3 蛹石:呪詛せし姫②
不意に、竜巻のような疾風が吹き荒れた。建具が巻き上げられ、色とりどりの衣を重ねた唐衣裳姿が、哄笑する体勢のまま風に乗る。まるで紙に描きつけられた絵のように、はらりはらりと宙を舞う。
綾埜と颯もなされるがまま浮遊した。天井が消え、空が消えて庭も消え、気づけば辺りは漆黒の闇に包まれていた。
――あの女がいなければ。あの女さえ、存在しなければ。
暗闇の中、呻きながら横たわる顔がぼんやりと青白く浮かんでいる。篤子ではない。ならば彼女が江子だろう。
陽炎のように揺らめく輪郭をした篤子が、覆い被さるようにして江子の頭部に顔を寄せる。
――憎い、憎い。死んでしまえ……。
「生き霊か。恐ろしい女だ」
颯が吐き捨てた無遠慮な言葉にぎょっとしたのは、綾埜だけではなかった。
己の魂の世界に入り込んだ異質な存在……羽化師の気配を感じ取ったらしい篤子の生き霊が、憎悪に歪んだままの顔を上げる。虚ろに落ち窪んだ目は、真っ直ぐに魂の蝶を貫いた。どうやら颯は、姿を見せることにしたらしい。
「誰だ」
「羽化師だ。おまえを憎悪と未練の沼から救いにきた」
「羽化師」
「おまえは死んだんだ。もう生き霊ですらない。望みは恋敵を呪い殺すことか? 別にいいぞ。心置きなくやれ。この世界は所詮まやかしだ」
「ちょっと、颯」
綾埜の制止には取り合わず、颯は続ける。
「だが、それだけじゃあ満足できないんだろ?」
颯の言葉に打たれたように、篤子は硬直する。
「だっておまえはこの妄想の世界で、もう何度も何度も従姉を呪い殺しているはずだ。それなのに未練を断ち切り羽化することができなかった。本当の望みは何だ。どうせ死んで終わるんなら、自分の心にくらい、きちんと向き合え」
篤子の顔面が、水鏡を揺らしたようにぐにゃりと歪む。
「う、うううあああ」
頭を抱え始めた篤子の姿が多重化してぶれている。各層に浮かぶ表情は、いずれも異なる感情を露わにしている。怒り、悲しみ、憎しみ、そして。
「あああああ」
獣のような咆哮と重なって、正気を保っていた頃の篤子の可憐な声が、声帯を介さず蝶夢の世界に響いた。
――恨めしい、恨めしい。もう一度、私を訪ねてきて欲しい。
血の滲むような切実な思念が綾埜を打つ。強い感情の塊に打たれ、羽化師の魂蝶たちは屋外に弾き飛ばされた。
世界は束の間暗転。気づけば綾埜と颯はのどかな庭を漂っていた。
「逃げ帰ったか。また部屋の奥で泣き暮らしているみたいだな」
耳を澄ませば、母屋の御簾の奥から篤子のすすり泣く声が漏れ聞こえている。生き霊化前の場面に戻ったらしい。
「男に飽きられたのは哀れだとしても、嫉妬に負けて人を呪い殺そうとしたなんて同情の余地もない」
「そんな言い方ないわ。篤子様の心の叫びを聞いたでしょう? ただ寂しくて悲しかっただけなのよ」
「おまえ、お人好しだな。現実世界での源江子は、生き霊に憑かれて床に伏せった時期があるらしいぞ。しかも、苦しみ出すのはいつも、貞恒殿がやってくる夜だけだったらしい」
「そんなことができるのね」
従姉とはいえ他人の邸宅にいつ誰が通っているかなど、わかるはずもない。にもかかわらず、貞恒と共にいる晩だけ生き霊になるというのは、薄ら寒いほどの妄執を感じる。
同時に、妙でもある。誰かに貞恒の動向を見張らせていたのだろうか。それとも。
「まあ、先に篤子姫が蛹石になったから、江子姫の方は無事だったらしいけど」
「篤子様はどうして亡くなったの?」
「夜間の急病だったらしい。胸を押さえた格好で倒れていたらしいから、心臓に何かあったんだろ。おかげで江子姫は生き霊から解放されて、貞恒殿と復縁して仲睦まじい夫婦生活を送っているそうだ」
「それは……本当にご病気なの?」
「死の真相を解き明かすのは、俺たち羽化師の職務範囲ではないだろ。まあ、時期的にきな臭いけど」
「あなたも、篤子様は誰かに殺められたかもしれないと思うのね」
「さあな。とにかく俺たちは、羽化師だ。消えかけの魂があるんなら、救ってやらなければならない。それが、どんな極悪人だったとしてもな」
「極悪人だなんて。人生の荒波を生き抜いた魂に対してそんな言い方はよくないわ」
「人生の荒波、ね。魂蝶寮で教わった『蛹石は人生という壮大な物語を生き抜いた先人である。敬い羽化に努めるべし』ってあれの受け売りか?」
茶化すような裏声で羽化師の訓戒を諳んじた颯に、軽く苛立ちを覚える。その気配を察したらしく、颯は呆れ声を出した。
「おまえは少し潔癖過ぎるな。いいか、少しは世の中の穢れにも目を向けておけ。そうしないといつか、心が折られるぞ」
「どういう意味?」
「言葉通りの意味さ」
自分から言い始めたくせに綾埜の問いかけをはぐらかし、颯はひらりと舞い、高度を上げた。そのまま邸宅の塀を越えて大路に出る。
「とにかく、貞恒殿を呼んでこないと。面倒だな。会いたいなら、自分から行けばいいのに」
「貴族の姫にそんなことできるわけないでしょう」
「所詮夢の中のことなのにな」
颯は短く言って、人気のない大路を進む。やがて、草木を編んだ小柴垣に囲われた中流貴族の邸宅に入ると、母屋の側に立つ松の枝に止まった。彼が数回羽ばたくと、どこからともなく結び文が現れたので、綾埜はぎょっとした。
蛹石の夢の中とはつまり、魂の内部である。他者の精神世界で大した苦労も見せずに虚空から物体を顕現させることは、熟練の羽化師でもそうそうできることではない。
綾埜が知る限り、魂蝶頭である守影友潤や、その息子の暁潤など、特別な才のある羽化師にしかできないはずだ。
「あなた、何者なの?」
「町のしがない羽化師だ。さあ、きたぞ」
ひた、と廂の板床が軋み、直衣姿の若い男が姿を現した。彼が貞恒だ。
「これは……?」
松の枝に結びつけられた文を怪訝そうに見上げ、躊躇いがちに解いて文字に視線を落とす。その瞳が何度も文字をなぞり、次第に目が見開かれた。
「篤子」
小さく呟き何かを堪えるように唇を噛み締める。枝に止まった蝶がゆっくりと一度羽ばたくほどの間瞑目し、彼は瞼を上げるなり命じた。
「牛車の用意を」




