10 あなたが知っている真実を
「ひえっ!」
声をかけられた男は文字通り飛び跳ねて、綾埜に目を向ける。立っているのが竜胆色の狩衣を纏った羽化師、しかも女だと気づくと混乱に目を回したような顔で答えた。
「こ、これは魂蝶寮のお方。いやはやどうも、ご苦労様で。お目付役ですか? 嫌だなあ、さぼりやしませんよ」
「え、ええ。わかっているわ。それで、壺の中身、今日は何だったの?」
話を合わせながら問いかける。男は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、素直に返した。
「何ですかい、おらを試しているんですか。言われた通り、蓋は開けていないんで中身は知りませんけど、いつもの通り、羽化した蛹石の殻でしょ」
蛹石の殻は、野山や河川に還されるのが古くからの慣習だ。
「そう。ならいいの」
綾埜は言って、男を解放した。彼はおっかなそうな顔で「どうも」と頭を下げると、荷台に飛び乗り去って行く。
綾埜はそれを見送ってから、松明を掲げて眼下の流れに目を向けた。羽化後、蛹石の殻を川に流すのは、特に不審なことではない。このような夜間になぜ、と思わなくもないが、これが日中ならば、特に妙な点はないのである。
夜にかかってしまったのはただ、日が暮れるまでに仕事が終わらなかっただけかもしれない。近頃は都の内外で咳逆が流行し、蛹石の羽化が多いのだ。
(気にしすぎだったかしら)
昨晩のことで気が立っているのだろうかと軽く自嘲して、綾埜は踵を返す。そうして半ば振り返った時、視界の端に、川原から流れの真ん中へと漕ぎ出す小舟を見た。
鵜飼いでもあるまいに、このような夜間に何事か。思わず欄干に身体を寄せ、目を凝らす。
間違いない。人が乗っている。
しかも相手は、綾埜が手にした松明に気づいたらしく、大きく手を振ってきた。
「よお、また会ったな」
軽薄な口調ながらも、落ち着いた抑揚の声。聞き覚えがある。少し記憶を探り、綾埜は思わず声を上げた。
「颯?」
呼びかけた名が正しい証に、舟上の人物は櫓を止めた。
「呆れたな。昨晩に懲りず、また一人で出歩いてんのかよ」
「誰のせいで危険な目に遭ったと思うの」
「まあそう言うな」
ほんの僅かたりとも悪びれず、颯はからからと笑う。
「何してんだそこで」
「それはこちらの台詞よ」
「相変わらずだな。下りて来いよ」
当然のように手招きをされ、綾埜は口を閉ざす。この男、いったい何を言い出すのだろう。
この距離と薄闇だ。眉根を寄せた綾埜の表情が見えたわけではないだろうが、颯は「そんな顔すんなって」と櫓を漕いで綾埜の正面にやってきた。低い橋だ。舟上に立つ颯の頭頂が、綾埜の足首辺りにある。
「さっきの壺の中身、見たくないか?」
「羽化した蛹石の殻でしょう? 別に魂蝶寮で見られるし」
「おまえ、本当にそれを信じているのか?」
「どういう意味」
思わせぶりな言葉に、一度は治まりかけていた胸のざわめきが再燃した。小舟の舳先にくくりつけられた松明に照らされて朱色揺れる颯の顔に、仄かな笑みが浮かぶ。
「見てみればわかるさ。ほら」
無造作に腕が伸ばされた。少し屈めば触れられる距離だ。つまり、飛び下りろというわけか。
「危ないわ」
「わざわざ岸まで迎えに来いってのか? まあ、あれに興味がないなら別にいいさ。じゃ、そこで待っていろ」
「ま、待って!」
腕を引っ込めて櫓で水底を蹴り方向転換しようとする颯に叫び、綾埜は意を決して欄干を跨いで……足を滑らせた。
背を向けた途端降ってきた綾埜をぎょっとしたように振り返り、颯が慌てて身体を捻る。
「おい、急に……」
想定外の重量を抱き留めて、颯は舟底に尻餅をついた。
橋の高さは綾埜の身長よりもややある程度なので大した衝撃でもないが、想像以上に温かな体温に包まれて、綾埜の心臓が大きく跳ねた。耳元を吐息で撫でられて、我に返り颯の胸を押しのける。
「ご、ごめ」
「おまえ、素直に謝れるのな」
かちんときて、謝罪の言葉は喉の奥に引っ込んだ。一方の颯は、一欠片の動揺もなく体勢を整えて松明を手に取り、水面に掲げる。
月に照らされ銀のうろこのような光を纏っていた川面を、強い明かりが朱色に染める。颯の腕の影が川底を掃くように揺れた。彼は器用に片手で櫓を操り、橋下からやや下流に移動した辺りで舟を止めた。
「あったあった」
颯は松明を膝で挟み、川に投げた網をたぐり寄せ、件の壺をいとも簡単に引き揚げる。
比較的水量の少ない日だったため、壺はほとんど流されていなかった。ひび割れもなく、蓋もしっかりと閉じている。
颯は綾埜との間に壺を置き、蓋を固定していた細布をするすると解く。やがて中身が露わになった。もしや、と想像していた通りの内容物に、綾埜は声の震えを抑えることができない。
「これはどういうこと?」
「蛹石さ。羽化する前のな」
そう、壺の中にぎっしりと詰まっていたのは、羽化した形跡のない、つるりとした形状の蛹石たちだ。驚くことに、宵闇の中でぼんやりと発光しているものもある。
「捨てられたのは多分、寺社にほとんど供養料を納められなかった貧乏人の蛹石だ。暇な時期ならちゃんと魂蝶寮に運んでもらえたんだろうが、この季節だし、咳逆で命を落とす人がどんどん増えているからな。手に負えない蛹石は最初から魂蝶寮の敷地に入ることなく、隠蔽される。この前おまえが無光堂に供養した蛹石は、雑に扱われていたとしても一応は羽化師の手に渡ったものだ。でも、こいつらは違う。最初から存在しなかったように、川に捨てられる」
颯の手が、壺の中で炎の色に染まる滑らかな塊を物色する。
「蛹石は普通の石よりもずっと脆いからな。何日か水に流されれば粉々になって土に還る。そうなればもう、真相は誰の目に触れることもない。こうなると、寺社に蛹石を納めるだけの財がなくて、最初から無光堂とか野山に捨てられる奴らの方が、無駄に銭を使わないってだけまだましかもな。まあ、とにかく」
目的のものを見つけたのか、颯は少し小ぶりな蛹石を手に取って、眼前に掲げた。
「これが、貧乏人の末路だ」
蛹石の裏に刻まれているのは、短い名前。寺社に預けられたというのは本当のようで、僧が彫ったらしい文字は端正だ。
綾埜は、どこか遠い場所を見るように蛹石を眺める颯の横顔を眺めつつ、からからに乾いた喉を潤そうと、唾を嚥下した。
「……どうして私にこれを見せてくれたの」
颯は軽く首を傾けながら、視線を綾埜に向けた。綾埜は、風のない夜のような静謐さを湛えた黒い瞳を見つめ返す。
「私は学生だけれど、一応羽化師よ。あなたの行為が正義かどうかはともかくとして、魂蝶寮の意向に反していることは言うまでもない。私と関わり合いになっても、あなたには何の得もないはずじゃない」
颯はじっと視線を受け止め、やがて少し口の端を持ち上げた。
「おまえなら、いつか魂蝶寮を変えてくれるんじゃないかと思うからさ」
「私のことなんて、何も知らないくせに」
それを言うならば、彼の言葉に耳を傾け始めている自分は何なのだと自戒の念も湧く。
「……ああ、そうかもな。だが俺は信じている」
注がれた眼差しに切なげな色が過るのを見て、綾埜は混乱しつつ少し腰を浮かせた。
「勝手に期待されても困るわ」
「だが、魂蝶寮のやり方に疑問を覚えている。そうだろ? おまえも本当は理解し始めたはず。魂蝶寮は高潔な組織ではない。所詮は立身出世を目論む官人たちの集合体だ」
「そんな人ばかりではないはずよ」
「それは当然。だが、魂蝶寮を動かしている奴らは少なくとも、おまえとは違う価値観の人間たちだ」
「そんなこと」
ない、とは言い切れなかった。綾埜の脳裏に、日中に魂蝶頭と交わした空虚な会話が蘇る。
――魂蝶寮は魂蝶寮の規範に則り運営されているのだ。
父の友でもあった魂蝶頭守影友潤を、綾埜は信頼している。だが、もしかすると彼は、全てを知った上で規範に沿って蛹石に優劣をつけ、手に負えない魂は半ばで放棄するか、そもそも存在しなかったことにして川に捨てさせているのではなかろうか。
同僚の羽化師たちには、真実を察している様子はない。大々的に公言するような内容でもないので、おそらくこのことは、上層部しか知らない秘密なのだろう。
「お父様だったら」
友を諫めたに違いない。生前、「蝶になれば皆、美しい」と語った父には、貴賤を問わず蛹石に敬意を持つ心が宿っていた。出世はできなかったが、友潤の信頼を得ていたし、人望もあったはず。
黙り込んだ綾埜をしばらく見つめてから、颯は視線を逸らし、まるで全てを理解しているかのように言った。
「お父君に無理なら、おまえがやればいい」
綾埜は、はっと顔を上げる。颯は月明かりを照り返す川面を見るともなしに眺めてから、再び綾埜の顔を真っ直ぐに捉えた。
「俺と一緒に羽化師をやるか? 魂蝶寮の真実を、見せてやるよ」
さやさやという水音だけが、二人の間に流れている。
(無許可で羽化術を使う盗人と一緒に羽化師を? まさかそんなこと……でも)
怪しげな羽化師の瞳に宿る、素行とは不釣り合いなほど誠実な色が胸を射る。その真摯さを、少しだけ信じてみてもいい気がした。
綾埜は顎を上げ、怪しげな羽化師の視線を受け止めた。
「いいわ。教えて頂戴。あなたが知っている真実を」
一章 終




