1 蛹石:病を広めし薬師
たとえ命が削られたとしても、目の前で苦しむ人々から目を逸らしてはならない。
そう心に決めてきたのは何も、高尚な信念の賜ではない。
ただ、地位も富もいない余所者である己を受け入れてくれた人たちに対して役立てることがあるのなら、それをしないということは考えもよらなかっただけなのだ。それなのに。
――あのやぶ薬師が、咳逆を広めたらしいぞ。
――どうしてそんなことを。
――儲けるためだろう。
――ひどいこったよ。
――うちの娘はあいつに治してもらったけど、自作自演だったってことかいな。
都で貧乏な薬屋を営んでいた青年直は、自分がやぶと呼ばれ始めたことを、病床の中、風の噂で知った。直接的に罵倒されたことはない。だが、悪意ある声たちは、陋屋の薄い壁を透かし、本人の耳に届いている。
身を粉にして一人でも多くの病人たちを治療しようとした。その無理がたたり、患者と同じ咳逆を煩い死の淵を彷徨うこの自分が、どうして悪し様に言われなければならないのだろう。
「都は、まるで雪を被った山のようにひっそりと冷たい」
遙か西の鄙から薬草の行商で都を訪れたのは、咳逆が猛威を振るい都の人口を三分の二に減らす冬を目前とした秋のこと。ひょんなことから都に留まることになり、薬師としての実績を積んで二年。それなりに都の庶民らに馴染み、人望も得たと思っていた。だがこの冬。去年は落ち着きを見せていた咳逆が再び流行し始めて、道端に死者が転がるまで広まった。
薄らと雪の積もった骸と、誰にも供養されずに転がる蛹石の淡い光を哀れみ、さりとてどうしてやることもできずに歯がゆい思いをした。薬師である自分にできることは、彼らの肉体と魂が切り離されてしまわないよう、病を癒やしてやることだけだった。
だから、寝食を忘れて薬材を擦り、病人の看病にあたった。その結果がこれなのか。
――あの薬師が現れてからだよな。変な病が増えたのは。
怨霊、怪異、荒ぶる神。人は、人知の及ばぬ事象に何らかの理由をつけなくては気の済まない生き物なのだ。それがこの界隈の人々の間では、病は怪しいよそ者の仕業であると囁かれた。
「故郷の山が懐かしい。せめて、帰りたい。妹たちは、元気にしているだろうか……」
高熱で朦朧とする意識の中。見上げていた天井がぐにゃりと歪み、霞にけぶる春山の空へと変化した。
思わず「ああ」と感嘆の声を漏らす。故郷の山だ。その証に、懐かしい声がする。
「兄さん」
妹の声が鼓膜を揺らすと、鉛のように重たかった身体が途端に軽くなった。気づけば直は、幼い子どもの頃の姿になって、花咲く野山を駆けていた。
「直」
春の花咲く小川の向こう。色とりどりの蝶が舞う中に、亡くなったはずの父母が微笑みを浮かべ両腕を広げて立っている。
「父さん、母さん」
二人に、ずっと会いたかったのだ。直は走る。踏み分けられた花々から、湿った土と草いきれと甘酸っぱい蜜のような香りが立ち上がる。懐かしい匂い。温かな故郷だ。
焦がれた人、焦がれた土地、焦がれた安らぎが、すぐそこにある。しかし。
「……なぜ」
川に足を踏み入れた瞬間、文字通り足首が凍りつく。先ほどまで穏やかに流れていた小川は氷に閉ざされて、花々の咲いていた野原は味気ない砂の路となり、道端には骸が転がっている。
直はまた、都に帰ってきてしまっていた。
「どうして。やっと故郷に戻れたのに。家族に会えたのに」
――病を撒き散らして金儲けするなんてね。
――直さんも病になって、もう長くないらしい。因果応報ってやつだな。
どこからともなく、声がする。ちくりちくりと全身を針で刺されているかのようだ。
「ああ、俺のしたことは全て間違いだった。どうしてあんな奴らのために自分を犠牲にしたんだろうか。憎い、憎い……いいや、違う」
どろりとした憎悪が足元から這い寄ってくる。睨みつければ、それはまるで生き物のようにびくりと震え、動きを止めた。
「俺は見返りを求めたわけではない。ただ、自分にできる方法で、役立ちたかっただけなんだ。だから、憎しみなんて抱くはずがない。俺は自分のしたことに満足している。そうだ、悔いはないんだ」
――役立ちたいっていうのは結局、自己満足でしょう。自分は立派な人なんだって思いたかったんでしょう?
「違う」
――じゃあやっぱり儲けたかったんだ。それとも、助けた人の中に綺麗な娘さんでもいた?
「違う」
――お礼を言ってもらうのが嬉しかったんでしょう。自分よりもずっと年老いた人たちが、涙を流しながら敬意を示してくれるのが、気持ちよかったんでしょう。
「違う。違う、俺は……」
(本当に違うのか?)
直は自問する。
一度でも、己の持つ知識と調薬の技に酔ったことがなかったと言えるのか。感謝の品をありがたく受け取りはしなかったか。感涙を浮かべた患者らに礼を述べられ、胸が熱くはならなかったのか。
「俺は所詮、私利私欲に塗れた人間……」
「それの何が悪いんだ?」
ふわり、と鼻先を夜色の蝶が撫でた。束の間理解が追いつかないでいると、蝶はくるりと旋回して、地面から這い出そうと蠢く黒い塊の周囲を舞った。
「無欲な人間なんていない。神仏に帰依して高潔に見える奴だって、結局は死後の安寧を願うからこそ精進しているんだ。都に溢れている貴族たちを見てみろ。権力と富に目が眩んで平気で他人を蹴落とすし、何なら、死者の魂すら川に投げ捨てるんだぞ」
だから、と不思議な蝶は言う。
「おまえの抱えた闇なんて、取るに足らないのものだ。手遅れになる前に断ち斬れ」
――何て都合のいい幻聴だい。皆に好かれていると勘違いしていたうぬぼれ屋が。おまえのことなんて誰も気に留めなかった。だからおまえの蛹石は川に沈められたのだ。
「う、うあああ」
相反する二つの声が脳内をかき乱す。頭を抱えて呻く直に夜色の蝶が近づいて、耳元で羽ばたいた。
「おいおい、頑固だな。潔癖過ぎるのか? いいか、人間は」
「黙れ!」
直は衝動的に右手を伸ばし、蝶を鷲掴む。煌めく鱗粉が散り、薄暗い小路をぱっと照らして闇に溶けた。
「蝶ごときに俺の何がわかる。誰からも惜しまれなかったこの命の虚しさは何者にも……」
「どうか、直さんを救ってください」
不意に背後から、幼い少女の声がした。聞き覚えがある。はっと振り返れば、燃えるように赤い蝶が舞っている。その鱗粉が描いた軌跡の中、瞬きをする間に、薄汚れた少女の姿が現れた。
愛らしい顔立ちにもかかわらず、貧困が彼女の容姿を陰らせている。すり切れた着物から覗く手足は枝のように細い。その腕に抱えられていたのは、拙い木彫りの仏像と、古びた綿入の衣である。
「私が持っている物なら何でもあげます。だから、直さんの蛹石を、どうか」
「君は、この前薬をあげた……」
少女はにっこりと笑む。儚げながらも、幸福そうな表情だった。
「直さんのおかげで私、元気になれました。だから今度は私があなたを助けたいんです。一生かけてでも、感謝を伝えたいんです」
絶句する直の手が緩んだ拍子に、夜色の蝶が拘束から抜け出した。
「純粋におまえに感謝して、全てを投げ売ってでも助けたいと思った少女がいた。だから俺たちはおまえの蛹石を冷たい水底から引き揚げたんだ。あの子の願いと献身を無駄にするのか?」
「それは……」
「つべこべ言わず、あれを追い払え。大丈夫。おまえならできる」
夜色の蝶に促され、直は足元に忍び寄っていた漆黒の塊を見下ろした。ごくり、と唾を嚥下する。
「あれは……俺の心の弱さ」
ならば自身で振り払うのみ。直は意を決し、硬いようにもどろりとしたようにも見えるそれに狙いをつけて、片足を大きく上げ……渾身の力で踏みつけた。その瞬間。
冷えた都の空気は暖気を帯びて、味気ない色合いに満たされていた世界が草花の彩りに華やいだ。故郷に帰ってきたのだ。
凍りついていたはずの小川は清流を取り戻し、川向こうの父母が手招きしている。
「ああ、これでやっと」
直は満たされた思いで呟き、水に足を踏み入れる。川を渡りきる直前、視線を感じて振り返る。
父母が立つのとは逆側の岸に、先ほどの少女が立っている。直は目礼をして、川を渡り切った。
「お帰りなさい」
「……ただいま。そして、行ってきます」
父母の腕に包まれて、直は目を閉じる。全身がとても軽い。自分の全てが軽やかな存在へと変化して、蝶となり風に乗るのを感じた。
直は再び、川向こうの少女に目を向ける。
「君は、俺に命を助けてもらったと言った。だけど俺は、君に魂を救ってもらったんだ。礼を言うのは俺の方だ。どうか来世でも会えますように」
心から願った刹那、一陣の風が吹く。身体が煽られて、少女の方へと流された。
当然のように、少女が小さな腕を広げて直を受け入れる。そして。
初雪のような純白の蝶が、少女の胸に吸い込まれて消えた。いつか彼の魂はこの世に生まれ変わり、少女の腕に抱かれるのだろう。




