9 怪しげな荷車
深夜というわけではないが、冬の日は短い。辺りは薄暗い闇に沈んでおり、何が起こっているのか目視では判然としない。
「どうかしたの」
「へえ、どこかの家の車が道の真ん中で立ち往生していまして」
「それは大変。助けてあげて」
「へえ」
牛飼い童の足音が離れていくと、網代車の中は静寂に満たされた。時折、牛の鼻息や身じろぎが微かに空気を揺らすが、それだけだ。
しばらく時間が経っても牛飼い童は戻ってこない。それほどの大事故なのだろうかと心配になり、簾を上げた。
牛の頭越しに、松明の明かりがぼんやりと見える。どうやら、地面のぬかるみに車輪を取られ、動けなくなっているようだ。
あの様子では、再び動けるようになるまでには時間がかかるだろう。
昨晩気絶をしていたことになっている綾埜なのだ。今晩も遅くなってしまえば、姉夫婦はたいそう心配するだろう。過保護の気がある姉の早来埜は、取り乱して泣くかもしれない。
(早く帰らないと)
綾埜は辺りを見回した。左京の南寄りにある自邸は、ここから大して遠くない。歩いて帰った方が早いだろう。
そもそも、さほど官位の高くない父を持つ綾埜は、儀式や公務以外で牛車に乗る機会などなく、徒歩は別に堪えない。今だって、公務で体調を崩した直後ということで、守影の厚意で魂蝶寮の車を使わせてもらっているに過ぎないのだ。
降りようか、と半ば腰を浮かせた時、綾埜の乗る牛車が向かおうとしていた方角から一台の荷車が現れて、目を奪われる。その荷台に刻まれた蝶の紋が松明に揺られて朱色に光るのを見た途端、綾埜の意識は強烈な疑念に攫われた。
蝶紋は、魂蝶寮の印。それを戴く荷車となれば、公的な車に違いない。
綾埜は脳内で教本を開き、断片的な知識から荷車の目的を推測する。南からやってきたということは、都に点在する寺社から蛹石を回収して大内裏の官舎に運ぶ途中なのだろうか。
だが通常、寺社の門は夜間には閉じている。それでは無光堂に向かうのかと思うところだが、蛹石の供養は魂蝶寮の見習い学生の役目だ。
綾埜の知る限り、今宵は同僚が無光堂へ向かう日取りではない。颯に奪われかけて綾埜が持ち帰ってしまった蛹石さえ、次の吉日まで魂蝶寮で保管されているほどなのだ。
(いったいどういうことなの?)
これまでの綾埜ならば、あれはきっと、急な事態が起こり、寺社から至急、蛹石を魂蝶寮に運ばねばならなくなったのだろう、とでも考えたはずだ。しかし、一連の事件により魂蝶寮に疑念を抱き始めた綾埜の胸は騒いでいる。
これ以上、姉夫妻の心労を増やしたくはない。だが、もし魂蝶寮が闇を抱えているのならば知りたい……いいや、知るべきなのだと思った。
綾埜は曲がりなりにも姫君にあるまじき豪快さで車から飛び降りる。こういう時に、羽化師の装束である竜胆色の狩衣は動きやすくて重宝する。立ち往生している牛車に駆け寄り、牛飼い童に告げた。
「まだかかりそうね。あなたはそちらのお方を助けて差し上げて。私、魂蝶寮に忘れ物をしてしまったの。一度戻ってから帰るわ」
「ですが」
「迎えはいらないわ。何時になるかわからないから」
「ええっ! 羽化師殿、ちょっと……」
「暁潤様には、綾埜がわがままを言って聞かなかったと言っておいて頂戴」
「そんなこと言えませんって」
とはいえ、牛車を放置して行くわけにもいかないのだろう。足音が追ってくることはなかった。
綾埜は大内裏に戻ると見せかけて角を曲がり、蝶紋の刻まれた荷車を追う。牛の鼻先は、官舎方面ではなく小路に向いた。やがて、大内裏から離れた北へと進む。
いったい、どこまで行くのだろう。さすがに足が痛くなってきた時。都の外れを流れる川の側で、牛が止まった。どうやら荷台に人が乗っていたらしく、男が一人飛び降りた。出で立ちからすると羽化師ではない。
身ぎれいにはしているが、痩せて骨張った体つきをしている。貧困が透けて見えるような細さで、名家の従者などをして安定的な暮らしを営む者ではなさそうだ。
彼は腕に、重たげな壺を抱えている。重量が腕に堪えるのか、半ばよろめきながら橋の中程まで進むと、彼は手にしていた壺を無造作に川へと投げ捨てた。ぼちゃん、と低い着水音がして、壺は水底に沈んでしまう。
あまりにも怪しい。綾埜は眉根を寄せつつ大股で男の側に寄り、声をかけた。
「何を流したの?」




