表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

たのしいあそび

作者: 宗 由布
掲載日:2026/03/24

「今日も二人で遊んでいなさいよ!」


バタン。

ガチャ。

手のかじかむ午前八時。

木楓(こふう)の母親、(こころ)は、今日も慌ただしく出かけて行った。

いつも通りなら、木楓(こふう)が弟の爽也(そうや)を寝かせる午後九時頃に帰ってきて、木楓(こふう)が沸かしたお風呂に入って、木楓(こふう)が敷いた布団にくるまって死んだように寝る。

今日もまた、そのように帰ってくるはずだ。


しかし、木楓(こふう)はわかっている。

彼女には、何の用事もないということを。



――――――



木楓(こふう)の口からは、もうため息も出ない。

(こころ)が朝早く消えては夜遅く現れ、家を空けている間すべての面倒事を木楓(こふう)に押し付ける生活も、すでに三年以上続いていた。


三年前までは、(こころ)が母親として子どもの面倒を見ていた。

しかし、(こころ)は料理をしなかった。

木楓(こふう)が乳離れをし、大人と同じようなものを食べるようになっても、白米の上に適当な調味料をかけて食べさせるだけだった。

ときおり卵が載っていることもあったが、もちろん満足に食べたことは一度もない。

そして、なぜか(こころ)木楓(こふう)と一緒に食卓を囲んだことがない。

(こころ)は、木楓(こふう)が箸を持つと同時に家を出て、彼女が食器を洗い終える頃に家に戻ってきた。

もとから、食事は一人分しか用意されていなかった。

帰ってくる(こころ)は、いつも甘いコーヒーの匂いをまとっていた。


ちゃぶ台の上には、今日も五百円玉が置かれている。

たったの一枚だけ。

木楓(こふう)は、毎日与えられる雀の涙をできる限り削らないようにやりくりしている。

(こころ)に見つかることのないよう、部屋の角という角にお釣りを貯めている。

(こころ)に見つかってもすべてを失わないように、五百円ごとに場所を変えて貯めている。

いつか来るであろう、(こころ)が帰ってこない日のために。


木楓(こふう)は今日も、買い物に出る。

一歳になったばかりの爽也(そうや)を留守番させ、徒歩四分のスーパーまで十五分かけて歩く。

草むらの中を飛び回っている蝶々、黒塗りで恰好良い高級車、子どもの声で満ち満ちた小学校。

すべてを無視して、ただひたすらに歩く。

自転車に乗っているおじいさんや、手押し車を押してとぼとぼと歩いているおばあさんの怪訝な目に晒されながら、ただひたすらに歩く。

(うつむ)くことも、顔を上げることもなく、知らない世界を見つめて歩く。


木楓(こふう)は、近所のスーパーにある野菜の値段をほとんど知っている。

自分が嫌いなトマトを除いて、歯ごたえがあり満腹感を覚えやすいキャベツ、かさ増しに使えるもやし、食べたくなったときに買ってくるじゃがいもなど、毎日の料理に使う食材の値段をしっかりと覚えている。

しかし、野菜以外の値段は知らない。

小学生がこぞって飲みたがるジュース類、小学生がことあるごとに欲しがるおやつ類、子どもは嫌がる一方親が好んで買う魚介類、今日は贅沢だ、と喜ぶ子どもの横でカゴに入れられる肉類。

そのどれも、木楓(こふう)は味を知らない。


「ふたりぶん……」


カゴの中には、もやし三パック、じゃがいも一袋が入っている。

木楓(こふう)爽也(そうや)が二日ほど生き延びるために必要な食材だった。

ようやく手が届くようになったセルフレジで、バーコードを読み取ってはレジ袋に詰めてゆく。

お釣りは百九十三円。


「ふたりぶん……」


木楓(こふう)は、爽也(そうや)を養う必要があった。


今日のカゴに入っている食材があれば、木楓(こふう)一人を何日養えるだろうか。

二年間のサバイバルで貯めた貯金を崩しながら、彼女は爽也(そうや)を養っている。

貯金は確実に減っていた。

食材の消費量は、爽也(そうや)のほうが多かった。


木楓(こふう)は帰路につく。

すれ違うおじいさんおばあさんに怪訝な目で見られ、同年代の子どもたちがきゃっきゃとはしゃいでいる小学校のグラウンドの横を通り過ぎて、ただ歩く。

(うつむ)くことも、顔を上げることもなく、知らない世界を見つめて歩く。


木楓(こふう)は遊んだことがない。

まともにご飯を与えない母親がおもちゃを与えるわけもなく、幼稚園や保育所に通わせることもなかったために、木楓(こふう)は遊びというものを知らない。

つみ木、おままごと、鬼ごっこ、竹馬、泥団子。

そのどれも、木楓(こふう)は存在すら知らない。

ただ毎日を必死に生きる木楓(こふう)は、日々の中に娯楽を見出す人類の知恵を知らない。

日々の中に娯楽があることも知らない。

彼女にとって、これが当たり前だった。



木楓(こふう)は、アパートのドアに手をかける。

ガチャ。

バタン。

陽が目立ち始めた午前九時。

木楓(こふう)は小さな冷蔵庫に買ってきた野菜を詰め込み、ドアポストに詰め込まれた不要なチラシ類を持って、何も敷かれていない床に腰を下ろす。

チラシ類の中に重要なものがないことを確認して、電動シュレッダーに1枚ずつ通してゆく。

チラシは三枚だった。


ピッ。


「じゃりじゃりだ……」


ジャリジャリと控え目な音を立てながら、シュレッダーはゆっくりとチラシを噛みちぎってゆく。

不要なチラシを粉々にして捨てやすくする。

シュレッダーは、この世で最も頼りになるものだった。


ピッ。


「じゃりじゃりしてる……」


木楓(こふう)は、シュレッダーを初めて使った。

(こころ)がいつかどこかで買ってきたこの電化製品は、木楓(こふう)に快楽を提供した。


ピッ。


「じゃりじゃり……!」


木楓(こふう)は、ついに三枚目に手をかけた。

宅配サービスのチラシ、分譲マンションのチラシ、車の販促チラシ。

どれも、木楓(こふう)にとって不要で邪魔だった。

そんな不要で邪魔なものを、自らの手で消し去る。

これほどまでに、木楓(こふう)を溺れさせる行為は、かつて存在しなかった。


「なくなっちゃった……」


木楓(こふう)は、三枚のチラシを使い切った。

部屋の中には、もうシュレッダーに通せそうなものはない。

木楓(こふう)はまだ楽しみたかった。

人生で初めて発見した娯楽と快感に、ずっと溺れていたかった。

木楓(こふう)は、楽しめるものを探し始めた。

タンスの下、台所の上、ちゃぶ台の下。


もっと聞きたい。

もっと粉々にしたい。

もっと楽しみたい。

木楓(こふう)は、人生で初めて“遊び”というものを知った。


質素が行き過ぎた木楓(こふう)の家には、木楓(こふう)を楽しませるための()()はもうなくなってしまっていた。



「ねえ……」



爽也(そうや)木楓(こふう)の呼びかけに反応しなかった。

爽也(そうや)は、充電コードのように細い腕を見つめながら、床を爪で弾いていた。


爽也(そうや)……」


消え入るような声で名前を呼ばれても、未だ爽也(そうや)は、ただ無機質で冷たい床を傷つけている。


「ねえってば!」


棒のような体躯の少女が出したとは到底思えない大声に、爽也(そうや)は本能的に振り返った。

人生で初めてのヒステリーを起こした木楓(こふう)の形相に、爽也(そうや)は顔をそらした。

木楓(こふう)は顔をそらした爽也(そうや)に近づき、力ずくでシュレッダーの近くへ彼を引きずった。

栄養不足の小学三年生の微細な力でも、十分に引っ張ることができるほど爽也(そうや)は弱りきっている。


木楓(こふう)にとって爽也(そうや)とは、弟でも幼児でも何でもなかった。




何かを考える必要はなかった。

ただそこにあるシュレッダーに、ただそこにある()()を通して、削るだけ。

シュレッダーに手を通すだけ。

シュレッダーに手を通すだけ。

栄養不足でタコ紐のようになった真っ白い腕で、爽也(そうや)を引っ張った。

力負けの結果、この一歳児は徐々にシュレッダーに近づいていった。


シュレッダーの口は、一歳児の手先より大きかった。

冷えすぎた鉄の梁が剥き出しのアパートの一室には、ただ幼すぎる二人の、戦慄した呼吸だけが置いてあった。

声もない。

音もない。

死を強制する女の子がいる。

生と死の境目で男の子が抗っている。


木楓(こふう)はただ無表情で目を見開いていた。

この一歳児を処理する瞬間を見るために。



ピッ。



――――――



ガチャ。

バタン。

闇に包まれた午後九時。

木楓(こふう)は、人生で初めて母親を出迎えた。

(こころ)は、思わず鼻をつまんで木楓(こふう)に尋ねる。


「ねえ……この(にお)い……なに……?」


「へへ!」


木楓(こふう)は、人生で初めて人に向けて笑顔を作った。

台所の上にあった包丁を握って大きな笑顔で答える木楓(こふう)に、(こころ)はもう一度尋ねた。


「ねえ……あの赤いやつ……」


「ううん!」


もう一度、木楓(こふう)は笑顔で答えてみせた。

邪魔だった一歳児は、意外にもシュレッダーの中に収納されていた。


「ねえ……あんたなにしたの……」


「なにも」


木楓(こふう)は、一歩、また一歩と母親に近づいた。

包丁を手に。


「ねえ……なにする気なの!」


「やだ!!」


木楓(こふう)は精一杯の力で、何度も(こころ)を切りつけた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ