8 あれからもう、十年近く
どうして魂蝶頭は聞く耳を持ってくれなかったのだろうか。綾埜は、暁潤が手配してくれた牛車に揺られながら、悶々とする。
父の友人でもある守影友潤。綾埜も幼少の頃からよく知る男である。少なくとも、相手が学生だというだけで対話を拒絶するほど器の小さな男ではないはずだ。だとすれば。
(もしかして、まだ光る蛹石が無光堂に送られていることを知っていたの?)
父が生きていたならば。希望の光を失いきっていない蛹石が不当に見捨てられている現状を知れば、綾埜の肩を持ってくれただろう。
父正則は情に厚い人物で、同年代の羽化師である守影友潤が魂蝶頭に抜擢されても、妬む様子もなく心から祝福するような人だった。そのため、権謀術数渦巻く宮中では出世叶わず、身分を表す位階もほどほどであり、羽化師としての実力の割に官職の位も低かった。
「お父様は、友潤様だけが偉くなることが悔しくないのですか?」
幼い頃から真っ直ぐな性格だった綾埜は、無遠慮にも父に訊ねたことがある。今思えば何とも残酷で身の程知らずな問いかけだったが、父はほんの僅かな苛立ちさえ見せず、微笑んだ。
「悔しくなんてないさ。人にはそれぞれ役割がある。友潤には、後進を育て、この国の全ての蛹石のために尽くす責務がある。対して私がすべきことは、目の前で来世への希望に光り輝いている蛹石たち一つ一つを無事に次の場所に送り届けることだよ。ほら、見てみなさい」
回想に耽る綾埜の脳裏にふと、虹色の翅を持つ魂蝶が宵闇の中をひらひらと舞った。
「うわあ、綺麗……!」
額の中央で左右に流した振り分け髪の童女が、古びてはいるもののかつては上質であっただろう調度に囲まれた邸宅の簀子に立っている。幼い頃の綾埜である。
その瞳が煌めいているのは、冴え冴えとした月光のせいばかりではない。視線の先、庭の中程で正則が開いた蒔絵の小箱から飛び立った虹色の蝶に心動かされているからだ。
蝶は、小柴垣に翅を休め正則に礼を告げるように触角を揺らした後、素朴な邸宅の庭を二度三度と旋回し、夜空へ一直線に舞い上がる。幻想的な虹色が星の一つとなって消えるまで見送ってから、父は仰向けていた首を戻し、綾埜に微笑みかけた。
決して奢らぬ自信と誇りに満ちた顔だ。普段は気弱な面が見え隠れするほど温厚な父にこのような表情をさせた魂蝶と羽化術に、綾埜は大きな興味を抱いた。
「あの人は、お父様のおかげで蝶になったのですか?」
「いいや、違う」
正則はきっぱりと言い、簀子に立つ娘の側に歩み寄った。高低差があるため、父の顔がいつもよりも近い。
「私はほんの少し手伝っただけだよ。彼が羽化できたのは、彼自身が己の心に向き合い、怒りと悲しみの殻を脱ぎ捨てて、未来へ飛び立つ決心をしたからだ」
「ふうん? あの人は、怒っていて悲しかったのね」
「多かれ少なかれ、誰もが心に闇を抱えるものさ」
「お父様も?」
「もちろん」
「そんなの嘘。だってお父様はいつも優しくて、全然怒らなくて、悪いことは絶対にしない。綾埜の大好きなお父様だもの!」
正則は虚を衝かれたように息を呑み、それから何かが解けるように口元をほころばせた。優しく手を伸ばし、綾埜の頭をぽんぽんと叩くようにして撫でる。
「いいかい、綾埜。どんな人も、蝶になれば皆、美しい。怒ってあたり散らかした人も、夜通し泣き叫んだ人も。貴族も庶民も関係ない。魂の輝きはね、個性はあるけれどそれぞれに綺麗なんだ」
「悪い人も?」
「もちろん。でもそういう人はね、自分の悪と向き合わなければ、羽化できない。つまり、蝶になれたということは、その人の罪は償われたということなんだよ」
「じゃあお父様は、悪い人を善い人に変えてあげるすごい人なんですね!」
「はは……そうだね。そうありたいと思う」
笑みに深まる皺に包まれた眼は、どこか陰を帯びているようにも見えたのだが、当時の綾埜には父の繊細な機微を察することはできなかった。
その日から綾埜は、羽化師を目指すことになる。その道は決して容易なものではなかった。
貴賤問わず様々な魂に触れる羽化師は、上流貴族からは蔑みの目を向けられることがある。
さらに、高貴な生まれの女が軽々しく人前に姿を見せることははしたない、という風潮があるため、中流貴族の娘である綾埜が羽化師を目指すことに、反対の声もあった。
特に、早世した母の代わりとなってくれていた姉は、なかなか同意しなかった。周囲の目を盗み父の書物を盗み見ていたことが露見して、強く叱られたこともある。
結局、言っても聞かない綾埜に根負けしたらしく、父の取りなしも手伝って、綾埜は誰からも反対されることなく、勉学に邁進できることになった。しかし家族の他に、綾埜の決意を理解する者は少なかった。
「綾埜、羽化術の素質が見つかってしまったんだって?」
庭に設けられたささやかな池。その中を悠々と泳ぐおたまじゃくしをじっと観察していた綾埜の耳に、少年の無邪気な声が飛び込んだ。守影暁潤だ。どうやら、彼の父友潤が柏正則を訪ねるのに連れられてやってきたらしい。
「羽化師になんてならなくてもいいよ。人前に顔を出して働くことなんてない」
綾埜は、気取ったところがなく気さくな暁潤を好ましく思っていた。しかし、何か思い違いをしている様子だ。将来の夢を否定され、苛立ちが思わず顔に出る。表情の変化に気づかないのか、暁潤は何やら拳を握り顔を真っ赤にしつつ言った。
「家族の未来を心配して働こうとしているのなら、その必要はないよ。いざとなったら、ぼ、ぼぼぼ、僕が綾埜のことを」
「私、羽化師になるのが楽しみなの!」
思わず声が高くなる。想定外の剣幕だったのだろう、暁潤は目を丸くする。驚きが通り過ぎると彼は、可哀想なほど慌て始めた。
「で、でも貴族女性の羽化師なんて。ほら、双翅になってくれる人がいないかも」
「どうして」
「そりゃあ、女の子と一緒に仕事をするのは色々と気を遣いそうだし」
「女の羽化師もいるって聞きました」
「でもそれは下々の生まれの人たちだよ。君の双翅には相応しくないし、向こうも気後れするでしょう」
返す言葉を思いつけず、口を閉ざす。暁潤の言葉は的を射ている。双翅となる相手について、綾埜が何の偏見を持たなかったとしても、相手も同じとは限らない。
羽化術は、二人一組で行うものだ。双翅との関係が悪ければ、蛹石の夢の中で大きな失敗を犯し、戻って来られずそのまま命を落としてしまうこともある。
「お父様だって、人の魂を救うことのできる羽化師の素質を持って生まれたことは、誉れ高いことだとおっしゃったのよ」
「そうだね。だから羽化術の才を持つ女人はいい婿を見つけて息子を産んで、その子を立派な羽化師に育てるものだ。それが身分ある姫君の幸福だろう」
「でも私は……」
綾埜だって、それが世間一般の常識であり、多くの女人たちの幸せなのだと理解している。だからこそ、悔しいが反論できない。脇で拳を握りしめる。手のひらに爪が食い込み、痛みが走る。その時だ。
「誰も手を挙げる人がいなかったら、俺が君の双翅になろう」
さらりとして気負った調子のない声だった。想定外の場所から援軍を得て、綾埜は声の主を見上げた。
暁潤との応酬に夢中になるあまり気づけなかったが、暁潤の斜め後ろあたりに、少年が立っていたようだ。年の頃は暁潤と同年代か。貴族的な整った顔立ちだが、鷹のように鋭い目からは雅だけではない力強さが感じられる。不思議な印象の人だなと思った。
いいやそもそも、進んで庶民と混じり労働することを志す変わり者の姫をさらりと庇うなど、不思議どころではない。
初対面であったが、礼もせずに真っ直ぐ相手の顔を見つめてしまう。少年はただ静かに視線を返した。
ぴちゃん、と池の中で何かが跳ねた。その音で我に返ったのか、暁潤がなぜか憤慨したように声を上げた。
「ま、待て待て。それなら僕だって」
「二の姫」
その時、騒がしい声を聞きつけたのか、綾埜の乳母が背後から声をかけてきた。
「このような場所においででしたか。母屋にお戻りください。今日はお父上にお客人がおありですから、邪魔をなさってはいけません」
「え、でも暁兄様とはいつも」
「姫様」
柔らかくも断固とした調子で言われ、従うしかない。抗う術もなく、綾埜はその場を後にした。
結局、見慣れない少年には、名前を訊ねることすらできなかった。暁潤と次に会った時に訊いてみようと思っていたのだが、そもそも他家の男子と頻繁に顔を合わせることもない。
気づけば季節が変わり、機会を逃したまま時が過ぎた。そうして例の少年のことはすっかり心の片隅に追いやられ、あれからもう、十年近くになるだろうか。
(そういえばあの人、元気にしているのかしら。今度暁兄様に訊いてみようかな……)
ぼんやりと考えた時である。突然牛車が激しく揺れて急停止して、記憶の世界から意識が引き戻された。




