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魂の羽化師は夢を斬る 平安鎮蝶譚  作者: 平本りこ
一章

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4 蛹石:呪詛せし姫③

 ことは早急に進んだ。宵の口に網代車(あじろぐるま)に乗り込んだ貞恒(さだつね)が向かったのは、篤子(あつこ)の元である。男の(おとな)いを受けた乳母が慌ただしく準備に奔走する。


「貞恒様」

「篤子」


 星降るような夜空の下、御簾をからげるようにして貞恒が部屋へと入る。二人は名を呼び合って、しかと抱き合った。


 これ以上見守るのは、たとえ蝶夢(ちょうむ)の中とはいえ野暮だろう。やつれた篤子の顔が幸福に染まるのを見届けて、綾埜(あやの)たちは檜皮葺き屋根に舞い上がり翅を休めた。


 風は凪ぎ、薄雲一つない空は星影で幻想的に染め上げられている。まるで、篤子の心の晴れやかさを映したかのような夜空であった。


「あの文に何を書いたの?」

「俺は何も」

「え?」


 思わず裏返った声が出た。(はやて)は触角を軽く揺らして綾埜を見る。


「ここは篤子姫の精神世界。つまり妄想の世界だ。きっかけさえあれば、物事は動き出す。たとえそれが、都合がよくて現実味のない展開だったとしても」


 本物の貞恒は、篤子のどんな言葉にも心を揺らさなかった。それを思えば胸がずんと重くなる。だが、たとえ夢の中だけでも望みが叶うのだとしたら。本人にとって、それは必ずしも虚しいことではないのかもしれない。


「じゃあこれで、篤子様は羽化を」

「いいや、まだだ」


 颯の声色が緊迫したと同時に、篤子の甲高い悲鳴が響き渡った。煌びやかだった夜空が一変、瘴気に包まれたように空気が濁り、星も月も光を失った。


「戻るぞ」


 慌てて飛び込んだ室内の様子に、綾埜は絶句する。


「江子ぉ……!」


 憎悪に顔を崩壊させた篤子が、般若の面を被った小袿姿の女と対峙していたのだ。


「おまえは、私を二回殺した。一度目は、貞恒様のお心を奪った時。二度目は、この身に呪詛をかけた時」

「江子様が篤子様を、呪詛?」


 思わず漏れた声は、ぶわり、と床下から吹き上げた風にかき消される。呪いに利用されたと思しき木製の人型が、まるで実態がないかのように板床を突き抜けて、大量に巻き上げられる。それらは渦を巻き、般若の面を被った女……江子に襲いかかった。


 よろめいて床に尻もちをついた江子を見下ろし、篤子は高らかに笑声を上げた。


「呪詛には呪詛を返すだけよ」


 手のひらほどの大きさの薄い木製人型が一枚、綾埜の目の前を横切った。『藤原篤子 病病病……』と、黒々とした墨で記されている。江子が篤子を呪詛した際に使ったということなのだろう。


 本当に、篤子の死に江子や貞恒が関連しているのかはわからない。だが少なくとも篤子は、そう思っていた。


「許さぬ。許さぬ許さぬ許さぬ」

「何をおっしゃるのです」


 人型に打たれながらも痛がる素振りもない江子。般若の面の下から、冷笑を帯びた声がする。


「あなたを呪ったのが私だと、本当にお思い?」

「何を」

「それなら、真実を教えてあげるわ。あなたに消えて欲しいと思ったのはね、あの人よ。ああ、この言い方じゃあわからないかしら」


 床に座り込んだまま、江子はたおやかな手を持ち上げて、面をずらす。細い顎と紅を引いた口元が覗く。朱唇が、にっと弧を描いた。


「あの人というのはねえ」

「や、やめて」


 篤子は途端に震え始め、その場に蹲る。視線の高さが合わさると、江子はひたひたと這って篤子の耳元に肉薄し、残酷に囁いた。


「あの人というのはもちろん、貞恒様よ」

「う、ううううあああああああ!」


 篤子が息を呑み、束の間世界が制止する。一瞬の静寂を、絶叫が割る。長い黒髪を振り乱す篤子の全身から、どす黒い靄が漏れ出した。


「まずい」


 颯が唸るように言い、几帳(きちょう)の陰で風を避ける。綾埜もそれに倣った。


「あれは、もしかして」

「ああ。魂鬼(こんき)が出る」


 魂鬼。生前の絶望や苦痛が夢の中で増殖し、生まれ出るモノ。蛹石(さなぎいし)が光を失う原因のほとんどが、魂鬼に魂を食われることによる。


 心の闇に蝕まれてしまえば、魂は穢れ、もう羽化は見込めない。止めなくては。その一心で綾埜は叫んだ。


「違う! 篤子様は誰にも殺められてはいない。不幸な病だったのよ。ましてや、貞恒様が、だなんて」


 魂蝶(こんちょう)のささやかな声など届かない。綾埜は几帳の陰から飛び立って、空中で凝結し始めた黒い靄へと向かった。


「おい、待て綾埜!」


 咄嗟の無鉄砲を咎める声がしたが、動き出した深紅の蝶は止まらない。半ば亡霊のような人影を取り始めた黒い塊に飛び込んだ直後。


 ――誰?


 がん、と世界が揺れて声が響いた。


「羽化師よ。あなたを助けに」


 ――女?


 何かがうごめき鎌首をもたげたかのようだった。冷え切った声が世界の温度を急激に下げた。途端に、室内だというのに粉雪が舞う。


 ――女。また女。あなたも貞恒様を奪おうというの? もしそうならば。


「消してしまわねば」

「綾埜!」


 全ては一瞬のことだった。篤子から湧き出した黒い靄は完全に人の姿を取る。顔のない、真っ黒な女。その手にはいつしか影と同じ色をした短刀が握られている。艶のない瘴気の塊にもかかわらず、切っ先だけが不釣り合いなほどに強く光を弾いている。


 短刀が振り下ろされる。間一髪のところで身を翻して避けるが、攻撃の手は止まない。何度が躱したものの、揺れる御簾に阻まれ早くも退路を失った。その時だ。


「上に飛べ!」


 颯の鋭い声を受け、綾埜は反射的に舞い上がる。深紅の蝶が先ほどまで漂っていた辺りに銀が一閃し、筒袖袴姿の男が綾埜を背に庇うように割り込んだ。


「颯……?」


 呼べば、肩越しに強い視線が返ってくる。間違いない。眼前の男は、夜色の蝶姿から人型に転じた颯だ。そしてその手には、検非違使(けびいし)が扱うような太刀が握られている。


「な……どうしてそんなものが蛹石の夢の中に!」


 蛹夢の中で刃物を振り回す羽化師など、前代未聞である。そもそも、魂鬼に夢を乗っ取られた時点で、その蛹石は来世に羽ばたく資格なしと判断され、羽化が中止されるものなのだ。それに。


「どうやって人の姿を」

「おまえもできるはずだ。ここは夢の世界。人型だけじゃなくて鳥にも獣にもなれる。まあ、他の羽化師がやってきた時に誰が仲間か判別しやすいから、魂蝶寮(こんちょうりょう)の教本では魂蝶姿が推奨されているらしいが」

「そんな簡単に」

「よそ見するな! 夢の中で死ぬぞ」


 蛹石の中、つまり他人の魂の中で命を落とせば、どうなるか。そんなことは基本中の基本。教本の冒頭に載っている。ここで篤子に斬られれば、待っているのは綾埜自身の魂の消滅だ。


 颯は、暴風に煽られて吹き飛ばされそうになる深紅の蝶を掴む。衣の胸に押しつけるようにして庇われながらも綾埜は、このままでは埒が明かないと悟った。


「身軽な蝶の姿では吹き飛ばされる。人になれ」

「できないわ! だって、やったことがないのだもの。姿を変える羽化師なんてほとんどいない。まだ座学でも習っていないし……」


 颯は舌打ちをした。


「教本なんて関係ない。ここは夢の世界だ。無理なことは何一つない。だからおまえにも必ずできる。俺を信じろ」


 盗人であり人攫いでもある男を信じろとは、冷静に考えて滑稽だ。しかし颯の激励は不思議なほどすんなりと綾埜の腹に落ちた。


(私になら、できる)

「このままだと篤子姫は本当に光を失う。俺を双翅(そうし)と思え。片翅が人姿、片翅が蝶姿なんて歪だろ。俺が導くから全てを委ねろ。一緒なら、何でもできる」


 綾埜は息を呑む。双翅とは、文字通り蝶の両翼のことである。転じて、常に二名体制で職務にあたる羽化師の一組を指す言葉。見習い羽化師である綾埜にはまだ、正式な双翅はいないのだが。


(颯が双翅……何だろう。何か引っかかるような……)

「綾埜、急げ」


 銀と黒が交錯して響いた剣戟に、思考が断ち切られる。今は沈思する場面ではない。


 綾埜は気を取り直して想像した。この世界に人として具現化する自分の姿を。


 すかさず、颯の精神が綾埜のそれに重なった。深く、魂の奥でつながり合う。彼が自らの姿を変えた方法が、流れ込んでくる。経験の浅い綾埜には仕組みは理解できない。だが、颯の導きに従い魂を変形させていけば、それはいとも簡単なことだった。

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