5 蛹石:呪詛せし姫④
「上出来だ」
満足げな声が耳朶を揺らす。目を開けば、颯の腕に包まれた綾埜は、人間の姿を取っていた。
颯は綾埜に軽く微笑むと、表情を引き締め前方にすっと視線を向ける。篤子の全身はその身から溢れた瘴気に覆われて、彼女自身が魂鬼に呑み込まれかけていた。
「篤子姫に、あれを斬らせろ」
綾埜の手に、太刀が押しつけられた。本来ならばたいそう重たいはずなのだが、夢の中だからか、羽根のように軽い。とはいえ、貴族の娘に武芸のたしなみはない。綾埜も篤子も太刀の振るい方など知るはずがない。
「斬るなんて、どうやって」
「言っただろ。俺が導く」
颯はもう一本太刀を生み出すや否や床を蹴り、篤子に襲いかかろうとしている黒い影の懐に飛び込んだ。敵は俊敏に跳ねて太刀を躱す。
綾埜の身体も自然に動いた。間髪を入れず、篤子の側に駆け寄り呼びかける。
「篤子様。お気を確かに」
恨み憎しみは魂鬼として放出され切ったのだろう。姫君の姿をした篤子の瞳にもはや狂気はなく、ただ虚ろで、寄る辺ない子どものような怯えすら浮かんでいた。
「嫌。嫌なの」
篤子はすすり泣き、その場に頽れた。
「私は江子姉様を呪詛してなどいない。それなのに、誰も彼もが私を悪女と呼ぶの」
「篤子様」
「私はどうして死んだの? 女房も親族も友人たちも、誰も彼もが私を軽蔑して、恐れて、それで」
篤子は頭を抱えて板床に這いつくばった。綾埜は途方に暮れる。ちらりと視線を上げれば、魂鬼と刃を交わす颯の息が上がり始めている。時間がない。
「誰も私を愛してくれない。誰も私のことをわかってくれない。誰も……」
「それは違う」
綾埜は断言して、篤子の冷たく細い手に太刀を握らせた。
「私たちがここにきたのは、あなたの乳母に頼まれたからなの」
「ばあやが?」
篤子が顔を上げる。綾埜は頷いた。颯は確かに言っていた。蛹石を盗み再度羽化を行おうとしたのは、藤原篤子の乳母の依頼だからなのだと。
「乳母を務めるような賢く高貴な女性が、わざわざ市井の怪しげな羽化師に助けを求めたのよ。並大抵の覚悟ではないわ。それくらい、あなたを案じていたの。どうしても生まれ変わって欲しかったの」
「ああ……」
篤子の瞳に、分厚い涙の膜が張る。やがておもむろに顔を持ち上げ、ぼんやりと遠くを眺めるような目をした。
その視線の先、舞っていた粉雪はいつしか桜の花びらに変わり、薄紅の吹雪が柔らかく室内に吹き込んだ。
「ばあや」
「はい、姫様」
桜と一緒に、穏やかな声が舞い込んだ。蹲る篤子の側にいつの間にか、髪に白いものの混ざった中年の女性が膝を突いている。
「ばあやはいつも、姫様の味方ですからね」
深いしわに覆われた顔は上品で、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
ぶわり、と再び花吹雪。夢の世界に、乳母の声がこだまする。
――ばあやは姫様の味方ですよ。
――姫様が生き霊になどなるはずがありません。
――ちゃんと羽化を試みてくださったのですか?
――羽化師殿。どうか姫様をお救いください。私の全てを捧げますから、どうか……。
「いいや、これは幻聴。都合のいいまやかしだ」
悪意に染まった声が不意に割り込んで、温かな声を塗り替える。慈母のようだった乳母の顔が悪辣に歪んだ。
綾埜は思わず小さく声を上げて、篤子を庇うようにして抱きしめた。
(魂鬼……!)
乳母は魂鬼となった。いいや、なったのではなく、乳母を含めこの世界の全ては元々、篤子の疑心暗鬼から生まれ出た存在なのだろう。
絶望に引きつった、呻きとも悲鳴ともつかない声がする。乳母の口がぱっくりと裂け、篤子を食らおうと襲いかかる。覆い被さる綾埜もろとも丸呑みにされかけた、その時だ。
ずぶり。
聞き慣れない粘質な音がして、時が止まる。荒く浅い息を繰り返す綾埜の鼻先に、銀色の鋒がある。
つう、と額から流れた汗を拭う心の余裕もなく顔を上げれば、元通りの優しげな乳母の顔がそこにある。微笑みを浮かべた口の端から真っ黒な血が一筋流れていた。
視線を落とす。先ほどの鋒が飛び出しているのは、乳母の腹だ。背中側から一刺しにされている。誰が行ったのかは明白なこと。
「颯……!」
「篤子姫、止めは自分で刺すんだ」
「そんな、むごい」
思わず声を漏らした綾埜に、乳母の背後で柄を握ったままの颯が、厳しく言った。
「献身的に仕えてくれた乳母のことすら信じられない心の弱さを、断ち斬らなければならない。そうして生まれ変わり、今度こそ幸せになるんだ。ほら、魂鬼の顔をよく見ろ」
彼は、半ば放心した篤子へ語りかける。
「これは乳母じゃない。おまえ自身だ」
篤子の肩が一度だけ大きく震える。眼球が飛び出そうなほど大きく見開かれた目が見上げる顔は、いつしか篤子自身のそれになっていた。
「心の闇は斬ればいい。だが、他人にやらせても無駄だ。羽化できない理由が自分の中にあるのなら、つべこべ言わずに向き合え」
颯は魂鬼の背中を片足の裏で押さえて、太刀を引き抜いた。篤子の顔をした魂鬼は背中から黒い霧のようなものを噴出させながら、前のめりに倒れる。それを跨ぎ越え、颯はもう一本の太刀を握る本物の篤子の手を掴む。
「斬れ」
「乱暴だわ!」
颯は、綾埜を睨む。
「だがこれで、こいつは羽化する」
「でも」
「篤子姫。永劫に消滅するか、次の世に幸福を探しに行くか、選び取れ。もちろん、生まれ変わっても苦しみはあるだろう。だから、ここで終わりにしたいなら、俺は止めない。誰の言いなりになる必要もない。おまえ自身が決めるんだ」
「私自身が」
颯は口の端を少し持ち上げた。
「心変わりした男の卑劣な小細工のせいで永遠に消えなければならないなんて、悔しいだろ?」
篤子がはっと顔を上げた。何かに気づいたらしく、颯を見上げるその瞳には驚きが宿っている。颯が小さく頷くと、彼女は太刀を手にしておもむろに立ち上がる。
山吹を重ねた袿がはらりと揺れる。その顔は氷のように冷たく、足元に転がる黒い陰を見下ろしている。
魂鬼が形作った姿を捉え、綾埜は「え」と声を漏らした。つい先ほどまで、乳母、そして篤子と容貌を変えてきた瘴気の塊は今、烏帽子を被っている。篤子の冷淡な視線を受けて持ち上がった魂鬼の顔は、媚びるように軽薄な笑みを浮かべる貞恒だった。
絶句する綾埜とは対照的に、篤子は落ち着きを払っている。太刀が剣呑に光り、貞恒に狙いを定めた。
「私が恨んだのは、あなたよ」
さようなら、と唇が優美に動く。男の影に刃を突き立てる瞬間、篤子の頬を涙が一筋伝った。そして。
――アアアアアア!
声にならない悲鳴と同時に黒く禍々しい霧が撒き散らされる。それらは強烈な風を伴って、室内を駆け巡る。几帳や屏風といった屏障具が巻き上げられて、室内は混沌に満ちる。
やがて、瘴気が全て空へと去っていくと、辺りはがらんどうになっていた。暴風から頭部を守るために蹲っていた綾埜は上体を起こし、篤子を見上げる。
薄紫色の燐光を放つ彼女の手にはもう、太刀はない。紅を塗った唇が、一つ一つ噛み締めるようにゆっくりと動いた。
――ありがとう。
小さな煌めきの雫が撫でた口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。




