 衛と玲奈は、テーブルの下で必死に耐えていた。正確には、恐怖で身動きができない衛の頭を玲奈がしっかりと胸に抱いて、脱出のタイミングをはかっていた。衛は頬に玲奈の胸の柔らかさと重量感を感じながら

「玲奈ぁ…助けてくれ…」

と搾り出すように繰り返していた。身体が、全く動かない。と言うより、恐怖に混乱した頭が、身体を動かす指令を出すことを完全に放棄していた。

「玲奈ぁぁ…」


 頭上で狂ったように跳ね回っていた豪奢なシャンデリアの鎖がついに切れ、二人のテーブルの上に落ちて派手な音を立てて砕け散った。さすがの玲奈もそのはじけるような大音響に全身をビクっと固くしたが、すぐに

「大丈夫!、もう少し、もう少し待って!」

と、自分に言い聞かせるように声を絞り出した。息が荒い。壁にかけられた大きなリトグラフの額が吹っ飛び、観葉植物の鉢が床を転げ周る。


揺れ始めから三十秒くらい経ったのだろうか。狂ったような揺れが少しずつ収まって来るのを、二人は感じた。衛はやっと少しだけ我に返り、一刻も早くここから逃げ出さなければと思った。玲奈から身体を離そうとすると、しかし玲奈は衛の頭をさらに強く抱き寄せながら、叫ぶように言った。

「バカっ!まだ、まだよっ!」


 やがて揺れは潮が引くように小さくなって行き、完全に収まった。辺りに静寂が戻る。玲奈は肩にかけていたハンドバッグから小型のLEDライトを取り出し、点灯した。あの地下鉄の中で放たれたのと同じ、白く強い光の束が辺りを走る。衛はその光がなんだか懐かしくさえ感じたが、店の中はあの時の車内どころでは無い。あちこちで人が倒れ、椅子やテーブルが散乱しているのが見える。その様子を見た玲奈は一瞬迷ったようだったが、

「とにかく一旦出ましょう」

と言い、ふたりはテーブルの下から這い出した。


すぐに自動ドアを目指そうとする衛の腕をつかんで、玲奈は

「こっちよ!」

と、店の奥へと衛を引っ張って行った。


 店の一番奥まった場所に来た時、衛はそこに非常口のサインが緑色に点灯しているのを見た。二人の席からは全く見えていなかった。衛は、その時初めて気付いた。玲奈は、席に座る前に奥の非常口の場所を確認していたのだ。そして大きな地震が来たら、店の出入り口と表の螺旋階段からの脱出は困難だと考えて、裏手の非常口に近い席をリクエストしたのだ。


この店に入る前に玲奈が立ち止まったのは、こんな時のために建物の造りを見て、脱出路を考えていたのだということにも気付いた。食事の内容を考えていたんじゃないんだ…

《玲奈…すげえよ…》

衛はライトで非常口ドアの周囲を照らしている玲奈の真剣な横顔を見ながら、心の中でつぶやいた。

 

すると玲奈は、非常口のドアノブにそっと、右手の甲で触れた。そして

「大丈夫ね、熱くない」

そう言うとドアノブを回して、装飾のために木製のラティスで覆われた鉄製のドアを開けた。一階へつながる非常階段は真っ暗だったが、煙や異臭は無い。ふたりはライトを持った玲奈を前にして、階段を下りて行った。


 店の外は、大混乱だった。ビルが大きく損傷するほどの被害は無いようだったが、袖看板やガラス片が路上に散らばり、あちこちで人が倒れている。螺旋階段から転げ落ちた客が、何人もうずくまって呻いている。周辺のビルから続々とあふれ出てくる人々が、車のライトの明かりだけの暗い路上で、右往左往している。あちこちから消防車や救急車のサイレンが聞こえて来るが、一体どこへ向かっているのかわからない。


衛は厳しい表情で周りを見回している玲奈に言った。

「は、早く逃げよう!」

すると玲奈はキッと衛を振り返って言い放った。

「バカ!負傷者救護が先!」

見ると、玲奈はもう、半透明のゴム手袋をはめている。血液感染防止用のラテックス手袋だ。それを見て、衛はひとこと、今度は声に出してつぶやいた。

「玲奈…すげえ…」


【10】

 玲奈は、白い大理石が張られたエントランスの床に叩きつけられて呻いている、数人の男女に駆け寄った。衛は足元がまだ覚束ず、少しよろめきながら後に続く。玲奈はまずLEDライトの白い光で全周と上の方を照らしながら、指をさして危険が無いかを確認して行った。幸いにして、余震で落ちてきそうなガラスや壁材などは見あたらない。


倒れているのは四人だった。うち三人は意識がはっきりしており、

「頭を打っていませんか?」

という玲奈の問いかけに、皆しっかりと頷いた。ひどい打撲か、どこか骨折しているかもしれないが、大きな出血も身体の変形も無いので、さし当たって生命の危険は無いと玲奈は判断した。問題は、うつぶせに倒れたまま苦しげに息をしている、40歳くらいに見えるスーツ姿の男だ。短く刈った髪の毛の中から流れ出る血が、白い大理石の上に濁った紫色の血だまりを作っている。頭を強く打っている可能性が高い。


 頭の皮膚のすぐ下には毛細血管が密集しているので、小さな怪我でも血がどっと出て慌てやすいが、普通なら止血もそれほど難しくはない。傷口をしばらく圧迫すれば、大抵は大丈夫だ。しかしこの男の出血は小さな傷のレベルをはるかに超えている。傷はかなり大きそうだ。


玲奈が男の脇にかがんで、肩口を叩きながら

「もしもし、わかりますか?」

と耳元で言っても、わずかに手足を動かして呻くだけだ。・・・意識レベル200。玲奈はつぶやくと、衛を振り返って

「衛、レジ袋と、ペーパーナプキンと、タオル・・・できれば手ぬぐいをできるだけたくさん探して来て!」

と鋭く言った。任せとけとばかりに駆け出そうとした衛だったが、ビルの中に戻ろうにも、停電で真っ暗闇だということに気づいた。思わず

「無理だよそんなの・・・」

と泣き言が出る。


すると玲奈は、自分のハンドバッグから何かを掴み出した。

「これ、使って」

と手渡されたものを見て、衛は驚いた。なんと、二本目のLEDライトだった。少し小振りなものだったが、点灯すると10メートルくらい先まで見通せて、これなら暗闇のビル内でもなんとかなる。その白い明かりに勇気づけられた様子の衛に、玲奈は言った。

「余震が来たらすぐに頭を守って、姿勢を低くして落下物を警戒してね」

ただ"余震に気をつけて”とか漠然としたことを言わないのが、実に玲奈らしい。


でも、衛にはわかっていた。玲奈の本心は、衛を危険な場所へ戻らせたくはないのだ。衛を見る玲奈の瞳は、あの“毅然”モードがそこだけほころんだように、少し潤んでいるように見えた。でも今は、玲奈ひとりだけでは対処しきれない。いいよ玲奈、わかってる。なんだかいつも情けない姿ばかり見せちゃってるけど、ここで少し挽回させてもらうよ。正直言うとかなり怖いけど、よし、ここは行っとけ!


 衛は螺旋階段を見上げてひとつ大きく息を吸い込むと、意を決してLEDライトをかざしながら駆け上がった。半分開いたレストランの自動ドアをすり抜けると、暗闇の店内ではもうひとつのライトの光がうごめいている。客のひとりが、店員と一緒に店内で怪我をした人の手当をしているようだ。

《玲奈みたいな人、いるんだな・・・》

怪我をして動けなくなった時、そばにそんな人がいてくれるかどうかで、その後は大きく変わる。生死を分けることがあるかもしれない。でも他人を頼るより、自分でできるようになった方がいいよな・・・。


そう思いながら、衛に気づいた白衣の調理師に言って、開封前のペーパーナプキンの包みをふたつ、レジ袋の束と、調理用の木綿布を数枚出してもらった。木綿布は、怪我の手当ならこれがいいだろうと調理師が選んでくれたものだ。衛はその調理師の落ち着き払った態度を見て、自分が異様に興奮していることに気づかされた。今まで自分では意識していなかったが、心臓がどくどくと早鐘を打っている。


いけない。なに慌ててるんだ。おれも落ち着かなきゃ。そう思ってひとつ深呼吸すると、調理師に礼を言った。そして、今何が必要かもう一度頭を巡らせて、戻り際に

「できたら下も手伝ってください!」

と、付け加えた。いいぞ、おれ。そうだ。慌てるな。慌てずに考えるんだ。


 衛がエントランスへ駆け降りると、玲奈は男の脇にひざまづいて、頭の傷を自分のハンカチで圧迫していた。淡い色のハンカチは大量の血を吸ってどす黒く変色し、玲奈がはめているラテックス手袋も血まみれだ。駆け寄る衛の姿を見て、玲奈はわずかに微笑んだ。しかしその目には困惑の色が浮かんでいる。

「出血が・・・止まらないの・・・」

そう言う口調には、つい先ほどの鋭さは無い。

「これ、持ってきた」

衛が抱えてきたものを床に置くと、それを見た玲奈の表情が少し明るくなった。

「ありがとう。すごくいいわ」


玲奈は続けた。

「衛、傷の圧迫を代わって。レジ袋を二重にして手にはめてから、ハンカチでここを圧迫するの」

「わ、わかった!」

衛はレジ袋を手に被せようとしたが、急に手が震えだしてうまく行かない。血まみれの怪我人に触ると思うと、いきなり怖じ気が頭をもたげて来た。自分が触った途端に容態が悪くなり、急に死んでしまうんじゃないか、そんな考えに囚われる。


それを見越したように玲奈が言う。

「大丈夫よ。出血を押さえるだけだから。でも、あまり力を入れすぎないでね」

その加減がわからないから怖いのだが、とにかくやるしかない。衛は腹を決めた。血を直接触って血液感染しないように、レジ袋を被せた手で玲奈から血まみれのハンカチを受け取ると、頭の傷を圧迫し始めた。


出血はまだ続いている。血液の温度が、レジ袋を通して手に伝わってくる。血って、こんなに暖かいのか。衛は、その暖かさに"命”を感じた。すると、怖さがふっと消えた。そして、この流れ出す"命”を押し止めたい、見ず知らずのこの男の命をなんとしても救いたいという気持ちが沸き上がって来て、圧迫する手に少しだけ力がこもった。どこかにこの男の"命”を、待っている人がいるんだ。


 その間に、玲奈はペーパーナプキンの袋を開けて束を取り出し、それを白い木綿布で包む。見かけは、文字通り木綿豆腐のようなものが出来上がった。そして自分の柿色のスカーフを広げ、三角形にふたつ折りにした。そして衛に声をかける。

「ありがとう。もういいよ」

「わ、わかった」


衛が手をどけると、玲奈は"木綿豆腐"を頭の傷口に当てた。そしてスカーフの三角布を鮮やかな手つきで男の頭に巻いた。結び目をきつく縛って、しっかりと傷口が圧迫されていることを確かめる。そして、大きく息をつきながら言った。

「とりあえず、これで大丈夫」

「本当に大丈夫なのか?」

「出血は止められると思うわ。でも頭を強く打っていたら・・・これ以上は、ここでは無理・・・」

玲奈の眉間に、苦悩の皺が刻まれる。目の前の坂道を埋めた渋滞の車列はほとんど動いておらず、救急車を呼んでも来るはずもない。それ以前に、固定電話も携帯電話も繋がらなくなっていることが、周りから聞こえて来る声でわかっていた。


「できるだけ身体が冷えないようにしないと」

玲奈はそう言いながら周りを見回すが、保温に使えそうなものは見あたらない。そこへ、先ほどの調理師が畳んだ段ボール箱の大きな束を抱えて、螺旋階段を降りてきた。渡りに船とはこのことだ。玲奈が声をかけるより早く、

「これを保温に使ってください」

と言いながら、調理師は野菜や調味料の名前がプリントしてある段ボールの束をどさりと置いた。


【11】

 三十代後半に見える調理師は、倒れている男の脇にかがんですばやく脈拍と呼吸を確かめた。そして頭に巻かれたスカーフの代用三角布を指さして、ふたりに向かって言った。

「これ、どなたが?」

「あの、わたしです」

玲奈が答える。

「見事な手際ですね。ご経験あるんですか?」

その言葉に、玲奈は衛をちらっと横目で見ながら、なぜかしどろもどろになりながら言った。

「え、まあ、あの・・・講習受けたりとか・・・」

調理師は少し白い歯を見せて笑顔になると、言った。

「プロ並みですよ。すばらしい」

「・・・は、あ、ありがとうございます・・・」

玲奈の目が泳いでいる。


玲奈、どした?褒めてくれてるのに。衛は男に向かって訊いた。

「あの、プロの方なんですか?」

調理師は少しはにかんだように笑いながら、答えた。

「昔ね。クウジ・・・いや航空自衛隊の救難隊でした。いわゆる衛生兵ですよ。ヘリとか乗って」

それを聞いた玲奈の表情が少し緩むと、背筋がすっと伸びたように、衛には思えた。


調理師は続ける。

「そんなわけで、この場は私に任せてください。店にはいろいろ資材も用意してありますし」

「はいっ!よろしくお願いします!」

玲奈は妙に力の入った調子で言うと、深く頭を下げた。つられて、衛も最敬礼してしまう。まさか、ここで“元”とはいえ、プロに会えるとは。良かった・・・。


 それから三人は床に畳んだ段ボール箱を敷いて、その上に動けない怪我人を寝かせた。意識の無い男は三人で少しずつ段ボール箱の上に乗せた。そしてそれを引きずって、一階の廊下の中まで全員を移動した。そこまで終わると調理師は一旦店に戻り、紙の手提げ袋を持ってくると、言った。

「ご協力ありがとうございました。あとは任せてください。これ、どうぞ」


 調理師が差し出した紙袋を衛が受け取って中を見ると、ミネラルウォーターの1リットル入りペットボトルと、店用の食材なのだろう、海外ブランドのソーセージなどの缶詰が数個入っていた。缶詰はもちろん、缶切りのいらないプルトップ缶だ。プラスチック製のスプーンとフォークにペーパーナプキンの束まで入っている。


「ありがとうございます!」

衛と玲奈が同時に礼を言った。実際、これは本当に助かる。よく考えたら食事前に地震が来たので、実はものすごく腹がすいているということに、衛はその時やっと気づいた。衛の腹がぐーっと鳴る。


「この坂の上のNHKが帰宅困難者支援拠点ですし、代々木公園は広域避難場所ですから、そちらへ行けば支援が受けられるでしょう。どうぞお気をつけて」

衛と玲奈は、元“衛生兵”の調理師に、もう一度深々と頭を下げた。すると調理師は、笑顔で付け加えた。

「落ち着いたら、また店にいらしてくださいね」

「ええ、もちろん」

「必ず、来ます」

ふたりも笑顔で答え、レストランを後にした。


 公園通りの坂を上ってNHKに向かう途中、渋滞する車のライトだけが照らし出す歩道には、ところどころにビルから落ちた窓ガラスの破片や壁材が散らばっている。それを踏むたびに、ジャリっという冷たい感触に背筋が寒くなる。これを浴びたら、ただでは済まない。ビルの壁から落ちた、ひしゃげた袖看板が転がっていることも少なくない。こんなのを喰らったら、即死だ。


ふと上を見ると、ビルの壁に半分ひっかかったまま、今にも落ちそうになっている看板類も少なくない。そんな場所に来ると、玲奈は必ずその手前で衛の腕を引いてピタリと足を止め、数秒間様子を見てから、その下を小走りに駆け抜けた。玲奈は頭上も警戒しているんだ・・・。確かに、頭上はかなり意識していないと見えていないことに、衛は気づいた。


 不思議なことに、衛たちとは逆方向に、坂を下って渋谷駅の方向に向かう人の方がずっと多い。この地震では電車やバスが動いているはずもないし、タクシーがつかまるとも思えない。仮につかまったとしても、大渋滞で動けないはずだ。この地震では、幹線道路は一般車両通行止めじゃないのか?車好きの衛は、それくらいは知っている。


それでもわずかな可能性に賭ける・・・というより、ただ人の流れについて行ってしまっているように、衛には思えた。大勢が行く方向が必ずしも安全とは限らないし、人が密集した繁華街で大きな余震が来たら、かなりヤバいだろうに。衛は歩きながら、先ほど暗い店の中で思ったことを、心の中で反芻していた。


《慌てずに、考えろ、よく考えろ・・・》


 その時、足元にズシンという衝撃を感じた。来た!でかい余震だ!今度は衛もすぐに身体が動いた。ふたりは同時に、すぐ脇の頑丈そうなビルの暗いエントランスに駆け込んだ。ここなら落下物を避けられる。


本震ほどではないと感じたが、すぐに振り回すような激しい揺れが始まった。歩道では走り出す人も少なくない。坂の下の方からガラスがばら撒かれる鋭い音や、何かが大きなものが落ちるような金属音が響いて来て、男女の悲鳴が重なる。それを聞いた玲奈の身体が固くなり、音のした方角に顔を向けた。きっと玲奈は、揺れが収まったら負傷者が出た現場へと駆け戻るに違いない。


 その時、ハイヒールにタイトスカート姿で坂を駆け下って来た若い女性が、ふたりの目の前で、悲鳴と共につんのめるように転倒した。あっと思う暇もなく、女性の背中の上に、ビルの壁からはがれ落ちた外装タイルがバラバラと降り注いだ。玲奈の肩を抱いていた衛は、玲奈の全身の筋肉が緊張するのを感じた。衛の腕を振りほどいてすぐに駆け出すかと思ったが、しかし、動かない。


玲奈はそのまま、揺れが収まるのを待っていた。しばらくして揺れを感じなくなると、

「衛、ちょっと待ってて」

と言い、ハンドバッグを頭上にかざして駆け出した。そのまま転んだ女性の脇を駆け抜けると、ガードレールの切れ目から一旦車道に出て振り返り、渋滞する車のライトの反射でぼんやりと照らし出されているビルの外壁を見上げた。それ以上落ちて来るものが無いか確かめているのだ。そしてとりあえずの安全を確認すると、歩道に駆け戻りながら

「衛、お願い!」

と叫んだ。


 玲奈の行動から、衛はひとつ学んだ思いだった。こんな時はすぐに怪我人に駆け寄ってしまいそうだが、まずは自分の安全確保をしなければならないということだ。それは臆病でも卑怯でもなく、自分が倒れてしまったら他を救うことはできない、ただそれだけの理由なのだとも。


 衛と玲奈は、うつぶせでコンクリートの粉まみれになって呻いている女性に駆け寄った。転んだ直後だったのが幸いして、頭は直撃されていないようだ。背中の痛みを訴えている。ふたりは女性をゆっくりと抱き起こすと、ビルのエントランスに運んだ。


 表情をゆがめて喘いでいる女性に、玲奈はにっこりと微笑みながら

「もう大丈夫ですよ」

と、穏やかに声をかけた。数秒前までの厳しい表情からは思いもつかないような、穏やかな表情だ。不安のどん底にある負傷者は、救護者の微妙な表情も読み取ってしまう。口では大丈夫と言っても、厳しい表情を見せたら《本当は大丈夫じゃなんだ》と思ってしまうこともあるのだ。


特に重傷者は、気の持ちようで容態が大きく変わるから、救護者はできるだけ自分の不安や動転を表情に出さないように、負傷者を励まさなければならない。軽い怪我でなかったら、怪我の程度を本人に伝えるなど言語道断なのだ。


 玲奈は、女性の意識がしっかりしているのを確認すると、身体を軽く触りながら、痛みのある場所を確かめて行った。どうやら、ちょっとひどい打撲だけで済んだらしい。しばらく休めば、自力で歩けるようになるだろう。衛と玲奈は、ほっとした表情で顔を見合わせた。しかし、周囲の怪我人は彼女だけでは無かった。玲奈はきっと、ここでできる限りの救護をやって行くのだろう。衛は最後までしっかりとサポートする腹を決めた。


 結局、衛と玲奈がNHK本局に開設された帰宅困難者支援拠点にたどり着いたのは、夜半を大きく回ってからだった。


【12】

 7月初旬の三連休。衛と玲奈は、衛の車で早朝に都内を発ち、東名高速道路に乗った。6月中旬に起きたマグニチュード6.5の東京直下型地震では、都内を中心にかなり大きな被害が出ていて、一ヶ月近く経った今も混乱が続いている。そんな中で旅行に出るのはどうか・・・という思いもあったものの、ふたりで話し合った末、予定通り出発することにした。


 あの地震の後は、ふたりとも様々な後始末のために連日深夜まで働きづめでもあり、この辺で気分転換をしたいという思いもあった。それでも最後まで迷っていた玲奈の背中を押したのは、衛の

「玲奈の育った街を見てみたいな」

という言葉だった。


 「見て!海が見えるよ!」

「お、いいねえ。盛り上がるねえ!」

ふたりの大型四駆車は御殿場の手前で東名高速から左に分岐して、新東名へ入った。しばらく山間の高台を走ると、視界の左側に朝の陽光にきらきらと光る海が見下ろせるようになった。はるか眼下に並んで煙を上げる工場群が、まるで未来都市のミニチュアセットのようにも見える。


ふたりの行き先は、玲奈が生まれ育って高校卒業まで過ごした、静岡県の小さな街だ。玲奈の家族は、10年ほど前に東京郊外に引っ越している。玲奈の両親がまだその街にいたら、ちょっと引いちゃったかもな…と、衛は思っていたが、もちろん口には出していない。


 まだ梅雨は明け切っていなかったが、この日はもうすっかり真夏のような陽光が肌を刺す、雲ひとつない晴天だった。サングラス越しでも、アスファルトからの反射がまぶしい。

「天気がいいのはうれしいけど、早くも紫外線くんは全開ね」

「全身、塗れ塗れ」

「もちろん、対策はばっちり」


助手席の玲奈は、カールした長い髪をひとつにまとめて肩に流し、青い花柄のゆったりとしたスリーブレスのワンピースに身を包んでいる。露わになった肩に白いレースのカーディガンを羽織っているが、その肩口は、意外なほどの量感を感じる。

《玲奈って、やっぱり着痩せするタイプだな…》


衛は初めて玲奈の身体を見た時のことを思い出す。小柄で、少し華奢にさえ見える雰囲気からは想像できないくらいに、筋肉の存在を感じるしっかりした身体だった。なんでも高校までは陸上部で短距離走をやっていて、その後もずっとトレーニングは続けているという。一度、衛が『他にはなにかやってたの?』と聞いたとき、玲奈は冗談めかしてこう言ったことがある。

『穴掘り』

その場はそれだけでごまかされたけど、ありゃ一体どういう意味だったんだ…?


 玲奈の育った街は、もうすぐだ。玲奈は眼下を流れる街並みを眺めながら、先程からしばらく黙ったままだ。

《昔の彼氏のことでも思い出しているのか?》

高校時代の玲奈は、この辺りでどんな青春を過ごしたのだろう。玲奈のことだから、言い寄る男にはこと欠かなかったはずだ。衛は少し、嫉妬した。


「次のインター、下りてね」

運転席の衛に向き直った玲奈は、なんだかとても嬉しそうに言った。衛は、玲奈の想像の過去に嫉妬している“小さな男”を気取られないように、それでもちょっと不機嫌に、前を向いたまま

「あいよ」

とだけ答えた。玲奈が真顔に戻って言う。

「ねえ」

「ん?」

「衛って、なんでそんなにわかりやすいの?」

「なにが」

「どうせ私が昔の彼氏のこととか思い出してると思っているんでしょ」

「うっ…」

見事に図星だ。何も言い返せない。

「安心して。こっちを出るまで、つきあった人はいなかったわ。いいとこグループデートまでね」

「そ、そうか」

「でもね、この辺りには大切な思い出がいっぱいあるの」


ふたりの乗った車は、インターチェンジを下りて市街地に入って行った。いまだ昭和の匂いが色濃く残る街を走っていると、衛は自分が玲奈の思い出の一部に取り込まれて、その登場人物のひとりになって行くような気がする。隣に座っているのは、セーラー服を着てショートカットの ―衛の勝手な想像だが― 高校時代の玲奈。


 海沿いの道を右に折れ、左手を流れる集落のすぐ先に海が見える道路を走っているときに、玲奈が言った。

「私が住んでいたの、あの辺よ」

玲奈が指差す方を見ると、海の近くまで迫る山の麓に、マンションが何棟か建っている。

「あの辺りは、昔とはだいぶ変わっちゃったけどね」

「いわゆる再開発って奴?」

「まあ、そんなとこ」

玲奈一家が東京に引っ越したのも、そんな事情が絡んでいるのだろうと衛は思ったが、自分がそんな仕事にも少しは関わっているだけに、車窓を過ぎて行く瀟洒なマンション群を横目で見ながら、それ以上は何も言わずにいた。新しい街を造ることは、誰かの思い出を傷つけることにもなるんだな…。


すると衛の気持ちを見透かしたように、玲奈が言った。

「でもね、良かったのよ。昔のままだったら、津波が来たら大変だった」

「津波なんて来るのかよ」

「あら、この辺りは有名な東海地震の本場ですのよ」

妙な言い方をする。

「有名って…、そんなにか?」

「ええ、30年も前から」

「ふーん」

「再開発のおかげで、裏山に上がる道も広くなったし、津波避難所もできたし。ほら、あれ見て」


玲奈が指差す先に、道路上にオーバーハングした大きな標識が見えた。それには天気予報に出るような高波のイラストと共に、『想定津波浸水高さ 5m』と大きく書かれていて、標識を支える白い支柱の上の方に、赤い帯状のペイントがしてある。あれが5mなのか。

「つまり、津波が来たらこの辺は水浸しだと」

「水浸しで済めばいいけどね…」

そう言う玲奈の表情からは笑顔が消え、少しだけあの“毅然”とした表情になっていた。


【13】

 海沿いの県道をしばらく走ると、海に突き出た小さな岬の向こうに、こじんまりとした砂浜が見えてきた。海水がエメラルドグリーンに澄み切っていて、海面から数メートルの深さにある岩までが見通せる。それを見た磯が大好きな衛は、早くもテンションが上がりまくっている。


 玲奈の案内で、県道から逸れて海に向かって進むと、程なくして白くペイントした木造二階建ての、洒落た海の家に着いた。衛と玲奈が車を降りた途端、まるで待ち構えてでもいたように、建物の中からグリーンのタンクトップにベージュのショートパンツ姿の大柄な女が駆け出して来た。そして玲奈の前で急ブレーキをかけたようにピタリと止まって背筋をピンと伸ばすと、少しかすれた大声で言った。


「お待ちしておりました!玲奈は…いえ、玲奈さん!」

玲奈は衛に気付かれないように、人差し指を立てて自分の唇に当てながら、言った。

「久しぶりね、恵子」

「は、お久しぶりです!」

「だからぁ…」

玲奈は少し困ったような顔で笑っている。

「…すいません。あ、彼氏さんでいらっしゃいますか?」

恵子と呼ばれた女は衛に向き直り、

「初めまして!この海の家をやっている須田恵子と申します。玲奈さんは高校の先輩で、あと…とにかくいろいろお世話になってます!どうぞごゆっくりなさってください!」

と、きっちり45度で頭を下げる。やたらと元気がいいというより、体育会系丸出しだと、衛は思った。


 肩幅が広くて筋肉質で大柄、頭の後ろでひとつにまとめた、細かいウェーブがかかったセミロングくらいの髪型を見て、衛の中で恵子のあだ名はすぐ決まった。

『女ランボー』

陸上部なら絶対に砲丸投げか槍投げか、とにかくパワー系の選手だったに違いない。小柄な玲奈と並ぶと、なんだか質量が2倍以上あるようにさえ感じる。とはいえ良く日焼けした丸い顔だけ見ると、その身体の迫力をほとんど感じさせずに普通にかわいらしいのが、妙にアンバランスだ。


「恵子はね、こっちで結婚して、民宿と海の家やってるの。民宿がだんなさんで、恵子が海の家担当」

玲奈が説明する。衛はそれには答えず、ニヤニヤしながら恵子に聞く。

「玲奈って、意地悪な先輩だったでしょう?」

すると恵子は何故か再び背筋をピンと伸ばして、

「と、とんでもありません。いえ、自分は頭が悪いものですから、課業中も玲奈班長には良くしかられまして…」

それを聞いている玲奈は、唇をへの字にゆがめてヤレヤレという困り顔だったが、“班長”が出た時には心臓が止まるかと思った。せめて先輩と言って…。


でも、どうやら衛はカギョウとかハンチョウという耳慣れない言葉はあっさり聞き流したようだ。恵子の言葉に、相変わらずニヤニヤ笑っている。もう、余計なこと聞くから…。危うく玲奈の秘密がばれるところだった。あとで念押ししとかなくちゃ。昔の事はいまのところあの人には秘密なんだから!宿を予約する時に良く言っておいたのに、これでは先が思いやられるわ…。玲奈は何食わぬ顔で車からバッグを取り出すと、衛に言った。

「さあ、早く海へ行きましょう!」


 その海水浴場は、小さな岬に挟まれた差し渡し300メートルほど入り江の中にきれいな白い砂浜が続いていて、その奥に数軒の海の家が並んでいる。客はほとんど近場の家族連れかカップルのようで、7月初旬の今は、まだあまり人影は多くない。衛は先に着替えを済ませて砂浜に降り、恵子の店で借りたビーチパラソルを砂浜に立てながら、ここに来ることを提案した時の、玲奈の言葉を思い出していた。

『ちょっとした穴場よ』

確かに、こうやって砂浜から海を眺めている分には、どこかのホテルのプライベートビーチ気分だ。この辺の海って、こんなにきれいだったんだ。


玲奈は“全身塗り塗り”だろうから、まだしばらく降りて来ないはずだ。衛は砂の上に敷いた大きなタオルの上に寝転がって、サングラス越しのまぶしい太陽に目を細めているうちに、いつの間にかまどろんでいた。

「お待たせー!」

玲奈の声に衛はっと目を覚まし、上体を半分ひねって玲奈を見た。そして初めて見る玲奈の水着姿に、思わず感嘆の声が口をついた。

「ほー」

さすがにビキニでは無かったが、胸元が深く切れ込んだ、鮮やかで大きな花柄があしらわれたワンピース水着の腰に揃いのパレオをゆったりと巻き、つばの広いストローハットを少し傾けてかぶっている。その姿は、何かのグラビアから抜け出して来たみたいだと、衛は本気で思った。水着が玲奈のスタイルの良さを見事に強調しているし、着こなしもこなれている。清楚で、かわいらしい。


《これで本当に三十路過ぎかよ…》

と、いつもながら口に出せない言葉を呑み込みつつ、こんな“いい女”が自分の連れであることに、なにかくすぐったいような、周りに自慢しまくりたいような気分だ。でも幸か不幸か、玲奈に羨望のまなざしを送りそうな若い男は、周りにはひとりもいなかったが。衛は、隣に腰を下ろした玲奈に一言だけ言った。

「この浜、いや、静岡イチだ」

「バカ…」


 ふたりはエアマットにつかまって波にゆられたり、衛は磯場で指を挟まれながらワタリガニを捕まえてきたりして、海の休日を十分に堪能した。ひとしきり遊んだ後、パラソルの下にふたりで寝そべっていると、玲奈が話しかけて来た。

「ねえ衛」

「ん?」

「わたし、むかしのこと、あまり話して無かったよね…」

「そう言えば、そうだな」

久しぶりに地元に帰ってきて、玲奈の中には様々な思い出が蘇っていた。そして、衛とのこんな楽しい時間。今ならもう、昔の自分の事を話していいかな、そんな気になっていた。それに恵子のあの様子だと、明日帰るまでに、衛に気づかれてしまうかもしれない。ならばその前に、自分からきちんと言わないと。


もちろんあの頃のことは玲奈の誇りでもあり、本当ならば隠し立てする必要は無い。ただ、衛と知り合っていきなり言う気にもなれなかった。ああいう仕事に偏見を持つ人もいるのは確かだし。でも、衛ならきっと「ふーん」の一言くらいで受け入れてくれる、そう思えた。


「高校出て、東京の短大に行ったまでは話したよね」

「うん」

「その後、今の仕事する前に、ちょっと別のところにいたの」

「…どこ?」

「特別職国家公務員」

「…? なにそれ。お役所かなにか?」

「あのね…」


【14】

 その時、それと知らなければ、何かお知らせのチャイムにしか聞こえないような音が、波の音に混じってかすかに聞こえてきた。玲奈はびくっとして上体を起こすと、海の家を振り返る。すると開け放たれたガラス戸から、恵子が店のカウンターに置かれたマイクスタンドを引っつかむのが見えた。すぐに軒先に吊るされたラウドスピーカーから、恵子の声が大音量で叩き出される。

《緊急地震速報が出ました!すぐに海から上がってください!地震が来ます!すぐに海から上がってくださいっ!》


 真っ黒に日焼けしたライフガードの男が、監視やぐらの上から弾かれたように飛び降りて波打ち際へ駆け寄ると、海に入っている人に向かって大きく手を振りながら、トランジスタメガホンで叫び始める。

《地震が来ます!海から上がってください!すぐに!地震が来ます!》

続いて店のスピーカーからは、大音量のサイレンが鳴り響いた。


「玲奈…どうしよう…」

突然の事にうろたえる衛に、砂の上に片膝を立てて周囲をすばやく見回しながら、玲奈は言った。

「今はこのまま待機。砂浜にいる方が安全。荷物まとめて…」

玲奈が言い終わらないうちに、ズシンという衝撃を感じた。それがどんどん大きくなって行く。岬の崖から小さな岩がばらばらと落ちて、海面で水しぶきを上げる。玲奈は海の家の方に振り返ると、鋭い声で叫んだ。

「恵子!退避!」

すぐに大声で返事が来る。

「退避誘導中っ!」

恵子は店の中にいた数人の客を屋外に誘導しているようだ。


下からの突き上げが収まらないうちに、振り回すような横揺れが来た。

《近い…》

緊急地震速報から数秒で最初のたて揺れである初期微動が来た。それもかなり強い。しかもその後にやって来る横揺れ、主要動との時間差がほとんど無かった事を感じた玲奈は、震源地がここからそれほど遠くないと判断した。ということは、ついに“あれ”が来たのか…。玲奈の頭の中に、次に取るべき行動が電光のように走った。


 横揺れが始まってから数秒後、最大の地震波が到達した。衛は、四つんばいになったまま動けない。砂浜が風をはらんだ巨大な旗のように波打って見える。並んだ海の家が揃って身もだえするようにねじれ、大きなガラス窓が鋭い音と共に砕け散った。周囲の空気を震わせるドーンという大音響に振り返ると、海の近くにまで迫った山の斜面が幅20mくらいに渡って崩れ落ち、濃い緑の山肌に赤茶色の爪跡が刻まれた。青空に濛々と、土煙が沸き上がる。


 海の家の中で一番簡単な造りの一軒が、海に向かって開いた縁側に向かってメリメリと押しつぶされるように倒壊して行くのを、四つん這いのままの衛は口をぽかんと開けて見つめていた。現実感がまるでない。一分ほど経って、揺れが収まって来た。玲奈はさらに周囲の状況を観察する。ライフガードが、波打ち際で座り込んでしまった家族連れを励ましている。倒壊した海の家の周りでも、慌しい動きは無い。どうやらこの浜で重傷者は出ていないようだ。良かった。


「衛、行くわよ!」

「え、どこへ?」

地震の揺れが収まったので、衛はもうすっかり危険が去ったものと息を抜いていた。

「津波が来るわ。すぐに高台へ避難するよ!」

半信半疑ながらビーチパラソルを畳もうとした衛に、玲奈は怒鳴るように言った。

「そんなのいい!持てるものだけ持って!時間が無いっ!」

ふたりが恵子の店まで砂浜を駆け上がって来ると、店の裏手の方から、ボリュームを一杯に上げたラジオの音が聞こえてきた。そこから流れる緊張した男性アナウンサーの声に、玲奈は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


『…ただいま神奈川県、千葉県、静岡県、愛知県、三重県の太平洋沿岸に大津波警報が発表されました…巨大な津波が予想されます!命を守るために、すぐに高台へ逃げてください!』

ついに、この時が来た…。防災無線のスピーカーから、けたたましいサイレン音が鳴り響き始めた。砂浜の監視やぐらには大きな赤い旗が掲げられ、ライフガードがトランジスタメガホンで叫んでいる。

『大津波警報が出ました!すぐに高台に、山に避難してください。時間がありません!大きな津波が来ます!すぐに避難を…』


「恵子!」

玲奈が叫ぶと、店の裏手の駐車場から

「はいっ!こちらです!」

と返事が返ってきた。ラジオは恵子が持っているらしい。貼り付けたガムテープに“非常持出”とサインペンで書かれた迷彩色の大型リュックを背負った恵子は、既に駐車場に店の客を集めていた。皆、水着の上にシャツなどを羽織っただけだ。着替えている時間は無い。衛と玲奈もすぐに水着の上にTシャツだけ着て、マリンシューズを履いた。玲奈はいつのまにか腰のパレオを外して、一本にまとめてTシャツの上から腰に巻きつけている。


衛は当然車で避難するものだと思っていたので、玲奈に言った。

「玲奈、早く車に乗って…」

言い終わらないうちに玲奈が言った。

「車はダメ!身動きが取れなくなる」

「でもおれの四駆なら水にも強いし…」

「渋滞したらどうするの!それに、車なんてタイヤ半分くらいの水で流されるのよ!」

初耳だった。

「じゃあ、車は水浸しに…?」

「バカっ!車と命のどっちが大事なの!」

玲奈が衛に初めて見せる、凄まじい剣幕だった。衛は玲奈に気圧されて、腹をくくるしかない。確かに、生き残れなければ車どころでは無い。しかしまだ、半信半疑でもあった。


すると恵子が玲奈の脇に駆けて来て、ピンと背筋を伸ばして言った。

「自分は先行して、目標地点までの経路を偵察します。班長はお客様の誘導を願います。目標地点は…」

「もちろん、わかっているわ」

「では、これを」

恵子は、玲奈に黄色い小電力トランシーバーを渡した。

「呼び出し符号は…」

そう恵子が言いかけると、玲奈はかすかに微笑みながら、言った。

「…当然、あれで」

「リョウっ!では」

「状況開始っ!」

玲奈が鋭く言うと、恵子は一瞬白い歯を見せて笑い、回れ右をして山へ向かって駆け出した。重そうなリュックをものともせず、大柄な身体からは想像できないリスのような機敏な動きだと、衛は思った。それにしても、さっきの妙な遣り取りはなんだ?


 玲奈はすぐに、十数人ほど集まっている客に向かって、良く通る声で言った。

「これから津波避難所へ移動します。距離は約1キロ先の、山の中腹です。私について来てください!」

そして衛に向かって言う。

「衛は列のうしろにいて。途中、急な階段があるから、遅れる人がいないか、いたら手を貸してあげて」

「わ、わかった」

客の中には年配の夫婦や、小さな子連れの家族もいる。大津波警報発表から2分後、津波避難所に向かう隊列が動き出した。


 海から県道に上がる途中では、古い木造の納屋がぺしゃんこに潰れていた。玲奈はだれかを見かけるたびに、

「大きな津波が来ます。すぐに山へ避難してください」

と声をかけている。そのまま玲奈たちの隊列に加わる者もいて、だんだん人数が増えて行った。


【15】

 浜辺から海沿いの県道に出ると、道路はあちこちで大きく波打ったりアスファルトにヒビが入ったりしていて、普通の車はとても走れそうもない。車高の高い衛の大型四駆車でも困難だろう。渋滞が無くてもすぐに身動きが出来なくなっていたはずだ。


道路沿いの古い家が倒壊して道路を半分塞いでいたり、電柱が大きく傾いて、電線が垂れ下がっている場所もある。街の方からは、火災と思われる黒煙が上がり始めている。

その時、玲奈が手に持ったトランシーバーから恵子の大声が飛び出した。

《サクラカラナデシコ カンメイイカガ オクレ》

え、なんだ?

玲奈はすかさずトランシーバーを口許に寄せ、反応する

「ナデシコ感明良好 送れ」

玲奈…なんだそれ…?


《○○町郵便局付近、道路陥没のため通行不能 ××スーパー前を北進し、東方より迂回されたい 送れ》

「ナデシコ了 送れ」

《なおラジオ情報により、当地への津波到達予想時刻は現在時よりヒトマル分後、ヒトフタサンマルを予期せよ。なお予想高さは5メートル以上 送れ》

それを聞いた皆がざわめくが、玲奈は全く意に介さずに返信する。

「ナデシコ了 自身の安全を最優先せよ 送れ」

《サクラ了っ! 終わりっ!》


 妙な言葉を使うふたりのスピーディーで無駄の無い交信は、それが経験に基づいたプロのものであることは、衛にもわかった。これが玲奈が言いかけたナントカ国家公務員…なのか?すぐにでも聞いてみたかったが、列の先頭を歩きながら時々後ろを振り返る玲奈の姿はあの毅然としたオーラに包まれていて、余計な質問など跳ねつける緊張感に満ちている。


だがそれどころではない。5メートル以上の津波が10分後に来るという。しかし本物の津波など一度も見たことが無いし、台風で大波が堤防に当たってくだけるみたいなイメージしかない。海岸から山に向かって進み続け、もうだいぶ高度を稼いでいるが、ここでもまだ危険なのだろうか。


その時、衛の脳裏に今朝見た『想定津波浸水高さ5m』の標識が甦った。車の中から見上げた水深5メートルを示す赤線の位置…。これは只事ではない。一刻も早く、少しでも高い場所に逃げなければ。衛は先頭の玲奈に叫んだ。

「玲奈、急ごう!」


 しかし玲奈は振り返りもせずに、左手を軽く上げて

《わかった》

というような合図を返しただけだった。でもその直後、突然振り返って叫んだ。

「みなさん走って!早く!」

突然の事に皆訳もわからず、それでも玲奈の真剣な声につられて走り出した時、地面が突然歪んだ様に感じた直後、縦横に振り回すような余震が来た。揺れに足を取られてよろめく者もいたが、強い揺れの中をなんとか転ばずに駆け抜けた。衛も目の前にいた幼児を抱え上げて走った。


すると今駆け抜けて来たまさにその場所で、道路脇の古い木造の商店が道路に向かってメリメリと傾き、道路の三分の二を塞ぐように倒壊して濛々と土ぼこりを巻き上げた。大音響に皆が立ち止まって振り返り、ついで皆が玲奈を見た。皆が呆然とする中、若い男が玲奈に声をかける

「お陰で助かりました。でも、なんであれがわかったんですか?」

玲奈はなおも周囲に視線を走らせながら答えた。

「感じたんです。たて揺れを。で、傾いた家があったから…」


 その遣り取りを聞いていた老人が、衛を振り返って言った。

「あんたのお連れさんは頼もしいのぉ」

「いえ、まあ、あ、ありがとうございます…」

まるで自分が頼もしくないと言われているような気がしないでもない。でも確かに玲奈は時々、野性的とも言える鋭さを見せる。今がまさにそれだ。衛は、ふたりが初めて出会った、真っ暗な地下鉄の中を思い出した。あの時から、何回バカって言われたかな…などと余計な事を考える。


老人は言葉を続けた。

「しかしさすがに鍛え方が違うのぉ、自衛隊さんは」

「…じ…じえい…?」

「そうじゃろ?あの無線交信は、陸さんじゃろ?」

「え…は、は…はぃ…」


 周りはかなり埋まっているものの、真ん中の部分だけがほとんど空白のジグソーパズルのピースが衛の頭の中で飛び交い、一瞬ですべて正しい位置にはめ込まれたような気がした。完成した画は、緑と茶色のまだらの迷彩服にヘルメット姿で、にっこりと微笑む玲奈の姿だ。今まで玲奈に感じてきた多くの疑問が、一瞬ですべて解けた。今も見せている毅然とした力強さと鋭い判断力は、自衛隊で積み重ねた訓練で培われたものだったのだ。でも、なんでそんなこと隠していたんだろう…。


 衛は左右に視線を走らせながら列の先頭を行く、玲奈の後ろ姿を見つめた。

《玲奈、すげえよ…》

そう思ったとき、玲奈が半分だけ後ろを振り返りながら言った。

「避難所まであと200メートルくらいです。慌てなくても大丈夫で…」

言い終わらないうちに、玲奈が左手に持ったトランシーバーから、恵子のかすれ気味の声が流れ出た。

《サクラからナデシコ 送れ》

「ナデシコ感明良好 送れ」

《サクラ第一目標地点に到達するも、小規模の山体崩落により階段使用不能。目標地点第二に変更の要あるか? 送れ》


玲奈は一瞬考えてから、トランシーバーを口元に寄せた。

「ナデシコ了 山体の登攀は可能か? 送れ」

《…補助等あれば可能と判断する 送れ》

「崩落部分の状況はいかが? 送れ」

《さらに崩落の危険は小さいと判断する 送れ》

「ナデシコ了 目標は変更せず。サクラはそのまま待機、登攀補助に当たれ。本隊はふた分以内に到達する 送れ』

《サクラ了 終わり!》


玲奈は足を止めずに、後ろに続く集団を振り返りながら言った。表情が少し、険しい。

「お聞きの通りです。でも、我々…私たちが補助します。少し急ぎましょう!」

玲奈は前に向き直ると、歩みを速めた。


【16】

 玲奈が率いる30人ほどに人数が増えた隊列は、何十年も前から建っていたような古い家が何軒かぺしゃんこに潰れている、小さな集落を抜ける。玲奈はそこにいた屈強そうな中年男に声をかけた。

「この辺は…大丈夫ですか?」

潰れた家から誰かを助け出したのだろう。中年男は埃まみれになった顔をほころばせながら言った。

「ああ、みんな出られた。あんたらも早く山へ行かないと」

「はい!」

玲奈の顔が輝いた。


 隊列は、集落の裏手に迫った山肌を切り開いて造られた津波避難所の下へ到着した。斜面を上る30メートルほどの急な石段は、恵子の報告の通り、下から10メートルほどの部分から上が、崩れた土砂に覆われて見えなくなっていた。赤茶色の土で覆われた崩落斜面は、四つんばいにならないと登れないくらいの傾斜だ。足場も悪い。


《これは年寄りにはきついな…》

衛が思った時、崖の上から恵子の大声が降ってきた。

「はんちょーうっ!」

大きく手を振ると、赤いザイルの束を投げ落とす。ザイルはするするとほどけて、石段の下まで届いた。


玲奈は恵子を見上げて黙ってうなずくと、率いてきた集団に向かって言った。

「登れそうな方は、このロープを手がかりに先に登ってください。あなたとあなた、あなたは手伝ってください」

と、3人の若い男を補助者に指名した。指名された男たちは、緊張した顔で黙ってうなずく。最後の“あなた”は衛だ。


また、上から恵子の声が降ってくる。

「津波到達予想まで、あと3分っ!」

「了っ!さあ、急ぎましょう!まず、あなたたちから!」

玲奈は若いカップルを指名した。

「途中でサンダルや靴が脱げても、止まらずに上まで登ってください!いいですね!」

体力のある者は、途中で少し足を滑らせたりしながらも、するすると斜面を登って行く。幼児は父親が背負い、背負う男がいない子供は、補助の若者が背負って登った。しり込みする中年女性は玲奈が一緒に励ましながら登り切り、すぐに玲奈は土埃を巻き上げながら下りてきた。


最後に、衛、玲奈と70代後半くらいに見える老夫婦が残った。玲奈が自衛隊だと衛に言った男と、その妻だ。

「お待たせして申し訳ありませんでした!」

玲奈はきちっと上体を30度に折って礼をした。老夫婦はおだやかに微笑んでいる。玲奈は衛を向いて言った。

「あなたはご主人と一緒に先に上って」

「わ、わかった」


 衛は老人を先に行かせ、うしろからその腰を押し上げるようにしながら、なんとか登り切った。玲奈は自分の腰のパレオを取り、折りたたんで老婦人の腰の後ろに当てると、ザイルの端をその上から巻きつけて、あざやかな手つきで身体の前に結び目を作った。

「ちょっと痛いかもしれませんが、少しだけ我慢してください」

「いいのよ。これくらい大丈夫」

老婦人が答えると、上から見下ろしている恵子に向かって右腕を上げ、握った拳の親指を立てた。


うなずいた恵子は両腕でたぐるようにして、ザイルをゆっくりと引き上げ始める。玲奈は老婦人のすぐ後ろについて、身体のバランスを崩さないように、足を滑らさないように気をつけながら押し上げる。何度も

「痛くないですか?」

「少し休みますか?」

「もう少しです!」

と、声をかけている。途中で何度か休みながら、ついにふたりは高台の広場へたどり着いた。周りにいた人々から拍手が巻き起こる。


 恵子が玲奈に駆け寄り、すっと背筋を伸ばして言った。

「お客様の避難、完遂できました!ご協力ありがとうございました!」

玲奈は穏やかに微笑みながら答える。

「間に合ったわね。ありがとう」

恵子は挙手の敬礼をしそうな勢いでさらに背筋を伸ばすと、もう一度

「ありがとうございました!」

と言って45度の礼をした。拍手が大きくなる。


恵子は白い歯を見せて笑いながら言った。

「さすが玲奈班長です」

「いえいえ。わたしたち、がんばったもんね、あの頃」

「そうですね!がんばりました」

「でも…」

「は?」

「…やっぱりその“班長”はやめて…」

玲奈は視線だけで衛の姿を探しながら言った。


 玲奈の背後で拍手をしながら、ふたりの遣り取りを聞いていた衛は、玲奈の困った様子を見て声をかけた

「玲奈!」

すぐうしろから聞こえた衛の声に、玲奈はびくっと肩をすくめて振り返った。つい先ほどまでの毅然とした玲奈ではなく、彼氏に隠し事がばれた女の子の困り顔になっている。衛が穏やかな表情で続ける。

「いいんだよ。もう知ってる。おれの彼女は自衛隊出身!」

「え…どうして…」

「あの人が教えてくれたんだ。おまえの彼女は凄いぞ、って」

衛は少し離れた日陰で腰を下ろしている、あの老夫婦を指差した。老夫婦は微笑みながらこちらを見ている。

「最高にカッコよかったよ、玲奈」

「…そんな…」

「でも、なんで隠してたんだよ」

「なんでって…」


 その時、誰かが叫んだ。

「来たぞ!」

全員の視線が、眼下に続く家並みの向こうに見える海に注がれる。真昼の太陽に照らされてきらきらと輝く水平線がむくむくと盛り上がり、波頭が霧のように舞い上がるのが見えた。誰も、言葉を発しない。さわやかな夏の日にはあまりに不似合いな沈黙が、辺りを支配した。


沖から伝わって来るゴーっという海鳴りが皆の耳に届いた時、また誰かが叫んだ。

「子供が、子供がいる!」

全員の視線が、今度は家並みの路地を走る。

「あ、いた!」

300メートルほど離れた路地に、小学校低学年くらいの男の子だろうか、よたよたとこちらに向かっているのが見えた。怪我をしているらしく、足元がおぼつかない。


【17】

 「自分が行きます!」

叫んだのは恵子だった。皆が恵子を見たとき、すでに恵子は崖に向かって駆け出していた。そして濛々を土煙を上げて崖を滑り下り、細い路地を子供に向かって駆けて行く。速い。


高台から皆が、声の限りに叫び出す。

「急げ!」

「がんばれ!」

「早く!」

しかし玲奈は、衛の隣で落ち着いた表情のまま黙っている。

「…間に合うのか?」

衛が言うと、玲奈はちらっと衛を見ただけで、言った。

「彼女なら大丈夫。津波は、あの辺なら時速100キロ、速くても150キロで、これからだんだん遅くなる。海岸に着くまでにあと2分はあるわ。恵子なら、大丈夫」

「ならいいんだけど…なんでそんな事知ってるんだ?」

「自衛隊は災害派遣も仕事です。ちゃんと勉強するのよ」

少しだけ得意気に言った玲奈は、視線は駆けていく恵子に向けたまま、何故か少しおかしそうに微笑みながら続けた。

「彼女、昔なんて呼ばれてたと思う?」

「なんて?」

「女レンジャー」


陸上自衛隊の”レンジャー”とは、能力の高い隊員の中から選抜され、サバイバル技術などの厳しい訓練課程を修了した者だけに与えられるエリートの称号だが、女性隊員にはその門戸は開かれていないという。しかし恵子は隊内でレンジャー並みと評される高い能力を示したというのだ。だから敬意を込めて、“女レンジャー”。

衛は玲奈の表情につられて、つい軽口が出た。

「女ランボーじゃないのか」

「そう呼ぶ人もいたのは確かね」

大当たりだ。


 見る間に恵子は少年にたどり着き、その脇にしゃがんで一声かけると、一動作で肩に担ぎ上げた。そしてすぐに今来た路地を駆け戻り始める。少年を担いでも、そのスピードは全く落ちない。高台の上から見下ろすだれもが、これなら十分に間に合いそうだと息を抜いた時、山全体がズシンと震え、背後の崖から小石がぱらぱらと落ちてきた。玲奈はすぐに反応して皆の方を振り返ると、

「余震です!崖から離れて!」

と、叫びながら駆け出した。


玲奈は背後の斜面を少し登った所で恐怖で固まっているカップルに駆け寄ると、ふたりの手を取って広場に下ろした。そしてすぐに老夫婦に駆け寄り、いたわるように背中を押しながら、広場の真ん中へ促した。そうするうちにも揺れはどんどん大きくなり、山がゴーっとうなりを上げた。皆は広場の真ん中に集まってしゃがみ込み、女が悲鳴を上げる。今までで最大の余震だ…周囲をすばやく警戒しながら、玲奈は思った。山が崩れなければいいが…しばらくして、揺れが収まり始めた。もう大丈夫だ…


…恵子!

玲奈は崖に駆け寄って下を見下ろし、息を呑んだ。恵子は路地を塞ぐように倒壊したブロック塀に、下半身を挟まれて倒れていた。子供を守るために、判断がわずかに遅れたのか。横に座り込んだ少年の泣き声が、海からの弱い風に乗ってかすかに聞こえて来る。津波避難所の崖下までの距離は、約150メートル。玲奈はすばやくそう判断した。


その瞬間、海岸に到達した津波の第一波が消波ブロックにぶつかり、高さ10メートルにも達しようかという巨大な飛沫を空中に吹き上げた。数秒遅れて、ドーンという腹に響く大音響が空気を震わせる。今から崖を下りて行っても、津波がここまで押し寄せるまでの間に重傷の恵子と少年をかついで戻る時間はおそらく、無い。


「けいこおぉぉぉーっ! 立てぇぇーっ!」

玲奈は声の限りに叫んだ。怪我を気遣ったり、状況を確認している暇は無い。そう、わたしたちはいつもこうやって、苦しい訓練を一緒に乗り越えて来た。訓練ではどんなに苦しくても、多少ケガをしていても、恵子はいつも大声で『平気っす!』と言い放って立ち上がった…お願い、立って…。


海からの逆風を突いて、玲奈の声が恵子に届いたのかどうかはわからない。しかし恵子は、動き始めた。頭を上げると、こちらに顔を向けて、何か言うように口が動いた。声は聞こえなかったが、玲奈にはわかった。“平気っす”恵子は、いつもの大声では無いが、確かにそう言った。


 恵子は両腕で匍匐するようにして、崩れたブロックの下から這い出し始める。歯を食いしばり、表情が歪んでいるのがここからでもわかる。そのままなんとか身体を引っ張り出す事に成功したものの、すぐには立ち上がれない。ごろんと仰向けに転がると、ゆっくりと上体を起こした。

玲奈が叫ぶ。

「津波が到達ーっ!時間が無いっ!」

すると恵子はこちらに背を向けたまま右腕を真上に上げると、空に向かって親指を突きたてた。玲奈の声は届いていた。そして恵子は“大丈夫”とサインを送ってきた。


その時、砂浜を駆け上がった津波が、海岸の家並みを呑み込み始めた。土台から引きちぎられた家が波に押し上げられ、こちらに向かって押し寄せて来る。津波が家並みを引き裂く大音響が聞こえたのか、恵子の動きが少し早くなった。それでも、少しだ。かなりダメージを受けている。玲奈が叫ぶ。

「けぇいこぉぉー、がんばれぇっ!」

それには答えず、恵子は両手を地面につきながら、よろよろと立ち上がった。左足の太ももから、激しく出血している。


津波は陸に到達してその速度を落としたものの、時速数十キロで家を押し流しながら、近づいてくる。恵子は座り込んで泣いている少年によろよろと近づくと、腕を引っ張って立ち上がらせた。そして自分の胸に抱え上げると、こちらへ向かって歩き始めた。


【18】

 倒壊したブロック塀に挟まれ、激しく出血している恵子の左足は、ほとんど体重をかけることができない。よたよたと、今にも倒れそうに、それでも歯を食いしばって足を前に踏み出す。“鬼神の形相”だと、息をのんで見つめている衛は思った。自分の身体など省みず、小さな命を救うために死力を振り絞る、正義の鬼神の姿だ。


崖下まであと50メートル。ついに玲奈が駆け出し、崖を滑り下りた。衛もつられて後に続く。津波がすぐ目前に迫っていることは、もう頭に無い。なんとしてもふたりを助ける、それしか考えていなかった。恵子まであと10mほどに駆け寄ったその時、恵子が進んできた路地の奥に、白い軽自動車が現れた。しかしそれは走って来たのではなく、津波の奔流に押し流されて来たのだという事に、衛はすぐに気付いた。


見る間に路地に瓦礫が押し寄せ、真っ黒な水が一気に水深を増しながら、近づいてくる。真っ黒な水はそれ自体にまるで意思があるかのように、獲物を前にして舌なめずりするかのように、近づいてくる。残された時間は、あと十数秒。


最後の力を振り絞って、恵子はほんの数歩だけ、よたよたと走った。そして駆け寄る玲奈と衛に向かって、手負いの獣が最後の咆哮を上げるように叫んだ。

「うけとれえぇぇっ!」

そして少年をふたりの方に投げ出しながら、そのままうつ伏せに倒れこんだ。


 宙を舞った少年の身体を、衛が受け止めた。その場に尻餅をつきそうになったが、なんとか踏ん張った。

「衛、早く上へっ!」

玲奈に言われ、衛は片腕で少年を抱えて階段を、そして崩れた崖を這い登った。

「恵子っ!」

玲奈は倒れた恵子に駆け寄ると、恵子の腕を自分に肩に回して立たせようと

する。しかし力が抜け切った恵子の大きな身体を持ち上げる事ができない。視線の隅に、濁流が迫る。


玲奈は恵子の腕を肩にかけ、空いた右腕でショートパンツのウエストを掴むと、中腰のまま恵子の身体を引きずり始めた。そして石段にたどり着くと、恵子の身体を仰向けに石段にもたせかけ、自分は恵子の頭の上に腰を下すようにした。そして両脇の下に腕を差し込むと、石段に両足を踏ん張って、恵子の身体を一段ずつ引っ張り上げ始めた。


 いくら今でも鍛えているとはいえ、体重差が30キロ近くある恵子の身体を引き上げながら、玲奈の身体は軋んだ。しかし、休んでいる時間は全く無い。2メートルほど引き上げた時、真っ黒な水が瓦礫と共に階段の下に押し寄せた。見る間に水かさが増し、恵子の下半身が飲み込まれる。水は山にぶつかって渦を巻き、恵子を押し流そうとする。玲奈がどんなに力を振り絞っても、それ以上引き上げられない。水かさはさらに増して行く。


その時、朦朧としていた意識が戻り、状況を認識した恵子が叫んだ。

「…班長っ、手を離してくださいっ!」

玲奈にもわかっていた。このままここにいたら、せりあがって来る水と瓦礫に飲み込まれる。そうなれば、ふたりとも助かる道は無い。そして自分が助かるためには、恵子を離すしかないと。それでも玲奈は叫んだ。

「バカっ!一緒に帰るんだよっ!」

水かさはさらに増し、玲奈の両腕の力も限界になろうとしていた。一瞬でも力を緩めれば、恵子は瓦礫に飲み込まれる。玲奈は歯を食いしばって、力を込め続けた。



『限界は、超えられる。それを可能にするのは、気持ちの力だ。』

玲奈がまだ陸自に入隊したての頃、教育隊の基礎訓練で音を上げた玲奈に対して、訓練教官の三曹が言った言葉が甦ってくる。

…私はそれを信じて、今までいろいろな苦しい時を乗り超えてきた。1年あとから後輩の恵子も陸自に入隊し、私と同じ隊に配属になってからは、今度は玲奈がその言葉を恵子にかけながら、一緒にがんばったんだ。だから、ここで負けるわけにはいかない…


しかしどんなに気力を振り絞っても、恵子の身体はそれ以上は上がらなかった。水かさはさらに上がり、石段を踏ん張る玲奈の足にまで届き始めた。このままなら、あと1分も持たない。それ以前にも、流されて来る大きな瓦礫に直撃されたら、終わりだ。仰向けになった恵子の胸の上にまで、水が上がってきた。もう、どうしようも無いのか。


 その時、玲奈の視界の片隅で、何かが動いた。人影の様だった。それは何か叫びながら、高台の避難所に続く低い木が生い茂った足場の悪い斜面をトラバースしながら、信じられないスピードでこちらに向かって来る。


身長が190センチに迫ろうかという大男だった。身長だけでなく、広い肩幅に分厚い胸、丸太のような腕というプロレスラーのような身体を、黒いランニングシャツとグリーンのバミューダパンツからあふれ出させている。しかしその体躯に似合わず、急斜面の低い木を飛び越え、岩を左右にかわしながら、猿のような軽快さで駆け抜けて来る。玲奈はその男の発する叫び声をはっきり聞き取った時、すべてを理解した。その男は、

「ケイコ!負けるな!」

と叫んでいた。

玲奈は、葉を食いしばって恵子の身体を支えながら、心の中で叫んだ。

《須田一尉!》

恵子の夫で、ふたりの元訓練教官。その後富士教導団のレンジャー課程教官を経て退官した、『和製ランボー』こと須田元一等陸尉が映画のようなタイミングで、とにかく現れた。この場面で、これ以上頼れる人はいない。


【19】

 須田は土砂崩れの斜面もまるで平地のように駆け抜けると、ふたりの元にたどり着いた。

「玲奈、ありがとう!後は任せろ。早く上へ!」

恵子には、

「宿で負傷者が出て、遅くなった。すまん」

と声をかけるが、再び意識が朦朧とした恵子は、須田の方を見て少し微笑んだだけだった。


玲奈は、こんな場面でも思わず挙手の敬礼をしそうになった自分に驚きながら、

「恵子をお願いしますっ!」

とだけ言って、恵子を須田に託した。全力で恵子を支え続けた腕にうまく力が入らないが、四つんばいになってなんとか斜面を登る。上の広場の手すりから皆が乗り出して、大声でふたりに励ましの言葉を叫んでいたことに、今になって気付いた。


玲奈は斜面を登りきり、広場に上がった。衛が駆け寄って来る。玲奈はこのまま衛の胸の中に飛び込んで行きたかったが、その気持ちをぐっと堪えて崖を振り返ると、手すりから身を乗り出した。状況はまだ、まだ終わってはいない。


 須田は恵子のぐったりとした身体を水から引き上げ、うつ伏せにして左肩の上に担ぎ上げた。そして右腕で恵子の身体を押さえ、左腕を崩れた斜面についてバランスを取りながら、慎重に足を踏み出した。2メートルほど登った時、先程まで玲奈が踏ん張っていた石段が、押し寄せる強い水流に一気に飲み込まれて見えなくなった。あのまま須田が来なかったら、恐らく今が、玲奈と恵子の最後の瞬間となったに違いない。


しかし須田は確実に、恵子を担いで崩れた斜面を登ってくる。もう大丈夫だ。恵子の怪我が心配だが、レンジャー資格者は優秀な“衛生兵”でもある。須田が適切な手当てをしてくれるだろう。それに恵子が海の家から背負って来た陸自迷彩色の非常持ち出しリュックには、恵子がアレンジした衛生キットが入っているはずだ。


 つい先ほどまでの、八方塞がりとも言えるような状況が嘘のようだ。芝居でもこうはいくまいと思えるくらいの、死の恐怖から生の希望への、鮮やかな場面転換だった。広場に張り詰めた先程までの緊張が幾分ほぐれて、笑顔で声援を送る者もいる。

「がんばれ!」

「もう少しだ!」


しかし、ほぐれかけた空気は再び一瞬で凍りついた。恵子を背負った須田の足が次の一歩を踏み出した瞬間、足元の斜面が小さな崩落を起こした。足を取られた須田は、恵子を背負ったままずるずると斜面をずり落ちて行った。須田はすぐに身体全体を斜面に投げ出し、両手足でブレーキをかけようとするが、ふたりの身体は、そのまま渦巻く真っ黒な水の中に飲み込まれて行った。


 あっという間の出来事に、誰も言葉が出ない。数瞬して、玲奈の振り絞るような叫びが空気を引き裂いた。

「いやあぁぁぁーっ!」

玲奈の身体が、がたがたと震え始める。

「うそ…うそ…」

目の前で起きた現実を全く受け容れられずに、玲奈はふたりが消えた渦巻く水を震えながら見つめている。玲奈の横で、衛はこんな理不尽な現実に、無性に腹が立った。そして、手すりから身を乗り出して、渦巻く水に向かって目を剥いて怒鳴った。

「ふざけるなよ!なんだよ!ふざけるなよ!」

自然の猛威の前に、人間の力などこんなものだと言うのか。


 少し離れた場所で、叫び声が上がった。

「あそこにいる!」

声の主が指差す方に、皆の視線が一斉に注がれるが、渦巻く瓦礫しか見えない。

「あそこだ!あの緑の屋根のとこ!」

流されて来た家の屋根の端に、恵子がしがみついている。ぐったりとしていて、屋根の端に両腕をかけているのがやっとの様に見える。しかし須田の姿は見えない。

「恵子っ!」

玲奈が叫んだ時、恵子のすぐ後ろに、頭がぽっかりと浮かび上がった。須田だ。ぐったりとした恵子を、濁流の中から屋根に押し上げたのだ。そうだった。濁流に呑まれても、それで諦めるはずは無かったんだ。恵子も須田も、最後の瞬間まで諦めるはずがない。


しかし須田も負傷しているようだった。水面に現れた頭からすぐに血が噴き出し、顔が真っ赤に染まって行く。須田は恵子を瓦礫からかばうように身体を寄せながら、辺りを不自然に見回している。その様子から、玲奈は須田の意図と状態を悟った。


須田は、つかまっている屋根が崖に近付くタイミングを計っている。そして崖に近付いたら恵子を抱えて屋根を離れ、崖に取り付くつもりなのだ。しかしおそらく、負傷のせいで目が良く見えないに違いない。水面下の両腕は、恵子の身体を支えることで精一杯で、顔に流れる血をぬぐうことも出来ないのだ。


 ふたりが取り付いた屋根は、渦のなかでゆっくりと回転しながら崖に近付いて来る。おそらく、チャンスは一回だ。引き波が始まったら確実に、成す術も無く、海へ向かって流される。そうなったら生き残れる可能性は、ほとんど無い。


玲奈は、須田に向かって叫んだ。

「須田さんっ!離脱時期を指示します!そのまま待機っ!」

玲奈の声は須田に届いた。須田はこちらを振り向いて大きく頷いたが、顔の向きが微妙に違う。やはり目が良く見えていない。玲奈は息を呑んで見つめる周囲の人たちに向かって叫んだ。

「しばらく声を出さないでください!お願いします!」

状況を理解した皆は、強張った表情で黙って頷いた。


玲奈は踵を返すと、崖を滑り降りて行った。既に水かさの増加は止まっている。水深は、おそらく4メートルくらいだ。しかし水際まで降りた玲奈は、そこで自分が判断ミスをした事に気付いた。そこからでは、ふたりが取り付いた屋根が見えないのだ。玲奈は、崖の上にいる衛を振り返った。懇願するような目つきだった。衛にはすぐに、玲奈の思いが電流のように伝わった。


おれが、ふたりの運命を握るのか。おれに出来るのか。いや、やるしかない!衛は声を出さずに、思わず右腕をあげて、親指を突きたてた。玲奈の唇が、《おねがい…》と言うように動くのが見えた。


【20】

 恵子と須田が取り付いた屋根が、ゆっくりと崖に近付いて来る。しかし、崖にぶつかって渦を巻く水流に翻弄されて、回転している。どのタイミングが屋根に取り付いたふたりと崖の距離が最短になるのか、衛は難しい判断を迫られた。屋根がさらに近付いて来る。まだ少し遠いか。しかしこのまま待っていたら、屋根の回転のせいでふたりの位置が崖と反対側になってしまう。衛は腹を決めた。

「玲奈!あと少し!」


衛を振り仰いでいた玲奈は、屋根の方角に向き直ると、叫んだ。

「須田さん!離脱準備っ!」

この距離なら、玲奈の声は確実に届いているはずだ。

数秒後、衛が叫んだ。

「今だ!」

玲奈がすかさず叫ぶ。

「離脱っ!いまーっ!」

須田は恵子の身体を水に引き込み、仰向けに浮かせた。そして顎の下に手をかけると、恵子を引っ張りながら泳ぎ始めた。玲奈は方向を示すために、叫び続けた。

「須田さん、こっちです、こっちです!恵子、がんばれ!こっちだ!」


漂う瓦礫の影からふたりの頭が現れるのを、玲奈は見た

「須田さん!恵子!がんばれっ!あと5メートル!」

須田は必死の形相で泳ぐが、崖近くの渦に阻まれて、なかなか近付かない。ふと、ふたりの姿が、渦の中に消えた。玲奈は息を呑む。嫌だ…ここまで来て、嫌だ…


数秒後、須田の頭が渦の中から飛び出した。だが恵子の姿が見えない。その時、苦痛に歪む須田の口から、野太い、地の底から湧き上がるような叫びが轟いた。

「レンジャァぁぁぁーっ!」


レンジャー教育課程で叩き込まれる叫び。地獄のような状況の中で、苦しい時、怖い時、気持ちが折れそうになった時に、叫べ。叫んで、気合を入れろ。選ばれし者だけが名乗る事を許される、名誉と栄光の称号、レンジャー。おれはレンジャーだ。だから、負けない。須田は目の前の瓦礫を押しのけ、最後の力を振り絞り、水中に沈んだ恵子を引っ張って、ついに崖に取り付いた。


 気がつくと、玲奈の周りには衛と数人の若者がいた。衛が連れて下りて来たのだ。すぐに全員で力を合わせて、須田の巨体を斜面に引っ張り上げた。すぐに恵子の頭が水面に現れる。須田の左腕は、しっかりと恵子の腕に絡み付けられている。しかし恵子は、意識が無い。


「恵子っ、わかる!?」

玲奈は恵子の頬を軽く平手で打つが、反応が無い。

「とにかく上へ!」

水から引き上げられて斜面に寝かされた須田は、数秒間激しく咳き込んだものの、すぐに立ち上がった。意識の無い恵子を担ごうとする。玲奈が止めるが、

「大丈夫だ」

の一言で撥ねつけた。鍛え上げられた戦士が、自らの命をかけて他を、それも自分の妻を守り抜こうとする鋼のような意思が溢れている。そしてその意志が、限界を超えさせた…。


恵子を背負った須田を皆で囲むようにして、広場へ上って行く。日陰には、誰かが気を回して、タオルを敷いた寝床が作られていた。須田は恵子をその上に寝かせると、すぐに呼吸と心拍を確認する。顔は真っ白で脈はほとんど触れず、呼吸が止まっている。


須田は玲奈を振り返り、

「CPRを実行する。玲奈、頼む」

と、無表情のままぶっきらぼうにも聞こえる調子で言った。玲奈は恵子の胸の横に膝をつき、大きなタオルを胸の上にかけてから、恵子のブラジャーを外した。そして膝をついて心臓マッサージの体勢を取る。須田は恵子の顎を持ち上げて気道を確保し、マウスツーマウス人口呼吸を準備した。

「現在十二時四十五分 CPR開始」

腕にはめたダイバーウオッチを見ながら、須田は静かに言った。


玲奈は全身の力を込めて、恵子の胸骨の辺りをリズミカルに圧迫する。

「イチ、ニー、サン、シー、ゴー…」

玲奈の額から汗がしたたる。何度も訓練を繰り返した技術だが、本当に生死の境をさまよう人間に対して行うのは初めてだった。しかも恵子は大切な仲間だ。そして、その仲間を失うかどうかは、今自分がやっていることにかかっている。後は無い。玲奈は一押しごとに、生への願いを込めた。

《恵子、負けないで…!》


 圧迫が30回をカウントし、玲奈は手を止めた。すぐさま須田が恵子の鼻をつまみ、唇を重ねて肺に息を吹き込む。須田が二回目の息を一杯吹き込んだ時、突然恵子は激しくむせ返りながら、身体を胎児のように丸めた。口と鼻から白く濁った大量の水を吐き出す。なおも激しくむせ返りながら水を吐き出す恵子の身体を、須田と玲奈が横向きにして押さえ、回復姿勢をとらせた。


「もう大丈夫だ」

しばらくして、須田は恵子の首筋に指を当てて脈拍を取りながら、玲奈の目を見つめて言った。

「本当に、ありがとう。玲奈のおかげで助か…」

最後は声にならない。須田の目から、涙が溢れ出した。固まり始めた血がべっとりとこびりついた“和製ランボー”須田の顔は、それでも穏やかな、妻の生還を心の底から喜ぶ、ひとりの夫のものだった。須田はまだ朦朧とした意識の底を漂う恵子の手をしっかりと握りながら、歯を食いしばって、泣いた。


 どんなに鍛え上げられた人間でも、自分の死に直面して怖くないわけが無い。大切な人の命の危機に直面して、心が乱れないわけが無い。しかしそれを乗り越える唯一の力は、“絶対に生き残る、絶対に助ける”という、愚直なまでの強い意志なのだと、玲奈は改めて思った。涙が、止まらない。ふと顔を上げると、衛と目が合った。衛の目も、真っ赤に泣き腫れていた。


【21】

 駿河湾沖の海底、深さ24kmを震源とするマグニチュード8.2の地震によって引き起こされた津波は、静岡県の太平洋沿岸部で、高いところで10メートルの波高を記録したらしい。ラジオから次々に各地の被害状況が流れる。玲奈がいるこの街でも津波は高さ6メートルに達し、海沿いの街はほとんど壊滅した。


高台の津波避難所から見下ろす水が引いた後の街は、古い木造家屋のほとんどが土台から引きちぎられるかその場で半壊していて、所々に濁流と瓦礫の衝突に耐えた頑丈な建物が、いくつか残っているだけだ。そしてあちこちの瓦礫の山の上に漁船や自動車が引っかかっている、およそ現実とは思えない光景だった。


水が引いてから30分近く過ぎたが、まだ大津波警報は解除されていない。引き波で海水面が大きく下がり、遠浅の砂浜が海岸から200m以上も露出している。その沖には、陸地から引き波で流された大量の瓦礫が漂い、その中から幾筋かの黒い煙が立ち上っている。海上でも、燃え続けているのだ。


 玲奈と須田は、高台の広場に集まった観光客と地元住民二百人ほどに対して、警報が解除されるまで絶対に低地に降りないように伝えて回っていた。津波は、何回にも渡って押し寄せるのだ。容態が落ち着いた恵子と彼女が助けた少年には、看護師の経験があると申し出た地元の中年女性が寄り添って、怪我の手当てをしている。


津波が引いた街の惨状を目の当たりにした人々は、最初はろくに言葉が出ず、泣き崩れる人も少なく無かった。でも今は変わり果てた街を眺めながら、周りの人とあれこれ言い合っている。それは想像もしていなかった凄惨な光景をなんとか現実のものとして受け容れるための、苦痛に満ちた作業でもあった。


 衛は崖際の手すりにもたれて、ぼんやりと瓦礫の街を眺めていた。まだローンが残っている自分の車を失ったことも悔しいが、それよりもあまりに凄まじい自然の力と、その中で繰り広げられた、鍛えられ、強い意思を持った人間たちの極限のドラマを目の前で見せ付けられ、自分があまりに何も知らず、何もできない事に腹が立っていた。

玲奈は、

『衛が助けてくれなかったら、ダメだったよ』

とねぎらってくれたが、自分の行動は玲奈の勢いに引きずられたようなものだと思っていたから、ほとんど慰めにもならなかった。何より、玲奈が恵子を濁流の中から引っ張り上げようとしているその時、衛は足がすくんで動けなかったのだ。それが、深い自己嫌悪の念に繋がっていた。


《人を守るって、簡単にできる事じゃないんだな…》

そう思いながらふと瓦礫の街に目をやると、海岸の近く ―すっかり見通しが良くなってしまっていた― に、いくつかの人影が見えた。何人か固まって、どう見ても楽しげな雰囲気だ。手に持ったビデオカメラや携帯電話を、瓦礫の山に向けているようだ。さらに目を凝らすと、津波に耐えた鉄筋コンクリート造りの建物から人影が出てきては、瓦礫の上に打ち上げられた漁船を指差して大騒ぎしている。そしてついには、その前に並んで記念写真を撮りだす者も現れた。


《なんだよ、あいつら…》

衛は恵子の横で様子を見ている玲奈を振り返ると、叫んだ。

「玲奈!あれを見てくれ!」

玲奈はすぐに衛の所に駆け寄って来た。そして遠くで騒いでいる人影を認めると、目を剥いた。

「何やってるのよ!まだ津波が来るのに!」

人影は次第に数が増え、みな海岸へ向かって行く。ここから叫んでも、声が届く距離ではない。


 その時だった。海を見ていた若者が叫ぶ。

「第二波、来るっ!」

水平線が再びむくむくと盛り上がり、白い波頭が沸き上がった。何人かの女が悲鳴を上げる。また、あの悪夢を見せ付けられるのか。高台にいる皆には、既にわかっていた。水平線に津波が現れたら、3分もしないうちに海岸に押し寄せる。そして今、海岸にいたら逃げ場はほとんど、無い。


もちろん玲奈にもわかっていた。しかし、言った。

「呼び戻しに行かなくちゃ!」

「ダメだ、間に合わない!」

「あのビルになら、間に合う!」

玲奈は衛がつかんだ腕を振りほどくと、崖の下り口へ向かって駆け出した。

「玲奈ダメだっ、行っちゃダメだぁっ!」

衛は玲奈を追った。行かせたら、終わりだ。しかし、全力で走る玲奈に、追いつかない。

「だれかっ!玲奈を止めてくれぇっ!」


 玲奈が崖の下り口に達しようとしたとき、その前にふたつの人影が立ちはだかった。しわがれた大音声が響く。

「行ってはいかぁんっ!」

あの、老夫婦だった。玲奈はふたりの前で、足を滑らせながら止まった。衛が追いついて、後ろから玲奈の両肩を掴む。


老人は顔を真っ赤にして、先ほどまでの穏やかな表情からは想像もできない、まるで仁王のような形相で、それでも感情を押し殺して、静かな口調で言った。

「いいか、聞きなさい。わしはこう見えても、今年八十八になる。昭和二十年の空襲で、わしらの子供も仲間も、みんな失ったんじゃよ。あんたのような勇敢な若い人を、もう死なせるわけにはいかん」

玲奈は身体を硬直させて、目を見開いている。老人は続けた。


「わしは理系の学生じゃったから、兵隊には取られんかった。早くにこいつと一緒になったんじゃが、静岡で空襲に遭ってな、逃げる途中でわしの背中から赤ん坊を落としてしまったんじゃ」

老人の眉間に、苦悩の皺が刻まれた。70年近く前の、しかし未だ癒えない悔恨がにじむ。


「赤ん坊がいない事に気がついた時には周りはもう火の海で、とても戻ることは出来んかった。そうしたら、近所のせがれが、探しに戻ると言うんじゃ。そいつはな、身体が弱くて兵隊に丙種でも受からんかった。今の人にはわからんだろうが、兵隊に行けんということは、それはもう肩身が狭いものでな、そいつは常日頃から、何とかしてお国のために役に立ちたいと言っておった」


老人の言葉に、衛の脳裏に写真で見た空襲後の焼け野原が蘇る。そういえばこの津波跡は、焼け野原にもそっくりじゃないか…。老人は続ける。

「わしらは必死で止めたが、そいつは『任せてください』と言って、戻って行ってしまったんじゃ。そしてそのまま、戻って来んかった…」

老人の表情から険しさが抜け落ち、目に涙が光った。さらに言葉を続ける。

「人間の気持ちや力だけでは、どうにもならん事もあるんじゃよ。それに、あんたのような人が生き残らんかったら、だれが子供たちやわしらのような老いぼれを守ってくれると言うんじゃ・・・」


老人は一旦言葉を切り、硬直したまま聞いている玲奈の目をまっすぐに見つめてから、続けた。

「だから、わかってくれるな。無駄に死んではいかん。この老いぼれからのお願いじゃ」

玲奈の身体が小刻みに震え始めるのが、衛の腕に伝わって来た。すると、それまで黙っていた老人の妻が、穏やかな表情で、孫を諭すように言った。

「あなたはもう十分にやりましたよ。十分すぎるくらいに。それに、あなたにもご家族があるでしょ。そんなに素敵な彼氏さんもいるし。そんな人たちを悲しませてはいけませんよ。あなたは本当に、ええ本当に立派にやりましたよ」


 玲奈の身体の震えが大きくなり、見開いたままの目からは、大粒の涙が溢れ出した。そして玲奈の身体から力が抜け、衛の腕をすり抜けて、その場に崩れ落ちるように、ぺたんと座り込んだ。衛は立ったまま、玲奈の震える背中を見つめている。いつもより、ずっと小さく見える。白いTシャツが、泥だらけだ。今、玲奈にかける言葉は何も、思いつかない。


「…わたし…わたし…」

震える声が、唇から漏れる。玲奈は両手で顔を覆うと、声を上げて泣いた。今までずっと張り詰めていた気持ちが途切れ、抑えていた感情が一気に噴き出した。背中を丸めて、苦しそうにしゃくりあげる。衛は玲奈の横にひざまずき、震える玲奈の肩を優しく抱いた。それしか出来なかった。そして、穏やかな表情で見つめる老夫婦に向かって、深く頭を下げた。


その時、津波の第二波が海岸に到達し、第一波より大きな飛沫を空に吹き上げた。数秒後、辺りの空気を震わす轟音が崖を駆け上がって来て、玲奈の苦しげな嗚咽をかき消した。


【22】

 地震の発生から6時間ほどが過ぎ、大津波警報が解除された。既に夏の太陽は大きく西に傾き、一見すると穏やかさを取り戻した海を、茜色に輝かせている。しかし沿岸の街は、それまでに3回に渡って押し寄せた津波によって、ほとんど破壊し尽くされていた。


高台の津波避難所に避難していた観光客や地元住民は、少しずつ街へ、いや街だった場所へ戻り始めた。海岸近くの水に漬かったままのビルの上空で、紺色に塗られた航空自衛隊のヘリコプターがホバリングして、屋上から避難者を吊り上げているのが、遠くに見える。


陽はさらに西に傾き、空が夕焼けに染まり始めた。

「これから、どうしようか…」

呟く衛に、隣で破壊されつくした街を見つめていた玲奈が答えた。

「とりあえず、ここの避難所に行くしかないわね…」

「いつ東京に戻れるかな」

「そうね、早くても3日か4日…もっと長くかかるかも…」

ラジオで聞いた情報によると、東京や横浜も震度5強から5弱の揺れに見舞われ、かなりの被害が出ているらしい。交通機関の復旧の目途も立っていない。この辺りの震度は、6強だったという。


「それまで避難所で、ただ待つしかないのか」

衛が言うと、玲奈は衛の方を向いて、口元に少しだけ笑みを浮かべながら言った。

「大丈夫。十分忙しいから。助けが必要な人が、たくさんいるわ」

衛は、なんだかこんなのはすごく久しぶりだと思いながら、敢えて軽口を返した。

「玲奈の“ひとり災害派遣”は続く、か」

「バカ。わたしたちはひとりじゃないわ」

玲奈は広場の奥にいる、須田と恵子を振り返りながら言った。

「それにもちろん、あなたもいるし」

恵子はもうすっかり元気を取り戻し、起き上がって須田と何やら話している。恵子の左の太ももに巻かれた、白い包帯が痛々しい。衛もふたりの姿を振り返りながら、思った。

《いろんな意味で、でかい夫婦だ…》

身体の大きさはもとより、鍛え上げられた身体と精神、仲間への信頼、そしてなによりお互いを思いやる、大きく深い愛情。


 衛は、あまりにも目まぐるしく過ぎたこの数時間の内に、自分の中にひとつの決意が芽生えたことを感じていた。須田夫婦が見せた極限の姿も、その決意に大きく影響しているのは間違い無い。恐らく玲奈や恵子、もちろん須田ほどには無理だろうけど、もっと強くなりたい、人のために役立てるようになりたい、そして、大切な人を守り抜きたいという決意だった。そして衛には、それを実現するために、今ここでやらなければならないことがあった。


 太陽が山の陰に落ち、空が茜色に染まっている。辺りが薄暗くなり始めた。玲奈が言う。

「そろそろ行きましょうか。恵子も大丈夫そうだし」

衛は慌てた。せりふ覚えが十分でないままに、いきなり本番の舞台に送り出された役者のような気がする。でも、今しかない。衛は、腹を決めた。


変わり果てた街を見下ろす崖の上で、衛は隣に立つ玲奈に向き直ると、言った。

「れ、玲奈」

声がうまく出ない。玲奈は少し怪訝そうに、衛を見た。

「なあに?」

「おれ、もっと強くなりたいんだ…」

「衛は十分に強いわ」

「いや、ぜんぜんだめだ。もっと、もっとだ」

「どうしたよの、急に」

玲奈はきょとんとしている。


「おれに、もっといろいろ教えてくれ。鍛えてくれ」

玲奈は、なあんだというように笑顔になって言った。

「ええ、いいわ。でもわたし、厳しいわよぉ」

最後はおどけて、少し眉間に皺を寄せて衛を睨むようにした。

「頼む。ただし…」

「ただし…?」

衛は一呼吸置いた。自分の心臓の音が、頭のなかにがんがんと響き渡るようだ。


衛は大きく息を吸い込んでから、続けた。

「これから、ずっとだ」

「え?」

「これから一生、ずっとだ!」

「一生…」

玲奈は目を大きく見開いて、衛を見る。視線が、重なる。

「わからないのか」

「…わからないわけないじゃない…」


 玲奈はいきなり、衛の胸に飛び込んで来た。その勢いに衛は2~3歩後ずさりしたが、それでもしっかりと玲奈の身体を受け止め、力を込めて抱きしめた。玲奈は、乾いた泥がこびりついた衛のTシャツに顔をうずめながら、搾り出す様に言った。

「…こんなときに…いきなり…バカ…バカっ…」

「ゴメン…でも、今、伝えたかった」

玲奈は何も答えず、衛の身体に回した腕に力を込めてきた。衛は玲奈の埃まみれの髪を撫でながら、頭の隅で、思った。

《この先、何回バカって言われるのかなぁ…》

いいさ。玲奈にだったら、何千回、何万回だって言われてもいいさ…。


 少し離れた場所で、ひとつのシルエットになったふたりの様子を見ていた恵子と須田は、ふたりの声こそあまり聞こえなかったが、すっかりと“状況”を理解していた。須田が半ばあきれ顔で言う。

「あーあ、衛くん、ここでキメるかなぁ」

「なんだか、私たちの時と少し似てるかも」

「そうか?」

「演習の真っ最中に、泥まみれの時にプロポーズされた私の身にもなってよ」

「いけなかったか?」

恵子は、笑いながら言う。

「ああいうのは服務規程違反にはならないんですかね?」

「泥だらけのプロポーズ、俺たちらしくていいじゃないか」

「衛さんも、これで仲間ね」

「でも大変だぞ、小さな巨人、玲奈班長の旦那になるのは」

「そうかもね」

ふたりは声を殺して少しだけ、笑った。



 「さてと!」

しばらくして、須田がわざとらしい大声で言う。衛と玲奈は、びくっとして身体を離した。

「そろそろ移動するぞっ!」

恵子が、ふたりに声をかける。

「玲奈さん、お幸せにっ!衛さん、玲奈さんを泣かせたら、私が承知しませんからね!」

そうは言いながら、恵子には衛が玲奈の厳しさに泣かされているシーンしか想像できない。あたふたした衛が、決まり悪そうに言った。

「お、お手やわらかに…」

玲奈は、少し泣き腫らした目でそんな衛の様子を見ながら、晴れやかな笑顔だ。


 手早く荷物をまとめて、近くの中学校に開設されているはずの避難所へ移動する準備が整った。須田が恵子に肩を貸して、立ち上がらせる。生活の糧をすべて津波に流されてしまった須田と恵子には、これから長いこと過酷な日々が続くだろう。それでも、あのふたりならぐいぐい力強く乗り越えて行ける、衛はそう確信していた。そしておれと玲奈もこれから、―ちょっと大変そうだけど―新しい生活を築き上げて行くんだ。


 衛は、三人の顔を見回しながら、言った。

「自衛隊ではこういうとき、あれ、言うんですよね」

「…?…ああ、覚えたのね」

玲奈が笑っている。

すぐに衛の考えを理解した恵子が提案する。

「じゃあ、みんなで発令しますか!」

須田も笑顔でうなずく。


玲奈が音頭を取った。

「では、せーのっ!」

「状況ーっ、開始っ!」


少しずれた四人の声が、暮れかけた夏の空に吸い込まれて行った。



【完】



最後までお読みいただき、ありがとうございました。ご感想、評価などをいただれば幸いです。


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