たのしいあそび
「今日も二人で遊んでいなさいよ!」
バタン。
ガチャ。
手のかじかむ午前八時。
木楓の母親、想は、今日も慌ただしく出かけて行った。
いつも通りなら、木楓が弟の爽也を寝かせる午後九時頃に帰ってきて、木楓が沸かしたお風呂に入って、木楓が敷いた布団にくるまって死んだように寝る。
今日もまた、そのように帰ってくるはずだ。
しかし、木楓はわかっている。
彼女には、何の用事もないということを。
――――――
木楓の口からは、もうため息も出ない。
想が朝早く消えては夜遅く現れ、家を空けている間すべての面倒事を木楓に押し付ける生活も、すでに三年以上続いていた。
三年前までは、想が母親として子どもの面倒を見ていた。
しかし、想は料理をしなかった。
木楓が乳離れをし、大人と同じようなものを食べるようになっても、白米の上に適当な調味料をかけて食べさせるだけだった。
ときおり卵が載っていることもあったが、もちろん満足に食べたことは一度もない。
そして、なぜか想は木楓と一緒に食卓を囲んだことがない。
想は、木楓が箸を持つと同時に家を出て、彼女が食器を洗い終える頃に家に戻ってきた。
もとから、食事は一人分しか用意されていなかった。
帰ってくる想は、いつも甘いコーヒーの匂いをまとっていた。
ちゃぶ台の上には、今日も五百円玉が置かれている。
たったの一枚だけ。
木楓は、毎日与えられる雀の涙をできる限り削らないようにやりくりしている。
想に見つかることのないよう、部屋の角という角にお釣りを貯めている。
想に見つかってもすべてを失わないように、五百円ごとに場所を変えて貯めている。
いつか来るであろう、想が帰ってこない日のために。
木楓は今日も、買い物に出る。
一歳になったばかりの爽也を留守番させ、徒歩四分のスーパーまで十五分かけて歩く。
草むらの中を飛び回っている蝶々、黒塗りで恰好良い高級車、子どもの声で満ち満ちた小学校。
すべてを無視して、ただひたすらに歩く。
自転車に乗っているおじいさんや、手押し車を押してとぼとぼと歩いているおばあさんの怪訝な目に晒されながら、ただひたすらに歩く。
俯くことも、顔を上げることもなく、知らない世界を見つめて歩く。
木楓は、近所のスーパーにある野菜の値段をほとんど知っている。
自分が嫌いなトマトを除いて、歯ごたえがあり満腹感を覚えやすいキャベツ、かさ増しに使えるもやし、食べたくなったときに買ってくるじゃがいもなど、毎日の料理に使う食材の値段をしっかりと覚えている。
しかし、野菜以外の値段は知らない。
小学生がこぞって飲みたがるジュース類、小学生がことあるごとに欲しがるおやつ類、子どもは嫌がる一方親が好んで買う魚介類、今日は贅沢だ、と喜ぶ子どもの横でカゴに入れられる肉類。
そのどれも、木楓は味を知らない。
「ふたりぶん……」
カゴの中には、もやし三パック、じゃがいも一袋が入っている。
木楓と爽也が二日ほど生き延びるために必要な食材だった。
ようやく手が届くようになったセルフレジで、バーコードを読み取ってはレジ袋に詰めてゆく。
お釣りは百九十三円。
「ふたりぶん……」
木楓は、爽也を養う必要があった。
今日のカゴに入っている食材があれば、木楓一人を何日養えるだろうか。
二年間のサバイバルで貯めた貯金を崩しながら、彼女は爽也を養っている。
貯金は確実に減っていた。
食材の消費量は、爽也のほうが多かった。
木楓は帰路につく。
すれ違うおじいさんおばあさんに怪訝な目で見られ、同年代の子どもたちがきゃっきゃとはしゃいでいる小学校のグラウンドの横を通り過ぎて、ただ歩く。
俯くことも、顔を上げることもなく、知らない世界を見つめて歩く。
木楓は遊んだことがない。
まともにご飯を与えない母親がおもちゃを与えるわけもなく、幼稚園や保育所に通わせることもなかったために、木楓は遊びというものを知らない。
つみ木、おままごと、鬼ごっこ、竹馬、泥団子。
そのどれも、木楓は存在すら知らない。
ただ毎日を必死に生きる木楓は、日々の中に娯楽を見出す人類の知恵を知らない。
日々の中に娯楽があることも知らない。
彼女にとって、これが当たり前だった。
木楓は、アパートのドアに手をかける。
ガチャ。
バタン。
陽が目立ち始めた午前九時。
木楓は小さな冷蔵庫に買ってきた野菜を詰め込み、ドアポストに詰め込まれた不要なチラシ類を持って、何も敷かれていない床に腰を下ろす。
チラシ類の中に重要なものがないことを確認して、電動シュレッダーに1枚ずつ通してゆく。
チラシは三枚だった。
ピッ。
「じゃりじゃりだ……」
ジャリジャリと控え目な音を立てながら、シュレッダーはゆっくりとチラシを噛みちぎってゆく。
不要なチラシを粉々にして捨てやすくする。
シュレッダーは、この世で最も頼りになるものだった。
ピッ。
「じゃりじゃりしてる……」
木楓は、シュレッダーを初めて使った。
想がいつかどこかで買ってきたこの電化製品は、木楓に快楽を提供した。
ピッ。
「じゃりじゃり……!」
木楓は、ついに三枚目に手をかけた。
宅配サービスのチラシ、分譲マンションのチラシ、車の販促チラシ。
どれも、木楓にとって不要で邪魔だった。
そんな不要で邪魔なものを、自らの手で消し去る。
これほどまでに、木楓を溺れさせる行為は、かつて存在しなかった。
「なくなっちゃった……」
木楓は、三枚のチラシを使い切った。
部屋の中には、もうシュレッダーに通せそうなものはない。
木楓はまだ楽しみたかった。
人生で初めて発見した娯楽と快感に、ずっと溺れていたかった。
木楓は、楽しめるものを探し始めた。
タンスの下、台所の上、ちゃぶ台の下。
もっと聞きたい。
もっと粉々にしたい。
もっと楽しみたい。
木楓は、人生で初めて“遊び”というものを知った。
質素が行き過ぎた木楓の家には、木楓を楽しませるためのものはもうなくなってしまっていた。
「ねえ……」
爽也は木楓の呼びかけに反応しなかった。
爽也は、充電コードのように細い腕を見つめながら、床を爪で弾いていた。
「爽也……」
消え入るような声で名前を呼ばれても、未だ爽也は、ただ無機質で冷たい床を傷つけている。
「ねえってば!」
棒のような体躯の少女が出したとは到底思えない大声に、爽也は本能的に振り返った。
人生で初めてのヒステリーを起こした木楓の形相に、爽也は顔をそらした。
木楓は顔をそらした爽也に近づき、力ずくでシュレッダーの近くへ彼を引きずった。
栄養不足の小学三年生の微細な力でも、十分に引っ張ることができるほど爽也は弱りきっている。
木楓にとって爽也とは、弟でも幼児でも何でもなかった。
何かを考える必要はなかった。
ただそこにあるシュレッダーに、ただそこにあるものを通して、削るだけ。
シュレッダーに手を通すだけ。
シュレッダーに手を通すだけ。
栄養不足でタコ紐のようになった真っ白い腕で、爽也を引っ張った。
力負けの結果、この一歳児は徐々にシュレッダーに近づいていった。
シュレッダーの口は、一歳児の手先より大きかった。
冷えすぎた鉄の梁が剥き出しのアパートの一室には、ただ幼すぎる二人の、戦慄した呼吸だけが置いてあった。
声もない。
音もない。
死を強制する女の子がいる。
生と死の境目で男の子が抗っている。
木楓はただ無表情で目を見開いていた。
この一歳児を処理する瞬間を見るために。
ピッ。
――――――
ガチャ。
バタン。
闇に包まれた午後九時。
木楓は、人生で初めて母親を出迎えた。
想は、思わず鼻をつまんで木楓に尋ねる。
「ねえ……この臭い……なに……?」
「へへ!」
木楓は、人生で初めて人に向けて笑顔を作った。
台所の上にあった包丁を握って大きな笑顔で答える木楓に、想はもう一度尋ねた。
「ねえ……あの赤いやつ……」
「ううん!」
もう一度、木楓は笑顔で答えてみせた。
邪魔だった一歳児は、意外にもシュレッダーの中に収納されていた。
「ねえ……あんたなにしたの……」
「なにも」
木楓は、一歩、また一歩と母親に近づいた。
包丁を手に。
「ねえ……なにする気なの!」
「やだ!!」
木楓は精一杯の力で、何度も想を切りつけた。




