6 無法者の言い分
「……藤原篤子は恋敵を呪ってはいない。もしかすると、生き霊になったっていうのも質の悪い噂かもな」
蛹石の夢の世界から戻った颯は、綾埜を拘束していた縄を解くと、再び発光し始めた篤子の蛹石を、蒔絵の蝶が描かれた小箱に収めて外に出た。
後を追い、簀子から砂地に下りる。赤い山茶花が少し咲いているだけの素朴な庭だが、見上げた空は果てなく澄み渡るような青である。
「……やっぱり、颯も妙に思っていたのね?」
「ああ。最初は半信半疑だったけど、どう考えても不自然なところがあったから」
「貞恒様が側にいる晩だけ苦しむ江子様。生き霊になったと噂をされるようになり突然亡くなった篤子様。あまりにもできすぎた話だもの。全ては貞恒様の策略なのかしら」
「さあな。だが、篤子姫の死因が病じゃなかったとしても、江子姫には呪詛する理由がない。自分の方が愛されているのに、危険を冒す必要はないからだ。この事件で得をしたのは貞恒殿。そうなると……篤子姫も心のどこかでは気づいていたんだろう。それを認められなくて、憎しみをこじらせてああなった」
そして、颯の言葉で確信を得た篤子は、恨みをぶつけるべき対象を思い出し、貞恒の姿をした魂鬼を斬り伏せた。生前の憎悪を克服した篤子は今、羽化の時を迎えようとしている。
「まあ、真相はわからないが、少なくとも奴は女心を弄んだんだ。夢の中で刺されるくらい、どうってことないさ」
颯は淡泊に言い、小箱を胸の前に掲げた。
男が多くの妻を持つことは当然の世の中だが、もし、かつての女を邪魔に思い貶めようとしたならば、裁きが下されても文句はないだろう。
目顔で促された綾埜は、小箱を封じる、蝶を模した留め金に指をかける。
「さあ、飛べ」
焦らすように広がる蓋の隙間から、淡い光が細く溢れ出す。
立ち込めた霧のような淡光が陽光に溶かされると、収められていた乳白色の蛹石が割れ、薄紅に輝く蝶が翅を干しているのが見えた。
篤子の魂が羽化した姿。一斉に咲き誇り、儚く散っていく桜花のような翅である。
(篤子様は江子様を呪ってなんかいないわ)
翅の色は、魂の色。可憐で儚い色彩を持つ篤子が、人を呪詛するはずなどない。少なくとも綾埜は、そう思った。
薄紅の蝶は箱の縁に這い上がり、躊躇うように立ち止まる。やがて、遠い小鳥のさえずりに耳を澄ますような間を空けてから、そよいだ風に背中を押されて羽ばたいた。
煌めく鱗粉が降り注ぐ。それらは庭の山茶花に触れる前に空気に溶けていく。彼女の姿は清らかで、戸惑いがちな希望に満ちていた。
――私は江子姉様を呪詛してなどいない。それなのに、誰も彼もが私を悪女と呼ぶの。
篤子の悲痛な声が脳裏に蘇る。蒼天に吸い込まれていく蝶を見送りながら、綾埜は心の中で呟いた。
(私は信じるわ)
「……今度は幸せにしてくれる男に惚れろよ」
ぽつり哀れむ声を落としたのは誰か、と思わず顔を上げる。無論、ここには颯と綾埜しかいない。
ただ一点を見つめる颯の瞳を覗けば、どこまでも続く青空が映っている。粗野な言動が目立つ男の優しげな眼差しに、綾埜は目を奪われた。
案外悪い人ではないのかもしれない。羽化を促す方法は粗忽だったが、篤子が殻を破るきっかけを生み出したのは彼の強引さでもあったのだ。
やがて、視線を感じたのか、颯は綾埜に向き直る。
「どうだ、魂蝶寮が捨てようとした蛹石が羽化するのを見届けた気分は」
皮肉な言い様だが、不思議と苛立ちは覚えなかった。颯の声色に、蔑むような調子がないからかもしれない。
「人は、希望の光を失ったらそこで終わりというわけではないんだ。ただ、蛹石は声を出せないから。まだできる、生きたい、生まれ直したいっていう魂の叫びを、誰にも聞き届けてもらえない。たったそれだけなんだ。おまえ、無光堂の周りに散らばる蛹石の欠片を見ただろ?」
綾埜は頷いた。夜の薄闇の中であったが、ところどころに乳白色の小石が散らばっているのを確かに見た。
「あれは、貧民の蛹石だ。寺社に供養料を支払う財力のない遺族は、家族の魂が光を失うまで見守って、野山に捨てるしかない。中には、せめてもの供養をと思うのか、無光堂の側に持ってくる奴もいる。哀れだろ」
「だからあなたは、犯令行為を続けているわけね」
「少し見直したか?」
「……あなたがただの悪者ではないことはわかったわ」
「素直なのかどうか微妙だな。だがまあ」
颯はずい、と顔を寄せて、にんまりと笑う。
「謝礼をもらって、美味い飯と酒を両手に楽しく暮らしたいってのが一番の動機だけどな」
「なっ……」
「なあ、綾埜」
半ば気色ばみかけた綾埜を冷やかす颯の瞳に、不意に一雫、真摯な色が宿った。
「蛹石は誰のものだと思う?」
「どういう意味?」
「ほら、蛹石は人の魂だろ。当然、そもそもの持ち主は死んでいる。たとえば、死者が遺した財は、誰の所有物になるんだ?」
「それは、妻や夫、子どもたち……遺された家族の物だわ」
「じゃあ、蛹石も同じだろ。家族から頼まれて蛹石を回収して羽化させることの何が悪い?」
「それは」
綾埜が答えに窮すことは、想定通りだったらしい。颯はそれ以上追及することはなく身体を離し、小箱の蓋を閉じると軽く伸びをして、一人ですたすたと母屋に戻って行く。
「まあとにかくさ、都には、俺たちみたいなもぐりの羽化師が結構いる。それを知っていて、魂蝶寮は見て見ぬふりをしているんだよ。こういう小さな希望すら摘み取ってしまったら、貧乏人の不満がどんどん膨らんでいくだろ」
これまで考えたこともなかったが、蛹石が路傍に遺棄されている現状を目の当たりにしてしまえば、信じるしかない。綾埜は颯の背中に声をかけた。
「ねえあなたはどこで羽化の術を学んだの? 夢の中で簡単に物を生み出したり人間の姿を取ったりするなんで、そう簡単にできることではないはずよ。教本にも載ってない」
「別に、少し適性があれば、誰にでもできる。実際、おまえも蝶夢の中で人型になっただろ」
「でもあれは、導いてもらったから」
「俺だって最初はそうさ」
「都には、それほど技術がある羽化師が他にもいるの?」
「さあな。同業者とはそんなに交流はない」
「じゃあどうやって」
「俺がいつ、もぐりの羽化師から指導を受けたって言った?」
簀子に上った颯が肩越しに振り返り、さらりと言った。
「何年か前まで、俺も魂蝶寮の羽化師だったんだ」
綾埜は思わず足を止めて絶句する。
「ちょっとやらかしてな、除籍されたんだよ。俺が都のどこかで羽化師をやっていることは、魂蝶頭も知った上で見逃しているらしい。でも本来なら、魂蝶寮を追い出された素行の悪い男が羽化師を続けているなんて、公にはしたくないはずなんだ。俺の居場所が知れてしまえば、形だけでもお咎めがあるだろう。だからおまえも、俺の居場所は誰にも言うな。いいな?」
「やらかしたって、いったい何を?」
「別に、大したことじゃない」
無意識なのか、颯は自分の腰に手をやった。扇が挟まっている辺りを撫でている。殿上人でもあるまいに、なぜ冬に扇など、と少し違和感を覚えつつも、綾埜は返した。
「……あなたのことは誰にも言わないわ。やり方はともかくとして、家族の依頼で、光の消えた蛹石を羽化させることは正義だと思うから」
「約束を違うなよ。まあ、このぼろ屋がばれたとしても、検非違使に押し入られる前に逃げるけど」
「よく今日まで見つからなかったわね」
「変に動き回らないほうがいいんだよ。動けば動くほど、気配が撒き散らかされるだろ。羽化依頼の仲介を頼む相手は一人だけ。仕事場はいつでも捨てられる家を一つだけ持つ。覚えておけ」
「無法者の心得なんて不要よ」
何をしでかしたのかわからないが、極刑ではなく除籍で済んだのならば、人道に反する大罪ではなかったのだろう。
「ほら、他の蛹石を持って帰れ。二、三個まだ光りそうなやつがあるから、これは俺がもらう。遺族が見つかれば謝礼に芋でももらって羽化してやろう。残念だが、他のやつはだめだ。無光堂で供養してやってくれ」
「え、ええ」
完全に颯の調子に呑まれていることに気づいたが、来世への希望が潰えていない蛹石を魂の墓場に押し込むなど、正しいこととは思えない。颯のことはどうも胡散臭いのだが、少しでも羽化の可能性があるならば、彼の手に委ねるのが道理だろう。たとえそれが、規則違反であったとしても。
綾埜は少し軽くなった葛籠を抱きしめ、魂蝶寮に対して抱えた秘密を正当化した。
そして、心に決めた。
(まだ羽化できる蛹石が無光堂行きにならないように、何とかしないと。魂蝶頭に実情を伝えて対策を練ってもらうのよ)
それが、真実を知った綾埜の使命だと思った。




